10月14日

主の働き人

マタイによる福音書9章37~38節

九州バプテスト神学校月間の宣教のために、春日原キリスト教会にお招きいただきましたことを主に感謝いたします。弱く貧しい僕がこのような働きが出来るだろうかと主にお祈りいたしました。すると主は言われました、「神学生ゆえに招かれ、主に仕え、主の証し人として用いられるためです」、この言葉に励まされました。

さて、九州バプテスト神学校は、九州四地方連合の諸教会の有志の願いから始まったものです。「働きながら学び、働きながら伝道する、伝道者養成の夜間講座」がきっかけとなって1988年に開設され、先月9月17日に30周年記念式典が行われるに至りました。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:37~38)、この御言葉により、イエス様は12人の弟子たちを選び、訓練を受けた後収穫のために、イスラエルの伝道に派遣されました。

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)、この御言葉に主の働きの重さを感じました。すなわち、主の働きのためには、自分のためではなく、主のため、福音のために、迷わずどちらか一方を選択しなければなりません、しかもへりくだり、謙遜の心で神のみもとに来るように言われるのです。

私自身、土くれに等しい者が主に導かれ、「献身者」として教会の皆様から押し出されて神学校で学ばせていただいていることをいつも感謝しています。

本日の宣教で、一人でも多くの方が神学校の学びに導かれ「わたしがここにおります。
 わたしを遣わしてください」と、御言葉の宣教のため一歩前へ踏み出されるような、主の働き人が起こされ、立ち上がってくださる方への励みになれば感謝です。                                         (神学生 河野正成)

                    10月7日

心に留められる幸い

詩編 8編1~10節

古代社会において、規則正しく運行する太陽や月などを神のように崇め神話が生れました。日本における「お日様」「お月様」という呼び方もその表れだと言えます。詩編8編もそういった神話と同じなのでしょうか。そうではありません。詩人は、何よりもまず主なる神の御名(神の威光)が全地に満ちていることを称えています。月や星の輝きや運行は神の「指の業」(4節)であり、被造物として配置されたものであることをきちんと押えています。壮大な宇宙(自然界)に目を向けるとき、自分の小ささを思わされます。と同時にそれらを造られ支配しておられる神が、この「私」をも造られ支配しておられることを知らされます。自分の小ささの発見は、神の大きさ、神の愛の発見へと結ばれるのではないでしょうか。

古代神話においては、天の神々の威光を体現するのは王ただ一人です。王こそが天の栄光の表れとして地上に君臨し、その名を全地にとどろかせる存在です。しかし、聖書においては、王も庶民も「人間」であり「人の子」なのです。「人間」(エノーシュ)も「人」(アダム)も弱く儚い存在を意味する言葉です。その全ての「人間」「人」が神の栄光と威光を冠としていただいていると言うのです(6節)。

詩人は驚きに満ちた思いをもって「あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう」「人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」と重ねて告白しています。「顧みる」とは「失われたものを捜す」という意味があります。神が御心に留めてくださり、顧みてくださることから神の業が始まります。全宇宙という壮大なスケールの中で、土塊に等しい者を心に留め、失われたものを捜すように深い愛をいつも注いでくださる神の存在に心を向けるとき、私たちの生き方も変わります。
                                (牧師 末松隆夫)

                    9月30日

いのちを分かち合う主イエス

マルコによる福音書5章21~43節

人生において様々な触れ合いを経験します。赤ちゃんは口でいろいろなものに触れ、その感触を確かめます。私たちは深い意味を籠めて愛する人にそっと触れます。触れ合いは言葉以上のものを人に伝えます。

聖書はいのちといのち、愛を分かち合う接触を描いています。重病の娘に手を置いて祈って下さいと願う父親の祈りに応えて、主イエスは娘の手を取って「少女よ、起きなさい」と言って彼女を死の淵から引き上げられました。12年間病気を患っていた女性が、そっと後ろから主イエスの服に触りました。主イエスはそんな接触を喜ばれ、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。今朝、主イエスはあなたに、あるいは、そっと触れられ、あるいは激しくタッチされて、そのいのちと愛とを分かち合われようとしています。

30節には、イエスは、「自分の内から力が出て行ったことに気がついた」とあります。女性のほんの僅かなタッチにイエス様の存在自体が揺さぶられたというのです。いのちが磨り減るような感じだったのでしょうか? 後の十字架の苦難に繋がるような出来事であった、命がけの想いに、いのちがけで応えてくださる主イエスの姿であると言って良いと思います。

12歳の少女は「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という主イエスの、手を取る(引き上げ)によって新しいいのちを与えられたのです。

かの日に、「少女よ、さあ、起きなさい」という主イエスの声を聞く日がくるのです。そのような者たちとして、いのちを分かち合い、死と孤独と絶望に勝利された主イエスを信じて生きるように招かれています。
                        (東福岡教会協力牧師 松見 俊)

                    9月23日

旧約の信仰者に学ぶ

ヘブライ人への手紙 11章13~16節

信仰の父と呼ばれたアブラハムですが、そのアブラハムも死んだことが述べられています。けれどもそれは空しく死んでいったのではなく、約束されたものが先に用意されていることを信仰の目で見、天の故郷を望みつつのものであったことを、著者は私たちに語っています。

先に学んだ創世記24章には、イサクの嫁探しの記事が記されていました。その中でアブラハムは信頼を寄せている僕を派遣するにあたり、腿の間に手を入れさせて誓わせています。これは遺言を告げる時の仕草であると言われます。そしてそこで、神は必ず約束を守ってくださることを告げています。この言葉がアブラハムの人生における最後の言葉だったと考えられています。死ぬ間際にも神の約束を信じることができるというのは、なんと幸せな生涯でしょうか。

11章は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)という言葉で始まります。「望んでいる事柄」とは、自分が勝手に望んでいることではありません。神が与えてくださった約束の実現を望むということです。その約束が目の前に実現していなくとも、神の約束であるがゆえに必ず実現するものと確信し、喜び、主を賛美するという信仰の世界・信仰の内実が語られているのです。

ヘブライ人への手紙の著者は、旧約聖書に描かれた先達の信仰をたたえつつ、新約に生きる私たちは、信仰の完成者であるイエス・キリストの十字架の贖いという明確な約束と祝福にあずかっているのだから、そのイエスを見つめながら、自分に定められている人生をしっかりと走り抜こうではないかと勧めているのです。                                     (牧師 末松隆夫)

                   9月16日

最も大切なこと

コヘレトの言葉 12章1~14節

ヘルマン・ホイヴェルス神父の『最上のわざ』という詩の中には、「老いの重荷は神の賜物」という言葉があります。そのように受け止めることが出来れば、老いに対する向き合い方が変わってくると思いますが、そのようにポジティブに受け止めることはなかなかできないというのが私たちの現状なのかもしれません。

コヘレト(口語訳では「伝道者」)はこの12章で、年をとるとあらゆる面で体が弱り、また不自由になるという現実を厳しいまでに描いています。これまで当たり前にできていたことが、少しずつ出来なくなるという現実を受け入れることは辛いことです。コヘレトはこのような老いの現実を記した後で「すべては空しい」と宣べています。しかしそれは「所詮人生は空しいのだからどう生きてもよい」とやけっぱちになっているのではありません。自分の力・能力・財力などを自分の中心に据えているような人生は「空しい」と語っているのです。

そして13節に彼の結論が語られています。
「すべてに耳を傾けて得た結論。
『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて」と。

私たちといつも共にいてくださり、いつも見ていてくださる創造主なる神を畏れ敬うことこそが、人生で最も大切なことであるというコヘレトの言葉に耳を傾ける者でありたいものです。

冒頭で紹介した『最上のわざ』の中には「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ」という言葉があります。これは、常日頃から神を畏れ敬い、祈る生活をしていく者にとって、他のすべてのものが取り去られても、最後まで残るものがある。そしてそれは神とつながっている祈りであるという意味です。人生の最後まで神とつながっているツール(手段)が与えられている人は幸いな人です。何故なら、そこにこそ人生最大の平安があるからです。                                                                            (牧師 末松隆夫)

                    9月9日

愚かな誓い

士師記 11章29~40節

先週に引き続きエフタという士師の話です。エフタは、戦いに臨むに際して神に誓いを立てます。それは「自分が凱旋した時、最初に迎えに出てくる者を焼き尽くす献げ物とする」というものでした。それは神が望まれることではありません。人身御供の風習は、周囲の異教民族においてはなされていたようですが、聖書は一貫してそういうことが絶対にあってはならないと繰り返し語っています。エフタは神が忌み嫌われることを誓ってしまったのです。その結果、最愛の一人娘を失ってしまうことになります。

エフタの切羽詰まった思いがそのような誓いへとなったのでしょう。私たちも、大きな苦しみや悲しみといった人生の危機、あるいは大きな転機に直面する時、「神からの特別な恵みや守りを得たい」と切望する時があります。そしてそのためには「何か特別なものを神にささげるという犠牲を払う必要があるのでは」と考えます。そして願をかけるように誓うのです。けれども誓いの根底にあるのは、神との取り引きです。

信仰は神との取り引きではありません。神の恵みや愛を、感謝をもって受け取ることです。もし私たちが神と取り引きして恵みを得ようとするなら、私たちは、最も大事なかけがえのないものを差し出さなければならなくなるでしょう。神はそれを望まれる方ではありません。むしろ、神の方が一方的に誓い(契約を交わし)、独り子を十字架につけられたのです。

エフタという士師は、私たちが模範とすべき信仰者の姿ではありません。しかしその彼が、信仰によって生きた一人としてヘブライ人への手紙に名前が挙げられています(11:32)。エフタとその娘の苦悩は、神御自身が犠牲を払い、苦しみを引き受けて、私たちに救いを与えてくださったことを証しているとみなされたのでしょうか。誓いの重さと、神の愛の重さを再認識したいものです。                                                                        (牧師 末松隆夫)

                    9月2日

破れを抱えて

士師記 11章1~11節

士師記は「ヨシュアの死後」(1:1)という言葉で始まっています。これは新しい時代の始まりを告げているものです。しかしその新しい時代は、イスラエルにとって好ましい時代の幕開けではなかったようです。士師記の最後には「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(2125)とあります。これは「自分の目」に正しいとするだけであって、「神の目」から見ればけっして正しいものではありませんでした。士師が起こされる時にはいつも「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行った」と記されています。エフタが登場した時も偶像礼拝と苦難のただ中に置かれていた時代でした。

エフタは父の家から追い出された人でした。「遊女の子」であったというのがその理由です。その背景にはおそらく異教の豊穣儀礼(バアル崇拝)の影響があるように思われますが、彼自身ではどうすることもできない生い立ちが理由で、エフタは家族からも社会からも「のけ者」にされ、共同体から排除されてしまったのです。彼は、自分の居場所をなくしたがゆえに、身を持ち崩して「ならず者」となってしまったと言えるでしょう。

しかし、神はそうではありません。人々からレッテルを貼られた者をも排除することなく、御手を差し伸べてくださいます。モーセも同胞を助けようとしてではありますが殺人罪を犯しています。パウロもかつてはキリスト者を迫害し、ステファノを殺すことに賛成しています。彼らもまた「ならず者」の一人であると言えるでしょう。

エフタをはじめとした「破れ」を抱えた者たちを、神は用い、居場所のない者に居場所を与えてくださり、御自身との関わりを持つ者へと導いてくださることを、感謝をもって受け止めたいものです。 
                                 
   (牧師 末松隆夫)

                    8月26日

信仰によって生きる

ヤコブの手紙 2章14~26節

この箇所には、「信仰」が12回、「行い」が12回、さらに、「信仰には行いが伴わなければならないこと」が4回くり返されています。その行いとして15節~16節に着る物や食べ物を必要とする人を実際に助けようとしないなら、その信仰は意味がないことが記されています。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(17節)ということを、21節~23節では行いを伴った信仰の父アブラハムの例によって語っています。

「天の星の数のように、あなたの子孫は祝福される、との神の言葉を聞いて、アブラハムは主を信じた。それが彼の義とみとめられた」(創世記15章5,6節)その約束のとおりにアブラハムに約束の息子イサクが誕生します(21章)。にもかかわらず、創世記22章で、一人息子イサクを献げよ、との神の言葉がありました。この出来事から、ヤコブ書の(21節)で「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか」と述べています。

「義とされる」とは、人が神との正しい関係になることを意味します。罪ある人がどんなにしても神の前に義とされることはありません。そのために、天の父なる神は御子イエス・キリストを地上に遣わされたのです。そして、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(ローマ3:22)とのみ言葉のように、私たちが信仰によって神との正しい関係になることを天の父なる神は願っておられます。

ヤコブは、キリスト者に、本物の信仰は生活の中に表されると言い、行いの伴う信仰によって生きるように勧めています。私たち一人一人、状況や立場が違いますが、それぞれ日々の生活の中で天の父なる神の御心を求めながら、精いっぱい生きてゆきたいと思います。 
                               (主事 八幡正弘)

                    8月19日

神の不思議なガイダンス

創世記24章1~67節

この24章にはアブラハムの晩年の出来事が記されています。何事においても主から祝福をいただいていたアブラハムですが、唯一、息子イサクが結婚していないということが心残りでした。それは、神の約束が実現するかどうかがそこにかかっていたからです。

そこで信頼のおける僕をメソポタミアの北部に住んでいた兄弟ナホルの町に遣わします。その時アブラハムは「その方(主なる神)がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れてくることができるようにしてくださる」(7節)と、すべてが神の備えの中にあることを信じ、神の手引きによって出会いへと導いてくださることを僕に伝えています。アブラハムの信仰を垣間見るひとこまです。

僕もその言葉を真正面から受け止めています。
人生経験が豊かな僕にしてみれば、人間的な方策や人脈によって理想的な人を選ぶこともできたでしょう。しかし彼は、自分の力に頼るのでなく、神と向き合い、神に祈り、神に助けを求めています。

井戸の傍らで出会ったリベカが、僕の祈ったとおりに「らくだにも…飲ませてあげましょう」と行動したとき、僕は従者に手伝わせることもなく、黙ってリベカを見つめていました。それは「主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして」(21節)と説明されています。主の御業を最後まで見届けるために黙って見つめていたというのです。そして「主の慈しみ」を確認(確信)したとき、ひざまずいて祈っています(27節)。

この出来事は、心から主を信じ主に従おうとする者に対して主なる神は、私たちが自分自身についての理解を深め、その力を十分に活用して様々な事態に対応し問題解決を行っていけるように私たちを導いてくださるお方であることを教えています。私たちは、神の不思議なガイダンスによって生かされ、守られ、導かれているのです。そのことを信じ、感じ、祈り、感謝する者となりましょう。                                                                    (牧師 末松隆夫)