11月11日

賛美の衣

イザヤ書61章1~3節

今日の箇所は、第三イザヤと呼ばれる預言者の召命報告にあたる部分です。希望と期待をもってバビロン捕囚から帰還した人々ですが、現実の生活はとても厳しいものがありました。イザヤは、その貧しく苦しむ人々に良い知らせ(福音)を伝えるために預言者として立てられたと語ります。

深い悲しみや大きな憂いは私たちから前進する力を奪ってしまいます。気力も奪われ、落ち込み、その場に座り込ませてしまいます。「灰」(3節)とはそのような悲しみや絶望の中にまみれている状態を示している言葉です。

けれども主なる神は、そのような人々に対して「灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」「主が恵みをお与えになる年」が来ると宣言しておられます。

「賛美の衣をまとわせる」とは、とても賛美できない状態・状況の中でも賛美できるようにしてくださるという意味です。大きな悲しみや苦しみの只中にあるとき、私たちは自分の力では賛美することはできません。しかし、私たちの人生に神が介入してくださるとき、そのような時にも不思議と賛美することができるようになるのです。

それは状況そのものが180度好転するということではありません。状況はたとえ変わらなくても、その状況を見る目(私たち自身)が変えられることで賛美する力が与えられるのです。それはパウロとシラスが獄中において賛美できたことからも教えられます(使徒言行録16章)。

   主イエスはこのイザヤ書の約束が、御自身の到来によって成就した事実を明らかにさ  れました(ルカ4:21)。私たちは、賛美の衣をまとわせていただいている者として、「主を喜び礼拝する」ことと「その喜びを伝える」ことを大事にして行きましょう。                                       (牧師 末松隆夫)

                     11月4日

喜びの祝いに連なる

イザヤ書 56章1~8節

第三イザヤと呼ばれる56章以降は、バビロン捕囚帰還後でまだ神殿が再建されていない時期に活動した預言者の言葉だと言われています。

50年の捕囚期間を経て故郷に帰ってきた人々が目にしたのは破壊された神殿や荒れ果てたエルサレムの町でした。神殿再建という大きな課題を抱えつつも、自分たちの生活向上に追われていた人々に対してイザヤは、神を礼拝することの大切さと礼拝に関する神の計画を告げました。

1節には「正義(ミシュパート)」と「恵みの業(ツェダーカー)」という預言者たちが常に語り、求め続けて来た言葉が記されています。2節とのつながりで読むとき、「悪事に手をつけないように自戒する」ことが「正義」であり、「安息日を守り、それを汚すことのない」ことが「恵みの業」であることが分かります。「安息日を守る」とは、礼拝を大事にするということです。

律法の規定により礼拝に集うことがゆるされなかった「異邦人」や「宦官」に対して、神自らが律法を改定する形で、彼らも礼拝することができる道が開かれることがここには示されています。そして神が開いてくださったその礼拝を心から守るときに、神はその人に「とこしえの名」を与え、「わたしの山に導き」「祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と、宣言しておられるのです。

礼拝は私たち人間の側の行為として始まるのではなく、まず神御自身が私たちのためにその道を開き、招いてくださることによって始まることを教えられます。礼拝は神の招きに対する応答であり、「恵みの業」なのです。私たち一人ひとりが「喜びの祝いに連なる」ことを許されているこの恵み、この喜びを感謝する者でありたいものです。
                          
   (牧師 末松隆夫)

                    10月28日

悔い改めを神の前で

詩編 51編1~21節

詩編51編は「七つの悔い改めの詩編」と呼ばれるものの一つで、「神よ、わたしを憐れんでください」(キリエ エレイソン)との願いから始まります。祈りや礼拝は神の憐れみを乞い求めることから始まると言ってもよいでしょう。

罪に汚れた私たちが自分の罪を自覚すればするほど、聖なる神の御前に立つとき恐れを抱きます。しかし罪の解決がなされるとき、神の御前にいることができる安心と喜びを持つことができます。ダビデはそのことを誰よりも示されたからこそ、神に詫び、神の憐れみと慈しみにすがったのです。

詫びたりすがったりする姿はかっこいいものではありません。一見すると惨めなものです。しかし実は詫びることが惨めなのではなく、詫びないことが惨めなのです。詫びることなく、すがることなく、あくまでも自分を中心に(高く)置くとき、対人関係も、神との関係も崩れて行きます。

ダビデのすばらしい点は、自分の罪を指摘されたとき、王でありながら、ひたすら罪の赦しを神に乞い求めたことです。ダビデは自分の罪を素直に認め、全面的に神にすがっています。罪から救われるために自分ができることは他に何もないことを知っていたのです。だから自分をさらけだし、悔い改めの祈りをささげました。

主イエスは、私たちが悔い改めるとき、天において大きな喜びがあることを教えられました(ルカ15:4~7)。10節の「喜び祝う声を聞かせてください」もそのこととつながっています。

ダビデは「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(12節)と祈っていますが、それは悔い改めを通してこそなされる神の業です。
神の前で悔い改めることができる、それはみじめなことでは
なく、大きな恵みなのです。 
                                         
  (牧師 末松隆夫)

                    10月21日

力を捨てよ

詩編 46編1~12節

この詩編46編には、揺れ動く世界の混沌が語られています。不動というイメージを持ちがちな「地」や「山々」ですが、大きく姿を変えることがあるということは最近の大地震や豪雨などで痛感させられています。そういった天変地異は、私たちに大きな恐怖として迫ってくるものです。天変地異だけでなく、私たちの人生においても突然大きな揺れや沸き返るような出来事に遭遇することがあり、途方に暮れることもあります。

しかし、詩人は宣言します。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない」(2~3節)と。原文には「わたしたちは決して恐れない」の前に「それゆえに」という副詞が置かれています。恐れない根拠は、神が「そこ(苦難の場)」に必ずいてくださるということです。

この告白は、詩人の個人的なものではありません。同じ信仰に生きる仲間と共に告白している信仰告白です。同じ信仰をもった仲間と共にそのように告白できること自体が大きな恵みです。私たちの安心は何に根差しているのか、私たちはどこに生かされているのか、そのことにしっかりと向き合うことが大事です。

詩人は、神の助けを歌い、人間社会のことについて触れた後、最後の部分で力の放棄を宣べています。「力を捨てよ、知れ」と。これは神の声です。どんな力を捨てよと神は言われているのでしょうか。10節で触れられている「弓」「槍」「盾(戦車)」は人間的な力の象徴です。そういった力を捨てよと言われるのです。主なる神こそが絶大な力をもっておられる「万軍の主」です。そのお方が私たちの砦となってくださるのだから、自分の力に頼るのでなく、主に依り頼む生き方へと造り替えられなさいと、この詩編を通して主は私たちを招いてくださっているのです。
                               (牧師 末松隆夫)

                    10月14日

主の働き人

マタイによる福音書9章37~38節

九州バプテスト神学校月間の宣教のために、春日原キリスト教会にお招きいただきましたことを主に感謝いたします。弱く貧しい僕がこのような働きが出来るだろうかと主にお祈りいたしました。すると主は言われました、「神学生ゆえに招かれ、主に仕え、主の証し人として用いられるためです」、この言葉に励まされました。

さて、九州バプテスト神学校は、九州四地方連合の諸教会の有志の願いから始まったものです。「働きながら学び、働きながら伝道する、伝道者養成の夜間講座」がきっかけとなって1988年に開設され、先月9月17日に30周年記念式典が行われるに至りました。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:37~38)、この御言葉により、イエス様は12人の弟子たちを選び、訓練を受けた後収穫のために、イスラエルの伝道に派遣されました。

それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)、この御言葉に主の働きの重さを感じました。すなわち、主の働きのためには、自分のためではなく、主のため、福音のために、迷わずどちらか一方を選択しなければなりません、しかもへりくだり、謙遜の心で神のみもとに来るように言われるのです。

私自身、土くれに等しい者が主に導かれ、「献身者」として教会の皆様から押し出されて神学校で学ばせていただいていることをいつも感謝しています。

本日の宣教で、一人でも多くの方が神学校の学びに導かれ「わたしがここにおります。
 わたしを遣わしてください」と、御言葉の宣教のため一歩前へ踏み出されるような、主の働き人が起こされ、立ち上がってくださる方への励みになれば感謝です。                                         (神学生 河野正成)

                    10月7日

心に留められる幸い

詩編 8編1~10節

古代社会において、規則正しく運行する太陽や月などを神のように崇め神話が生れました。日本における「お日様」「お月様」という呼び方もその表れだと言えます。詩編8編もそういった神話と同じなのでしょうか。そうではありません。詩人は、何よりもまず主なる神の御名(神の威光)が全地に満ちていることを称えています。月や星の輝きや運行は神の「指の業」(4節)であり、被造物として配置されたものであることをきちんと押えています。壮大な宇宙(自然界)に目を向けるとき、自分の小ささを思わされます。と同時にそれらを造られ支配しておられる神が、この「私」をも造られ支配しておられることを知らされます。自分の小ささの発見は、神の大きさ、神の愛の発見へと結ばれるのではないでしょうか。

古代神話においては、天の神々の威光を体現するのは王ただ一人です。王こそが天の栄光の表れとして地上に君臨し、その名を全地にとどろかせる存在です。しかし、聖書においては、王も庶民も「人間」であり「人の子」なのです。「人間」(エノーシュ)も「人」(アダム)も弱く儚い存在を意味する言葉です。その全ての「人間」「人」が神の栄光と威光を冠としていただいていると言うのです(6節)。

詩人は驚きに満ちた思いをもって「あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう」「人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」と重ねて告白しています。「顧みる」とは「失われたものを捜す」という意味があります。神が御心に留めてくださり、顧みてくださることから神の業が始まります。全宇宙という壮大なスケールの中で、土塊に等しい者を心に留め、失われたものを捜すように深い愛をいつも注いでくださる神の存在に心を向けるとき、私たちの生き方も変わります。
                                (牧師 末松隆夫)

                    9月30日

いのちを分かち合う主イエス

マルコによる福音書5章21~43節

人生において様々な触れ合いを経験します。赤ちゃんは口でいろいろなものに触れ、その感触を確かめます。私たちは深い意味を籠めて愛する人にそっと触れます。触れ合いは言葉以上のものを人に伝えます。

聖書はいのちといのち、愛を分かち合う接触を描いています。重病の娘に手を置いて祈って下さいと願う父親の祈りに応えて、主イエスは娘の手を取って「少女よ、起きなさい」と言って彼女を死の淵から引き上げられました。12年間病気を患っていた女性が、そっと後ろから主イエスの服に触りました。主イエスはそんな接触を喜ばれ、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。今朝、主イエスはあなたに、あるいは、そっと触れられ、あるいは激しくタッチされて、そのいのちと愛とを分かち合われようとしています。

30節には、イエスは、「自分の内から力が出て行ったことに気がついた」とあります。女性のほんの僅かなタッチにイエス様の存在自体が揺さぶられたというのです。いのちが磨り減るような感じだったのでしょうか? 後の十字架の苦難に繋がるような出来事であった、命がけの想いに、いのちがけで応えてくださる主イエスの姿であると言って良いと思います。

12歳の少女は「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という主イエスの、手を取る(引き上げ)によって新しいいのちを与えられたのです。

かの日に、「少女よ、さあ、起きなさい」という主イエスの声を聞く日がくるのです。そのような者たちとして、いのちを分かち合い、死と孤独と絶望に勝利された主イエスを信じて生きるように招かれています。
                        (東福岡教会協力牧師 松見 俊)

                    9月23日

旧約の信仰者に学ぶ

ヘブライ人への手紙 11章13~16節

信仰の父と呼ばれたアブラハムですが、そのアブラハムも死んだことが述べられています。けれどもそれは空しく死んでいったのではなく、約束されたものが先に用意されていることを信仰の目で見、天の故郷を望みつつのものであったことを、著者は私たちに語っています。

先に学んだ創世記24章には、イサクの嫁探しの記事が記されていました。その中でアブラハムは信頼を寄せている僕を派遣するにあたり、腿の間に手を入れさせて誓わせています。これは遺言を告げる時の仕草であると言われます。そしてそこで、神は必ず約束を守ってくださることを告げています。この言葉がアブラハムの人生における最後の言葉だったと考えられています。死ぬ間際にも神の約束を信じることができるというのは、なんと幸せな生涯でしょうか。

11章は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)という言葉で始まります。「望んでいる事柄」とは、自分が勝手に望んでいることではありません。神が与えてくださった約束の実現を望むということです。その約束が目の前に実現していなくとも、神の約束であるがゆえに必ず実現するものと確信し、喜び、主を賛美するという信仰の世界・信仰の内実が語られているのです。

ヘブライ人への手紙の著者は、旧約聖書に描かれた先達の信仰をたたえつつ、新約に生きる私たちは、信仰の完成者であるイエス・キリストの十字架の贖いという明確な約束と祝福にあずかっているのだから、そのイエスを見つめながら、自分に定められている人生をしっかりと走り抜こうではないかと勧めているのです。                                     (牧師 末松隆夫)