4月15日

人生の土台

                            コリントの信徒への手紙一 3章10~17節

 先週は「誇る者は主を誇れ」(1:31)との言葉を中心に恵みに預かりましたが、私たちが何かを誇るとき、そこには他者とは違う何かを持っているという「優越感」や「プライド」が横たわっています。コリント教会にも「パウロ」「アポロ」「ケファ(ペトロ)」などを誇っていたグループがあったようです。

 パウロは、クリスチャン人生を「結婚」「身体」など様々な比喩で説明しています。この3章では「植物」と「建築」にたとえて、何に私たちが目を向けなければならないか、何を大事にしていかなければならないかを教えています。それは個々人の信仰の成長のためだけでなく、「教会」の成長のためでもあります。

 パウロは、コリント教会の人々に向かって「熟練した建築家のように土台を据えました」(10節)と語っています。建物がしっかりとしたものとなるために土台(基礎)が重要であることは周知のとおりです。教会やクリスチャンの土台は「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり」(使徒信条)と告白されている十字架と復活のイエス・キリストです。それは「既に据えられている」のです。私たちは主の十字架と復活の福音を基礎に据えて、その上にそれぞれの教会を形成し、また、自分の人生を建てあげていくのです。
 そのときに、「木、草、わら」という無価値なもの、耐久性のないものでなく、「金、銀、宝石」という価値あるもの、燃え尽きないもので上物を建てあげることの大切さをパウロは語ります。自分の「誇り」や「党派心」などの神の裁きに耐えない資材ではなく、永遠に変わることのない「御言葉」や「愛(アガペー)という資材をもって「神の神殿」を建てあげてゆきましょう。
                                   (牧師 末松隆夫)

                    4月8日

主を誇れ

コリントの信徒への手紙一 1章26~31節
 パウロは29節で「誇ることがないようにするため」と言い、31節では「誇る者は主を誇れ」と言っています。この「誇る(kauca,omai)」という単語は新約聖書で37回使われていますが、そのうちの35回はパウロ書簡(コリント書に26回)であり、パウロしか使っていないと言葉だと言っても過言ではないでしょう。

 パウロは「誇る」ことについて敏感であったと言えます。ある人は「パウロほど誇り高き人はいなかった」とも言っています。「人は誇りを持たなければ生きていけない」と指摘する人もいます。問題は、何を誇りとしているかということです。


 顔やスタイルといった容貌を誇り、仕事や学校を誇り、お金や持ち物を誇り、社会的地位を誇るなど、私たちの周りには様々な「誇り」が満ちています。その「誇り」は「自分で得た」という思いから生まれ、それは「高ぶり」へとつながってゆきます。申命記8章には「あなたは、自分の力と手の働きで、この富を築いたなどとは考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい」(17~18節)とあります。「主を思い起こす」とは主を心に据えることです。すべての背後に主を感じることです。その時に私たちは自分を誇ること(高ぶり)から解放され、主を誇る者へと導かれるのではないでしょうか。

  「主を誇れ」と言われている「主」とは「十字架につけられたキリスト」です。それは人々が愚かなものとみなしているものです。しかしそこに「神の力」「神の知恵(御心)」が充ち満ちているとパウロは言うのです。十字架こそが私たちの救いの源です。人々が誇りたがるものを誰よりも持っていたパウロ、しかし主と出会って全く人生や価値観が変えられたパウロのこの言葉に心を合わせる者になりたいものです。
                                      
  (牧師 末松隆夫)

                     4月1日                  

「あなたがたより先に」

マルコによる福音書16章1~8節

水野源三さんの詩に「美しい朝」という主の復活をうたった詩がありますが、墓に向かった当初の女性たちの気持ちはそれとはほど遠いものでした。その彼女たちの心に朝の光が差し込み「美しい朝」になった瞬間があります。それは御使いの「あの方は復活なさってここにはおられない」という言葉を聞いたときです。

「復活」ということほど信じがたいものはないと言えるかもしれません。聖書を読むと、主イエスの愛弟子でさえすぐに信じることができなかった様子が描かれています。しかしキリスト教界は、私たちの人生(信仰)にとって最も大切なこととして、このことを宣べ伝えてきました。信じがたいことであってもそれが事実だからです。そしてこの知らせ(福音)が私たちの暗闇に光をもたらすものだからです。

「ここにはおられない」という「ここ」とは、悲しみや絶望のるつぼである墓です。彼女たちは死んで葬られた主イエスのなきがらに会おうとしてやってきました。しかし、「ここ」にはもうおられないのです。私たちが目を・心を向けるべき所は墓ではなく、別の所なのです。

 「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。…そこでお目にかかれる」と御使いは告げました。なぜ主イエスは中心地である「エルサレム」でなく「ガリラヤ」(周辺)に行かれたのでしょうか。そこは主が神の国のことを宣べ伝え始められた所であり、神の愛を示された所です。さらには、弟子たちの生活の座でもありました。復活の主イエスは辺境の地で、病に伏し、希望を失い、孤独を覚える人たちと共に歩んでくださるお方であり、また、そこで主に出会った者として、主イエスの言葉(福音)を受け継ぎ・語り継いで行くことを弟子たちに託されたのです。この私たちにも!
                                       
(牧師 末松隆夫)

                    3月25日

両手いっぱいの愛

マルコによる福音書 15章33~39節

受難週に入りました。今週の金曜日が、イエスさまが十字架につけられた日(受難日)です。「午前9時」(25節)に十字架につけられたイエスさまは「3時」(34節)に息を引き取られました。その間6時間です。これは通常の十字架刑では考えられない短さだと言われます。そこには、イエスさまの十字架が普通の犯罪人の十字架とは内容が違っていたことを物語っているように思われます。痛みや苦しみを伴う十字架刑ですが、イエスさまの十字架はそれをはるかに超えた想像を絶するものだったのです。その苦しみを表現されたのが34節の言葉です。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、福音書記者マルコは、この言葉だけを紹介し、しかもイエスさまが語られたアラム語をそのまま載せて、その意味(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)を書き添えています。イエスさまの肉声を伝えたかったのでしょう。

自分が頼りとしている者に見捨てられることは本当に辛いことです。それが神であればなおさらです。神の子でありながら神から見捨てられるという、これ以上にない苦しみをイエスさまは味わわれたのです。

私たちは十字架につけられるということはありません。神に見捨てられるという経験もしないですみます。イエスさまが代わりに負ってくださったからです。イエスさまは十字架の上で両手を広げた状態で、神の呪い(裁き)を一身に受けてくだったのです。それは、すぐにイエスさまを裏切ってしまうような弱さを抱えたこの私たちを無条件で受け入れてくださる愛を表わしています。痛みを軽減させる酸いぶどう酒を受けることなく、神に見捨てられるというこれ以上にない苦痛を味わいながら、両手いっぱいの愛を示してイエスさまは十字架にかかられたのです。この私たちのために。
                                             (牧師 末松隆夫)

                    3月18日

「教会」という物語のはじまり

マルコによる福音書14章50節

十字架という物語で有名なのは、あのユダという人物の裏切り行為です。しかし、まるで彼だけが大罪人であるかのような思い込みは打ち破られます。ユダ一人ではなく、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」のです。

弟子たちは、イエス様に従っていけば必ずや自分たちの期待が成し遂げられると信じていました。私たちもまた「イエス様を信じたら、どんないいことがあるの?」と期待をします。しかし弟子たちは期待外れなイエス様の姿を理解できずに、イエス様を見捨てて逃げ出してしまいます。そのような弟子たちの姿の中に、私は自分自身の姿をも発見するのです。

聖書が語る「罪」という言葉には「的外れ」という意味が含まれています。弟子たちやイエス様の周りにいた人々は、その「自分の理想」とイエス様の姿が違うと気づくやいなや、人々は「イエスを十字架につけろ!」と叫び始めます。そのような人々の「的外れ」な声が、イエス様を十字架につけてしまうという悲惨な出来事を生み出してしまったのです。

そのような状況の中で、イエス様は人間の的外れな声をすべて受け止めながら自ら十字架へと歩んでいきます。そのイエス様の姿は私たちの理想や期待とは違う形です。にもかかわらず、私たちを生かすことが出来る力強い希望を私たちに与えてくれるのです。

この十字架という物語の先で、「教会」という物語が始まっていきます。そしてこの物語は逃げ出してしまったあの弟子たちから始まっていくのです。そこには相変わらず苦痛があります。にもかかわらず、「教会」という物語は聖書の希望によって今なお立ち続けています。
                                      (神学生 原田 賢)

                    3月11日

壺を壊して

マルコによる福音書 14章3~9節

主イエスの最後の一週間は、人間の醜さや汚さばかりが見えてしまう出来事が続きますがそのような中にあって、先週のレプトン銅貨2枚をささげた女性とともに、今日の香油を注いだ女性の姿は一服の清涼剤のような麗しい出来事です。

年収に匹敵するほどの高価な「ナルドの香油」をすべてささげた女性の思いは「感謝」でしょう。それは献げ物をはじめ奉仕すべてに通じるものです。しかし、部屋中に充満していた麗しい感謝と賛美の香りを消してしまう非難の声が浴びせられます。それは常識という物差しで測るとき決して間違った発言ではありません。正論です。合理的な指摘です。しかしその発言には交わりを破壊するような棘があります。それは「自分の主張は正しい」という態度であり、彼女の主イエスに対する思いを全く考慮しない姿勢です。語る言葉がどんなに正しい内容であっても、そこに他者への配慮や共に感謝をささげていこうという思いを欠くなら、冷たく突き刺す言葉となり、人を傷つけ、交わりを破壊してしまいます。

一方、主イエスは、彼女の奉仕を肯定的に受け止めてくださったばかりか彼女の思いをはるかに越えた意味づけをしてくださいました。彼女が十字架のことを理解していたとは思えませんが、それでも「できるかぎりのことをした」彼女の奉仕が、結果的に、主イエスの大切な使命である十字架の備えとなっていったのです。
 マルコ福音書だけが「壺」が壊されたことを記しています。主イエスを中心とした信仰の交わりや奉仕をなしていくとき、固い殻は壊されてこそ、かぐわしいものとなっていくことを語っているように思われます。ガチガチな正論・常識ということ以上に、配慮・愛・受容というなめらかさを求めて行く者(教会)でありたいものです。

                                             (牧師 末松隆夫)

                    3月4日

ささげる心

マルコによる福音書 12章41~44節

教会に来ると「献金」という言葉を頻繁に見聞きします。献金は、牧師に対してではなく、教会に対してでもなく、神に対して献げられるものです。そしてその精神は「感謝」であり、「献身」です。

レプトン銅貨2枚をささげた女性の献金は200円に満たないものでした。それは神殿でささげられる献金総額からみれば、ほんのわずかなものです。しかし、主イエスは、彼女がささげたものは「自分の持っている物すべて」であったと言われました。なけなしのお金を惜しむことなくささげたこの女性の姿から二つのことを学びたいと思います。

生活費すべてをささげるという行動は、自分のこれからの人生のすべてを神に任せていくという信仰の表れとみなすことができるでしょう。ここから私たちが学びたいことは、「すべてを握りしめる生き方」ではなく、「神に委ねて生きる生き方」です。私たちはともすると、すべてを自分が握りしめていないと気が済まなくなります。物だけでなく自分の考えに固執し自分を変えようとしない生き方もその一つです。けれどもその結果、不自由な生き方になります。ファリサイ派の人たちもその一人でした。しかし、主イエスは与え尽くす人生を歩まれ、神に全てを委ねられました。彼女の行動は、まさにキリストにつながる生き方を示すものであり、神に心を開いて生きることの大切さを教えるものとなりました。

またこの出来事から、主イエスは私たちをちゃんと見ていてくださることを教えられます。人に知られなくとも、神はその人の状況や心の中までも見ていてくださることを知るとき、平安や力が与えられます。

この出来事は、単に献金に対する姿勢を私たちに教えるだけでなく、神の前に自分のすべてを差し出して生きる私たちの生き方そのものを教えてくれるものなのです。                                                    (牧師 末松隆夫)

                    2月25日

誘惑に負けないで

ヤコブの手紙1章12~15節

人は誘惑に負けてしまった時、それを他の人のせいにしたり、まわりの環境のせいにしたりすることはないでしょうか。「誘惑とは人を迷わせて、悪い道に誘い込むこと(広辞苑)」であるのなら、13節のように神は人を誘惑したりなさるはずはありません。

自分の過ちを他のせいにすることは、人類最初の人・アダムにさかのぼります。
 創世記3章で、神から食べてはならないという戒めを破るよう蛇(サタン)はずる賢しこく誘惑しました。人は、神の戒めを破ったのは、神がパートナーとして女をそばにいるようになさった神のせいだとしています。

しかし、ヤコブ書では「人はそれぞれ自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(14節)として、自分の心の中の欲望に注意をうながしています。「そして欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(15節)で、「はらむ」という赤ちゃんが母体に宿っている例えのように、自分の内に欲望が暖められて、罪となり、やがて「死」に導かれます。この「死」は「霊的な死」を表し、神と人との関係がなくなることを示しています。この「死」は12節の「試練を耐え忍んだ人に与えられた命の冠」とは真逆となります。

旧約の時代にはイスラエルの民はまわりの国の偶像礼拝など神の戒めを破る誘惑がありました。新約の時代でも、主を求める者への誘惑があり、主に従おうとする者への誘惑があります。「誘惑に陥らぬよう目を覚まして、祈っていなさい」(マタイ26:41)と言われるように、祈りによって天の父なる神との正しい関係を持ち続けることは欠かせません。そして、主イエスの言葉を心にたくわえて、前進してゆきたいと思います。                                                             (主事 八幡正弘)

                    2月18日

人生の同伴者の発見まことの安らぎ

マタイによる福音書11章28~30節

「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。この招きの言葉は実に多くの人を慰めてきました。28節のギリシャ語本文を読むと、「私が」が強調され、安らぎを与えて下さるのは主イエス・キリストであるということ、イエス様の処にいくことが大切であることが分かります。

でも、なぜ、主イエスなのでしょう。「わたし(イエス)は柔和で謙遜な者だから」と言われます。「柔和」とは日本語では「やさしくて穏やかな様子」でしょうか。しかし、聖書では「貧しい者」、「重荷を負って苦労している者」という意味です。主イエスは十字架の死に至るまで神と私たちへの愛を全うされ、重荷を負い続ける生涯だったのです。だから、私たちの苦労を理解し、わたしたちに休みを与えることがおできになるのです。

病であるとか、問題が取り去られ、解決することは喜ばしいことです。そのために祈ってよいし、祈らねばなりません。しかし、ここでは重荷や課題が取り去られることではなく、「わたしのくびきを負え、わたしに学べ」と呼びかけられています。「くびき」とは、耕作用に2頭の牛などを繋ぐ農具です。私たちは決して一人ではありません。イエス様が同じ「くびき」を背負っておられるのです。この人生の同伴者を発見することによって「まことの安らぎ」が与えられます。

主イエスと共に担う荷は軽いと言われます。共に歩む同伴者がいるからです。信仰はこのような「喜び」「感謝」から始まります。藤木正三という人は、「喜び」こそ信仰の「試金石」であると言います。
                            (東福岡教会協力牧師 松見 俊)