12月16日

その名はイエス

マタイによる福音書 1章18~25節

今日の聖書の箇所には、イエス・キリストの誕生の次第が記されています。母マリアはヨセフと婚約していましたが、二人が結婚する前に妊娠していることがわかりました。夫ヨセフは自分に関係なく妻マリアが妊娠したことで、ひそかに離婚する決心をしました。そのような時、夢の中で神から「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)と告げられ、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と告げられました。「イエス」の名は「神は救い」という意味です。ユダヤの民を通して世界の人が救われるということです。「罪からの救い」とはイエスによって人の罪が赦され、天の父なる神との正しい関係になることなのです。これがイエス・キリスト誕生の目的であると言えます。

メシア(救い主)誕生は旧約聖書で預言されていたことが実現したと記されています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ7:14)。「インマヌエル」という名は「神は我々と共におられる」という意味です。神がクリスマスの日に肉体をもったイエスとしてお生まれになり人と共に住まわれました。イエスは十字架で全世界の人の罪の贖いを成し遂げて、死んで三日目に復活され、昇天されて天の父なる神のもとに戻られました。主イエスは天にあって私たちのためにいつも執り成しの祈りをしておられます。

イエス誕生から2000年後の今の世界でも変わりないのは、神よりも自分、人よりも自分という自分中心の罪です。神の願いは、全世界の人々が天の父なる神のもとに来ることです。そのために御子イエスがお生まれになったことを心に留めながらクリスマスを迎えたいと思います。 
                                 (教会主事 八幡正弘)

               12月9日

歴史の中に来られた救い主

マタイによる福音書1章1~17節

マタイ福音書の冒頭(新約聖書の一番はじめ)には「イエス・キリストの系図」が書かれています。これは私たちに何を語りかけているのでしょうか。アブラハムから主イエスに至る系図は、旧約聖書と新約聖書の継続性を明らかにしており、旧約で交わされた契約や約束がイエス・キリストへと引き継がれていることを示していると言えるでしょう。

系図は14代ずつ三つに区分されています。「アブラハムからダビデまで」は、神の民の誕生から神によって王が立てられるまでのことで、人で言えば成長期にあたり、次の14代は、「移住」というきれいな言葉が使われていますが、罪の結果としての「バビロン捕囚」であり、人生の挫折です。しかし、そのバビロン捕囚から14代目に救い主であるイエス・キリストが生まれられたのです。そこには、主なる神が、人間の裏切りや罪にもかかわらず、選び召した者を決して見捨てることなく、新たに救いの御業へと導いてくださるという恵みが示されています。

系図の中に4人の女性が登場するのも神の恵みの表れです。ルツは異邦人であり、ラハブやタマルは倫理的に立派だとはとても言えない女性です。ソロモンを生んだバト・シェバについては、ダビデがわざと戦死させた「ウリヤ」の妻として紹介されています。親が子を生むということにまつわって起こってくる様々な人間模様(罪)が赤裸々に見つめられ、指摘されています。そのような歴史の中に、救い主は「ダビデの子」として来られました。それは、私たちの様々な罪や問題の全てを負って十字架によって赦し、神との新しい関係を打ち立ててくださるためです。その系図の中に私たちもつながることができるという恵みの告知がクリスマスなのです。                                                            (牧師 末松隆夫)

               12月2日

良い知らせを伝える者の足

イザヤ書52章1~10節

イザヤ書40~55章は「第二イザヤ」と呼ばれる預言者の言葉が、集められています。第二イザヤは、バビロンに捕囚され希望が見いだせない時代に、人々の罪が赦され再び祖国に帰る日が近いことを預言しました。

3節には「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」と語られています。これは直接的には、バビロン捕囚とペルシャのキュロスによる解放のことが語られている預言ですが、現代の私たちに当てはめるとき、罪の虜になってしまっていた私たちが、「銀によらずに」御子イエス・キリストの十字架によって買い戻される(贖われる)預言として捉えることができるのではないでしょうか。

このような「良い知らせ(福音)」を伝える者の足は「いかに美しいことか」と賞賛されていますが、「声」「言葉」ではなく、何故「足」なのでしょうか。ここにイザヤのメッセージがあるように思われます。たしかに福音を伝えるのは「声」であり「言葉」ですが、イザヤがここで触れているのは、福音を語る者と聞く者との間接的な関わりではなく、直接的な関わりであり、それが「足」という言葉で表現されているのではないでしょうか。

「良い知らせ」の内容は、神による「平和」「恵み」「救い」であり(7節)、「慰め」「贖い」です(9節)。そのような「良い知らせ」を「全世界」(国外)に届けている宣教師たちの「足」が守られるよう、祈りと献げ物をもってサポートする教会であれることを感謝するとともに、この私たち自身が、家族のもとに、友のもとに、地域の人たちのもとに「良い知らせ」を携えて行く足を持つ者へと招かれていることをしっかりと心に留めて、クリスマスに向けて福音を届けて行きましょう。   
                                        
          
  (牧師 末松隆夫)

                     11月25日

良い知らせを伝える者の足

イザヤ書52章1~10節

イザヤ書40~55章は「第二イザヤ」と呼ばれる預言者の言葉が、集められています。第二イザヤは、バビロンに捕囚され希望が見いだせない時代に、人々の罪が赦され再び祖国に帰る日が近いことを預言しました。

3節には「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」と語られています。これは直接的には、バビロン捕囚とペルシャのキュロスによる解放のことが語られている預言ですが、現代の私たちに当てはめるとき、罪の虜になってしまっていた私たちが、「銀によらずに」御子イエス・キリストの十字架によって買い戻される(贖われる)預言として捉えることができるのではないでしょうか。

このような「良い知らせ(福音)」を伝える者の足は「いかに美しいことか」と賞賛されていますが、「声」「言葉」ではなく、何故「足」なのでしょうか。ここにイザヤのメッセージがあるように思われます。たしかに福音を伝えるのは「声」であり「言葉」ですが、イザヤがここで触れているのは、福音を語る者と聞く者との間接的な関わりではなく、直接的な関わりであり、それが「足」という言葉で表現されているのではないでしょうか。

「良い知らせ」の内容は、神による「平和」「恵み」「救い」であり(7節)、「慰め」「贖い」です(9節)。そのような「良い知らせ」を「全世界」(国外)に届けている宣教師たちの「足」が守られるよう、祈りと献げ物をもってサポートする教会であれることを感謝するとともに、この私たち自身が、家族のもとに、友のもとに、地域の人たちのもとに「良い知らせ」を携えて行く足を持つ者へと招かれていることをしっかりと心に留めて、クリスマスに向けて福音を届けて行きましょう。   
                                        
          
  (牧師 末松隆夫)

                     11月18日

どこに葬ったのか

ヨハネによる福音書11章28~37節

ヨハネ11章では、ラザロの死と復活物語が語られています。しかしそのほとんどを占めるのは、姉妹マルタとマリアがイエスさまと会話したものです。そこにあらわされたのは、姉妹それぞれの信仰の姿だったと思われます。ラザロが死んで四日後、ようやく到着したイエスさまに対して姉妹の全幅の信頼は、失望に変わっていました。しかし先に出迎えた姉マルタは、その失望にあっても、イエスさまに対し信じられないほどの信仰告白でした。自分の兄弟の死という分岐点にあってさえ、信仰に懸命に立とうとしたのです。

しかしマリアは、イエスさまが到着したと聞いても動こうとしません。行き場のない腹立たしさ、裏切られたという気持ちに縛られていたのかもしれません。イエスさまはマリアを待ちます。しかしマリアと心が通じ合わなくなり、既に死のおよぼす力に支配されているのを見ました。34節では、涙を流すマリアたちにイエスさまは、ラザロを「どこに葬ったのか」と尋ねています。ギリシャ語原文を直訳するなら「あなたがたは彼をどこに置いたのか(またはどこに納めたのか)」という言葉になります。まさにここで見せたイエスさまの涙は、死の悲しみによって神の国の繋がりを見失っているマリアに「なたの信仰は今どこに置いているのか?」そう問い直し流された涙だと思うのです。次の12章冒頭で、立ち直ったその後のマリアが描かれます。マルタとマリアは、このときの出来事を経てイエスさまに応える信仰を強めたといえるかもしれません。

私たちは様々な思いのなか生きていますが、父なる神と人とを愛されたイエスさまに応え、どんな時もイエスさまこそ「我が主」と告白し、応答してゆく信仰と生き方に今週もしっかり立ちたいと願います。
                                  (執事 近藤浩久)

                     11月11日

賛美の衣

イザヤ書61章1~3節

今日の箇所は、第三イザヤと呼ばれる預言者の召命報告にあたる部分です。希望と期待をもってバビロン捕囚から帰還した人々ですが、現実の生活はとても厳しいものがありました。イザヤは、その貧しく苦しむ人々に良い知らせ(福音)を伝えるために預言者として立てられたと語ります。

深い悲しみや大きな憂いは私たちから前進する力を奪ってしまいます。気力も奪われ、落ち込み、その場に座り込ませてしまいます。「灰」(3節)とはそのような悲しみや絶望の中にまみれている状態を示している言葉です。

けれども主なる神は、そのような人々に対して「灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」「主が恵みをお与えになる年」が来ると宣言しておられます。

「賛美の衣をまとわせる」とは、とても賛美できない状態・状況の中でも賛美できるようにしてくださるという意味です。大きな悲しみや苦しみの只中にあるとき、私たちは自分の力では賛美することはできません。しかし、私たちの人生に神が介入してくださるとき、そのような時にも不思議と賛美することができるようになるのです。

それは状況そのものが180度好転するということではありません。状況はたとえ変わらなくても、その状況を見る目(私たち自身)が変えられることで賛美する力が与えられるのです。それはパウロとシラスが獄中において賛美できたことからも教えられます(使徒言行録16章)。

   主イエスはこのイザヤ書の約束が、御自身の到来によって成就した事実を明らかにさ  れました(ルカ4:21)。私たちは、賛美の衣をまとわせていただいている者として、「主を喜び礼拝する」ことと「その喜びを伝える」ことを大事にして行きましょう。                                       (牧師 末松隆夫)

                     11月4日

喜びの祝いに連なる

イザヤ書 56章1~8節

第三イザヤと呼ばれる56章以降は、バビロン捕囚帰還後でまだ神殿が再建されていない時期に活動した預言者の言葉だと言われています。

50年の捕囚期間を経て故郷に帰ってきた人々が目にしたのは破壊された神殿や荒れ果てたエルサレムの町でした。神殿再建という大きな課題を抱えつつも、自分たちの生活向上に追われていた人々に対してイザヤは、神を礼拝することの大切さと礼拝に関する神の計画を告げました。

1節には「正義(ミシュパート)」と「恵みの業(ツェダーカー)」という預言者たちが常に語り、求め続けて来た言葉が記されています。2節とのつながりで読むとき、「悪事に手をつけないように自戒する」ことが「正義」であり、「安息日を守り、それを汚すことのない」ことが「恵みの業」であることが分かります。「安息日を守る」とは、礼拝を大事にするということです。

律法の規定により礼拝に集うことがゆるされなかった「異邦人」や「宦官」に対して、神自らが律法を改定する形で、彼らも礼拝することができる道が開かれることがここには示されています。そして神が開いてくださったその礼拝を心から守るときに、神はその人に「とこしえの名」を与え、「わたしの山に導き」「祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と、宣言しておられるのです。

礼拝は私たち人間の側の行為として始まるのではなく、まず神御自身が私たちのためにその道を開き、招いてくださることによって始まることを教えられます。礼拝は神の招きに対する応答であり、「恵みの業」なのです。私たち一人ひとりが「喜びの祝いに連なる」ことを許されているこの恵み、この喜びを感謝する者でありたいものです。
                          
   (牧師 末松隆夫)