11月19日

ありのすさび

ルカによる福音書 7章21~23節

 本日の聖書の箇所では,ヨハネの使者がイエスに救世主か否かを尋ねます。イエスは自身が「救世主である」とはっきりとは言わないで,凡ての障碍者への行為はイザヤの預言が成就する為であること,それから類推するがよいと返します。判断は任せるというのですが,「わたしにつまずかない者は幸いである」(原語から,つまずかない=嫌悪する)とも言われます。
 一連のやりとりから障碍(しょうがい)は神の御業が現れる為にあると考えることもできます。けれども,聖書は障碍に対して厳しい記述をしていることも知り置くべきだと思います。それはその記事が書かれた時代の状況や思想を映し出しており,意外に長く,差別とも受け取れる考え方は続いていました。

一般的に障碍という時,私達は健常者の立場から見える失われたもののみを関わる際の判断基準にします。しかし,障碍を負った人にはその人生の中で障碍故に起きた特有の困難を経て私達と出会っています。見ただけでは分からない,生育歴にまで及ぶ配慮が必要です。こうしてみると私が今日皆さんと学ぼうとしていることは,神の御業を顕すためにあるという未来志向の障碍ばかりではなく,少々後ろをふり返ることも致しましょうというものであるようです。

「ありのすさび」とは,「在りの遊び」と書き,「生きていることに慣れて,有り難みを感じないこと」を表す古い日本語です。一番有名な用例は,「ある時は在りの遊びに語らはで恋しきものと別れてぞ知る」(生前には在るのが当然と思って話もしなかったが,死別して大切な人だったと分かった)という歌集・古今六帖にある一句でしょうか。こういう後ろをふり返る(現代風に言えば「後ろ向き」)ような題名は,未来志向を示す教えとは異なるようにも思いますが,こと障碍ということに関しては,少しだけこの心持ちを加味できたらということをご一緒に学んで参りたいと思います。
                                        (執事 塩川善良)

                    11月12日

十字架上の七つの言葉

ヨハネによる福音書 19章28~30節

十字架上で主イエスが語られた言葉は七つあります。そのうちの三つがヨハネ福音書に記されています。①「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」(19:26~27)、②「渇く」(19:28)、③「成し遂げられた」(19:30)。

 十字架上で「渇く」主イエスをヨハネは紹介しています。マタイやマルコが記している「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びが主イエスの精神的な苦痛を表わしているとすれば、「渇く」という言葉は肉体的な苦痛を示していると言えるでしょう。  

ヨハネは4章でもヤコブの井戸でサマリアの女性に水を求める主イエスの姿を描いています。これはキリスト(救い主)であるイエスが人間としてこの世に来られたことを思わせる出来事であり、私たちと同じ弱さ・同じ苦しみに連なってくださったことを示すものです。それとともに、「渇く」との言葉は、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(18:11)と言われた主イエスの意思を示すものとも解すことができます。

「酸いぶどう酒」は、変質してしまったぶどう酒です。神の御心によって選ばれたにもかかわらず変質してしまったのはイスラエルだけではありません。この私たちも同様です。
 しかし、主イエスはそれを御自分の中に引き受けられたのです。出エジプト時に過越の小羊の血を塗るために用いられた「ヒソプ」がここで登場するのも不思議なことです。

「成し遂げられた」という言葉は、「終わった」という語であり、人間的な事柄のすべての終わりを示しています。しかしこの「終わり」は「成就」でもあるのです。ヨハネはこの二つの意味を一つの単語で私たちに示しているのです。私たちは「命から死へ」という流れの中で生きていますが、この「終わり」は、「死から命へ」と移っていくという福音を聞く場とされるのです。
                                   (牧師 末松隆夫)

                     11月5日

イエスを真ん中にして

ヨハネによる福音書19章16b~27節

主イエスの十字架は聖書の中心記事であり、当然のこととして四福音書すべてに記されています。しかしその描写には相違点もあります。それぞれの立場から見た「十字架」を、私たちに提示していると言えます。今日は、共観福音書にはない部分に着目しながら十字架の恵みにあずかりたいと思います。

「彼らはイエスを十字架につけた」(18節)の「彼ら」とは、ユダヤ人たちです。実際の十字架執行者は「兵士たち」ですが、ヨハネは、その責任が「彼ら」にあることを明確にしています。このことは、私たちにもそのまま当てはまることです。現代の私たちが主イエスを直接十字架につけたわけではありません。しかし、「私」の罪が主を十字架へと向かわせたのは事実なのです。

17節には「イエスは、自ら十字架を負い…向かわれた」とあります。創世記22章のイサク奉献の出来事と関連づけて解釈する神学者もいますが、何も知らなかったイサクと違って、主イエスは自らの意思で自己奉献の場所に向かっておられることを覚えましょう。

ゴルゴタの丘に立てられた3本の十字架の真ん中に主イエスがかけられたことは、救いの業の中心に主イエスがおられることを意味し、「ユダヤ人の王」との罪状書きが3ヶ国語で表示されたことは、単にユダヤ人の王であるばかりでなく、全世界の王であるというメッセージを送っています。

真ん中に立てられた十字架の主イエスを、私たちの心の真ん中にしっかりと立てて、主イエスがまことの王であり救い主であることを証しする者へと、さらには、周りの人のために執り成す者へと成長して行きましょう。
                                       (牧師 末松隆夫)

                    10月29日

見よ、この男だ

ヨハネによる福音書 19章1~16節

主イエスを尋問したピラトは「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(18:38、19:6)とイエスを連行してきたユダヤ人たちに語っていますが、それは何か気高いものを感じ取ってのものというよりも、ローマ帝国を脅かすような人間ではないという判断からの発言だと考えられます。しかしピラトの思いを超えての無罪宣告として響いています。

ピラトは、主イエスを鞭で打たせていますが、それはユダヤ人の声に従って十字架につけることを決めたからではありません。まだこの時点では、ピラトはイエスを釈放しようと思っていたようです。鞭打たれ、傷つき、倒れそうになっているぶざまな姿を見せることによって、ユダヤ人たちを納得させようとしたのです。

5節の「見よ、この男だ」という言葉は、口語訳聖書や新改訳聖書では「この人」となっています。新共同訳聖書は「この男」という表現でピラトがあざけりの意味合いを込めて語ったものであることを示しているのです。

ピラトなりに何とかして主イエスを釈放しようと努めていますが、祭司長たちに受け入れられず、逆に、自分に矛先が向けられます。その結果、ピラトはイエスを十字架につけることを許可し、彼らに引き渡してしまいました。

それほど悪い人間には思えないピラトですが、彼の名前は「使徒信条」で取り上げられています。それは、善悪を知りながら、力関係の中で判断し、揺れ動く彼の姿が、弱さを抱えたわたしたちの姿を象徴しているからではないでしょうか。しかし、そのピラトに対して、主イエスは、ただ一人、罪なきお方として向き合っておられるのです。「見よ、この男を」という蔑みの言葉をも、御自分の歩みと神の計画が表わされる言葉として、わたしたちの心に迫って来ます。「この人を見よ。この人こそ…」と。
                                       (牧師 末松隆夫)  

                       10月22日

清さとは、真理とは

ヨハネによる福音書 18章28~38節

主イエスを総督ピラトのもとへと連行した祭司長たち(ユダヤ人)ですが、官邸には入りませんでした。その理由として「汚れないで過越の食事をするためである」(28節)と説明されています。清浄規定を遵守したということでしょう。彼らがここで言う「汚れ」とは異邦人である総督ピラトのことです。[彼の力は借りたい、でも彼のいる場所には足を踏み入れたくない]、何という身勝手さでしょうか。平気で偽証し、「殺してはならない」という十戒にも目をつぶっておいて、些細な決まりを守ることで自分たちの清さを保とうとする、そのような宗教人をヨハネはここで明らかにしています。私たちはどうでしょうか?

ピラトは主イエスに「ユダヤ人の王か」、「いったい何をしたのか」、そして「真理とはいったい何か」という3種類の問いかけをしています。「真理とは…」との問いは、「真理について証しをするために生れ、そのためにこの世に来た」という主の言葉を受けて語られたものですが、ピラト自身には真面目に真理を追究しようという思いはなかったようです。しかし、彼の言葉を通して、私たちは「真理とは何か」ということに心を向けさせられます。

主イエスはここで何も答えておられませんが、ヨハネ福音書全体が「真理」について私たちに提示しています。真理とは「神」であり、「主イエスご自身」であり、「主イエスの言葉」です。

真理は「偽りのないもの」「不変のもの」「真実」です。主イエスは、十字架を通して「真理」「真実」を現わしてくださいました。十字架は呪いの象徴です。しかしそこに、神の愛、神の赦し、救いの真実が示されているのです。その十字架を見上げつつ主イエスの声を聞いて歩むとき、その人は真理に属する人とされるのです。
                                      
          
    (牧師 末松隆夫)
   

                        10月15日

イエス・キリストの律法

ローマの信徒への手紙10章2~4節,3章31節

イスラエルの民をエジプトから救い出された神が、慈しみをもって、神との契約を守り正しく生きるようにと、モーセを通して与えられたのが「十戒」を中心とした神の掟でした。

イスラエルは、神が与えられた律法を端々まで守りそれを実行することによって救いが得られると固く信じました。それゆえ、文字となった「律法」は端々まで神の言葉と見なされました。このことは戒律を守れない者、浄めを受けられない貧しい人たち、外国人を汚れた者とすることになり、病に苦しむ者を律法によって悪霊に就かれた者と見なし差別することになりました。

神は、罪の道具と化していたイスラエルの律法、その因って来る根源である人の罪をあがなうため、人であり神である方が、神の御子、イエス・キリストを世に送って下さいました。

イエス・キリストの地上の30年は、恵みと真理によって神の国を指し示し、自由にされた者たちの、主に従う生き方を明らかにし、その現実の姿を全ての人の目に見えるものにするためのものであったのです。

イエス様は十字架に就かれ人間の罪をあがなわれました。律法はその罪性を取り払われました。福音の下で律法は、自由・解放と共に私たちに謙虚と従順、イエス・キリストへの信実を求めます。

イエス様は静かなところでよく一人で祈られたと書かれています。その祈りは、赦されたあなたはいかに生きるのかと問いかけてきます。全てのキリスト者はその問いの前に立たされています。

孤立化された現代人にとって、神が一人一人の人間を愛してやまないという単純な福音の命題、共に生きなさいというその命題は、なかなか理解できないものであるかもしれません。それ故に、イエス様は私たちに聖書と、人間が救われ力を与えられたことを知る場所でありイエス様の地上的・歴史的身体としての教会を聖霊によって与えられたのです。

                                               (九州バプテスト神学校生 飛永 孝   

                      10月8日

ペトロと私

ヨハネによる福音書18章15~18節

ペトロが主イエスを三度否認するという記事は、4つの福音書すべてに記されている有名な話ですが、ヨハネ福音書では「もう一人の弟子」がそこに登場します。彼が大祭司の知り合いであった故にペトロは屋敷の中庭に入ることができたのです。名もない弟子の働きがそこにあります。

「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」(17節)と門番の女中から問われたペトロは、とっさに「違う」と答えてしまいます。自己防衛的な反応です。しかし、この嘘がきっかけで次々と嘘を重ねて行くことになります。私たちも経験することではないでしょうか。

その話は25節へと続きます。今度は複数の人から問われ、最後はペトロに耳を切り落とされた者の身内が追い打ちをかけます。言い逃れができない状況です。それでもペトロは「違う」と答えてしまいます。頑固なまでに嘘を重ねるペトロにはどのような思いがあったのでしょうか。

15節には「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」と書かれています。この「従う」という語は、主の招きに応えて「網を捨てて従った」という時と同じ単語です。最後まで従いたいという思いがペトロにあったことを示していると言えるでしょう。それでもつまずいてしまうのです。

「違う」と最初に答えたとき、ペトロの中には、それは些細な問題でしかなかったと考えられます。主イエスを否定したという思いはなかったはずです。しかし、気がついたときには三度も主を否認してしまっていたのです。私たちが主イエスと距離を置くときも些細なことから始まるのではないでしょうか。その全てを知った上で、「あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(13:36)と主イエスは予めペトロに語ってくださり、すべてを受容した上でなお愛してくださる大きな愛を示してくださったのです。このペトロは、「私」であり「あなた」です。 
                                        (牧師 末松隆夫)