8月12日

すべての人と平和に

ローマの信徒への手紙 12章9~21節

主イエスは「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5:9)と語り、ダビデは「平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩篇34:15)とうたっています。しかし、世の中には争いは絶えず、戦火のやむことがありません。たとえ一時的に武力で紛争を制圧しても、それは決して平和ではありません。また、国家間の争いだけでなく、身近な対人関係においても「平和」を築くことが難しいことを私たちはよく経験します。

聖書には「平和」が「愛」と並べて用いられている箇所が多数あります。すべての人と平和に過ごすために大切なことは、武力や政治的権力によって物事を沈静化することではなく、圧力をもって相手を押さえ込むことでもなく、愛をもって接することだと聖書は教えているのです。

この12章には、①礼拝を中心とした神との平和②信徒間における教会内の平和、③教会外の人々との平和が語られています。つまり、信仰を持っている者が、教会やこの世(社会)でどのように生き、 どのように平和を実現するかが語られているのです。
 「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」との勧めの前に「せめて」という言葉があります。とても重みのある言葉です。真の神を知らない人はともかく、神の愛を知り、その愛に応えて生きようとしている「あなたがた(兄弟たち)」は、平和をつくりだしていけるはずだという信頼がそこにはあります。それは、波風を立てないように何もしないというのではなく、積極的に平和をつくりだして行く(愛を実践していく)ことです。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と言われているイエスさまの声に聞き従う者として、せめて私たちはすべての人と平和に暮らしていく努力と祈りを怠らないようにいたしましょう。                                                               (牧師 末松隆夫)

                     8月5日

神の配慮

創世記 21章9~21節

アブラハムの妻サラは、女奴隷ハガルと彼女の息子イシュマエル(アブラハムにとっては長子)を追放することを強く迫っています。これは私たちの心の中にある自己保身の表れであると言えるでしょう。ただし、全面的にサラを悪者にしてしまうのは考えものです。ハガル自身もイシュマエルを身ごもったとき、自分の主人であるサラを「軽んじた」、つまり見下げるようになったことが16章に記されています。

ハガルたちがアブラハムの家を出る時に持たされた革袋の水がきれたとき脱水症状・熱中症に陥ったのでしょうか、イシュマエル(当時17歳くくらい)は力尽き、死が目前に迫ってきます。その時の母親の辛さは想像を絶するものがあったことでしょう。

奴隷としてエジプトから連れて来られ、アブラハムの子を産む道具的な扱いをされ、そのアブラハムからも冷たい言葉を投げかけられ、逃亡生活へと追いやられ、息子の死をただ見届けるしかないような悲惨な状況にあるハガルに対して、神は「約束の子イサクと同じように祝福する」という約束を与え、彼女の目を開かせて、水(生きる力)を見いださせてくださいました。ここに神の深い配慮があります。

アブラハム、サラ、ハガル、いずれもが神の約束を聞きながらも、状況に心が奪われて「神の祝福」が見えなくなってしまうことを経験しますが、そのような者に、神は再度約束を語り聞かせ、目を開かせて、生きる力と目的を再確認させてくださっています。人間的な「弱さ」ゆえに、自分で全てを解決しようと焦り、あるいは感情的な思いに支配され、絶望さえ感じるような私たちに対する神の配慮を、聖書を通して学び取って行きたいものです。
                                 (牧師 末松隆夫)

                    7月29日

笑いの誕生

創世記 21章1~7節

聖書には実に多くの不妊の女性のことが記されていますが、それと共に苦しみ・悲しみ・待つことを経験した彼女たちから生まれた子どもが、実に大切な働きを担う者として神さまに用いられたことを聖書は証言しています。今日はその一人サラにスポットを当てて学びます。

「約束の子」の誕生は、絶体絶命の崖っぷちからの大逆転でした。それは二人の力によるものでなく、100%神の力であることを示しています神の約束の実現は、私たちが「もうダメだ」と諦めかけるような時に私たちの前にやってくるのではないでしょうか。だからこそ、諦めかけるようなことがあったとしても、そこで諦めてしまってはいけないのです。

「男の子が与えられる」との神の言葉を聞いたとき、心の中で笑ったアブラハムとサラですが、それは自分の状態を正しく認識していたが故の態度だったと言えるでしょう。事実を事実として認めることは大切なことです。ただ、そこに固執して自分の判断を絶対化してしまうのでなく、事実を超えるお方として主なる神を私たちの心に迎えたいものです。ヘブライ人への手紙ではサラの信仰が高く評価されています(11:11)。自分の置かれている状況以上に、神の言葉を重いものとして受け入れることが求められているのです。

サラが生んだ子どもは、イサク(笑い)と名付けられました。かつて神の言葉を笑ったのを記念して、神の全能さを忘れないように神に命名されたものです。けれども今や、それとは違った〈喜びに満ちあふれた笑い〉に満たされています。人間的な励ましや希望でなく、むしろそれらがついえたときに与えられた「笑い」の祝宴に、この私たちも招かれているのです。
                                                           (牧師 末松隆夫)

                    7月22日

呻きの中の希望

ローマの信徒への手紙8章18~30節

苦しくて、痛くて、悲しくて、ついにこぼれてくる言葉にならない「うめき」の声。私たちも日々、様々な場面において人知らず「うめき」の声を上げてしまうことがあります。パウロは手紙の中で「被造物」も共にうめいている、と語ります。人間によって好き勝手に荒らされた傷からこぼれる「うめき」、災害の現場から溢れ出す「うめき」、理不尽な苦しみの中にいて上げる「うめき」…。事のあまりの大きさに、私たちもそこに立ち尽くし、全ての「被造物」と共に「うめき」の声を絞り出さざるを得ません。そして遂に「神さま、あなたは本当にいるのか」、「その時にあなたは一体どこにいたのか」という問いを投げかけ、神さまの前に、何を求め、どう生きたら良いのか分からなくなるのです。

昔のコリント教会の中には、宗教的熱狂主義者が存在していました。
 彼らは、霊に満たされて忘我の状態になり、自分たちの救いは完成して
いて神の神秘を得ていると主張し、教会の中で混乱を招いてしまいました。それに対し使徒パウロは世界と人間の現実問題を直視し、被造物が持っている弱さ、みじめさ、苦しみを見つめながら、信仰について語りました。信仰を持つ、神を信じるということは、一度信じたら、すべての苦しみから解放され、すべてがバラ色になるということではないと、パウロが語りました。パウロは自分自身も虚無に服していることを認めつつ、イエス・キリストの福音を信じ受け入れるがゆえに、霊の執り成しの祈りに支えられていること、苦しみながらも希望が与えられていることを確信し、自分の信仰の立場を表明しました。

今のうめきが「最後の声」ではない。そこに、神の神秘があり、私たちの希望があるのです。
                                (西南学院宗教主事 劉 雯竹)

                    7月15日

執り成し

創世記 18章16~33節

信仰生活の5本柱のひとつに「祈り」があります。聖書が「霊の糧」であるなら、祈りは「霊の呼吸」と言われるほど、祈りは大切なものです。しかし、私たちが祈っている「祈り」を分析するとき、自分の要望を願う「祈り」が中心になってはいないでしょうか。もちろん、自分の願いを神さまに祈ることは大切なことです。けれども、今日の箇所は、それ以上に大切な祈りに私たちの目を開かせてくれます。それは「執り成しの祈り」です。

「執り成す」とは、国語辞典では「不和・争い・叱責など、激しく対立する双方の間に立って、その場の気まずい空気をうまくまとめること」と定義づけられています。アブラハムはソドムの町の人々を滅びから救うために神さまに執り成しました。50人の正しい者がいたら町全体をゆるすという約束をとりつけた彼は、更に続けて執り成します。6回にわたる執り成しは、必死になって人々を救おうとする彼の熱意がうかがえます。しかし、ソドムの町の人々はそのことを知りません。

私たちのためにも、私たち自身が知らないところで多くの執り成しの祈りがなされています。教会の人たちの祈りの中で私たちは執り成しを受けています。そして何より、聖霊やイエスさま御自身が私たちのために執り成しておられることを聖書から学ぶことができます。

執り成しの祈りによって救われた私たちは何をすべきでしょうか。今度は私たちが執り成しの祈りをささげる側に置かれていることをしっかりと心に踏まえ、家族・友人・教会の兄弟姉妹・地域・日本・全世界のために執り成す者へと導かれることを神さまは望んでおられるのではないでしょうか。
                                 (牧師 末松隆夫)

                    7月8日

旅の途中で

創世記 12章10~20節

「信仰の父」と呼ばれるアブラハム(まだこの時点ではアブラム)ですが、その人生には何度も失敗がありました。その一つが今日の箇所です。

「わたしが示す地に行きなさい」(12:1)との主なる神の声に応じて、ハランを出発したところから約束の地を目指す信仰の旅が始まります。

やがてカナン地方に入ったときに、「あなたの子孫にこの土地を与える」との神の言葉かけを受けます。この時にカナンが約束の地であることを知りました。しかし、そこに腰を下ろすことはありませんでした。その地方に飢饉が襲ったとき、彼はエジプトへと向かったのです。神に示された地を離れたことが、もしかしたらアブラムの一つ目の失敗だったのかもしれません。二つ目の失敗は妻サライを妹だと名乗らせたことです。その結果、サライはエジプトの王に召し入れられました。アブラムと切り離されたのです。

いずれの行動も、アブラムにとって良き考えだったかもしれません。けれどもそのことで、 「あなたを大いなる国民とする」という神の約束が危機に直面することになりました。自分の良き考え(Good idea)が神の御心(God idea)と一致するとは限りません。自分の判断が正しいのかどうかを神に祈り、神に伺う習慣を私たちもつけていく必要性を教えられます。

私たちは自己中心的であり不真実な存在です。しかし神は常に真実なお方です。アブラムの判断によって招かれた危機は、神の直接的な介入によって回避されます。神の一方的な恵みが注がれたのです。

信仰の旅を歩んでいる私たちも、アブラムと同じように、信仰と不信仰の振幅の中を歩んでいます。良かれと思ってとった言動がトラブルの要因となり、危機的状況に陥ることもあります。しかし、神は、私たちを見放すことなく見捨てることなく、働きかけ、関係を回復させようとしてくださるのです。
                               (牧師 末松隆夫)

                    7月1日

神の選び、人の決断

創世記 12章1~9節

[信仰の父]と呼ばれるアブラハム(まだこの時点ではアブラム)ですが、彼の75歳までの人生については、妻のことと居住地のことくらいで、他には何も記されていません。どのような信仰生活を送っていたのかまったく分かりませんが、75歳の時に突然、主の言葉が彼に語られます。

主の招き(神の選び)は突然やってくる場合が多いようです。主イエスによる弟子の選びもそうでした。「彼らは、すぐに網を捨てて従った」と、シモンたちの決断を明記していますが、彼らがどのような思いで家や仕事を捨ててまで従っていったのかということは何も記されていません。聖書に記されているのは、彼らが招きを受けたことと、その招きに応じたということだけです。

アブラムに関しても、なぜ彼が選ばれたのか、その理由は聖書に記されていません。アブラムが信仰深かったから神に選ばれたという人もいますが、本当にそうなのでしょうか。パウロは神の選びの基準として、「世の無に等しい者」を選ばれることを語っています(Ⅰコリント1:28)。だとすれば、アブラムに神の前に誇るものがなかったから選ばれたと言えるでしょう。

「大いなる国民」にするとの約束を受けたアブラムですが、その足取りは右往左往しているような感じです。しかし、それでもよいということを聖書は示しているように思います。

「神の民」とは、神から「わたしの示す地に行きなさい」との言葉を受け、それに従って旅立つ者として在り続けて来た者たちのことです。私たちもそこに繋がっている者です。アブラハムの良さと弱さ、両面を学ぶことを通して、私たちも神の民として約束の地を目指して前進して行きたいものです。
                                                      (牧師 末松隆夫)

                    6月24日

主の傍らへ

マルコによる福音書3章13節~15節

今日は私たちが「献身する」ということ、そしてイエスさまが私たちを「呼んでおられる」ということ、これらのことを共に聖書から聞いていきたいと思います。

章13節で主が「これと思う人々」を呼び寄せられています。実はこの言葉が誰のことを意味しているのか、よく分かりません。ただ一つ確実に言えることは、主が「誰か」のことを必要としていたということだけです。世間が(あるいは私が)決めた「クリスチャンにふさわしい人々」ではなく、主は、主自身がお決めになった「これと思う人々」を呼んでおられるのです。

そして主が「12人を任命する」という場面が続きます。この「任命する」という言葉には「任命する」の他に、「つくる」(英語の「make」)という意味が込められています。つまりこの箇所は「12人をつくった」と訳せる言葉なのです。この時、この12人に象徴される「一つの共同体」がここにつくられたのです。12人はその共同体の基礎です。そして主は、12人として名前が挙げられてはいない一人ひとりをも、この共同体を形づくる大切な一人として、ここに呼んでおられるのです。

この共同体がつくられた目的は「主の傍ら」に置かれること、そして宣教することです。教会はまず「主の傍ら」に置かれ、そこで教会はその場所の暖かさを知り、その暖かさをこそ宣べ伝えていくのです。そのように「主の傍ら」にある暖かさが人々によって分かち合われ、人々の間にさらに広がっていくために、主は私たち一人一人を呼んでおられるのです。

実は興味深いことに、13節の「呼び寄せる」という言葉は、ギリシア語では現在進行形で書かれています。主は今もなお私たちを呼び続けられているのです。私たちの前にはいつも「主の傍ら」へと続く道が開かれているのです。                                                                    (神学生 原田 賢)