福音の源

マルコによる福音書 1章1~15節

共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の中でも、クリスマスの出来事から書き始めているマタイやルカと違って、マルコは洗礼者ヨハネと主イエスのバプテスマをもって「福音の初め」としています。バプテスマは、自分の罪を認め、神に背を向けていた生き方を悔い改めて受けるものです。そうであるなら、主イエスは受ける必要はなかったわけですが、それにもかかわらず受けられたのは、私たちと同じ罪人の立場に身を置かれたことを意味しています。ここに福音の源があるとマルコは私たちに語るのです。

その主イエスのバプテスマの前後に「荒れ野」の出来事をマルコが記している点にも注目すべきです。荒れ野での誘惑は他の共観福音書にも書かれていますが、マルコの強調点は内容そのものではなく、「霊」(聖霊)が荒れ野に送り出したことと、「野獣」と「天使」についての言及だと言えます。[荒れ野での誘惑は主権の闘いである]と言われます。ご自身の障害を神に委ねられたのが荒れ野での闘いであったことは、この私たちが主権を神に委ねるために「荒れ野」は必要な場であると言えるでしょう。「荒れ野」はバプテスマを受けた私たちが様々な誘惑と闘いながら生きていく場(この世の生活)です。

マルコ福音書は4福音書の中で最も早い時期にできたものだと言われていますが、それは激動と混迷の時代でした。まさに「荒れ野」の真っ只中にある教会に対して、福音によってしっかりと立ち続けてほしいとの願いをもって、マルコ福音書は書き記されたのです。

現代の私たちも憲法改正・北朝鮮問題など先が見えない時代に生きていますが、だからこそ今、聖書が語る福音に聴いていくことが求められているのです。                                                (牧師 末松隆夫)

                   12月31日

わたしの魂よ、主をたたえよ

詩編 103編1~13節

2017年もあっという間に最後の日を迎えました。12月にはあちこちで「忘年会」が行われていました。日本人は「忘れることによって明日の活力にする」民族だと言われます。戦争責任・政治家の不祥事・企業の偽装問題…、いずれも責任を曖昧にしたまま時が経つのを待ち、人々の記憶から薄れていくのを待っている感があります。それに対してイスラエル民族は「覚えることによって明日の活力にする」と言われます。エジプトにおける苦難と出エジプトの恵みを忘れないようにと毎年行われている「過越祭」や、主の復活や聖霊降臨を祝う「イースター」「ペンテコステ」など例を挙げるときりがありません。

詩編103編はダビデの晩年に自分の生涯を振り返ってうたった詩だと言われています。ダビデはこの詩編の最初と最後で「わたしの魂よ、主をたたえよ」と呼びかけています。ここに彼の信仰が凝縮されていると言えるでしょう。彼の生涯は決して平穏無事なものではありませんでした。しかしその生涯を振り返るとき、神の様々な恵みを心に留め、感謝しています。私たちもこの一年の歩みを顧み、神の恵みを心に留めて感謝したいと思います。それが新しい年への土台となります。

感謝の生活をするためには、意識をして神の恵みを心に留めていくことが求められます。「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」とダビデが語っているように、苦難の中にも注がれている神の恵みに心を向け、感謝することが大切です。なぜなら、「感謝する人には、感謝すべきことが更に与えられる」という『恵みの法則』があるからです。主の恵みをたくさん数えあげて、感謝の心で新年を迎えましょう。
                                      (牧師 末松隆夫)

                   12月24日

「いと小さき者として」

ルカによる福音書2章8~20節

英国の文豪ディケンズの『クリスマス・キャロル』では、クリスマスに全く無関係・無関心だったスクルージが、イヴの日の不思議な体験を通してクリスマスを心から祝う者へと変えられています。同様に、クリスマスとは全く縁がなさそうだった人たちが、誰よりも早くクリスマスを祝ったことをルカは記しています。それは社会的にも宗教的にも「小さき者」とみなされていた羊飼いたちです。その羊飼いたちが救い主のもとに招かれたこと、それこそがルカが私たちに伝えようとしているメッセージ(福音)なのです。

そしてそのことは、救い主の姿にも描かれています。ルカが語る救い主は、威厳に満ちたものでもなく、主の栄光にきらめく輝かしい姿でもありません。「布」にくるまれ「飼い葉桶」の中に寝ている「乳飲み子」という、まさに「いと小さき者」の姿でした。それが「しるし」だと天使は言い、羊飼いたちもそれを信じて「探し当て」、証しする者へと変えられました。

やがて主イエスが宣教活動をされたとき、「罪人」と呼ばれ蔑まされていた女性・徴税人・病人に声をかけ手を差しのべられたことが記されていますが、そういった主イエスの姿勢(働き)が、このクリスマスの出来事から既にスタートしているのであり、羊飼いたちの招きはその「しるし」であると言えるでしょう

10節の「あなたがたに」という大切な語が新共同訳では訳出されていないのが残念で
す。「あなたがたにも」という付加的なものではなく、「あなたがたに」と直接的に語りかけられています。その「あなたがた」に、羊飼いや私たち「小さき者」がいるのです。
                                 
 (牧師 末松隆夫)

                    12月17日

今、あなたに 

ルカによる福音書1章46~55節

「アドベント」という言葉から「アドベンチャー」という言葉が作られています。「アドベント」とは、ただ何となくクリスマスが来るのを待っている時ではなく、むしろこちら側からクリスマスを探し出す時という積極的な意味があります。聖書が語ろうとしている喜びの訪れを一緒に探しに行きましょう。

48節をギリシャ語で直訳すると、「神は、神の女奴隷の恥、屈辱を見た」となります。マリアは男性中心社会の中で、ローマ中心社会の中で「奴隷」のようにさせられ、その脅威や人々からの偏見に苦しめられていました。

48節の「目を留めてくださった」という言葉には「凝視する」、また「熟慮する」といった意味が込められています。神さまはマリアが抱えている痛み、恥にじっと目を注がれ、マリアの苦痛を拭い去られたのです。マリアはこの時神さまが決して自分を捨てない方であることを知り、喜びました。いや喜ばずにはいられなかったのです。そしてマリアをまっすぐに見つめたように、神は今、あなたをまっすぐに見つめておられると聖書は語ります。

「信じる者は救われる」という言葉はずっと勘違いされてきました。神さまはすべての人を救いたいと願っておられる方です。神を信じるとは、神さまが「今、あなたに受け取ってほしい」と差し出されている喜びの訪れを受け取ることなのです。今日は「アドベント」。主イエスを待ち望み、探し出す時です。しかし私たちより先に主イエスが私たちを探し出してくださいました。主イエスは「今、あなたに」と手を差し出しておられます。
                                   (神学生 原田 賢)

                    12月10日

どうして?!

ルカによる福音書1章26~38節

アドヴェント(待降節)でよく取り上げられるのが、このマリアの受胎告知の出来事です。カトリック教会では聖母マリアとして一目置かれ、礼拝の対象にさえなっているようなところがありますが、聖書を読む限りマリアはナザレという片田舎に育った普通の女性です。

 「おめでとう。恵まれた方」と明るく呼びかける天使の言葉とは裏腹に、「この言葉に戸惑い…考え込んだ」と、困惑しきっているマリアの様子が正直に描かれています。私たちの理解や経験を超えた出来事に出会うとき、私たちも神の言葉に対して否定的な態度をとってしまいます。マリアは私たちの姿を表わしていると言ってもよいでしょう。

今日の箇所には、マリア自身の言葉が二回記されていますが、34節の「どうして、そのようなことがありえましょうか…」という言葉は、天使の言葉を100%否定する内容です。それに対して38節の「…お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉には、天使の言葉を受け入れ、100%神の御旨に従うという決意が込められています。全くの否定から全くの肯定へと変化していることに注目しましょう。救い主の誕生に先立って、マリア自身の信仰の誕生があったのです。

神の計画に対して、最初から肯定的に受け止めることができないような私たちですが、一貫して否定し続けるのでなく、マリアのように[否定→肯定]というプロセスでありたいものです。マリアのような劇的な天使の告知を経験することはないとしても、それぞれの人生の中で感じる神の御旨や語りかけに対して、たとえ最初は否定したとしても最終的には肯定することを神はこの私たちにも期待しておられるのです。
                                   (牧師 末松隆夫)

                    12月3日

予期せぬ神の介入

ルカによる福音書 1章5~25節

 ルカ福音書の特徴の一つは、「わたしたちの間で実現した事柄」(1:1)を世界史の中に位置づけていることです。「ユダヤ人の王ヘロデの時代」(1:5)、「皇帝アウグストゥス」(2:1)、「キリニウスがシリア州の総督であったとき」(2:2)など、その時代の為政者が誰であるかを明記することによって歴史の中に息づく福音を語っていると言えるでしょう。

救い主誕生に先駆けて、ルカは祭司ザカリアに対する福音を(老齢で子どもがいない夫婦を通して神が新しい救いの歴史を始めようとされていることを)紹介しています。

祭司にとって一生に一度あるかないかという「聖所で香を焚く務め」をしていたときに、救い主に先立って人々の心を整える働きをするヨハネ誕生の知らせを聞きますが、子どもが与えられることを長年祈っていたにもかかわらず、それを受け入れることができません。年老いていたからです。

自分が願っていたときに告げられた言葉であれば素直に受け入れることができたでしょ う。けれども、自分が期待していたタイミングではなく、時間が経過し、状況が変化したときに、予期せぬタイミングで神の介入があったことが、喜びの音信を退けてしまうことになったのです。しかし、神の介入はいつも突然です。

喜びの知らせが告げられたのにそれを退けてしまうのは、ザカリアだけではありません。信仰の父と呼ばれたアブラハム・サラ夫妻も、約束の子であるイサク誕生を告げられたときにそれを拒絶してしまいました。時代が変わっても変わることのない人間の姿が描かれていま す。つまり、私たち自身の姿です。だからこそ、方向転換の悔い改めが必要なのであり、そのために神は「時」を与えられるのです。 
                                                 
(牧師 末松隆夫)

                    11月26日

主の声に応えて

イザヤ書 30章18~22節

 ここには神がどのような方であるかが記されています。私たちに「恵み」や「憐れみ」を与える方であり、そのために「待ち」「立ち上がられる」方であり、「これが行くべき道だ、ここを歩け」との声をかけてくださる方です。

人は道や目標となるものが何もなければ、真っ直ぐに歩くことはできません。私たちが迷わず、目的地に向かって正しく進むことができるのは、道があり、目標にすることができるものがあるおかげです。

人は神によって創造された当初、神との直接的な交わりという「道」を歩んでいましたが、罪を犯してその「道」を見失ってしまいました。イザヤが活動した時代も、人々は真の神を離れ、自分勝手な道を歩み、神よりもエジプトに代表されるこの世の力を頼りとしていました。そのような生き方に対して、神は「容赦なく粉砕される」(14節)と滅びの宣告をされています。しかし、それが神の思いの中心ではありません。何とかして救いたいと願っておられるのです。18節はそのことを私たちに示しています。

来週からアドヴェントを迎えますが、まさに「恵みを与えようとして待たれた」アドヴェントの先に、主が「憐れみを与えようとして立ち上がられた」クリスマスがあります。そしてそのことによって「これが行くべき道だ、ここを歩け」という声を私たちは聞くことができる者とされているのです。問題は、その声を聴くか、その道を歩むかということです。

「道」とは神の御旨であり、具体的には「わたしは道であり…」(ヨハネ14:6)と明言されている主イエスご自身だと言い換えても良いでしょう。祈りや聖書を通して神の声を聞きその声に応えて歩む、それが信仰生活であり、宣教ではないでしょうか。 
                                       (牧師 末松隆夫)