7月1日

神の選び、人の決断

創世記 12章1~9節

[信仰の父]と呼ばれるアブラハム(まだこの時点ではアブラム)ですが、彼の75歳までの人生については、妻のことと居住地のことくらいで、他には何も記されていません。どのような信仰生活を送っていたのかまったく分かりませんが、75歳の時に突然、主の言葉が彼に語られます。

主の招き(神の選び)は突然やってくる場合が多いようです。主イエスによる弟子の選びもそうでした。「彼らは、すぐに網を捨てて従った」と、シモンたちの決断を明記していますが、彼らがどのような思いで家や仕事を捨ててまで従っていったのかということは何も記されていません。聖書に記されているのは、彼らが招きを受けたことと、その招きに応じたということだけです。

アブラムに関しても、なぜ彼が選ばれたのか、その理由は聖書に記されていません。アブラムが信仰深かったから神に選ばれたという人もいますが、本当にそうなのでしょうか。パウロは神の選びの基準として、「世の無に等しい者」を選ばれることを語っています(Ⅰコリント1:28)。だとすれば、アブラムに神の前に誇るものがなかったから選ばれたと言えるでしょう。

「大いなる国民」にするとの約束を受けたアブラムですが、その足取りは右往左往しているような感じです。しかし、それでもよいということを聖書は示しているように思います。

「神の民」とは、神から「わたしの示す地に行きなさい」との言葉を受け、それに従って旅立つ者として在り続けて来た者たちのことです。私たちもそこに繋がっている者です。アブラハムの良さと弱さ、両面を学ぶことを通して、私たちも神の民として約束の地を目指して前進して行きたいものです。
                                                      (牧師 末松隆夫)

                    6月24日

主の傍らへ

マルコによる福音書3章13節~15節

今日は私たちが「献身する」ということ、そしてイエスさまが私たちを「呼んでおられる」ということ、これらのことを共に聖書から聞いていきたいと思います。

章13節で主が「これと思う人々」を呼び寄せられています。実はこの言葉が誰のことを意味しているのか、よく分かりません。ただ一つ確実に言えることは、主が「誰か」のことを必要としていたということだけです。世間が(あるいは私が)決めた「クリスチャンにふさわしい人々」ではなく、主は、主自身がお決めになった「これと思う人々」を呼んでおられるのです。

そして主が「12人を任命する」という場面が続きます。この「任命する」という言葉には「任命する」の他に、「つくる」(英語の「make」)という意味が込められています。つまりこの箇所は「12人をつくった」と訳せる言葉なのです。この時、この12人に象徴される「一つの共同体」がここにつくられたのです。12人はその共同体の基礎です。そして主は、12人として名前が挙げられてはいない一人ひとりをも、この共同体を形づくる大切な一人として、ここに呼んでおられるのです。

この共同体がつくられた目的は「主の傍ら」に置かれること、そして宣教することです。教会はまず「主の傍ら」に置かれ、そこで教会はその場所の暖かさを知り、その暖かさをこそ宣べ伝えていくのです。そのように「主の傍ら」にある暖かさが人々によって分かち合われ、人々の間にさらに広がっていくために、主は私たち一人一人を呼んでおられるのです。

実は興味深いことに、13節の「呼び寄せる」という言葉は、ギリシア語では現在進行形で書かれています。主は今もなお私たちを呼び続けられているのです。私たちの前にはいつも「主の傍ら」へと続く道が開かれているのです。                                                                    (神学生 原田 賢)

                     6月17日

惜しまず豊かに蒔く人に

コリントの信徒への手紙二 9章6~12節

私たち日本人の心にお金の話をすることに対する抵抗感があるように見受けられます。しかし、教会が死をタブー視しないようにお金(献げ物)のことについても真正面から取り組むことが大切です。

パウロはエルサレム教会に対する献金(協力献金)を「神の恵み」と表現しています。その献金に関してコリント教会が熱き思いをもって取り組んでいることを感謝し、マケドニア州の人たちを奮い立たせる力となっていることを宣べています(2節)。これは私たちにも相通じるものです。

パウロは6節で「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」と言っていますが、これは献げる「量」のことを言っているのではありません。「わずかしか」の前にある「惜しんで」という言葉にパウロが言いたいメッセージが込められています。つまり、献金するときの私たちの心のあり方、つまり献金の「質」が問われているのです。

「献金は信仰のバロメーター」と言われます。それは、最後までしっかりと握りしめてなかなか神に委ねようとしないのがお金だからです。私たちはどのような思いで献金をささげているでしょうか。「義務」としてしぶしぶでしょうか? 「自己満足」のためでしょうか? 「愛と感謝」をもってでしょうか? 時々は献げる際の自分の思いを自己吟味することが大事です。私たちの「業」に先立って、主なる神が私たちを愛し助け、祝福してくださっているということに心が向けられるとき、「献げ物」が変わってきます。

     来週から「神学校週間」が始まります。神の「業」への応答として、また、福音の
    前進のために、喜びと感謝をもって惜しまず豊かに蒔く人になることを願って
    います。 
                                   
          (牧師 末松隆夫)

                    6月10日

ゆだねられた務め

コリントの信徒への手紙二 4章1~6節

ロボットアニメの元祖と呼ばれる「鉄腕アトム」と「鉄人28号」は実に対照的です。鉄人28号は巨大ロボットでリモコンによって操縦されます。一方、鉄腕アトムは人間の大きさのロボットで人工知能を持っており、自分で考えて行動します。この二つのロボットは、象徴的な形で私たちの人生あるいは信仰のあり方を表わしていると言えるかもしれません。

コリントの教会にはパウロのことを快く思わない指導者が誤ったことを教会員に教え込んでいたようです。そのことによってパウロは非難されますが、それは伝道者にとって何よりも悲しいことです。パウロが経験した苦しみを思うと胸が痛みます。しかしパウロはそのような教会に数度にわたって手紙を送ります。一部の人の誤った教えを信じ込み、自分で考えることをやめ、福音からそれてしまっていた教会の人たちに、自分自身でしっかりと考え、見極めるようにと愛をもって忠告しているのです。

そのようなパウロの熱き思いは、彼自身が「憐れみを受けた者」であるという自覚、「神の栄光を悟る光」を与えられたという感謝、そして「この務めをゆだねられている」という使命感によるものです。

「憐れみを受ける」とは、「愛を受ける」ことと同じ意味です。自分を救い出してくれたキリストの愛によって今の自分があることをしっかりと踏まえ、キリストの愛のために全てを傾けて奉仕に励むという姿勢が伝わってきます。

教会や私たちの活動の全ての動機は、[神の憐れみによって…][キリストの愛によって…]に尽きます。憐れみを受けた者として、私たち一人ひとりに「ゆだねられている務め」を、喜びをもって・感謝をもってなしていく者でありたいものです。                                             (牧師 末松隆夫)

                    6月3日

あなたがわたしの推薦状

コリントの信徒への手紙二 3章1~3節

牧師として推薦状を書く機会が少なからずあります。推薦状は、その人物の人柄や成績あるいは身許などを保証し、信頼に足りうる人材として相手の人にその人を薦めるものであり、責任を伴います。

パウロの時代は現代以上に推薦状の持つ意味が重かったようです。その推薦状をパウロが持っていなかったことをパウロの論敵が攻撃材料にしていました。この場合の推薦状はエルサレム教会からの推薦状です。いわゆるパウロの使徒性を問題視したのです。

その推薦状の問題に対して、パウロは「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」と、コリントの教会員そのものがパウロの使徒としての働き(その正当性)を証明してくれるものであると言い、さらには「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」と言い切っています。これはコリント教会の現状を考えると驚くべき発言です。「あなたがた」の中には、パウロの使徒性を疑うような人も含まれています。

パウロは彼らの中に、かつての自分、つまりキリスト者を迫害していた頃の自分を見ていたのかもしれません。そしてそのような自分を180度変えて真逆の人生へと方向転換させ伝道者として用いてくださっている神の恵みを誰よりも感じていたパウロだからこそ、今はキリストのかおりを放つことができないでいるようなコリントの信徒に対して、あなたがわたしの推薦状であり、あなたがたはキリストの手紙だと言うことができたのではないでしょうか。その背後にある主なる神を見ていたのです。

私たちも、今の時点でキリストの良きかおりを放つことができないでいるとしても、神はどこかで私たちを造り替えてくださるというパウロの信仰をもって肯定的に受け止めていきたいと思います。
                                   (牧師 末松隆夫)

                    5月27日

復活の希望に生きる

コリントの信徒への手紙一 15章50~58節

この15章はパウロの復活論が記されている箇所です。「最後のラッパが鳴る」時、つまり主イエスが再臨される終末に、キリスト者も「朽ちないもの」「輝かしいもの」に復活するという究極的な希望について語られています。その希望の根拠であり保証であるのが、主イエスの十字架と復活という神の御業です。

パウロは「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(50節)と語っていますが、「肉と血」「朽ちるもの」は、私たちの身体のことであり、パウロの表現によれば「自然の命の体」(44節)です。つまり私たちは今の体のままで救いの完成を得ることはできないというのです。

しかし「だから復活のために努力しなさい」と言っているわけではありません。私たちが自分の力で「今とは異なる状態」(51節)に変わるのではなく、変えられるのです。努力目標ではなく、神の約束の成就です。それは信仰によってしか分からない秘められた真理です。

「自然の命の体」が全てだと考える人は、その身に及ぶ苦しみ・不遇・死は人生の敗北を意味し、絶望を生むだけかもしれません。けれども、復活の希望に生かされるなら、それらの意味合いも変わってきます。

復活の希望に生きることを換言すれば、死に対する勝利を与えられて生きるということです。パウロは旧約聖書を引用しつつその成就としてこのことを語っています。旧約においては人間の上に力をふるっている死が、今や神の恵みによって打ち破られたことを大胆に示しているのです。 今日行われるバプテスマ式は、「自然の命に生きる者」から「復活の希望に生きる者」へと変えられたことを表わすものです。何と感謝なことでしょうか。   
                                                     
  (牧師 末松隆夫)

                    5月20日

教会:多様性における一致

創世記11:1~9

今朝は、ペンテコステ(聖霊降臨日)、この世に教会が誕生した日を祝います。使徒言行録2章には、「すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」とあります。この出来事の正反対の出来事がいわゆる「バベルの塔の物語」です。

1.全地は同じ発音、同じ言葉であった

物語は、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」という文章で始まります。10:5には「それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった」と言われているのにです!

2.統制・抑圧の言語とその問題点

ここでは、人の個性、他の国の歴史、それぞれの多様性を無理に統一、コントロールしようとする「言葉」が意味されています。軍隊では、上官の命令に「質問!」、とか「違う意見があります」などと言ったら叱られてしまうでしょう。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」という表現の背後には、効率的ではあっても、人を「もの」のように扱う統制・抑圧社会への批判があるのです。

3.主なる神は降ってこられた

統制・抑圧の言語を用い、技術革新で効率ばかりを追求し、人を傷つけ、自分を傷つける人の姿を、神はご覧になり、悲しみ、自ら降って来られたと語られています。それは、主イエスが十字架の低みに下り、一人一人を大切にされた出来事で成就しました。

4.言葉が違うことの意味

言葉が違うと、他者の言葉をその人の言葉としてしっかり聴き、一人ひとりを大切にする姿勢が起こります。主イエスの愛によって一致していれば、それぞれの個性を受け入れることができるのです。

                   (バプテスト東福岡教会協力牧師 松見 俊)