9月16日

最も大切なこと

コヘレトの言葉 12章1~14節

ヘルマン・ホイヴェルス神父の『最上のわざ』という詩の中には、「老いの重荷は神の賜物」という言葉があります。そのように受け止めることが出来れば、老いに対する向き合い方が変わってくると思いますが、そのようにポジティブに受け止めることはなかなかできないというのが私たちの現状なのかもしれません。

コヘレト(口語訳では「伝道者」)はこの12章で、年をとるとあらゆる面で体が弱り、また不自由になるという現実を厳しいまでに描いています。これまで当たり前にできていたことが、少しずつ出来なくなるという現実を受け入れることは辛いことです。コヘレトはこのような老いの現実を記した後で「すべては空しい」と宣べています。しかしそれは「所詮人生は空しいのだからどう生きてもよい」とやけっぱちになっているのではありません。自分の力・能力・財力などを自分の中心に据えているような人生は「空しい」と語っているのです。

そして13節に彼の結論が語られています。
「すべてに耳を傾けて得た結論。
『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて」と。

私たちといつも共にいてくださり、いつも見ていてくださる創造主なる神を畏れ敬うことこそが、人生で最も大切なことであるというコヘレトの言葉に耳を傾ける者でありたいものです。

冒頭で紹介した『最上のわざ』の中には「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ」という言葉があります。これは、常日頃から神を畏れ敬い、祈る生活をしていく者にとって、他のすべてのものが取り去られても、最後まで残るものがある。そしてそれは神とつながっている祈りであるという意味です。人生の最後まで神とつながっているツール(手段)が与えられている人は幸いな人です。何故なら、そこにこそ人生最大の平安があるからです。                                                                            (牧師 末松隆夫)

                    9月9日

愚かな誓い

士師記 11章29~40節

先週に引き続きエフタという士師の話です。エフタは、戦いに臨むに際して神に誓いを立てます。それは「自分が凱旋した時、最初に迎えに出てくる者を焼き尽くす献げ物とする」というものでした。それは神が望まれることではありません。人身御供の風習は、周囲の異教民族においてはなされていたようですが、聖書は一貫してそういうことが絶対にあってはならないと繰り返し語っています。エフタは神が忌み嫌われることを誓ってしまったのです。その結果、最愛の一人娘を失ってしまうことになります。

エフタの切羽詰まった思いがそのような誓いへとなったのでしょう。私たちも、大きな苦しみや悲しみといった人生の危機、あるいは大きな転機に直面する時、「神からの特別な恵みや守りを得たい」と切望する時があります。そしてそのためには「何か特別なものを神にささげるという犠牲を払う必要があるのでは」と考えます。そして願をかけるように誓うのです。けれども誓いの根底にあるのは、神との取り引きです。

信仰は神との取り引きではありません。神の恵みや愛を、感謝をもって受け取ることです。もし私たちが神と取り引きして恵みを得ようとするなら、私たちは、最も大事なかけがえのないものを差し出さなければならなくなるでしょう。神はそれを望まれる方ではありません。むしろ、神の方が一方的に誓い(契約を交わし)、独り子を十字架につけられたのです。

エフタという士師は、私たちが模範とすべき信仰者の姿ではありません。しかしその彼が、信仰によって生きた一人としてヘブライ人への手紙に名前が挙げられています(11:32)。エフタとその娘の苦悩は、神御自身が犠牲を払い、苦しみを引き受けて、私たちに救いを与えてくださったことを証しているとみなされたのでしょうか。誓いの重さと、神の愛の重さを再認識したいものです。                                                                        (牧師 末松隆夫)

                    9月2日

破れを抱えて

士師記 11章1~11節

士師記は「ヨシュアの死後」(1:1)という言葉で始まっています。これは新しい時代の始まりを告げているものです。しかしその新しい時代は、イスラエルにとって好ましい時代の幕開けではなかったようです。士師記の最後には「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(2125)とあります。これは「自分の目」に正しいとするだけであって、「神の目」から見ればけっして正しいものではありませんでした。士師が起こされる時にはいつも「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行った」と記されています。エフタが登場した時も偶像礼拝と苦難のただ中に置かれていた時代でした。

エフタは父の家から追い出された人でした。「遊女の子」であったというのがその理由です。その背景にはおそらく異教の豊穣儀礼(バアル崇拝)の影響があるように思われますが、彼自身ではどうすることもできない生い立ちが理由で、エフタは家族からも社会からも「のけ者」にされ、共同体から排除されてしまったのです。彼は、自分の居場所をなくしたがゆえに、身を持ち崩して「ならず者」となってしまったと言えるでしょう。

しかし、神はそうではありません。人々からレッテルを貼られた者をも排除することなく、御手を差し伸べてくださいます。モーセも同胞を助けようとしてではありますが殺人罪を犯しています。パウロもかつてはキリスト者を迫害し、ステファノを殺すことに賛成しています。彼らもまた「ならず者」の一人であると言えるでしょう。

エフタをはじめとした「破れ」を抱えた者たちを、神は用い、居場所のない者に居場所を与えてくださり、御自身との関わりを持つ者へと導いてくださることを、感謝をもって受け止めたいものです。 
                                 
   (牧師 末松隆夫)

                    8月26日

信仰によって生きる

ヤコブの手紙 2章14~26節

この箇所には、「信仰」が12回、「行い」が12回、さらに、「信仰には行いが伴わなければならないこと」が4回くり返されています。その行いとして15節~16節に着る物や食べ物を必要とする人を実際に助けようとしないなら、その信仰は意味がないことが記されています。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(17節)ということを、21節~23節では行いを伴った信仰の父アブラハムの例によって語っています。

「天の星の数のように、あなたの子孫は祝福される、との神の言葉を聞いて、アブラハムは主を信じた。それが彼の義とみとめられた」(創世記15章5,6節)その約束のとおりにアブラハムに約束の息子イサクが誕生します(21章)。にもかかわらず、創世記22章で、一人息子イサクを献げよ、との神の言葉がありました。この出来事から、ヤコブ書の(21節)で「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか」と述べています。

「義とされる」とは、人が神との正しい関係になることを意味します。罪ある人がどんなにしても神の前に義とされることはありません。そのために、天の父なる神は御子イエス・キリストを地上に遣わされたのです。そして、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(ローマ3:22)とのみ言葉のように、私たちが信仰によって神との正しい関係になることを天の父なる神は願っておられます。

ヤコブは、キリスト者に、本物の信仰は生活の中に表されると言い、行いの伴う信仰によって生きるように勧めています。私たち一人一人、状況や立場が違いますが、それぞれ日々の生活の中で天の父なる神の御心を求めながら、精いっぱい生きてゆきたいと思います。 
                               (主事 八幡正弘)

                    8月19日

神の不思議なガイダンス

創世記24章1~67節

この24章にはアブラハムの晩年の出来事が記されています。何事においても主から祝福をいただいていたアブラハムですが、唯一、息子イサクが結婚していないということが心残りでした。それは、神の約束が実現するかどうかがそこにかかっていたからです。

そこで信頼のおける僕をメソポタミアの北部に住んでいた兄弟ナホルの町に遣わします。その時アブラハムは「その方(主なる神)がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れてくることができるようにしてくださる」(7節)と、すべてが神の備えの中にあることを信じ、神の手引きによって出会いへと導いてくださることを僕に伝えています。アブラハムの信仰を垣間見るひとこまです。

僕もその言葉を真正面から受け止めています。
人生経験が豊かな僕にしてみれば、人間的な方策や人脈によって理想的な人を選ぶこともできたでしょう。しかし彼は、自分の力に頼るのでなく、神と向き合い、神に祈り、神に助けを求めています。

井戸の傍らで出会ったリベカが、僕の祈ったとおりに「らくだにも…飲ませてあげましょう」と行動したとき、僕は従者に手伝わせることもなく、黙ってリベカを見つめていました。それは「主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして」(21節)と説明されています。主の御業を最後まで見届けるために黙って見つめていたというのです。そして「主の慈しみ」を確認(確信)したとき、ひざまずいて祈っています(27節)。

この出来事は、心から主を信じ主に従おうとする者に対して主なる神は、私たちが自分自身についての理解を深め、その力を十分に活用して様々な事態に対応し問題解決を行っていけるように私たちを導いてくださるお方であることを教えています。私たちは、神の不思議なガイダンスによって生かされ、守られ、導かれているのです。そのことを信じ、感じ、祈り、感謝する者となりましょう。                                                                    (牧師 末松隆夫)

                    8月12日

すべての人と平和に

ローマの信徒への手紙 12章9~21節

主イエスは「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5:9)と語り、ダビデは「平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩篇34:15)とうたっています。しかし、世の中には争いは絶えず、戦火のやむことがありません。たとえ一時的に武力で紛争を制圧しても、それは決して平和ではありません。また、国家間の争いだけでなく、身近な対人関係においても「平和」を築くことが難しいことを私たちはよく経験します。

聖書には「平和」が「愛」と並べて用いられている箇所が多数あります。すべての人と平和に過ごすために大切なことは、武力や政治的権力によって物事を沈静化することではなく、圧力をもって相手を押さえ込むことでもなく、愛をもって接することだと聖書は教えているのです。

この12章には、①礼拝を中心とした神との平和②信徒間における教会内の平和、③教会外の人々との平和が語られています。つまり、信仰を持っている者が、教会やこの世(社会)でどのように生き、 どのように平和を実現するかが語られているのです。
 「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」との勧めの前に「せめて」という言葉があります。とても重みのある言葉です。真の神を知らない人はともかく、神の愛を知り、その愛に応えて生きようとしている「あなたがた(兄弟たち)」は、平和をつくりだしていけるはずだという信頼がそこにはあります。それは、波風を立てないように何もしないというのではなく、積極的に平和をつくりだして行く(愛を実践していく)ことです。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と言われているイエスさまの声に聞き従う者として、せめて私たちはすべての人と平和に暮らしていく努力と祈りを怠らないようにいたしましょう。                                                               (牧師 末松隆夫)

                     8月5日

神の配慮

創世記 21章9~21節

アブラハムの妻サラは、女奴隷ハガルと彼女の息子イシュマエル(アブラハムにとっては長子)を追放することを強く迫っています。これは私たちの心の中にある自己保身の表れであると言えるでしょう。ただし、全面的にサラを悪者にしてしまうのは考えものです。ハガル自身もイシュマエルを身ごもったとき、自分の主人であるサラを「軽んじた」、つまり見下げるようになったことが16章に記されています。

ハガルたちがアブラハムの家を出る時に持たされた革袋の水がきれたとき脱水症状・熱中症に陥ったのでしょうか、イシュマエル(当時17歳くくらい)は力尽き、死が目前に迫ってきます。その時の母親の辛さは想像を絶するものがあったことでしょう。

奴隷としてエジプトから連れて来られ、アブラハムの子を産む道具的な扱いをされ、そのアブラハムからも冷たい言葉を投げかけられ、逃亡生活へと追いやられ、息子の死をただ見届けるしかないような悲惨な状況にあるハガルに対して、神は「約束の子イサクと同じように祝福する」という約束を与え、彼女の目を開かせて、水(生きる力)を見いださせてくださいました。ここに神の深い配慮があります。

アブラハム、サラ、ハガル、いずれもが神の約束を聞きながらも、状況に心が奪われて「神の祝福」が見えなくなってしまうことを経験しますが、そのような者に、神は再度約束を語り聞かせ、目を開かせて、生きる力と目的を再確認させてくださっています。人間的な「弱さ」ゆえに、自分で全てを解決しようと焦り、あるいは感情的な思いに支配され、絶望さえ感じるような私たちに対する神の配慮を、聖書を通して学び取って行きたいものです。
                                 (牧師 末松隆夫)