1月27日

立ち上がって

ルカによる福音書 5章27~32節

先週に引き続き、キリストの弟子とされた出来事です。彼の名前はレビ(マタイ)。徴税人でした。ルカ福音書に最初に「徴税人」が登場するのは3章で、洗礼者ヨハネがヨルダン川でバプテスマを授けていた場面です。徴税人たちもヨハネからバプテスマを受けて生きる方向を修正しようとしていますが、律法学者たちは徴税人が神の民となることを認めなかったと言われます。それが事実であれば、差別と偏見の犠牲となっていたと言えでしょう。私たちも注意しておかないと、宗教的差別や偏見によって、人々を救いの門から閉め出してしまう過ちを犯してしまう可能性があります。

主イエスの「わたしに従いなさい」との呼びかけに対して、「彼は…立ち上がり、イエスに従った」と、聖書は記しています(共観福音書すべて)。収税所に座っていることは仕事をしていたということであり、離れられない生活の「座」に浸っていたことを表わしています。そこから「立ち上がる」とは古い生活と別れを告げる決意をしたことを表わしています。私たちは、立ち上がらなければ、主イエスに従って行くことはできません。逆に言えば、立ち上がるとき私たちに新しい生き方が生まれるのです。福音書がわざわざ「立ち上がり」と記しているところに、その重要性を語っていると言えるでしょう。

主イエスに従って行くために立ち上がったレビは、「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」と、ルカは記しています。視点をレビに置いた描写であり、救われたことへの感謝(新しい命が生まれたことへの喜び)の宴であったことを提示しています。私たちも日々「立ち上がって」主に従って行きましょう。                                                    (牧師 末松隆夫)

                    1月20日

そのとおりにすると

ルカによる福音書5章1~11節

ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)で夜通し漁をしたにもかかわらず、何も捕れなかった漁師たちの落胆ぶりは容易に想像できます。私たちも、全く自分の思うように事が運ばない時など、失意のどん底を経験することがあります。肉体的にも精神的にも疲労困憊しているような時に、主イエスがシモン(ペトロ)に声をかけられたことは、決して偶然ではありません。

少し前に自分のしゅうとめを癒やしてくださったお方が目の前で話しておられるのに全く耳を傾けないで網を洗っていたシモンは、自分の世界に閉じこもっていたと言えるでしょう。そのようなシモンをご覧になり、声をかけ、最も近い場所でみ言葉に触れる機会を設けてくださったのです。

「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」との主の言葉に、シモンは何の抵抗もなく素直に従ったわけではありません。彼なりの反論をしています。けれども、自分の判断や経験を最優先するのではなく、「しかし、お言葉ですから」と主の言葉を選び取ることを決断し、「そのとおりにする」という行動に移したとき、人知を超えた恵みを体験することができました。ここに救いへのプロセスがあります。

「すべてを捨ててイエスに従った」シモンですが、「舟」や「家族」を捨てたわけではありません。生活の優先順位がどこに移ったか、何に価値観を見出すようになったかを示す言葉です。「何よりもまず神の国と神の義を求める」(マタイ6:33)信仰者の姿を表わしています。

H・ゴルヴィツァーは、「これは教会の基礎となる物語である」「御言葉に従って歴史の中を歩む教会の現実を反映している」と述べています。シモン・ペトロという一人の人間に起こった出来事を超えて、現代の私たちが主の呼びかけに対してどうあるべきかを示すものとして厳粛な思いで受け止めましょう。                                          (牧師 末松隆夫)

                    1月13日

主の恵みの年

ルカによる福音書4章16~30節

主イエスが故郷のナザレに帰られたとき、ユダヤ教の会堂における礼拝の場で聖書を朗読されたところから話がスタートします。礼拝の中心であった聖書を朗読されたこと自体が、非常に尊敬されていたことが分かります。「故郷へ錦を飾る」人物として、人々は主イエスを見ていたのでしょう。

ザヤ書61章を朗読したあと、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と主が宣言されたとき、人々は皆「イエスをほめた」あります。この時点では、人々は「恵み深い言葉」として受け止めたのです。

しかし、その後に話されたエリヤとエリシャの話に人々は「憤慨」し、崖から突き落とそうとしたことが記されています。この変化の背後に何があるのでしょうか。主イエスが語られたのは、神の恵みを受けたのは異邦人であったということです。そしてそれは、ユダヤ人であり同郷という「近さ」を理由に自分たちは他の町以上に大きな恵みをもらえる資格があると思っていたナザレの人々に対する辛辣な言葉でした。

何故主イエスは人々が憤慨すると分かっているようなことを言われたのでしょうか。それは彼らが、主から一方的に恵みをいただくしかない「貧しい者」でありながら、そのことが分からず、「近さ」を主張し、「権利」を主張して、恵みだけをもらおうとしていたからです。大切なのは関係の近さではなく、自分の常識を超えた「福音」を受け入れ、「福音」を成就するイエス・キリストを受け入れることなのです。

ナザレの人々の姿は、私たちに対する主の問いかけです。「主の恵みの年」は到来しました。しかし、その神の恵みを味わい知ることがゆるされるのは、自らの中に誇るべきものがない「貧しい人」です。常にへりくだった思いを持ち、自分の常識でなく主イエスの言葉を基準に物事を捕らえていくときに、私たちの中に「福音」が成就するのです。
                              (牧師 末松隆夫)

                    1月6日

バプテスマを受けたキリスト

ルカによる福音書 3章1~22節

主イエスの公活動に先立つ洗礼者ヨハネの働きや主イエスのバプテスマの記事は、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)すべてに書かれていますが、中でもルカは、「皇帝ティベリウスの治世の第15年…」(1節)と、時代背景を明確にしています。このように世界史の中に位置づけることによって事柄の事実性を明らかにしたと言えるでしょう。

民衆が期待していた「メシア」は、力ある王であり、正しい裁きを行ってくれる王でした。そこにはローマによる支配や正義が損なわれていた現実があります。ヨハネも「その方(メシア)は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」(16節)と述べていますが、直後の「脱穀場」の話からメシアは正しい裁きを行われることを表現しているものだと理解できます。その裁きは「脱穀場の隅々まで」、つまりユダヤ人を含めて全ての者が対象です。だから「悔い改めのバプテスマ」を民衆に授けていたのです。

その洗礼者ヨハネから主イエスがバプテスマを受けられたというのが今日の内容です。キリストはなぜバプテスマを受けられたのでしょうか。それは、罪人である民衆(私たち)と同じ立場に立たれたということです。

人々やヨハネのメシア像は、神の裁きを具現するメシアでした。しかし、ヨハネの目の前に現われたメシアは、罪人と同じ水に沈んでくださるお方であり、そのようなメシアこそが「わたしの心に適う者」(22節)であると神は宣言されたのです。つまり、正しい裁きを行う権威ある方が「箕」を持って民を峻別し裁くのでなく、悔い改めて神の赦しを求める罪人と同じ列に並ばれ、同じ水の中に沈まれたという驚くべき出来事を、聖書は私たちに紹介しているのです。そのようなメシアだからこそ、私たちは救われるのです。
                              (牧師 末松隆夫)

                    12月30日

クリスマスの後で

マタイによる福音書 2章13~23節

マタイが紹介するクリスマスは、東方の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を尋ね求め、「宝の箱」を開けて一番大切にしている宝を幼子にささげて礼拝し祝ったという記事です。ここにクリスマスの喜びが記されています。

しかしマタイは、クリスマスの喜びだけでなく、クリスマスの悲しみも書き記しています。そのひとつは幼子イエスを連れてのエジプトへの逃避行であり、今ひとつはヘロデ王によるベツレヘム周辺の2歳以下の男児殺害という悲惨な出来事です。クリスマスの後で、このような悲しみと苦しみがあったという事実を、マタイは強調するかのように描いています。

この悲劇は、ヘロデの不安から発生したものです。新しいことが起ころうとする時、あるいはこれまで体験したことのない出来事に遭遇する時に、不安を感じるのは、ヘロデ王だけではなく、マリアにしてもヨセフにしても同じでした。救い主の母や父になるという出来事は、現状がまるっきり変わってしまうことであり、そこには大きな不安があり、恐れがありました。逃避行先の「エジプト」もヨセフたちにとっては不安材料ばかりだったことでしょう。「ナザレ」での生活も不安と隣り合わせです。しかし不安を抱きながらも、彼らは神の言葉を信頼し、前進して行ったのです。

マタイは、不安に対する二つの対処方法を示しています。自分に不安を与えるものを抹殺しようとするか、不安の中に生きるかです。自分で不安を取り除こうとするのでなく、不安の中でそのすべてを神に委ねる道をヨセフたちは選び取りました。そのような関わりを神はクリスマスを祝った私たちにも望んでおられるのです。                                            (牧師 末松隆夫)

               12月23日

「ほんとうのクリスマス」

マタイによる福音書2章1~12節

クリスマスにまつわる話はたくさんあります。クリスマスにツリーもケーキもないことが不満で家を飛び出したタケシくんは、教会学校でシュバイツァーの話を聞いて「ぼくも変えてほしい」と願い、教会学校の先生と祈り、イエスさまを救い主として心に受け入れました。

『クリスマス・キャロル』(ディケンズ作)の主人公、スクルージも、クリスマス・イヴにこれまでの自分の生き方がいかに愛のないものであり、希望のないものであり、未来のないものであるかを知り、クリスマスを否定する者からクリスマスを祝う者へと変えられました。

「わたぼうしの会」(障がい者支援)の理事長・播磨靖夫氏は「良い生活と良い人生は別である」と言っています。私たちが生きている社会は「良い生活」を求め、そのために、高学歴、高収入を求め、マイホームを求めます。しかしそれで「良い人生」を得ることができるとは限りません。

東方から来た学者たちが祝ったクリスマスの記事は、そのような私たちに「良い人生」を送る秘訣を教えてくれていると言えるでしょう。彼らは「宝の箱」を開けて幼子に献げ物をしています。何が彼らに起こったのでしょうか。

「宝の箱」とは自分にとってとても大事なものということです。ある学者は「博士たちが開けたのは背囊だったのではないか」という見解を示しています。とすれば、「宝」は予め用意されたものではなく、その時の彼らが持っていた中の最高のものを献げたということであり、生活(人生)そのものを献げたということにもつながります。それは「良い生活」よりも「良い人生」を選んだ結果だと言えるでしょう。救い主を心に迎えてその人の人生が変わる、それが「ほんとうのクリスマス」なのです。 
                                 (牧師 末松隆夫)

               12月16日

その名はイエス

マタイによる福音書 1章18~25節

今日の聖書の箇所には、イエス・キリストの誕生の次第が記されています。母マリアはヨセフと婚約していましたが、二人が結婚する前に妊娠していることがわかりました。夫ヨセフは自分に関係なく妻マリアが妊娠したことで、ひそかに離婚する決心をしました。そのような時、夢の中で神から「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)と告げられ、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と告げられました。「イエス」の名は「神は救い」という意味です。ユダヤの民を通して世界の人が救われるということです。「罪からの救い」とはイエスによって人の罪が赦され、天の父なる神との正しい関係になることなのです。これがイエス・キリスト誕生の目的であると言えます。

メシア(救い主)誕生は旧約聖書で預言されていたことが実現したと記されています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ7:14)。「インマヌエル」という名は「神は我々と共におられる」という意味です。神がクリスマスの日に肉体をもったイエスとしてお生まれになり人と共に住まわれました。イエスは十字架で全世界の人の罪の贖いを成し遂げて、死んで三日目に復活され、昇天されて天の父なる神のもとに戻られました。主イエスは天にあって私たちのためにいつも執り成しの祈りをしておられます。

イエス誕生から2000年後の今の世界でも変わりないのは、神よりも自分、人よりも自分という自分中心の罪です。神の願いは、全世界の人々が天の父なる神のもとに来ることです。そのために御子イエスがお生まれになったことを心に留めながらクリスマスを迎えたいと思います。 
                                 (教会主事 八幡正弘)