1月6日

バプテスマを受けたキリスト

ルカによる福音書 3章1~22節

主イエスの公活動に先立つ洗礼者ヨハネの働きや主イエスのバプテスマの記事は、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)すべてに書かれていますが、中でもルカは、「皇帝ティベリウスの治世の第15年…」(1節)と、時代背景を明確にしています。このように世界史の中に位置づけることによって事柄の事実性を明らかにしたと言えるでしょう。

民衆が期待していた「メシア」は、力ある王であり、正しい裁きを行ってくれる王でした。そこにはローマによる支配や正義が損なわれていた現実があります。ヨハネも「その方(メシア)は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」(16節)と述べていますが、直後の「脱穀場」の話からメシアは正しい裁きを行われることを表現しているものだと理解できます。その裁きは「脱穀場の隅々まで」、つまりユダヤ人を含めて全ての者が対象です。だから「悔い改めのバプテスマ」を民衆に授けていたのです。

その洗礼者ヨハネから主イエスがバプテスマを受けられたというのが今日の内容です。キリストはなぜバプテスマを受けられたのでしょうか。それは、罪人である民衆(私たち)と同じ立場に立たれたということです。

人々やヨハネのメシア像は、神の裁きを具現するメシアでした。しかし、ヨハネの目の前に現われたメシアは、罪人と同じ水に沈んでくださるお方であり、そのようなメシアこそが「わたしの心に適う者」(22節)であると神は宣言されたのです。つまり、正しい裁きを行う権威ある方が「箕」を持って民を峻別し裁くのでなく、悔い改めて神の赦しを求める罪人と同じ列に並ばれ、同じ水の中に沈まれたという驚くべき出来事を、聖書は私たちに紹介しているのです。そのようなメシアだからこそ、私たちは救われるのです。
                              (牧師 末松隆夫)

                    12月30日

クリスマスの後で

マタイによる福音書 2章13~23節

マタイが紹介するクリスマスは、東方の学者たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を尋ね求め、「宝の箱」を開けて一番大切にしている宝を幼子にささげて礼拝し祝ったという記事です。ここにクリスマスの喜びが記されています。

しかしマタイは、クリスマスの喜びだけでなく、クリスマスの悲しみも書き記しています。そのひとつは幼子イエスを連れてのエジプトへの逃避行であり、今ひとつはヘロデ王によるベツレヘム周辺の2歳以下の男児殺害という悲惨な出来事です。クリスマスの後で、このような悲しみと苦しみがあったという事実を、マタイは強調するかのように描いています。

この悲劇は、ヘロデの不安から発生したものです。新しいことが起ころうとする時、あるいはこれまで体験したことのない出来事に遭遇する時に、不安を感じるのは、ヘロデ王だけではなく、マリアにしてもヨセフにしても同じでした。救い主の母や父になるという出来事は、現状がまるっきり変わってしまうことであり、そこには大きな不安があり、恐れがありました。逃避行先の「エジプト」もヨセフたちにとっては不安材料ばかりだったことでしょう。「ナザレ」での生活も不安と隣り合わせです。しかし不安を抱きながらも、彼らは神の言葉を信頼し、前進して行ったのです。

マタイは、不安に対する二つの対処方法を示しています。自分に不安を与えるものを抹殺しようとするか、不安の中に生きるかです。自分で不安を取り除こうとするのでなく、不安の中でそのすべてを神に委ねる道をヨセフたちは選び取りました。そのような関わりを神はクリスマスを祝った私たちにも望んでおられるのです。                                            (牧師 末松隆夫)

               12月23日

「ほんとうのクリスマス」

マタイによる福音書2章1~12節

クリスマスにまつわる話はたくさんあります。クリスマスにツリーもケーキもないことが不満で家を飛び出したタケシくんは、教会学校でシュバイツァーの話を聞いて「ぼくも変えてほしい」と願い、教会学校の先生と祈り、イエスさまを救い主として心に受け入れました。

『クリスマス・キャロル』(ディケンズ作)の主人公、スクルージも、クリスマス・イヴにこれまでの自分の生き方がいかに愛のないものであり、希望のないものであり、未来のないものであるかを知り、クリスマスを否定する者からクリスマスを祝う者へと変えられました。

「わたぼうしの会」(障がい者支援)の理事長・播磨靖夫氏は「良い生活と良い人生は別である」と言っています。私たちが生きている社会は「良い生活」を求め、そのために、高学歴、高収入を求め、マイホームを求めます。しかしそれで「良い人生」を得ることができるとは限りません。

東方から来た学者たちが祝ったクリスマスの記事は、そのような私たちに「良い人生」を送る秘訣を教えてくれていると言えるでしょう。彼らは「宝の箱」を開けて幼子に献げ物をしています。何が彼らに起こったのでしょうか。

「宝の箱」とは自分にとってとても大事なものということです。ある学者は「博士たちが開けたのは背囊だったのではないか」という見解を示しています。とすれば、「宝」は予め用意されたものではなく、その時の彼らが持っていた中の最高のものを献げたということであり、生活(人生)そのものを献げたということにもつながります。それは「良い生活」よりも「良い人生」を選んだ結果だと言えるでしょう。救い主を心に迎えてその人の人生が変わる、それが「ほんとうのクリスマス」なのです。 
                                 (牧師 末松隆夫)

               12月16日

その名はイエス

マタイによる福音書 1章18~25節

今日の聖書の箇所には、イエス・キリストの誕生の次第が記されています。母マリアはヨセフと婚約していましたが、二人が結婚する前に妊娠していることがわかりました。夫ヨセフは自分に関係なく妻マリアが妊娠したことで、ひそかに離婚する決心をしました。そのような時、夢の中で神から「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)と告げられ、「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)と告げられました。「イエス」の名は「神は救い」という意味です。ユダヤの民を通して世界の人が救われるということです。「罪からの救い」とはイエスによって人の罪が赦され、天の父なる神との正しい関係になることなのです。これがイエス・キリスト誕生の目的であると言えます。

メシア(救い主)誕生は旧約聖書で預言されていたことが実現したと記されています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ7:14)。「インマヌエル」という名は「神は我々と共におられる」という意味です。神がクリスマスの日に肉体をもったイエスとしてお生まれになり人と共に住まわれました。イエスは十字架で全世界の人の罪の贖いを成し遂げて、死んで三日目に復活され、昇天されて天の父なる神のもとに戻られました。主イエスは天にあって私たちのためにいつも執り成しの祈りをしておられます。

イエス誕生から2000年後の今の世界でも変わりないのは、神よりも自分、人よりも自分という自分中心の罪です。神の願いは、全世界の人々が天の父なる神のもとに来ることです。そのために御子イエスがお生まれになったことを心に留めながらクリスマスを迎えたいと思います。 
                                 (教会主事 八幡正弘)

               12月9日

歴史の中に来られた救い主

マタイによる福音書1章1~17節

マタイ福音書の冒頭(新約聖書の一番はじめ)には「イエス・キリストの系図」が書かれています。これは私たちに何を語りかけているのでしょうか。アブラハムから主イエスに至る系図は、旧約聖書と新約聖書の継続性を明らかにしており、旧約で交わされた契約や約束がイエス・キリストへと引き継がれていることを示していると言えるでしょう。

系図は14代ずつ三つに区分されています。「アブラハムからダビデまで」は、神の民の誕生から神によって王が立てられるまでのことで、人で言えば成長期にあたり、次の14代は、「移住」というきれいな言葉が使われていますが、罪の結果としての「バビロン捕囚」であり、人生の挫折です。しかし、そのバビロン捕囚から14代目に救い主であるイエス・キリストが生まれられたのです。そこには、主なる神が、人間の裏切りや罪にもかかわらず、選び召した者を決して見捨てることなく、新たに救いの御業へと導いてくださるという恵みが示されています。

系図の中に4人の女性が登場するのも神の恵みの表れです。ルツは異邦人であり、ラハブやタマルは倫理的に立派だとはとても言えない女性です。ソロモンを生んだバト・シェバについては、ダビデがわざと戦死させた「ウリヤ」の妻として紹介されています。親が子を生むということにまつわって起こってくる様々な人間模様(罪)が赤裸々に見つめられ、指摘されています。そのような歴史の中に、救い主は「ダビデの子」として来られました。それは、私たちの様々な罪や問題の全てを負って十字架によって赦し、神との新しい関係を打ち立ててくださるためです。その系図の中に私たちもつながることができるという恵みの告知がクリスマスなのです。                                                            (牧師 末松隆夫)

               12月2日

良い知らせを伝える者の足

イザヤ書52章1~10節

イザヤ書40~55章は「第二イザヤ」と呼ばれる預言者の言葉が、集められています。第二イザヤは、バビロンに捕囚され希望が見いだせない時代に、人々の罪が赦され再び祖国に帰る日が近いことを預言しました。

3節には「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」と語られています。これは直接的には、バビロン捕囚とペルシャのキュロスによる解放のことが語られている預言ですが、現代の私たちに当てはめるとき、罪の虜になってしまっていた私たちが、「銀によらずに」御子イエス・キリストの十字架によって買い戻される(贖われる)預言として捉えることができるのではないでしょうか。

このような「良い知らせ(福音)」を伝える者の足は「いかに美しいことか」と賞賛されていますが、「声」「言葉」ではなく、何故「足」なのでしょうか。ここにイザヤのメッセージがあるように思われます。たしかに福音を伝えるのは「声」であり「言葉」ですが、イザヤがここで触れているのは、福音を語る者と聞く者との間接的な関わりではなく、直接的な関わりであり、それが「足」という言葉で表現されているのではないでしょうか。

「良い知らせ」の内容は、神による「平和」「恵み」「救い」であり(7節)、「慰め」「贖い」です(9節)。そのような「良い知らせ」を「全世界」(国外)に届けている宣教師たちの「足」が守られるよう、祈りと献げ物をもってサポートする教会であれることを感謝するとともに、この私たち自身が、家族のもとに、友のもとに、地域の人たちのもとに「良い知らせ」を携えて行く足を持つ者へと招かれていることをしっかりと心に留めて、クリスマスに向けて福音を届けて行きましょう。   
                                        
          
  (牧師 末松隆夫)

                     11月25日

良い知らせを伝える者の足

イザヤ書52章1~10節

イザヤ書40~55章は「第二イザヤ」と呼ばれる預言者の言葉が、集められています。第二イザヤは、バビロンに捕囚され希望が見いだせない時代に、人々の罪が赦され再び祖国に帰る日が近いことを預言しました。

3節には「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」と語られています。これは直接的には、バビロン捕囚とペルシャのキュロスによる解放のことが語られている預言ですが、現代の私たちに当てはめるとき、罪の虜になってしまっていた私たちが、「銀によらずに」御子イエス・キリストの十字架によって買い戻される(贖われる)預言として捉えることができるのではないでしょうか。

このような「良い知らせ(福音)」を伝える者の足は「いかに美しいことか」と賞賛されていますが、「声」「言葉」ではなく、何故「足」なのでしょうか。ここにイザヤのメッセージがあるように思われます。たしかに福音を伝えるのは「声」であり「言葉」ですが、イザヤがここで触れているのは、福音を語る者と聞く者との間接的な関わりではなく、直接的な関わりであり、それが「足」という言葉で表現されているのではないでしょうか。

「良い知らせ」の内容は、神による「平和」「恵み」「救い」であり(7節)、「慰め」「贖い」です(9節)。そのような「良い知らせ」を「全世界」(国外)に届けている宣教師たちの「足」が守られるよう、祈りと献げ物をもってサポートする教会であれることを感謝するとともに、この私たち自身が、家族のもとに、友のもとに、地域の人たちのもとに「良い知らせ」を携えて行く足を持つ者へと招かれていることをしっかりと心に留めて、クリスマスに向けて福音を届けて行きましょう。   
                                        
          
  (牧師 末松隆夫)