7月9日

祝福と聖別への招き

創世記 2章1~3節

神による天地創造は6日間で被造物のすべてが造られました。七日目は「ご自分の仕事を離れ、安息なさった」とあります。けれどもこの七日目は、付け足しのような日かというと決してそうではありません。七日目があってはじめて神の創造の業は完全なものとなったのです。

七日目に神がなさったことは「安息」「祝福」「聖別」です。「聖別」とは[もろもろの中から特別なものとして分ける]という意味です。分かりやすく言えば、[神ご自身のものにされた]と言うことです。七日目は神専用の日として他の日から分けられたのです。

旧約聖書では、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出20:8)という十戒をはじめ、至る所で安息日を遵守することの大切さが語られており、それを汚す(守らない)者は必ず死刑に処せられることが繰り返し語られています。もし、旧約の規定をそのまま現代の私たちに当てはめれば、どれだけ命があっても足らないくらいに私たちは律法に反した生活を送っています。でも生かされているのは何故でしょうか。旧約の規定はもはや効力のないものになっているのでしょうか。

そうではありません。主イエスの十字架が私たちのその大きな罪を贖っているのです。そのことに目が開かれるとき、私たちは改めて安息日(キリスト教では主の日)を大切にしていく思いへと導かれるのではないでしょうか。

 「安息日」の意義について、私たちはもっとも注意を払う必要があるように思われます。第七日を忘れることにおいて、6日間の労働や日常生活の営みが、その意義と目的を失ってしまっているという現実があるように思われるからです。 

神の祝福と聖別に与る者として招かれている「安息日」を、喜びをもって迎えることができるよう、週日の6日間をその日に向けて整えつつ過ごしたいものです。

                                        (牧師 末松隆夫)

                      7月2日

主よ なぜそこにおられるのか

マタイによる福音書6章5~8節

今日の箇所では「祈り」について語られています。まず語られるのは、「偽善者のように祈るな」という警告です。その特徴は「人に見せるための祈り」です。それに対してイエス様は人の目に触れない「隠れたところ」で祈るように勧めます。なぜならば神はその隠れたところにおられるから、と言うのです。「隠れたところ」とは、言い換えるならば人には見せられないもの、あるいは見せなくないものであると私は思うのです。あなたの神は、“あなたの隠れたところ”におられる、と聖書は語るのです。このことに気づかされる時に「主よ なぜそこにおられるのか」と言葉が漏れるのです。

しかし忘れてはならないのはこれが「祈りの勧め」であることです。
 「祈り」
とは何でしょうか。それは私たち自身を神に向かわせるものです。そしてそこにおられるのは十字架の神なのです。自分の隠れたところ。他ならぬその場所で、私たちは「十字架」と出会うのです。
私たちが責められるべき
ところで、私たちの代わりに血を流している神と出会ってしまうのです。

「主よ なぜそこにおられるのか」。このような問いに対し、神は「お前たちが罪に支配されるのを、私は望まない。自由を奪うためではなく、むしろ自由を与えるため。そのために、私はここにいる」と、そう語られるのです。

 イエス様は今日の箇所を通して、私たちを祈りへと招かれています。それは十字架の神と出会うことへの招きです。そのことはなんと幸いなことでしょうか。

                                                            (神学生 原田 賢)

                      6月25日

迫害の予告

ヨハネによる福音書 15章18~21節

15章の前半は「つながる」「愛」がキーワードでしたが、18節からの後半になると「世」「憎む」「迫害する」がキーワードになります。

主イエスと「世」の関係は二面的です。「世」は主イエス(神)の愛の対象であり、その一方では「世」は主を受け入れず、憎むという態度を示します。「世」が主を憎み、迫害し、殺そうとするのは何故かと考える時、主が真実な光であるがゆえに、「世」の偽善を見抜き、罪が光のもとにさらされるからでしょう。神の言葉を語った旧約時代の預言者もまた、「世」に憎まれ、迫害されました。その預言者の一人であるエレミヤが主から託された言葉を語ったとき、人々は二つのグループに分かれます。エレミヤの正しさを認めた高官・民衆、そして「都に敵対する預言をしたから死罪にあたる」と主張した祭司・預言者(エレミヤ書26章)。エレミヤの発言が真実かどうかということよりも自分に対して敵対的かどうかということが判断基準となっています。日本の政治の世界でも同じようなことが起こっています。

 そのような「世」に対して、人々や国を愛するが故に真理を語り、神の救いを語り、生きる方向性の転換を語る者に対して、「世」はそれをすんなりと受け入れてはくれないことを改めて教えられる迫害予告の主の言葉です。

日本もかつて主イエスを信じるが故に激しい迫害を受けた時代がありました。そういった時代と比べると、現代は直接的な迫害はないように見えます。しかし、形を変えた「迫害」があるのではないでしょうか。マザー・テレサの「愛の反対は憎しみではない。無関心である」という言葉を思う時に、無関心という「迫害」にさらされていると言えると思います。今日の主イエスの言葉をしっかりと胸に刻んで信仰を堅持して行きましょう。

                                          (牧師 末松隆夫)

                        6月18日

慰めの神~愛する者の死と高齢者介護~

イザヤ書 46章3~4節、

コリントの信徒への手紙二 1章3~6節

「尼僧からクリスチャンへ」と聞いて、少なからず興味を覚えない人はいないのではないでしょうか。広島県呉市に生まれ、小児科医になりながらも尼僧になり、その後19年の年月を経てクリスチャンになられた藤井圭子先生こそ、その人であります。

14歳の時に身近な人の死に出会い、「生と死」という人生問題に強く心惹かれるようになった先生は、仏教学を学び尼僧となりながらもその中に絶対のもの・永遠なるもの・聖なるものを見出せず、全き平安が得られなかったと言います。そのような時、家の隣りにキリスト教の教会が建てられたのをきっかけに、導かれるようにバイブルクラスや礼拝に出席するようになり、その後、イエス様こそ自分が尼僧になってまで探し求めていた「道、真理、命」なのだと気づかされ、受浸されました。

現在は国内外の諸教会で積極的にご奉仕されておられ、著書も多数出版されています。

本日は「慰めの神~愛する者の死と高齢者介護~」と題してお話してくださいます。わたしたちが生まれた時から負われ、胎を出た時から担われ、老いて白髪になるまで背負ってくださる神。あらゆる苦難の時にわたしたちを慰めてくださる神。わたしたちも神からいただくこの慰めによりあらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

 道の果てにたどり着かれた先生だからこそ語れる心境にじっくりと耳を傾けてまいりたいと思います。

                                              (伝道執事 大塚政公)

                      6月11日

                    豊かな実を結ぶために

ヨハネによる福音書 15章1~10節

今学んでいる箇所は「最後の晩餐」を終え、いよいよ十字架へと向かわれる直前で語られたイエス様の言葉です。まさに遺言のような意味を込めて語られた教えであると言えるでしょう。そう考えると、「わたしはぶどうの木」と言われたその言葉の中に、十字架にかけられたご自身の姿を暗示しておられるように響いてきます。

旧約聖書では「ぶどう」はイスラエルを意味する言葉でした。けれどもそれはいつも「不完全な」「良くないぶどう」として描かれています。私たちも同様に「酸っぱいぶどう」でしかありません。私たちの中に自然に生じる実は、不信仰・ねたみ・そしり・さばきといったものばかりです。けれども、神はそのような私たちをイエス様に接木してくださいます。台木であるイエス様に深い傷をつけて!

接木をされた私たちが「豊かな実」を結ぶためには、台木と一体化することが必要ですそのために必要なのは「時間」と御言葉という「養分」です。私自身、まだまだ「野ぶどう」が残っていることを教えられます。いつしか、自分のどこを切っても「まことのぶどうの木」であるイエス様の愛が出てくるような人間になりたいものです。

そのために必要なのは「剪定」です。神は、私たちの枝を取り除き(15:2)、訓練する(ヘブライ12:5)と言われています。それは私たちを懲らしめることが目的ではなく、「豊かな実」を結ぶためです。「剪定」には痛みが伴いますが、神の計画を信じ、「豊かな実」を結ぶために信仰をもって受けて行く者でありたいと願っています。

                                        
(牧師 末松隆夫)

                        6月4日

聖霊の働き

ヨハネによる福音書 14章25~27節

本日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。ルカは使徒言行録2章でその時のことをドラマチックに描写し、そしてその直後から弟子たちが大胆に主イエスの福音を伝えるようになったことを記しています。聖霊が弟子たちの上に降ったことによって力を得た彼らが、心を合わせ、一つとされて福音宣教に邁進していくことになったこの日が「教会の誕生日」です。

この出来事は、突発的に起こったのではありません。主イエスご自身によって予告されていたことでした。それがヨハネ14章に記されています。この14章にある二つの言葉から、聖霊の働きを学びましょう。

一つは17節後半に記されている「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」というものです。主イエスが十字架にかかられ、復活され、昇天されて、聖霊という形で私たちのところへ来てくださったからこそ、いつも・どんな時にも「共に」いてくださるのです。ペンテコステの出来事は、弟子たちにとって、その確信を持つことができた出来事でした。
 聖霊は私たちに「主イエスが共にいてくださる」という確信を与えてくれるものです。

もう一つは26節の「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」というものです。聖霊によってエチオピアの宦官のもとへ遣わされたフィリポは、聖書の手ほどきをしています。主イエスの言葉を理解できないでいたかつての弟子の姿はありません。理解できなかったことを聖霊が教え、思い起こさせてくださった結果です。そしてイエスこそキリストであるという真理を教えてくれるのです。

                                          (牧師 末松隆夫)