6月10日

ゆだねられた務め

コリントの信徒への手紙二 4章1~6節

ロボットアニメの元祖と呼ばれる「鉄腕アトム」と「鉄人28号」は実に対照的です。鉄人28号は巨大ロボットでリモコンによって操縦されます。一方、鉄腕アトムは人間の大きさのロボットで人工知能を持っており、自分で考えて行動します。この二つのロボットは、象徴的な形で私たちの人生あるいは信仰のあり方を表わしていると言えるかもしれません。

コリントの教会にはパウロのことを快く思わない指導者が誤ったことを教会員に教え込んでいたようです。そのことによってパウロは非難されますが、それは伝道者にとって何よりも悲しいことです。パウロが経験した苦しみを思うと胸が痛みます。しかしパウロはそのような教会に数度にわたって手紙を送ります。一部の人の誤った教えを信じ込み、自分で考えることをやめ、福音からそれてしまっていた教会の人たちに、自分自身でしっかりと考え、見極めるようにと愛をもって忠告しているのです。

そのようなパウロの熱き思いは、彼自身が「憐れみを受けた者」であるという自覚、「神の栄光を悟る光」を与えられたという感謝、そして「この務めをゆだねられている」という使命感によるものです。

「憐れみを受ける」とは、「愛を受ける」ことと同じ意味です。自分を救い出してくれたキリストの愛によって今の自分があることをしっかりと踏まえ、キリストの愛のために全てを傾けて奉仕に励むという姿勢が伝わってきます。

教会や私たちの活動の全ての動機は、[神の憐れみによって…][キリストの愛によって…]に尽きます。憐れみを受けた者として、私たち一人ひとりに「ゆだねられている務め」を、喜びをもって・感謝をもってなしていく者でありたいものです。                                             (牧師 末松隆夫)

                    6月3日

あなたがわたしの推薦状

コリントの信徒への手紙二 3章1~3節

牧師として推薦状を書く機会が少なからずあります。推薦状は、その人物の人柄や成績あるいは身許などを保証し、信頼に足りうる人材として相手の人にその人を薦めるものであり、責任を伴います。

パウロの時代は現代以上に推薦状の持つ意味が重かったようです。その推薦状をパウロが持っていなかったことをパウロの論敵が攻撃材料にしていました。この場合の推薦状はエルサレム教会からの推薦状です。いわゆるパウロの使徒性を問題視したのです。

その推薦状の問題に対して、パウロは「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」と、コリントの教会員そのものがパウロの使徒としての働き(その正当性)を証明してくれるものであると言い、さらには「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」と言い切っています。これはコリント教会の現状を考えると驚くべき発言です。「あなたがた」の中には、パウロの使徒性を疑うような人も含まれています。

パウロは彼らの中に、かつての自分、つまりキリスト者を迫害していた頃の自分を見ていたのかもしれません。そしてそのような自分を180度変えて真逆の人生へと方向転換させ伝道者として用いてくださっている神の恵みを誰よりも感じていたパウロだからこそ、今はキリストのかおりを放つことができないでいるようなコリントの信徒に対して、あなたがわたしの推薦状であり、あなたがたはキリストの手紙だと言うことができたのではないでしょうか。その背後にある主なる神を見ていたのです。

私たちも、今の時点でキリストの良きかおりを放つことができないでいるとしても、神はどこかで私たちを造り替えてくださるというパウロの信仰をもって肯定的に受け止めていきたいと思います。
                                   (牧師 末松隆夫)

                    5月27日

復活の希望に生きる

コリントの信徒への手紙一 15章50~58節

この15章はパウロの復活論が記されている箇所です。「最後のラッパが鳴る」時、つまり主イエスが再臨される終末に、キリスト者も「朽ちないもの」「輝かしいもの」に復活するという究極的な希望について語られています。その希望の根拠であり保証であるのが、主イエスの十字架と復活という神の御業です。

パウロは「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(50節)と語っていますが、「肉と血」「朽ちるもの」は、私たちの身体のことであり、パウロの表現によれば「自然の命の体」(44節)です。つまり私たちは今の体のままで救いの完成を得ることはできないというのです。

しかし「だから復活のために努力しなさい」と言っているわけではありません。私たちが自分の力で「今とは異なる状態」(51節)に変わるのではなく、変えられるのです。努力目標ではなく、神の約束の成就です。それは信仰によってしか分からない秘められた真理です。

「自然の命の体」が全てだと考える人は、その身に及ぶ苦しみ・不遇・死は人生の敗北を意味し、絶望を生むだけかもしれません。けれども、復活の希望に生かされるなら、それらの意味合いも変わってきます。

復活の希望に生きることを換言すれば、死に対する勝利を与えられて生きるということです。パウロは旧約聖書を引用しつつその成就としてこのことを語っています。旧約においては人間の上に力をふるっている死が、今や神の恵みによって打ち破られたことを大胆に示しているのです。 今日行われるバプテスマ式は、「自然の命に生きる者」から「復活の希望に生きる者」へと変えられたことを表わすものです。何と感謝なことでしょうか。   
                                                     
  (牧師 末松隆夫)

                    5月20日

教会:多様性における一致

創世記11:1~9

今朝は、ペンテコステ(聖霊降臨日)、この世に教会が誕生した日を祝います。使徒言行録2章には、「すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」とあります。この出来事の正反対の出来事がいわゆる「バベルの塔の物語」です。

1.全地は同じ発音、同じ言葉であった

物語は、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」という文章で始まります。10:5には「それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった」と言われているのにです!

2.統制・抑圧の言語とその問題点

ここでは、人の個性、他の国の歴史、それぞれの多様性を無理に統一、コントロールしようとする「言葉」が意味されています。軍隊では、上官の命令に「質問!」、とか「違う意見があります」などと言ったら叱られてしまうでしょう。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」という表現の背後には、効率的ではあっても、人を「もの」のように扱う統制・抑圧社会への批判があるのです。

3.主なる神は降ってこられた

統制・抑圧の言語を用い、技術革新で効率ばかりを追求し、人を傷つけ、自分を傷つける人の姿を、神はご覧になり、悲しみ、自ら降って来られたと語られています。それは、主イエスが十字架の低みに下り、一人一人を大切にされた出来事で成就しました。

4.言葉が違うことの意味

言葉が違うと、他者の言葉をその人の言葉としてしっかり聴き、一人ひとりを大切にする姿勢が起こります。主イエスの愛によって一致していれば、それぞれの個性を受け入れることができるのです。

                   (バプテスト東福岡教会協力牧師 松見 俊)

                    5月13日

最も大いなるもの

コリントの信徒への手紙一 12章31b~13章13節

女優の桃井かおりさんは、ドラマでこの箇所を朗読するシーンがあったとき、涙で言葉が詰まり、「こんなすばらしい言葉をどうして平静に読めるというの!」と言ったと伝えられています。私たちはどのような思いで読んでいるでしょうか。

12章の終わりの部分に「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と書かれ、この13章へと続いています。つまり、13章の「愛の賛歌」は12章と密接につながっているのです。そしてそこには、互いに相手を認め、大事にし、弱さに寄り添うキリストの体なる教会へと育ってほしいというパウロの切なる祈りがあり、そのために「愛」を語るのです。

4節から7節に紹介されている「愛」を読むとき、心がざわめきます。自分自身の事柄として読むとき、ここに書かれていることを裏返しで読んだ方がぴったりくる自分の姿が示されます。とても実行できないことばかりです。パウロは私たちが実行できないことをただの理想として美しく述べているだけなのでしょうか。そうではありません。

ここで使われている「愛」という単語は、全て「アガペー(avga,ph)」というギリシャ語が使われています。これは自己犠牲的な神の愛を表わす言葉です。アガペーとは、私たちのために命を捨ててくださったキリストの愛、神の愛なのです。[この愛を求めなさい、この愛の中に生きなさい、この愛によって一つになりなさい]と、パウロはコリントの教会に、そして現代の私たちに語っているのです。

アガペーの愛を抜きにした信仰は自己実現を求める信仰です。アガペーの愛をないがしろにするから、教会の中に不一致やさばきが生まれるのです。「最も大いなるものは愛である」とパウロが語るアガペーの愛に生きる群れ(生きる「私」)に導かれましょう。  
                                       
  (牧師 末松隆夫)

                    5月6日

わたしの記念として

コリントの信徒への手紙一 11章17~26節

今日の箇所は、「主の晩餐式」の度ごとに読まれる御言葉です。新共同訳聖書の小見出しに「主の晩餐の制定」と書かれているように、パウロがこの手紙を書いた時、既に初代教会において「主の晩餐」が守られており、その時にこの言葉が告げられていたと考えられています。

「主の晩餐」の源流の一つとして、①主イエスによる罪人たちとの食事や五千人の給食、②復活の主と弟子たちの食事をあげる人もいますが、主イエスによる最後の晩餐こそが「主の晩餐」の中心的なルーツであることは間違いないことです。

「晩餐」(愛餐)と「主の晩餐」は違います。主の晩餐は単なる食事ではなく、「契約の食事」であり、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と命じられた主イエスの言葉に応答して行う教会の礼典です。単に「思い出」としての記念memory)ではなく、十字架での死の記念、つまり「形見」(keepsake)です。それは、故人の所有物を自分のものにすることを意味しています。私たちは主イエスの死によって「永遠の命」「救い」を自分のものにしていることをどれだけきちんと認識しているでしょうか。

「わたしの記念として」との言葉は、私たちの心を過去へと向けます。しかし「主の晩餐」は私たちの心を二千年前の十字架の主イエスに向けさせるだけではありません。「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」とあるように、私たちの心を「主が来られるとき」へと向けるものでもあります。

パウロがこの「主の晩餐の制定」の言葉を書き送ったのは、教会の中に一致がなかったからです。「主の晩餐」の目的は一致することにあります。救い主イエス・キリストとの一致、そしてキリスト者同士の一致です。私たちは大丈夫でしょうか?                                                          (牧師 末松隆夫)

                    4月29日

大切な戒め

ヤコブの手紙 2章1~13節

「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。」(1節)とありますが、教会でお金持ちを重んじ、貧乏な人を軽んじる(2,3節)ように差別することは、主の名をいただいたキリスト者にあってはならないことです。貧富の差別のほかに男女差別、人種差別、障がい者の差別など今も多く見られます。主イエスには人を分け隔てするところがないばかりか、差別されている人に救いの手を差し出しておられます。

「人を分け隔てすることは罪を犯すことであり、律法に違反していること」(9節)であると言われています。その律法とは「隣人を自分のように愛しなさい、という最も尊い律法」(8節)です。それは主が示された「最も重要な掟」として福音書に記されています。 「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22章37~39節)。 隣人について主イエスは「善いサマリア人のたとえ」(ルカ10章25~27節)を話され、自分の民族だけでなく異邦人であっても今、助けを必要とする人なら誰でも分け隔てなく愛すべきである事を教えておられます。

 「最も重要な掟」について主イエスは私たちに「あなたはどう読んでいるか」と言われ、「この律法をどのように生きているか。」と問われています。「愛の律法」と呼ばれる「「最も尊い律法」を知っていても実行することが難しい私たちです。 私たちが神を愛する前に、まず、神が私たちを愛して下さっています。主イエスはご自分の命の犠牲を払うほどに私たちを愛して下さっています。私たちの心が主イエスの愛に満たされ、その愛をもって隣人を愛することができるよう祈りましょう。
                           (教会主事 八幡正弘)