(2024年4月28日の週報より)   


他者に寄り添うことを通して

コリントの信徒への手紙一 9章19~23節

8章において、偶像に供えられた肉を食べるか食べないかという問題を論じたとき、パウロはそれを信仰者の「自由」の問題として語りました。そしてその「自由」行使の尺度として「兄弟をつまずかせることのないように」という思い(他者に寄り添う思い)を私たちに伝えています。

 この9章においても「自由」を土台として筆を進めます。「わたしは、だれに対しても自由な者です」と語るパウロは、同時に「すべての人の奴隷になりました」と語り、「○○に対しては、○○のようになりました」と続けます。

 パウロの表現はすっきりと理解することができないものを感じます。個人的には、ユダヤ人であるパウロが「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました」と述べていることに引っかかりを感じていましたが、R.B.ヘイズの[ユダヤ人を仲間と捉える和解の行動]との言葉に出会いました。和解の務めをなすパウロです。和解へと導く人は、民族・文化・価値観の相違などを超えて両者を一つにする働きを担いますが、時には宗教さえも超えることもあります。

 マザーテレサが「死を待つ人々の家」実現のために活動していたとき、ヒンズー教の僧侶を介護し、亡くなった時には葬儀をヒンズー教の流儀で行いました。パウロ風に言えば、彼女は[ヒンズー教の人に対しては、ヒンズー教徒のようになった]といったところでしょうか。徹底的に寄り添う姿がそこにあります。

 「その人を得るためです」とパウロが語る「得る」とは、直接的には[イエス・キリストにつなげる]ことですが、それは教会のメンバーにするという狭い領域というよりも、その人が神の御前で生きる者となることであり、人としての尊厳を回復することだと言えるでしょう。

 「得る」ために目の前にいる一人と向き合い、また、寄り添う時に、その人だけでなく、この私たちも「共に福音にあずかる」という恵みの中に置かれることを覚えたいものです。(牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生388番「主よ わが心に」    


(2024年4月21日の週報より)  


異教の世界にキリスト者として生きるとき

コリントの信徒への手紙一 8章1~13節

コリントの町は、ローマ政府による移民政策と商業の発展によって様々な国籍を持つ人たちが住むようになり、それに伴って様々な宗教が入り込んできました。多神教が多くを占める中にあって、唯一神を唱えるキリスト教はある意味独特な存在であり、教会は異教的な文化や習慣の中で、独自の信仰を守るために闘っていたと言えるでしょう。その一つとして今日の箇所でパウロが取り上げているのが、「食物」の問題です。偶像に供えられた肉を食べることの是非が具体的内容です。

  「弱い人々」「弱い良心」とは、偶像に供えられたものであることを気にする人です。その一方には[偶像など所詮まやかしだから気にする必要はない]と、平気で食していた人がいます。パウロは彼らの「知識」(主張)を認めており、彼自身もその立場におり、「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません」と述べています。

  そう言いつつも、しかしパウロは更に言います。「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と。つまり、食べることの問題以前に、もっと大切なことに留意すべきだと言うのです。ここに他者を(特に弱い人を)大切にするパウロの姿勢を見ることができます。13節では「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら…肉を口にしません」とさえ語ります。正しい知識からの行動(自由)が他者をつまずかせるのなら、自分の自由を捨てると言うのです。

  「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(11節)、なんとすばらしい言葉でしょうか。この言葉の中にパウロの思いが集約されていると言えるでしょう。十字架は私たちの救いの土台です。しかしそれは[あなた]のためだけではなく、[あなた]の隣りにいる、[あなた]が理解できないでいる「その人」のための十字架でもあるのです。  (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生533番「一羽のすずめの」   


(2024年4月14日の週報より)  


畑の実りは誰のため?

コリントの信徒への手紙一3章5~9節

「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3節)と、パウロはコリント教会に問いかけます。「ねたみや争いの言葉」は、当時のコリントの町に響いていた言葉でした。教会の姿や教会から聞こえてくる言葉が、町の言葉・時代の言葉と同じになってしまっていいのかと、パウロは問いかけるのです。

  「教会」とは何でしょうか。パウロは「神の畑、神の建物」と語ります。しかもその際、コリント教会の人々に向けて、「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(9節)と語るのです。この「あなたがた」は、互いにねたみ合って争っているひとりひとりを指してします。〈より優れた指導者は誰か〉〈どの先生のグループに所属すれば、より高みに立てるか〉といったことに執着し、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」と言い合っている人々に、「あなたがたは神の畑、神の建物だ」と言うのです。この言葉は、人々が競うまでもなく、すでに神のものとされていることを示しています。そして同時に、指導者であった自分たちを越えて、神に目を注いでほしいと願うパウロの思いが、そこに込められています。

  「畑」とは、何らかの作物を実らせる場所です。畑が実らせる作物は、他の命を支え、潤します。教会という神の畑が実らせる作物とは、何でしょうか。それは、〈神の思いが響いて聞こえてくる言葉〉ではないでしょうか。コリント教会がそうであったように、教会は間違いを犯すことのある「人間の集まり」であり、教会の言葉は、時に「ねたみや争いの言葉」になってしまうことがあります。教会の言葉が、一言一句そのまま「神の言葉」になることはありません。しかし、その私たちの不完全さを通して、その不完全さを越えて、神の思いが響いて聞こえてくる言葉を実らせる教会であれたら、そしてその言葉が、時代の中・町の中に響き、誰かの命を潤すなら、それはなんと幸いなことでしょうか。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生342番「教会 世にあり」  


 (2024年4月7日の週報より) 


キリストを信じる。だから、あなたと共に生きる。

コリントの信徒への手紙一 1章10~17節

コリントという町は、紀元前146年にローマの侵略により荒廃します。しかしその後、ローマの支配からの解放により町が再建されて、経済的・政治的に驚くべき成長を果たします。いわゆる「高度経済成長」を体験した町の人々は、右肩上がりに成長していくことを是とする考えを持っていました。その町に生きる「コリントの信徒たち」もまた、そのような空気に影響を受けていたのです。

  教会は様々な人たちによってつくられる共同体です。コリントの教会にも様々な考えを持つ人たちや、社会的な立場の異なる人たちが集まっていました。しかしその中で互いの違いを受け入れ合えず、教会の中に派閥が作られることになります。この時の人々の頭にあったのは「上昇志向」であり、より優れた指導者の派閥にいることで自らを高めようとしていました。互いの持つ「違い」は、「より優れているのは誰か」という競争の道具とされ、自らを高めるために他者を蹴落とすような嫌な空気が作られていたことが伺えます。

  パウロは「十字架につけられたイエス」を指し示すことで、教会を一つにしようとします。十字架につけられたイエスは、一見すると「愚かなもの」であり、人々が求める「強さ」とは対極にある「弱さ」を指し示すものです。十字架は、「より優れているのは誰か」という競争に切り捨てられていった敗北者たちのいる場所です。十字架のイエスは、その場所で「赦しの言葉」を語ります。

  十字架の言葉は、私たちの命の本来の価値が「弱さを克服してはじめて認められるもの」ではなく、「弱さがあるにもかかわらず大切なもの」であると語ります。その言葉を信じる時にはじめて、命そのものの素晴らしさの中で、競争のためにではなく、互いに支え合うために働く喜びが見えるようになるのでしょう。十字架の言葉は、その喜びへと私たちを招くのです。(牧師 原田 賢)。

 
 応答讃美歌:新生339番「教会の基」 


 (2024年3月31日の週報より)
 

「終わりのない希望の話」

ヨハネによる福音書20章19~20節

イースターを祝うことは、イエスの復活を覚えることを意味します。聖書は、イエスの復活はみんなの希望であることを示します。イエスの復活は、イエス一人が「死」に打ち勝ったという英雄譚ではなく、私たちみんなに「死の向こう側」を指し示す出来事だからです。

イエスの「十字架の死」は最悪の形の死でした。それはローマの人々にとっては「見せしめの死」を意味し、ユダヤ人たちにとっては「神に呪われた者の死」を意味していたのです。まさしく絶望の象徴と言える十字架の死を、神は「新しい命への扉」に作り変えます。そしてイエスの復活は、十字架の死の向こう側にある命の希望を語り始めるのです。

ヨハネ福音書20章は、弟子たちとイエスの再会の場面を語ります。「週の初めの日の夕方」(19)、弟子たちは扉に鍵をかけて閉じこもっていました。イエスを裏切って逃げた罪悪感や、閉じこもることしかできない自らの惨めさ、自分たちに向けられる世間の目に対する恐怖などで、弟子たちは「お先真っ暗」な状態でした。その弟子たちの傍らにイエスは立ち、「あなたがたに平和があるように」(19)と語りかけます。その言葉には「大丈夫だ」と弟子たちを励ます暖かい気持ちが込められています。この言葉を受け取った弟子たちは、真っ暗な場所からもう一度立ちあがり、絶望の向こう側へと歩みを進めます。こうして、キリスト教は始まるのです。

イエスの復活の物語は、私たちに「あなたの命を絶望のままでは終わらせない」という神の思いを語ります。その思いを自らの希望として受けて生きること、それが「イースターを祝う」ということなのです。 (牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生244番「救い主にぞ われは仕えん」 


(2024年3月24日の週報より) 

いのちの終わりは、いのちの始め

ヨハネによる福音書 19章17~30節

聖書には「栄光」という言葉が300回以上使われています。讃美歌の中でも頻繁に登場します。「栄光」という言葉から連想されるのは「輝き」「誉れ」「栄誉」「賞賛」といった人々が憧れるような、あるいは人々に幸いを与えてくれるようなものです。弟子たちもそのように理解し、「栄光をお受けになるとき、一人を右に、もう一人を左に座らせてください」と頼み込んでいます(マルコ10章)。

  けれども、ヨハネ福音書が語りかけている「栄光」はちょっと違います。「十字架」が「栄光」だというのです。十字架刑はローマの処刑方法でありながらローマ市民には適用されない、それほど残虐な極刑であったわけです。「栄光」の対局にあると考えられていました。だからこそ、弟子たちもイエスの十字架を理解することができずにいたのです。その「十字架」が「栄光」だということを、ヨハネ福音書は強調しています。

  それは、ヨハネ福音書だけが記していることの中にも見ることができます。
17節では「自ら十字架を背負い」ゴルゴタへと向かわれるイエスの姿が描かれています。そこには「十字架」という神の計画を引き受けられたイエスの意志が表されていると言えるでしょう。また、十字架のもとにたたずむ人々が新しい関係・新しい共同体を形成し、神の家族として結び合わされることもイエスの意志です。

  十字架上での「成し遂げられた」という言葉は、口語訳では「すべてが終わった」と訳出されていました。けれどもそれは失意・落胆の声ではありません。神の御心が「完了した」という勝利の叫びです。イエスのいのちの終わりは神の計画の成就であり、すべての終わりではありません。ここから新たに始まるものがあるのです。[命から死へ]というのがこの世の法則ですが、十字架によって[死から命へ]という私たちの常識を覆す法則が始まるのです。だからこそ、十字架は「栄光」の時であり、「勝利」の時なのです。    (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌229番「十字架のもとは」 


(2024年3月17日の週報より)  

真理は“私の声”を自由にする

ヨハネによる福音書18章33~40節

 いよいよ十字架の場面へと入っていきます。「人々」(18:28)は、イエスをローマ総督ピラトに引き渡し、十字架に架けるようにと迫ります。この時の人々の主張内容は、多くの点で矛盾しています。ピラトは繰り返し「イエスに罪は見いだせない」と主張します。しかし人々は、〈自らの手を汚さずに、ローマ人の手でイエスを十字架に架ける〉という目的のために、矛盾もお構いなしに声を大きくし、自らの主張を押し通します。その大きな声が、権力者ピラトの声さえもかき消して、イエスを十字架へと追いやるのです。

  「大きな声」は、時に暴力的な「正しさ」を纏い、他の声をかき消します。ただでさえ発言力の強い権力者に対抗するために、結託して声を大きくすることが大切な場面は多くあります。そうした活動を否定したいのではありません。しかし、十字架の場面が描きだす「大きな声」の暴力性は、〈その大声は何のための声か〉と私たちに問いかけてきているように思うのです。

  イエスは、御自分を「真理」だと語ります(14:6)。その言葉は、「他のものは真理ではない」という主張を含んでいるように思います。真理であるイエスの前に立つとき、それがいかに「大きな声」であったとしても、多くの人の賛同を得た言葉であったとしても、世を支配する「権力者の声」であったとしても、それは「真理の声=絶対的に正しい声」ではないのです。

  ヨハネは「イエスが真理だ」と語ります。その真理の声は、私たちの声をかき消しません。真理の声は、私たちとの対話を求めて、問いかけます。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか」(18:34)。真理の問いかけの声は、絶対的な正しさなど持ち合わせていない、等身大の私たちの声を引き出します。真理との対話の中でこそ、私たちは「自分の声」で語る自由を得るのです。その声は、時に間違いを犯し、他者から問われる必要があるけれど、だからこそ考え直し、変化していくことができる自由を持ちます。そのような自由へと招くために、真理は私たちに問いかけてくるのです。(牧師 原田 賢)

 
 応答讃美歌:新生讃美歌437番「歌いつつ歩まん」  


(2024年3月10日の週報より)   

悩みあるあなたに、平和を!

ヨハネによる福音書16章16~33節

主イエスの弟子たちへの訣別説教の最後の部分です。この日の夜に捕縛され大祭司のもとに連行されることになります。主の最後の説教に耳を傾けましょう。
「しばらくすると…わたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見るようになる」(16節)という謎めいた言葉に、弟子たちの頭には?マークが点灯します。十字架と復活が語られていることを私たちは理解します。この後に何が起こるか知っているからです。しかし弟子たちは、繰り返し聞きながらも、まだ実体験していない出来事だけに理解できずにいます。それが私たちの現実の姿だと言えるでしょう。

  そのような無理解な弟子たちをイエスは叱りつけることなく、彼らが直面する悲嘆が喜びに変わることを語られます。弟子たちの悲しみに寄り添い、弟子たちにつながってくださるイエスの姿をみることができます。

  25節からは「悲しみが喜びに変わる」ことを、「苦難においても平和を得る」という形で弟子たちに語られます。16節以降で語られていることは、このあと弟子たちが「苦難」に直面しても「わたしによって平和を得るため」だと言われるのです。徹頭徹尾、弟子たちを思いやられるイエスの配慮(愛)を感じます。

  「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」(33節)は、口語訳聖書では「悩みがある」と訳出されていました。苦難・艱難・迫害といった大それたものだけでなく、小さな「悩み」も私たちの心を重く・暗く・悲しくします。それは「世」に生きるかぎりついて回るものです。それを全て承知のうえで、イエスは「勇気を出しなさい」と言われます。「勇気を出す」「勇敢である」(新改訳)というと、自分の力で踏ん張ってというイメージがついてきます。しかし、マルコ6章50節などでは、同じ単語が「安心しなさい」と訳されています。こちらの方がイエスの思いが伝わってくるように思うのです。なぜなら、その根拠とされるのが「わたし(イエス)は既に世に勝っている」からです。    (牧師 末松隆夫)

 
 応答讃美歌:新生讃美歌515番「静けき河の岸辺を」 


(2024年3月3日の週報より)    
 

つながり合い、つながり続ける大切さ

ヨハネによる福音書15章1~17節

ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの自己紹介(自己開示)が7回登場しますが、今日の「わたしはぶどうの木…」は、最後の晩餐を終え、いよいよ十字架へと向かおうとする中で語られた最後の自己紹介です。ここに記されている内容は、まさに遺言と言ってよいでしょう。

  ぶどうはイスラエルの人々にとってなじみ深いものであり、旧約聖書にもイスラエルのことをぶどうにたとえて語られている箇所がいくつもあります。しかし、その内容は、イスラエルが神の期待からそれて「野ぶどう」に変わり果ててしまったといった、神のなげきが語られている箇所が多くを占めています。

  そのような背景の中、イエスは「わたしはまことのぶどうの木…」と語られます。「まことに」とは、偽物に対する本物、堕落し変質してしまったものに対する純粋なものという意味であり、文法的にも「わたし」が強調されていて「このわたしこそが」という意味で語られています。実に物騒な発言ですが、[わたしが来たのは、人々を命に・神の祝福につなげるためである]という使命をはっきりと伝えてから、十字架へと進みたいという思いの表れだと言えます。

  今日のキーワードは「つながる」「とどまる」(メノー)です。13回も使われています。イエスは私たちに「つながる」ことの大切さを、さらには「つながり合う」ことの大切さを語ります。そしてそれは瞬間的な関係ではなく、「つながり続ける」という継続的なものです。それが枝である私たちが「実」を結ぶ秘訣です。

  「実」とは何でしょうか? 9節以降で展開されている内容から「愛」であると言えます。徹底して私たちを大切にされるイエスの愛、この「愛」をイエスにつながり続けることによって実らせることができるとすれば、これ以上に大きな恵みはありません。そしてその愛が、単にイエスと「私」という縦の関係にとどまることなく、「互いに愛し合う」という横の関係へと広がっていく、それこそが「イエスの愛」が結実した姿だと言えるでしょう。     (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌431番「いつくしみ深き」  


(2024年2月25日の週報より)   

十字架という絶望に光が灯る日

ヨハネによる福音書12章27~36節

キリスト教ではイースター前の40日間(日曜日を除く)を「レント」と呼び、イエスの十字架の苦しみを心に留め、自らの罪と向き合う時を持ちます。この期間に特別な催しをするか否かはともかく、いずれにしてもイエスの十字架を覚える日々を過ごすことは、私たちにとって重要なことであると言えるでしょう。

  今でこそ宗教的な意味合いを持つ十字架は、新約聖書の時代には残酷な死刑道具であり、絶望の象徴でした。それはローマ帝国に反逆した者たちになされる「見せしめ」の刑であり、長い時間苦しみながら死んで行く死刑囚の姿は、人々のローマ帝国への反抗の意志を打ち砕いてきました。十字架には、人間の暴力性やおぞましさ、互いを尊重し合う関係性を破壊する「罪」がにじみ出ています。しかし、その十字架という場所に、イエスはまっすぐ向かって行きます。

  イエスは語ります。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27節)。イエスにおいても、「十字架」はおぞましいものであり、心が騒ぐものです。そうでありながら、しかしイエスは、そこに神の光が輝くことを指し示します。十字架はイエスが死ぬ場所であり、人間のおぞましさの勝利・神の敗北の場所であるかのように見えます。しかし、イエスがそこで死なれる時、十字架は、おぞましいものであるにもかかわらず、神の赦しが宣言され、「立ち帰って、生きるように」との声が響く場所に生まれ変わります。

  十字架という絶望の場所に神の光を見出したからこそ、キリスト教は十字架を自らのシンボルマークとして背負い、歩んできました。そして、人間の罪が生み出した恐ろしい現実を希望の場所に変えて下さる神への信仰を抱くからこそ、私たちは自らの弱さ・おぞましさ・罪とも、恐れずに向き合うことができるようにさせられるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生讃美歌230番「丘の上に立てる十字架」