10月6日

日々主を覚えつつ

詩編90編1~17節

70年や80年という歳月は、決して短いものではありません。けれども自分の人生を振り返った時、あっという間に〈今日〉という日を迎えている感じがします。ましては、無限に存在される神の目から見れば、それはほんのわずかな時間でしかないと言えるでしょう。この詩編90編にはそのことがうたわれています。しかそしれは、単に人の一生の儚さを嘆いているのではありません。

天地万物の創造以前から存在され、世の終わりが来てもなお存在される神への祈りであるこの詩編は、同時に、そこにこそ儚い私たちの平安の源・救いの確かさがあることを教えてくれています。

神がその御業を私たちになされる時、私たちの考え・計画を超えたものとしてやって来て自分が立てた計画の変更を余儀なくされることが少なからずあります。〈予定通り〉に行くことが〈良い人生〉のように思っている者にとっては、それは挫折でしかありません。
 しかし、私たちの計画が行き詰まり、変更せざるを得ないような苦しみ・悲しみ・不安・憤りの中でこそ、
神が既に新しい道を備えてくださっていることを信じる者でありたいと願います。聖書の中には、自分の予定通りにいかなかった人たちがたくさんでてきます。そういった人ばかりだと言っても過言ではないでしょう。けれども、そこで神の恵みを経験していることを私たちは学ぶ必要があります。

〈儚さ〉ゆえに焦りを覚えやすい私たちですが、私たちの思いを超えて働かれる神を日々覚えつつ、〈今日〉という日を精一杯神に感謝しながら生きることに全力を傾けたいものです。          
                              (牧師 末松隆夫)

                     9月29日

責任を果たす

ルツ記 4章1~17節

ルツは、ボアズの麦畑で落ち穂を拾うことで恵みを得ました。けれども落ち穂拾いは刈り入れの季節だけのものです。ナオミはルツに更に一歩踏み出すことを進言しています。神の恵みを求めて信仰生活を送っている私たちですが、榎本保郎氏は「私たちの信仰は落ち穂拾いの信仰生活ではないだろうか」と喚起しています。もし私たちが「クリスチャンになった」ということで満足してしまっていたら、落ち穂拾いの状態に留まっていると言えます。更なる神の導きに生きる者となりましょう。

ボアズはルツに対して責任を果たそうとしますが、それは「買い戻す権利」であり、「最も近い親戚」に託されたものです。ボアズは、彼以上に近い親戚が「責任」を辞退した時、自らが責任を果たすことを決意し、実行しました。

「責任を果たす」という語の直訳は「贖う」です。聖書に250回以上使われていますが、その多くが、神が私たちに対してなしてくださる行為として表わされています。その語がここで使われているのです。

このルツ記を新約の光に照らして読むとき、ボアズとルツの関係は主イエスと私たちの関係と解すことができます。ボアズが代価を払って畑地とルツを贖ったように、主イエスは十字架という代価を払って私たちを贖ってくださったのです。

このルツ記が、ダビデが王として就任するにあたって記された文書と解する人もいますが、もしそうだとすれば、自分の家系を美化しがちな状況下で、ダビデ王は自分の先祖に異邦人がいたことを隠さなかったことを、そして神の恵みは異邦人にも注がれることをダビデ自身が認めたことを、このルツ記は証言していることになります。
                            (牧師 末松隆夫)

                     9月22日

天にある永遠の住みか

コリントの信徒への手紙二 5章1~10節

本日は、主のみもとに召された方々を覚えての《召天者記念礼拝》です。仏教的には供養として捉えられていますが、キリスト教の場合はそうではありません。故人は主の慰めのもとに既に置かれているからです。

パウロは私たちの体のことを「幕屋」と呼んでいます。「幕屋」は移動することができるものです。私たちの置かれている状況は変化していきます。また、「幕屋」が恒久的なものでないように、私たちの体も弱く、壊れやすく、限りがあります。その「幕屋が滅びる」とは、肉体の死を指しています。

しかし、それで終わりではありません。「神によって建物が備えられている」(1節)のですそれこそが「天にある永遠の住みか」です。その「建物」は「幕屋」とは違って動くことのないしっかりしたものであり、永遠に変わることのないものです。その「天にある永遠の住みか」を、自分の努力や熱心さによって建てるのでなく神が備えてくださっていることを知っている、それがイエス・キリストを信じる者に与えられている恵みです。

しかし、その一方で「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」(6節)と言っています。これはどういう意味でしょうか?7節との関連で読むとき、「離れている」とはしっかりと確認することができないという意味に解すことができます。それ故に「信じる」という信仰が必要ですし、それ故に私たちの信仰にはあやふやさが伴うのです。しかし、私たちが「体を離れて、主のもとに住む」ときに、イエス・キリストをはっきりと見ることができるようになるのです。主のもとに住んでいる信仰の先達はその恵みの内に今置かれているのです。
                              
    (牧師 末松隆夫)

                     9月15日

神の導き

ルツ 2章1~23節

落ち穂拾いに出かけたルツは、1エファ(約23リットル)もの麦を得てナオミのもとに帰ったことが記されています(17節)。親戚であるボアズの親切があってこそ得ることができたものですが、聖書には、「そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった」(3節)と注釈がうたれています。この「たまたま」は何を意味しているのでしょうか。

「たまたま」という言葉は、その畑地がルツにとって親戚の畑であることを「全く知らなかったのに」ということを物語っているものです。しかし読み方によれば「偶然」を意味しているとも理解することができる言葉です。聖書は単にルツの運が良かったことを語っているのでしょうか。物事を「偶然」で片づけることは簡単なことです。しかし、それが聖書の正しい読み方であるようには思われません。

番号が付けられた10枚のコインを、目を閉じて順番通りに取り出すことができる確率は100億分の1です。一生かかってもできない確率です。見て行えば10秒もかからずにできるものを、偶然に頼ろうとすれば、それは不可能という結論に達します。

私たちは自分の人生の「明日」も見えない者ですが、私たちを造られた神はすべてを見通すことのできるお方です。その神がルツをボアズの畑に導き、ボアズとの出会いへと導かれたと理解する方が、偶然で片付けることより自然であり正しいのではないでしょうか。ナオミたちがベツレヘムへ帰ってきたのが、大麦の収穫時期であったことにも、神の導きを見ることができます。偶然で物事を片付けるところには、感謝の心は育ちません。私たちが出会う一つひとつの事柄の背後に神の導きや備えがあることを信じるところに、神への感謝や忍耐力が生れるのです。
                             (牧師 末松隆夫)

                     9月8日

教会の働き

マタイによる福音書 28章16~20節

この箇所は「大宣教命令」と呼ばれている主イエスによる弟子たちへの最後の命令であり、宣教への派遣です。復活された主は山の上で弟子たちに会われました。その時に弟子たちは「ひれ伏した(proskune,w=拝む)」と記されています。ごく当たり前の光景として私たちはその姿を想像しますが、実は、弟子たちが主イエスに「ひれ伏した(拝んだ)」というのはここだけです。聖書が示す神は天地を造られた神ただ一人であり、それ以外のものを拝むことは厳しく禁じられていました。その伝統の中で生きてきた弟子たちがここで主イエスを拝んだことは、復活された主イエスはまことの神であるという確信(信仰)が与えられたことを意味しています。

17節の「疑う者もいた」というのは、①「復活を…」②「イエスが神であることを…」という両方が描かれていると言えるでしょう。そのような弟子も含めて、主は彼らに「大宣教命令」をくだされたのです。そこには①「行きなさい」②「弟子にしなさい」③「バプテスマを授けなさい」④「教えなさい」という4つの命令がありますが、中心は「弟子にしなさい」です。他の3つの命令すべてがそこにかかっているように訳すことができるからです。

教会が生れた直後の様子が描かれている使徒言行録には、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(2:42)と紹介されています。ここからも、礼拝・交わり・祈りとともに教会の働きに「教え」が欠かせないものであることを学ぶことが出来ます。

主が望んでおられることは、すべての人が弟子になること、そして弟子であり続けることです。そのために「行くこと」(伝道)とともに「教えること」(教育)を私たちに託しておられるのです。
                                (牧師 末松隆夫)

                     9月1日

それぞれの決断

ルツ記1章1~22節

1章1節には「士師が世を治めていたころ」という時代背景が記されています。イスラエルが王国になる前のことです。ナオミとルツという義親子の話ですが、ルツという女性はアラム人です。イスラエルの人間ではなくしかも女性であるルツが書巻名となっているのは非常に珍しいことです。それだけ彼女の存在(言動)が意味のあることだという証明でしょう。

飢饉のためイスラエル(ベツレヘム)からモアブへ移り住んだナオミ家族ですが、夫と二人の息子が異郷で死んでしまいます。残されたのはナオミと二人の嫁(オルパとルツ)の三人でした。そこでナオミは決断をします。一つは「モアブの野を去って国に帰る」ということ今一つは二人の嫁を「自分の里に帰す」ということでした。「自分の里に帰る」とは、モアブの民に戻るという意味であり、それは、モアブの民が礼拝している神のもとに帰るということを意味しています。ですから、オルパとルツにとって「自分に里に帰る」というのは、信仰の決断を伴う問いでもあったのです。

オルパは義母の言葉どおりに行動することを決断しますが、ルツはナオミのもとを離れようとはしません。16~17節はルツの確固とした決断の言葉です。「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と、ルツは主を信じる民の中に生きることを選び取りました。

家族を飢饉から守るためのエリメレクの決断。二人の行く末を案じてのナオミ決断。ナオミと共に生きる道を選んだルツの決断。それぞれがその時々に、自分以外の誰かのために大切な決断をしています。彼らの経験は喜ばしい出来事ではありませんが、そこでのそれぞれの歩みを主が導いてくださり、「未来」を開いてくださるのです。そしてその「未来」に救い主イエス・キリストの誕生がつながっています。
                              (牧師 末松隆夫)

                     8月25日

信仰の視点に立って

創世記45章1~15節

ヨセフは、自分を奴隷としてエジプトに売った兄たちと22年ぶりに再会し、自分がヨセフであることを告げますが、その時に「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」(5節)とゆるしを語っています。驚きと恐れで声も出なかった兄たちは、その言葉でどれだけ救われたことでしょう。ヨセフは、自分がエジプトの主宰になったから兄たちの罪を赦せたのでしょうか。そうではありません。「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(5節)と、自分の人生に介入される神の働きを認識できたからです。最も心を開いている相手から裏切られたショックは私たちが想像もできないくらいに大きかったことでしょう。しかし、兄たちの悔い改めた姿を見、神の摂理を知ったとき、ヨセフはゆるす者へと導かれたのです。

アウグスティヌスは『秩序』の中で、「世の中の矛盾・悲しみ・苦しみだけに目を留めているということは、刺繍の裏側を見ているようなものだ。そこには、様々な糸が乱雑にすじかっているだけで、それが何を表わしているのかは、全く分からない。しかし、その表側を見るとき、そこに初めて美しい景色なり、麗しい草花なり、気高い肖像なりが描かれていることが分かる」と述べています。

ヨセフがエジプトに導かれた目的は、家族の命を救うためでした。私たちが救われた目的・この教会に導かれた目的・生かされている目的は何でしょうか。信仰の視点で人生を表側(神の側)から眺めたとき、その答えが見えてくるのではないでしょうか。                                               (牧師 末松隆夫)