3月31日

人生の同伴者

ルカによる福音書24章13~35節

イエスさまが復活された日、エマオへと向かう二人の弟子たちの心には喜びがありませんでした。自分たちの願いがかなわず、失望し、挫折感を味わい、悲しみに心を閉ざすように旅をする弟子たち…。夕暮れ時に西の方へと向かう彼らは、沈み行く夕日に向かって歩いていたことになります。没落していく悲しみを象徴しているかのようです。

そのような彼らに、一人の人物が近づき、共に歩き、会話が交わされます。その会話(交わり)が、やがて彼らを悲しみから立ち直らせ、挫折から立ち直らせ、人生を立ち直らせることになります。

何気なく書き記されている「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(15節)という言葉に大きな慰めを感じます。悲しみに暮れ、希望を失った彼らに対して、イエスさまの方が近づいてくださり、一緒に歩き始めてくださったとルカが記すメッセージを、しっかりと読み取りましょう。

私たちが悲しみにうちひしがれているとき、イエスさまの方が私たちに近づいてくださり、一緒に歩き、そして私たちの悲しみや痛みを担ってくださるのです。二人の弟子がそうであったように、私たちもしばしば復活の主が共に歩いてくださっていることに気づかないことがあります。しかし、確かに復活の主は私たちと共に歩んでくださっているのです。

人が生きるためには「同伴者」が必要だと言われます。私たちはその「同伴者」を家族・友人・職場で見つけます。しかし、最も頼りになる「人生の同伴者」は、復活されたイエスさまであることを聖書は力強く語っています。その「同伴者」によって心が癒され、心が燃やされていくことを、それぞれが自分の人生の中で体験されることを節に願っています。
                                (牧師 末松隆夫)

                    3月24日

いつですか?

ルカによる福音書 17章20~21節

「神の国はいつ来るのか」という問いは、「神の国」が来ることを前提とした問いです。主イエスへのこの問いは、主イエスに批判的なファリサイ派の人々が発したものです。彼らも「神の国」の到来を待ち望んでいました。その背後には、異邦人(ローマ人)に支配されているという現実があります。現在の苦しみの中で「神の国」への期待が高まっていました。

それに対する主イエスの答えは、まず国家独立などの見える形での到来ではないことを明確に語り、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(21節)と言われました。「ある」は現在形であり、[今、現にここにある]ということです。神の国は遠い将来に到来するのではなく、既に来ている(「ある」)と宣言されています。いつですか?との問いに対する答えは「今」です。

ではそれはどこにあるのでしょうか。主イエスは言われています、「あなたがたの間にある」と。かつては「あなたがたのただ中にある」と訳されていました。心の中にあるようなイメージです。しかし、新共同訳は「間」と訳しています。主の弟子に対して語られた言葉ではなく、批判的なファリサイ派の人々に語られた言葉であることを考えると、「ただ中」よりも「間」の方が原意に近いような気がします。

「あなたがたの間」にある「神の国」とは何でしょうか? それは主イエス御自身です。主イエスの到来こそが神の国の到来なのです。
 それは主を信じる者はもとより、主に批判的な人々にとっても当てはまるものです。だからこそ、私たちは「神の国の福音」を広く宣べ伝えていくことが求められているのです。それと共に、神の国の完成(キリストの再臨)に向けて整えられていく群れでもあるのです。               
                             
   (牧師 末松隆夫)

                    3月17日

「ラザロ」との出会い

ルカによる福音書16章19~31節

本日の譬え話、最初に登場するのは「ある金持ち」です。この金持ちは「紫の衣」や「柔らかい布」を身に着け、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。これは、まるで毎日、晴れ着を身に纏ってお祭り騒ぎをしているような様子を表現しています。今が良ければ、自分が良ければそれでいい。そんな姿だと言えるでしょう。そんな金持ちの家の門の前で、「ラザロ」という貧しい人物が横たわっています。

「ラザロ」とは、ヘブライ語の「エレアザル」の短縮形で、「神は助けてくださる」という意味の言葉です。さらに、この言葉が人の名前として用いられる時には、「神の助けを必要としている者」という意味になります。ラザロは、ただ神の助けの中でのみ生き神と共に生きた故に、「いのち」を得たのです。実は、この「いのち」という言葉、旧約聖書を見ると、ほとんど複数形で書かれています。それは、私の命とあなたの命が向かい合った間の空間、「ここにいのちがある」と、そう示すためだと言います。私があっても、あなたという存在がいなければ、そこに聖書が意味する「いのち」はないのです。

聖書は、あの金持ちに「貧しい者に施しをする善人であれ」と呼びかけたのではなく「苦しんでいるラザロと向き合い、共に神の助けを求める者」であれと、そして神の助けの中で共に「いのち」を得よと、呼びかけたのではないでしょうか。「いのち」を分かち合うことは、簡単ではありません。むしろ、そこでこそ、私たちは悩みます。しかし、私たちが「いのち」を分かち合う時には、悲しみだけでなくそこにある喜びをも分かち合うことが出来るのです。何より、「いのち」を分かち合うそこでこそ、私たちの助け主である神は、私たちを待っているのです。 
                                      
   
(神学生 原田 賢)

                    3月10日

いちじくの実

ルカによる福音書 13章6~9節

聖書を読むと、神の民イスラエルを「ぶどう」や「いちじく」にたとえて語られている箇所がたくさん出て来ます。主イエスが語られた「いちじくの木」は私たち(教会・個々人)のことだと理解してこの「たとえ」を読むことが大事です。

この「いちじくの木」は、自然と生えてきたものではなく、「植えられていた」ものです。しかも「ぶどう園」という特別な場所に!

「実」を待ち続けたぶどう園の主人(神)は、実を結ばないいちじくの木を「切り倒せ」と園丁に命じます。これは神の裁きを象徴しているものです。実を結ばない私たちは、本来、神の裁きを受けてしかるべき状態なのです。その私たちが切り倒されずにいる背景には、園丁(主イエス)の執り成しがあります。

心理学では、相手の役割を演じることによって相手の立場や気持ちを味わい、相手を理解する「役割交換法」というのがありますが、園丁はどのような立場に立っているのでしょうか。

主人が待ち続けた「3年」、園丁が願った「今年」を、主イエスの3年の公生涯と十字架への1年と解釈することも出来ますが、「3年」を旧約時代、「今年」を新約時代と解釈することもできるように思われます。
 「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と語った園丁(主イエス)は、その後どのような態度をとったか、私たちはよく知っています。

主イエスは私たちのために十字架にかかってくださいましたが、その主を十字架にかけっぱなしにしておくことがないよう、日々悔い改めて、神が喜ぶ実を結ぶ者へと造りかえられて行きたいものです。
                                (牧師 末松隆夫)

                   3月3日

祈りを教えてください

ルカによる福音書 11章1~13節

弟子たちは主イエスに「わたしたちにも祈りを教えてください」と頼んでいますが、12弟子が選ばれたのは6章です。その後「平野の説教」を聞き、9章では福音宣教のために派遣されています。「今頃になって?」と言いたくなりますが、逆の視点に立てば、祈りすら知らなかった弟子たちが主イエスの働き手として遣わされていったということになります。これは私たちにとっては大きな慰めとなるのではないでしょうか。祈りを知らない者であったとしても、信仰生活や教会の働きを具体的に担って行く中で、様々な問題に直面し、私たちは祈る者へと導かれるのです。

祈りは、私たち自身が神に向かわされることです。そしてその背後には自分の力や努力ではどうすることもできないという現実があります。つまり祈りは欠如の自覚から生れるのです。

「主の祈り」のあとに語られた譬え話では、「何も出すものがないのです」と言っています。その欠如の自覚は、旅人(他者)のために何かしてあげたいという思いから生れているものです。ここに「わたしたちの」と繰り返し祈られている「主の祈り」の具体化を見ることができます。

パンを求める彼は、諦めることなく求め続けています。何故でしょうか。「必ず起きて来てくれる」「必要なものを与えてくれる」という期待があったからです。諦めずに祈り続けるために必要なのは「期待」です。

「期待」は乏しい自分に意識を向けるのでなく、豊かな相手に意識を向けることから生れます。私たちが祈る相手である「父(アッバ)」なる神は、期待以上のものをもって応えてくださるお方であることをしっかりと心に留めて、他者への思いから生れる「執り成しの祈り」を祈り続けて行きましょう。
                                        (牧師 末松隆夫)

                    2月24日

聖書の力

詩編 119編105

1898年の秋、当時39才だったニコルソンという人が、一夜の宿をとるためにアメリカのウィスコンシン州のホテルにやってきましたが、あいにくホテルが混んでいたために、30才のヒルという人と同室になりました。ニコルソン氏は、19才の時、死の床についていた母に、毎晩、寝る前に聖書を読み、祈ることを約束し、以来それが彼の習慣になっていたため、その晩も同じように聖書を読み、祈りました。このことがきっかけで二人は、お互いがクリスチャンであることに気づきました。そして、二人は神の前にひざまずいて祈りを共にし、翌年の5月、相互の親睦と個人伝道、そしてイエス・キリストに奉仕する会を共同で立ち上げることにしました。これが、ギデオン協会の始まりです。

以来、120年近くが経過し、現在、ギデオンの活動が及んでいる国は200ヶ国、世界の会員数は男女合わせて27万人近くになり、ギデオン聖書に用いられている言語数は101ヶ国語になっています。

私が属している福岡支部は、ギデオン会員数20名、夫人会員数13名で主に中高生、大学生、ホテル、旅館、病院等に新約聖書を無料で贈呈しています。福岡支部では、昨年1年間で9816冊の聖書を贈呈することができました。

ある本には「イエスさまの語られたお言葉には罪を赦し、病気を治す力があったのです。現代に生きる私たちにとって大切なことは、このイエスさまが生きておられて今も、その御言葉によって、私たちの罪を赦し、主の御力によって、人間を救って下さるということです」と書かれていました。

ギデオン協会より贈呈された聖書により救われた方の証しをいくつか紹介させていただきます。
                      
   (日本国際ギデオン協会 柏村豊憲)

                    2月17日

神の言葉によって生きる

ルカによる福音書10章25~37節

ある律法の専門家にイエスさまが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(26節)と言われたのに対して、彼は「心を尽くし…あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(27節)と答えます。更に彼は自分を正当化しようとして「わたしの隣人とはだれですか」(29節)と言います。そこでイエスさまは「善いサマリア人」の例えをお話されました。

エルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われて半殺しにあった人を、通りがかった祭司、レビ人、どちらもケガ人を助けずに通って行きます。ところが、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人はケガ人をけるという皮肉なお話です。この例えから、律法の専門家は人々に律法を教え、自らも人々の模範となるべき人であるのに、律法を行うことができてないことを示しています。「彼ら(律法の専門家)が言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(マタイ23:3)とイエスさまが言われているとおりです。

「永遠の命」(25節)とは、イエス・キリストを信じる信仰によって、天の父なる神との交わりを持つことです。イエス・キリストを信じる人は神の言葉である聖書を読むことと祈ることによって、神との交わりがより親しいものになります。律法の専門家のような自分の考えに固執しないで、み言葉から主イエスのご意志は何であるかを求めることが大切です。聖書を神のみ言葉として謙虚に受けとめ、日々の生活に生かせるようになりたいと思います。
                                (教会主事 八幡正弘)

                    2月10日

共に歩まれるイエスさま

マタイによる福音書 1章23節

私は恵星幼稚園の卒園生です。「制服がかわいいから」と、母は近所のお母様方と一緒に子どもを入園させると決めたそうです。大好きだった担任の先生はクリスチャンでした。そのころはそんなことは知りませんでしたけど…。卒園しても春日原教会の教会学校に通っていました。聖書のお話をたくさん聞きました。でも、一番興味があったのはクリスチャンとして歩んでいる大人の人たちにとって、イエスさまはどんな存在なのかということでした。遠い昔の聖書の中のイエスさまではなく、今、共に歩んでくださっているイエスさまのお話を求めていました。ですから“証し”を聞くのが大好きになりました。

母は幼稚園の「母の会」の働きを通して、私が小学校3年生の時に春日原教会で三善敏夫牧師からバプテスマを受けました。母からも“証し”をたくさん聞きました。私も母と同じようにイエスさまと共に歩むクリスチャンになりたいと願っていました。そして私もイエスさまを“証し”する人になりたいと思っていました。神さまはそんな私を愛し、証しと賛美をする者として召してくださいました。

イエスさまと初めて出会ったこの春日原教会で、何度も用いていただけることを心から嬉しく思っています。私の“証し”を通して、共に歩んでくださっているイエスさまを見つけてください。そして皆さんと共に歩んでくださっているイエスさまを深く感じてくださったら感謝です。
                                (牧師 末松隆夫)