2月23日

このことを信じるか

ヨハネによる福音書 11章17~27節

今日の舞台はベタニヤのマルタとマリア姉妹の家庭です。その家のラザロという兄弟が重篤な状態であることを知らされます。「あなたの愛しておられる者」(3節)、「わたしたちの友」(11節)はいずれもラザロのことですが、ここで使われている「フィロス」というギリシャ語は、この福音書が書かれたと思われる紀元1世紀末には、教会のメンバーを表わす言葉として用いられていたと言われます。つまり、ラザロは教会に集う一人ひとりを表わしていると言えるのです。

知らせを受けた主は「なお二日間同じ所に滞在され」(6節)、マルタたちのもとに着いたのは、ラザロの死後4日経ってからでした。マルタたちはどのような思いでその4日間を過ごしたことでしょう。

ハバクク2:3には「たとえ、遅くなっても、待っておれ。…遅れることはない」という御言葉があります。「たとえ遅くなっても」と仮定されながら「遅れることはない」というのは矛盾します。しかしここに「自分の時」と「神の時」があることを知らされます。

25節の「死んでも生きる」というのも、一見矛盾した言葉です。しかし、「死ぬ」と「生きる」は質の違うものであることを知る時に矛盾は解決します。「復活」という事柄にしてもそうです。

マルタは「終わりの日の復活」のことしか頭にありません。それは間違った考えではありません。しかし、主がここで言われているのは、今、この時のことです。主が「わたしは復活であり、命である」と言われるその復活と命は、目の前におられる主イエスとの関係の中で生かされることです。それは死後も続くものです。だから「死んでも生きる」のです。

「このことを信じるか」と主は問うておられます。その問いかけにどう応えるのか、それが私たちの生き方を変えていくのです。
                                (牧師 末松隆夫)

                  2月16日

愛を知るってことは

マタイによる福音書 25章31~40節

私たち人間は「自由」な存在です。人は与えられた自由を自分のためだけに使っていても満足をしません。それを「誰か」のために使うとき人は本当の満足を得るのではないでしょうか。キリストは言います。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:40)私たちがこの世で小さくされたものに奉仕をすることはキリストにすることなので、教会はそのように愛の業に生きようと努力します。

しかしその努力が人間の頑張りによるものであれば長続きしませんし、いつか苦痛になるでしょう。信仰者が愛の業に生きることができるとすればそれは本当の愛に出会った時です。何もないこの私が無条件に愛されていることを知った時、私たちは「愛する者」に変えられていきます。故にキリストに出会った者の集まりである教会は、ホームレスの方を無視できませんし、公害で苦しんでいる人を放っておくことができません。また障害があるが故にこの社会で生きにくさを感じている人と寄り添おうとします。そしてそれは主イエスに仕えることと同じことなのです。

春日原の教会には幼稚園があります。これも教会が世に仕える一つの形です。春日原教会は幼児保育を通してキリストと社会に仕えます。その働きの根っこになるのが教会ですし、誰もが帰ってくる場所が礼拝です。だから礼拝が大事なのです。伊集院教会にいた頃、毎週守る幼稚園の礼拝で子どもたちに礼拝とは神様がみんなのことを「大好きだよ!」って言ってくださることに「ありがとう!」と応答することなのだ、と伝えていました。それは大人も同じです。「あなたのことを大好きだよ(愛してるよ)」というメッセージを受ける人を増やすことがこの世界が平和になる近道なのかもしれません。                                                                                (牧師 麦野達一)

                  2月9日

世の光なるイエス

ヨハネによる福音書 8章12~20節

主イエスは「わたしは世の光である」と言われました。ヨハネ福音書冒頭でも「光」として世に来られたキリストのことが述べられ、しかし、「世」は「光」を受け入れなかったと証言されています。「世」とは神抜きの世界という意味合いがありますが、同時に、私たち一人ひとりのことです。

「世の光」として来られたキリストを、「世」は何故受け入れなかったのでしょうか。それは光に照らされるとき、汚れ(罪)が顕わになるからです。本当の自分と向き合わされると言ってもいいでしょう。しかし、そのことなしに赦しの恵みを味わうことはできません。「わたしは世の光である」との主イエスの言葉は、まず私たちを悔い改めへと導く存在であることを宣言しておられると言えるでしょう。

主イエスとともに「世界三大聖人」と呼ばれる孔子は、「子曰く、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」という教えを残しています。それに比べると主の言葉は、断言的な強い表現です。このような主の言葉に対して私たちは二つの選択肢しかありません。それを真実と受け取るか、嘘だと否定するかです。主の宣言は常に私たちに二者択一を迫るものです。

主の言葉が真実であり、主が本当に救い主であることが分かったなら、私たちが取るべき態度は、その言葉に応答し、従うということです。世の光である主イエスに従っても、世に闇がなくなるわけではありません。しかし、闇を超える光を持って歩むことができる、それが聖書の約束です。キリストの光に照らされて私たちが輝いて生きるとき、周りをも明るくすることができるのです。 
                                 (牧師 末松隆夫)

                   2月2日

生きた水

ヨハネによる福音書8章37~39節

今日の主イエスの言葉は、仮庵祭の最終日に語られたものです。ギホンの泉から汲まれきた水を熱心に求めている人々に向かって主は「生きた水」のメッセージをされました。5つのパンで大勢の人々の空腹を満たされた直後には「命のパン」のメッセージをされています。主はいつも人々の関心が向けられていることを取り上げて、ご自身のことを語られるのです。今、あなたの関心はどこに向いていますか?

「生きた水」への招きは「だれでも」です。しかしその水に与るには3つの条件があります。第一は「渇いている人」であることです。私たちは渇きを覚えないと水を欲しません。逆に、渇きを覚えているとき、水が命と直結していることを感じ、水のありがたさを痛感します。心の渇きを覚える人が「生きた水」をいただくことができるのです。

第二は「わたしのところに来て」と主が言われているように、主イエスのもとに行くことです。「神は永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレト3:11)とあるように、人は「生きた水」「命の水」を求めて様々な宗教を生み出し、様々な神のもとに向かいます。誰のところに行くか、それは根本的な重要なことです。

第三は「飲みなさい」と言われる主の言葉に応えて、実際に「飲む」ことです。 「飲む」とは、[信じる][信頼する][委ねる]ことであり、主イエスを人生の救い主として生きて行くということです。

ヨハネは「生きた水」について、「“霊”」(=聖霊)であると注釈をつけていますが、イエス・キリストご自身に他なりません。その「生きた水」を日々飲み、自分が潤うだけでなく、周りをも潤していく存在へと、この私たちも招かれているのです。
                          
          
    (牧師 末松隆夫)

                   1月26日

朽ちない食べ物のために

ヨハネによる福音書6章22~40節

五千人以上の人々の空腹を満たすという奇跡(6115)は、四つの福音書すべてが伝えている出来事ですが、ヨハネはそれを単なる出来事として終わらせず、その意味を私たちに示しています。それが「しるし」という言葉ですが、「しるし」とは何でしょうか。イエス・キリストとは私たちにとってどういうお方なのでしょうか。

「奇跡」と「しるし」は違います。奇跡は出来事そのものですが、しるしは出来事よりもそれが指し示そうとしているものに意味があるものです。群衆は出来事そのものに心を奪われてしまい、それに「満腹」してしまいました。奇跡は見たけれどもしるしは見なかったと言えるでしょう。

「パン」は、人間の生命を支え養うために必要なものすべてを指すと考られますが、群衆は肉の糧としてのパンとしか理解しませんでした。しかし聖書は一貫して主イエスこそが人間生活を支える基盤であり、必要不可欠な存在であることを主張しています。主イエスは言われています。「わたしが命のパンである」35節)と。

肉の糧であるパンは朽ちてしまうものです。かつてイスラエルの民に与えられたマナでさえそうです。けれども、十字架を通して私たちに与えられた霊の糧(命の糧)であるイエス・キリストは朽ちることのない食べ物なのです。

主イエスは「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と言われました。「働く」とは「信じる」ことです。私たち一人ひとりが主イエスの与える「永遠の命に至る食べ物」をしっかりと受け入れて、キリストの香りをはなつ人間に日々成長したいものです。                                         (牧師 末松隆夫)

                   1月19日

湖上での出会い

ヨハネによる福音書6章16~21節

並行箇所であるマタイ14章やマルコ6章には「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」と、16節以降の出来事が「5千人の給食」の直後であったことと主イエスの計画(思い)がそこにあったことを強調しています。一方、他の福音書が「夕方」と記しているのに対してヨハネは「既に暗くなっていた」と、闇の中を進んでいく様子を印象づけています。弟子たちの心を表わしているかもしれません。

kmほど漕ぎ出たところで弟子たちは強風に遭遇します。このことは、私たちの信仰生活でも似たような事態に遭遇することを教えているものです。大切なのは、強風に遭遇しないことではなく、その状況下にあっても今も生きて働かれる主の現実を味わい知ることです。

主イエスが水の上を歩いて来られたことは、主が神そのものなる方であることを示しています。それは「わたしだ」(エゴー・エイミ VEgw, eivmi)という言葉にも表わされています。これは神がモーセに語られた「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出3:14)のギリシャ語版です。

ヨハネは「彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とまとめています。カファルナウムに向かって舟を漕ぎ出した弟子たちですが、強風に翻弄されていたこの時の弟子たちにとって「目指す地」とは、《恐れと不安から解放される所》《魂の平安が得られる所》だったのではないでしょうか。そしてそれは「わたしだ。恐れることはない」との主の言葉を受けて、主イエスを自分たちの中に迎え入れたいと望んだときに、その「目指す地」に着くことができることをヨハネは私たちに語っているのではないでしょうか。  
                                            
(牧師 末松隆夫)

                  1月12日

水がめをそこに置いて

ヨハネによる福音書4章1~30節

ユダヤからガリラヤへと赴かれる途中、サマリアのシカルという町での出来事が書かれている箇所ですが、ヨハネは「サマリアを通らねばならなかった」と記しています。これは地理的にそこを通る必要があったということではありません。通常は通らない経路だと言われます。では何を意味しているのでしょうか。それは、そこに神の計画・神の御旨があったということです。主イエスご自身の意志や願いではなく、神の計画に押し出されて出かけて行かれたのです。私たちの信仰生活も同じです。「私」の思いを超えて働かれる神の計画に心を合わせていくのが信仰です。

シカルの町で主に声をかけられた女性は、対話を通して徐々に信仰の目が開かれて行きます。15節の「主よ…その水をください」との告白は、主に対する信仰の始まりです。しかし、求道者(信仰者)となった彼女もまだまだ信仰に対する誤解をもっていました。その一つが礼拝の問題です。場所という外面に囚われていた彼女に対して、主は「霊と真理をもって礼拝する」ことの大切さを教えておられます。私たちも、信仰に対する誤解を持つことがあります。だからこそ、対話や学びを通して誤解が解消され、信仰が深められていくことを学ばせられます。 真の信仰に目覚めた彼女は「水がめをそこに置いたまま町に行き…」(28節)と、ヨハネはわざわざ「水がめ」に言及しています。これは何を意味しているのでしょうか。「水がめ」は彼女のこれまでの「古い生活」、さらには「重荷」を象徴していると解することができるのではないでしょうか。「そこに」とは主イエスの足もとです。古い生活や重荷から解放され、証し人として町の人々の所に行った彼女の姿は、この私たち一人一人のことを表わしているのです。 
                   
                     
    (牧師 末松隆夫)