12月1日

傷ついた葦を折ることなく

イザヤ書42章1~4節

この42章では「葦」が取り上げられています。葦は川の畔や中州に群生している植物です。それは1本では強い風に遭ったとき簡単に折れてしまうからです。パスカルも『パンセ』で「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない」と述べています。葦が群生しているのと同様に、私たちは一人では生きられない存在・折れやすい存在・保護を必要としている存在なのです。

にもかかわらず、私たちは弱さを認めようとしないところがあります。自分の中にある弱さを隠そうとするのが普通です。弱さを恥と考え、叱咤激励して自分を追い詰め、その結果ダメになってしまうことがあります。また、他者に対しても、それを求め、追い詰めてしまうことがあります。今日の箇所は、そのような私たちに大切なことを教えてくれます。

「第二イザヤ」(40~55章)と呼ばれている部分は、旧約聖書の中にあって特に新約聖書との結びつきが深い書巻だと言えます。それは「主の僕の歌」(42章、49章、50章、52~55章)と呼ばれる箇所がイエス・キリストを物語っているととれるからです。事実、福音書は、イエス・キリストこそ傷ついた葦を折ることのないお方であるという信仰を言い表しています。
  傷つきやすく折れやすい私たちですが、主イエスが寄り添ってくださり、支えてくださることによって、立ち続けることができていることを感謝するとともに、私たちの生きている場で、傷つき倒れかけている人たちや、そういった人たちに寄り添い続けている宣教師たちの働きを覚えて祈り、支える者でありましょう。                                            (牧師 末松隆夫)

                     11月24日

傷ついた葦を折ることなく

イザヤ書42章1~4節

この42章では「葦」が取り上げられています。葦は川の畔や中州に群生している植物です。それは1本では強い風に遭ったとき簡単に折れてしまうからです。パスカルも『パンセ』で「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない」と述べています。葦が群生しているのと同様に、私たちは一人では生きられない存在・折れやすい存在・保護を必要としている存在なのです。

にもかかわらず、私たちは弱さを認めようとしないところがあります。自分の中にある弱さを隠そうとするのが普通です。弱さを恥と考え、叱咤激励して自分を追い詰め、その結果ダメになってしまうことがあります。また、他者に対しても、それを求め、追い詰めてしまうことがあります。今日の箇所は、そのような私たちに大切なことを教えてくれます。

「第二イザヤ」(40~55章)と呼ばれている部分は、旧約聖書の中にあって特に新約聖書との結びつきが深い書巻だと言えます。それは「主の僕の歌」(42章、49章、50章、52~55章)と呼ばれる箇所がイエス・キリストを物語っているととれるからです。事実、福音書は、イエス・キリストこそ傷ついた葦を折ることのないお方であるという信仰を言い表しています。
  傷つきやすく折れやすい私たちですが、主イエスが寄り添ってくださり、支えてくださることによって、立ち続けることができていることを感謝するとともに、私たちの生きている場で、傷つき倒れかけている人たちや、そういった人たちに寄り添い続けている宣教師たちの働きを覚えて祈り、支える者でありましょう。                                            (牧師 末松隆夫)

                     11月10日

ろばの子に乗って

ゼカリヤ書9章1~10節

この9章は「託宣」という言葉で語り出されています。「託宣」と訳されているマッサー)は、「負う、担う、声を高く上げる」の名詞形です。様々な国に対する神の宣告であり、この語彙が使われているところには、必ず神のさばきが語られています。事実、1~8節にはイスラエルを取り巻く町々に対して、神のさばきが語られています。

イスラエルは、近隣諸国の脅威に対して人間的な政策で対処しようとして失敗してきました。その結果、自分たちのアイデンティティを失ってしまい、国を滅ぼすに至ってしまいました。神の民にとって大切なのは、いつでも主のまなざしを意識して生きることだったのです。このことを主はここで諸国に対するさばきの言葉を語りつつ、イスラエルに対しても示しておられると言えるでしょう。

9節の言葉は、4つの共観福音書すべてに引用されている有名な預言です。マタイ福音書を読むとき、ろばの子に乗ってのエルサレム入城は主イエスご自身が慎重に準備されたことであることが窺えます。主はゼカリヤ書9章を黙想しながら、自分の道を整えられたのでしょう。主は自分がメシアであるとは一言も言われていませんが、行動によってご自身がメシアであることを公式に示されたのです。

「高ぶることがない」(アーニー)は「貧しい、哀れな、悩み多い、弱い」という意味の語です。まさにそうした意味の象徴として「ろばの子」に乗って来られるメシアは、受難を受けることを暗示しており、常識を打ち破るメシアの登場、へりくだった救い主の到来を意味しています。この預言が成就した中に、私たちは生かされているのです。
                                (牧師 末松隆夫)

                     11月3日

晴れ着を着せてもらいなさい

ゼカリヤ書 3章1~10節

ゼカリヤ書は「わたしに立ち帰れ」という主の言葉で始まり、繰り返し「逃れよ」「逃げ去れ」と、神のもとに立ち帰ることが勧められています。そこには神の民をこよなく愛する神の熱き思いがあります。2:12の「あなたたちに触れる者は、わたしの目の瞳に触れる者だ」という言葉も、神が如何に愛しておられるかがよく表れている表現です。そのことは今日の箇所でも端的に表れています。

主の御使いの前に立つ大祭司ヨシュアをサタンは告発します。その理由は大祭司としてふさわしくないというものです。「燃えさし」「汚れた衣」はいずれも「罪」と関連しているように思われます。大祭司として奉職しているヨシュアも、罪や弱さを身にまとっている人間に過ぎず、私たち一人ひとりの姿を表わしていると言えるでしょう。

「燃えさし」とは、燃え切らないで残っている状態です。罪に死んだはずの私たちですが、罪の火種が残っており、何かある度に再燃してしまいます。それ故にサタンから告発されてしまうのです。しかし、主ご自身がヨシュアの現実を認め、その「燃えさし」に関わろうと選び、変えようとされている現実がここにはあります。

「汚れた衣を脱がせてやりなさい」とは罪の赦しを表わしています。そして「晴れ着を着せてもらいなさい」は、救いの衣(義の衣)を着せてもらうという大きな恵みに与ることができる宣言です。

8節以降の言葉は「メシア預言」です。ここでの「若枝」はイエス・キリストを示します。「碑文を刻む」は苦難を意味していると解釈することもできます。私たちはこの預言が成就した恵みの中に置かれているのです
                                 (牧師 末松隆夫)

                     10月27日

わたしを究める主

詩編 139編1~24節

詩編139編は私が好きな詩編の一つです。この詩編には主なる神への信仰(信頼)が色濃く表わされており、読む度に励まされます。

私たちは、自分のことが分かっているようで肝心なことが分かっていないことが多々あります。ところが聖書が示す神は「私」以上に「私」の行動や思いを知っておられるというのです。2~4節には「座る・立つ」「歩く・伏す」「わたしの道」など、詩人の生活や人生にことごとく通じておられることがうたわれ、更には「わたしの計らい」「わたしの舌がまだひと言も語らぬ先に」と、心の中まで「すべてを知っておられる」主の存在が告白されています。

自分のすべてが知られており、「前からも後ろからも」自分が囲まれ、「御手」が自分の上に置かれているという状況は、主を信じていない者にとっては恐怖に感じることでしょう。しかし、主を信頼している者にとってはこれ以上にない平安の源です。明日のことが見えず、心配し、元気を失うような時にも、「私」以上に「私」のことを知っておられる方が「私」を囲んでくださっていると信じられるなら、明日のことが分からないこともかえって[何が起るのか楽しみです]という期待へと導かれるのではないでしょうか。

14節の「わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている」というのも、得体の知れない力によって怪物のような醜いものとして生れて来たというのではなく、人知を超える力によって、それぞれに違う者として・価値ある者として造られたという感動に満ちた自己認識の言葉です。私たちを知り尽くしておられる主を、私たちが「知る」こと、それが私たちにとっての希望や慰めの源なのです。
                                               (牧師 末松隆夫)

                    10月20日

神の御心であれば

ヤコブの手紙 4章13~17節

「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう、という人たち」(13節)とは、商売の計画を立てるユダヤ人の商人のことです。金もうけの計画を立てる彼らの問題は、次節の「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです」にあります。自分の商売がうまくいっても、明日、命を失うかもしれません。そして、明日の状況が変わって、計画どおりでなくなるかもしれません。自分で何でもできると考えて、人の命を支配し全てのことを支配される神の存在を考えないで計画を立てる間違いを示しています。

それに対する解答は15節の「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう、と言うべきです」にあります。13節のユダヤ商人の神なしの計画に対して、15節の「主の御心であれば」という言葉は、主なる神を信じる人の計画であり、生き方の基本となることを表しています。私たちが、今、生きているのは主の御心によって生かされていることを示しています。そして、人が計画を実行する場合は、いつも主の御心を覚えながら行うべきことを教えています。

人の命は神から与えられた賜物です。健康、能力、努力する力さえも神によって与えられた賜物です。16節の言葉は、自分の功績だけを考えて、神からの賜物を忘れたユダヤ商人の誇り高ぶりを指摘しています。それに対して、私たちは主の前にへりくだり、主の御心にそった生き方がすすめられています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と主イエス・キリストが言われたとおりに、何をするにも主の御心による優先順位をつけて歩むことが大切です。

私たちは自分の命を主の御手にゆだねて、日々の生活のあらゆる場で、これは主の御心でしょうか?と問いかけながら歩みたいと思います。

  (主事 八幡正弘)

                     10月13日

愛を伝える

マタイによる福音書93538

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」という言葉にイエス様の丹念な足取りを感じさせられます。イエス様は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」のをご覧になり「深く憐れまれ」ました。「憐れみ」と訳されている言葉には、腸(はらわた)がよじれるような痛みという意味があります。単なる同情ではなく、只事ではない思いなのです。

「善いサマリア人」の譬え(ルカ10章)でも、「憐れみ」という言葉が使われています。追いはぎに遭い瀕死の状態になった人を、あるサマリア人が深く憐れみ介抱します。しかしそれだけでは終わらずに宿屋まで運び、主人に後の世話を依頼し、「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と言い残したというのです。この譬えに出て来るサマリア人は、イエス様ご自身だという解釈もあります。目の前で出会った人に手当を施し、後を託しただけでなく、自分が必ず帰ってきて責任を持つと言われた姿があります。このように人々に寄り添い見守り続けられる存在としてのイエス様は変わりませんでした。本日の箇所のイエス様の姿も善きサマリア人の譬えと同じく、私たちに後を託したうえで救おうとする人間を最後の最後まで共に気に掛けて下さる姿を感じるのです。

私達はイエス様の深い「憐れみの心」を知らされ、招かれ、主の後押しのなか歩んでいます。実に、主の備えと導きなくしては実りません。「収穫は多い」とは、私達が考えている以上に、既に主が豊かな実りを備えてくださっているとの約束です。私達はわきまえつつ主の収穫の為に協力して働くものでありたいと思います。それと同時に働き人は不可欠であり、そのことを父なる神に祈り合うものでありたいと願います。
                       (九州バプテスト神学校・神学生 近藤浩久)

                     10月6日

日々主を覚えつつ

詩編90編1~17節

70年や80年という歳月は、決して短いものではありません。けれども自分の人生を振り返った時、あっという間に〈今日〉という日を迎えている感じがします。ましては、無限に存在される神の目から見れば、それはほんのわずかな時間でしかないと言えるでしょう。この詩編90編にはそのことがうたわれています。しかそしれは、単に人の一生の儚さを嘆いているのではありません。

天地万物の創造以前から存在され、世の終わりが来てもなお存在される神への祈りであるこの詩編は、同時に、そこにこそ儚い私たちの平安の源・救いの確かさがあることを教えてくれています。

神がその御業を私たちになされる時、私たちの考え・計画を超えたものとしてやって来て自分が立てた計画の変更を余儀なくされることが少なからずあります。〈予定通り〉に行くことが〈良い人生〉のように思っている者にとっては、それは挫折でしかありません。
 しかし、私たちの計画が行き詰まり、変更せざるを得ないような苦しみ・悲しみ・不安・憤りの中でこそ、
神が既に新しい道を備えてくださっていることを信じる者でありたいと願います。聖書の中には、自分の予定通りにいかなかった人たちがたくさんでてきます。そういった人ばかりだと言っても過言ではないでしょう。けれども、そこで神の恵みを経験していることを私たちは学ぶ必要があります。

〈儚さ〉ゆえに焦りを覚えやすい私たちですが、私たちの思いを超えて働かれる神を日々覚えつつ、〈今日〉という日を精一杯神に感謝しながら生きることに全力を傾けたいものです。          
                              (牧師 末松隆夫)

                     9月29日

責任を果たす

ルツ記 4章1~17節

ルツは、ボアズの麦畑で落ち穂を拾うことで恵みを得ました。けれども落ち穂拾いは刈り入れの季節だけのものです。ナオミはルツに更に一歩踏み出すことを進言しています。神の恵みを求めて信仰生活を送っている私たちですが、榎本保郎氏は「私たちの信仰は落ち穂拾いの信仰生活ではないだろうか」と喚起しています。もし私たちが「クリスチャンになった」ということで満足してしまっていたら、落ち穂拾いの状態に留まっていると言えます。更なる神の導きに生きる者となりましょう。

ボアズはルツに対して責任を果たそうとしますが、それは「買い戻す権利」であり、「最も近い親戚」に託されたものです。ボアズは、彼以上に近い親戚が「責任」を辞退した時、自らが責任を果たすことを決意し、実行しました。

「責任を果たす」という語の直訳は「贖う」です。聖書に250回以上使われていますが、その多くが、神が私たちに対してなしてくださる行為として表わされています。その語がここで使われているのです。

このルツ記を新約の光に照らして読むとき、ボアズとルツの関係は主イエスと私たちの関係と解すことができます。ボアズが代価を払って畑地とルツを贖ったように、主イエスは十字架という代価を払って私たちを贖ってくださったのです。

このルツ記が、ダビデが王として就任するにあたって記された文書と解する人もいますが、もしそうだとすれば、自分の家系を美化しがちな状況下で、ダビデ王は自分の先祖に異邦人がいたことを隠さなかったことを、そして神の恵みは異邦人にも注がれることをダビデ自身が認めたことを、このルツ記は証言していることになります。
                            (牧師 末松隆夫)

                     9月22日

天にある永遠の住みか

コリントの信徒への手紙二 5章1~10節

本日は、主のみもとに召された方々を覚えての《召天者記念礼拝》です。仏教的には供養として捉えられていますが、キリスト教の場合はそうではありません。故人は主の慰めのもとに既に置かれているからです。

パウロは私たちの体のことを「幕屋」と呼んでいます。「幕屋」は移動することができるものです。私たちの置かれている状況は変化していきます。また、「幕屋」が恒久的なものでないように、私たちの体も弱く、壊れやすく、限りがあります。その「幕屋が滅びる」とは、肉体の死を指しています。

しかし、それで終わりではありません。「神によって建物が備えられている」(1節)のですそれこそが「天にある永遠の住みか」です。その「建物」は「幕屋」とは違って動くことのないしっかりしたものであり、永遠に変わることのないものです。その「天にある永遠の住みか」を、自分の努力や熱心さによって建てるのでなく神が備えてくださっていることを知っている、それがイエス・キリストを信じる者に与えられている恵みです。

しかし、その一方で「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」(6節)と言っています。これはどういう意味でしょうか?7節との関連で読むとき、「離れている」とはしっかりと確認することができないという意味に解すことができます。それ故に「信じる」という信仰が必要ですし、それ故に私たちの信仰にはあやふやさが伴うのです。しかし、私たちが「体を離れて、主のもとに住む」ときに、イエス・キリストをはっきりと見ることができるようになるのです。主のもとに住んでいる信仰の先達はその恵みの内に今置かれているのです。
                              
    (牧師 末松隆夫)

                     9月15日

神の導き

ルツ 2章1~23節

落ち穂拾いに出かけたルツは、1エファ(約23リットル)もの麦を得てナオミのもとに帰ったことが記されています(17節)。親戚であるボアズの親切があってこそ得ることができたものですが、聖書には、「そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった」(3節)と注釈がうたれています。この「たまたま」は何を意味しているのでしょうか。

「たまたま」という言葉は、その畑地がルツにとって親戚の畑であることを「全く知らなかったのに」ということを物語っているものです。しかし読み方によれば「偶然」を意味しているとも理解することができる言葉です。聖書は単にルツの運が良かったことを語っているのでしょうか。物事を「偶然」で片づけることは簡単なことです。しかし、それが聖書の正しい読み方であるようには思われません。

番号が付けられた10枚のコインを、目を閉じて順番通りに取り出すことができる確率は100億分の1です。一生かかってもできない確率です。見て行えば10秒もかからずにできるものを、偶然に頼ろうとすれば、それは不可能という結論に達します。

私たちは自分の人生の「明日」も見えない者ですが、私たちを造られた神はすべてを見通すことのできるお方です。その神がルツをボアズの畑に導き、ボアズとの出会いへと導かれたと理解する方が、偶然で片付けることより自然であり正しいのではないでしょうか。ナオミたちがベツレヘムへ帰ってきたのが、大麦の収穫時期であったことにも、神の導きを見ることができます。偶然で物事を片付けるところには、感謝の心は育ちません。私たちが出会う一つひとつの事柄の背後に神の導きや備えがあることを信じるところに、神への感謝や忍耐力が生れるのです。
                             (牧師 末松隆夫)