9月1日

それぞれの決断

ルツ記1章1~22節

1章1節には「士師が世を治めていたころ」という時代背景が記されています。イスラエルが王国になる前のことです。ナオミとルツという義親子の話ですが、ルツという女性はアラム人です。イスラエルの人間ではなくしかも女性であるルツが書巻名となっているのは非常に珍しいことです。それだけ彼女の存在(言動)が意味のあることだという証明でしょう。

飢饉のためイスラエル(ベツレヘム)からモアブへ移り住んだナオミ家族ですが、夫と二人の息子が異郷で死んでしまいます。残されたのはナオミと二人の嫁(オルパとルツ)の三人でした。そこでナオミは決断をします。一つは「モアブの野を去って国に帰る」ということ今一つは二人の嫁を「自分の里に帰す」ということでした。「自分の里に帰る」とは、モアブの民に戻るという意味であり、それは、モアブの民が礼拝している神のもとに帰るということを意味しています。ですから、オルパとルツにとって「自分に里に帰る」というのは、信仰の決断を伴う問いでもあったのです。

オルパは義母の言葉どおりに行動することを決断しますが、ルツはナオミのもとを離れようとはしません。16~17節はルツの確固とした決断の言葉です。「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と、ルツは主を信じる民の中に生きることを選び取りました。

家族を飢饉から守るためのエリメレクの決断。二人の行く末を案じてのナオミ決断。ナオミと共に生きる道を選んだルツの決断。それぞれがその時々に、自分以外の誰かのために大切な決断をしています。彼らの経験は喜ばしい出来事ではありませんが、そこでのそれぞれの歩みを主が導いてくださり、「未来」を開いてくださるのです。そしてその「未来」に救い主イエス・キリストの誕生がつながっています。
                              (牧師 末松隆夫)

                     8月25日

信仰の視点に立って

創世記45章1~15節

ヨセフは、自分を奴隷としてエジプトに売った兄たちと22年ぶりに再会し、自分がヨセフであることを告げますが、その時に「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」(5節)とゆるしを語っています。驚きと恐れで声も出なかった兄たちは、その言葉でどれだけ救われたことでしょう。ヨセフは、自分がエジプトの主宰になったから兄たちの罪を赦せたのでしょうか。そうではありません。「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(5節)と、自分の人生に介入される神の働きを認識できたからです。最も心を開いている相手から裏切られたショックは私たちが想像もできないくらいに大きかったことでしょう。しかし、兄たちの悔い改めた姿を見、神の摂理を知ったとき、ヨセフはゆるす者へと導かれたのです。

アウグスティヌスは『秩序』の中で、「世の中の矛盾・悲しみ・苦しみだけに目を留めているということは、刺繍の裏側を見ているようなものだ。そこには、様々な糸が乱雑にすじかっているだけで、それが何を表わしているのかは、全く分からない。しかし、その表側を見るとき、そこに初めて美しい景色なり、麗しい草花なり、気高い肖像なりが描かれていることが分かる」と述べています。

ヨセフがエジプトに導かれた目的は、家族の命を救うためでした。私たちが救われた目的・この教会に導かれた目的・生かされている目的は何でしょうか。信仰の視点で人生を表側(神の側)から眺めたとき、その答えが見えてくるのではないでしょうか。                                               (牧師 末松隆夫)

                     8月18日

本当の悔い改め

創世記44章18~34節

今日の主役はユダです。二度目にエジプトに穀物を買いに行くためにどうしてもベニヤミンを連れて行かなければならない兄たちと、何とか手元に残しておきたい父ヤコブの思いが交差する中で、ユダは、自分自身を保証として差し出しました(43:9)その決心に偽りがなかったことが、今日の出来事によって明らかになります。

無事に穀物を購入して家路に向かい始めた時に事件が起ります。ヨセフの策略により、ベニヤミンの袋から盗まれたヨセフの銀の杯が出て来たのです。その時、ユダは「神が僕どもの罪を暴かれたのです」(44:16)と答えていますが、それは銀の杯のことでなく、22年前にヨセフを奴隷として売ってしまった罪を意識しての発言です。過去の罪を悔いているのです。

ユダは、自分たちもヨセフの奴隷になると申し出ています。以前は、弟を売っても気にもかけなかった男が、今や、その責任をベニヤミン一人に負わせるのではなく、兄弟みんなで担うという思いへと変わっています。

さらに、ベニヤミンだけが奴隷になればよいと語るヨセフに対して、ベニヤミンの代わりに自分を奴隷とし、他の兄弟たちは帰してほしいと訴えます。ここにユダの本当の悔い改めた姿を見ることができます。本当の悔い改めとは、以前と同じような状況に遭遇した時に、以前とは違った行動や決断ができるということです。何故なら、心の向きが変わっているからです。そこが、単に「悔いる」ことと「悔い改める」ことの違う点です。

自らを犠牲にして家族を救おうとするユダの姿に、主イエスの十字架を重ねることも許されているのではないでしょうか。私たちも、本当の悔い改めへと導かれることを通して、主と同じ姿に変えられていくのです。
                                       (牧師 末松隆夫)

                     8月11日

命への配慮

申命記24章5~22節

この箇所には「人道上の規定」という小見出しがついていますが、ここには一人の人間の人権と命を大切にする思いとその人の生活を思いやる優しさ・配慮が感じられます。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ2239との隣人愛が具体的に描かれていると言えるでしょう。その土台となっているのが18節の「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい」との言葉です。

申命記は出エジプトの出来事を想起するように繰り返し語っています(「エジプト」という言葉が52回登場)。出エジプト時の二つの事実にしっかりと目を向けることを私たちに勧めているのです。

ひとつは「あなたはエジプトで奴隷であった」という事実です。忘れてもかまわない出来事や忘れた方がいい事件がありますが、忘れてはいけない出来事もあります。イスラエルにとっては奴隷としての苦役を強いられ、人権を奪われて物として扱われていた奴隷時代の痛みの記憶ですが、私たちにとってそれは何でしょうか。過去の歴史を正しく認識することは、明日のために大切なことです。

いまひとつは「主が救い出してくださった」という事実です。この事実を正しく認識するとき、主への感謝と隣人の痛みを思いやる心が培われると聖書は語っています。隣人に対する配慮や人権の尊重を命じたこの戒めは裏を返せば、神ご自身が私たちの人権を大切にしてくださっており、私たちの命を心に欠けてくださっていることの表われに他なりません。ここに、私たちの平安や慰めの源があるのです。 
                               (牧師 末松隆夫)

                     8月4日

ファラオが見た夢

創世記 41章1~36節

41章は「二年の後」という言葉で始まっています。ヨセフが監獄で給仕役の夢を解き明かしてあげた時から「二年の後」です。解き明かしどおりに給仕役が職場復帰したとき、ヨセフは獄から出られることを期待したことでしょう。しかし、給仕役の長はヨセフとの約束を「忘れてしまった」(40:23)と聖書は記しています。ヨセフにとって、人生で一番長く感じた二年間だったことでしょう。

しかし、ファラオが夢を見たことによって、監獄内のヨセフに光が差し込みます。ファラオが見た夢は、二つの夢ですが、共通点は「七つ」という数字と「肥えたものが痩せたものに飲み尽くされる」という内容です。実に気味の悪い夢をファラオは二回続けてみたことになります。ファラオでなくても気になるところです。

ファラオの前に呼び出されたヨセフは言っています。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」(16節)と。その後も「神が」「神が」と、すべてを神中心に語っています。兄たちに向かって「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました」(37:6)と自分を主格にして誇らしげに語った17歳時のヨセフとは大違いです。獄中での試練の日々を通して、神に聞く姿勢を学んでいったのでしょう。

夢は、私たちが何かを認識するための力(五感)が停止しているときに見ます。その夢の中に常識を越えた神の計画が示されるということは、私たちが自分の力で何かをつかもうとしている時ではなく、無力・無防備・無主張で横たわっている時にこそ、神が働かれるということを表わしていると言えるのかもしれません。
                                          (牧師 末松隆夫)

                     7月28日

キリストの香りをはなつ言葉

ヤコブの手紙 3章1~12節

初めに天地を創造された神は、人を神にかたどって創造され、神との交わりのために人が言葉を話せるようにされました。

しかし、「わたしたちは皆、度々過ちを犯し」(2節)、「言葉で過ちを犯す」ことは私たちの日常生活でよく経験します。馬とくつわ(3節)、船と舵(4節)の例えのように、言葉を発する舌は体の中の小さな器官の一つですが、その人の人生を方向づけると記されています。舌を正しく制御できないと自分だけでなく回りの人々にも大きな影響が及びます。

しかし、「舌を制御できる人は一人もいません」(8節)。そして、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」(10節)のように、同じ口から賛美と呪いさえ出てくるのです。いったい私たちは、どうしたら神の前と人々の前に、ふさわしい言葉を話すことができるのでしょうか。

榎本保郎牧師は、その対策として4つの事をあげています。①沈黙すること。②神を賛美すること。③聖書を読むこと。④お祈りをすること。これらは、たいていのキリスト者は実行されていると思います。

キリストは「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(ルカ6:45)と言われました。言葉を制御するのには、心を整えることが重要だと言われています。キリストは、こうも言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)

私たちは、ふだんの黙想・賛美・聖書・祈りによってキリストにつながり、成熟した実を結ぶことができるように、そして、私たちの言葉と行いを通してキリストの香りをはなつことができるようお祈りしましょう。 
                                            (主事 八幡正弘)

                     7月21日

わたしは弱いときにこそ強い

コリントの信徒への手紙二 12章1~10節

今日は使徒パウロが、自身の弱さや様々な困難の中でどうやって神様に希望を見出したのか、見てみたいと思います。パウロの言う弱さとは何でしょうか?パウロはⅡコリント12:7で「一つのとげ」が与えられたと言っています。それが具体的に何かは聖書では明らかにされていません。パウロはそのとげを取り去ってくださいと三度、神に願いましたが、それは叶いませんでした。その代わりに、神から次の言葉が与えられました(12:9)。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。そしてパウロはこう言います。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と。

ここでいう弱さとは、生まれつき持っている病気や体の障害のことです。あるいは病気などで肉体的、精神的に弱っている状態を指します。パウロはその弱さを「とげ」と表現しています。「とげ」と聞くと皆さんは何を想像されますか?とげは尖っていますから触れると痛いです。ですから「とげ」とは、あまり触れたくない、考えると心が痛くなるような、自分自身についての部分と言えるでしょう。それは例えば、パウロのように身体的な部分、あるいは性格的な特徴でもあり得ます。皆さんお一人一人も、とげがあるのではないでしょうか。パウロのとげとは、パウロ自身が触れたくない、考えたくない部分だったのでしょう。

何回も祈ったのに、そのとげが自分から離れていかないと知ったとき、パウロは自分の弱さを認め、受け入れました。そして誇ったのです。誇るとは、隠さないで、堂々と他の人に見せることです。それは、キリストの力がパウロに宿るためでした。     
                            
   (宣教師 嶋田和幸)

                     7月14日

神の摂理を心に留めて

創世記37章12~36節

寵愛していたヨセフが死んだと思い込んだヤコブは嘆き悲しみますが、彼を悲しみのどん底に突き落としたのは誰だったのでしょうか。もちろん、直接的にはヨセフの兄たちです。しかしその背景には偏愛のしるしである「裾の長い晴れ着」をこれ見よがしに着ているヨセフの言動があります。つまり、元々の原因はヤコブ自身のヨセフに対する偏愛にあったのです。彼自身、父親(イサク)が兄エサウを偏愛するというつらさを経験した人であったにもかかわらず、自分も同じことをしているのです。ここに「罪」の性質を学ぶことができます。「歴史は、人類が歴史から何も学んでいないことを証明している」というA・トインビーの言葉が重く響いてきます。私たちはどうでしょうか?

けれども感謝なことに、ヨセフ物語は人間の愚かさや嘆きで終わっていません。ヤコブの偏愛、ヨセフの高慢(無神経)、兄たちのねたみなど人間の罪が渦巻く中で、それでもその上に神の摂理(計画・配慮)があることをヨセフ物語は私たちに教えています。信仰を持って生きるということは、私たちの思いを超えたところで働かれる神の摂理を心に留めて生きることです。目先のことではなく、永遠を見据えて生きることです。

兄たちは、ヨセフを商人に売り渡したとき、ヨセフが語った夢の実現を完全に阻止したと思ったことでしょう。主イエスを十字架にかけた者たちも同様です。しかし、神の摂理は、人間の思いをはるかに超えたものです。

私たちが見えないところで、私たちが見ることのできない先々までも見据えて、それぞれの人生に介入してくださる神の摂理を心に留めて、「今日」という日を歩んでいきましょう。                                      (牧師 末松隆夫)

                     7月7日

K  Y

創世記 37章1~11節

ヨセフはヤコブ(イスラエル)の12人の息子のひとりで、11番目に生れて来ました。通常、「長子」である長男が優遇されるのですが、ヤコブの家庭は複雑で、4人の女性から12人の息子たちが生れています。ヨセフは、その4人の女性のうち、ヤコブが最も愛したラケルが産んだ第一子でした。それ故に、他の兄弟よりもかわいがられ、「裾の長い晴れ着」を作ってもらえるほど特別扱いされました。いわゆる「偏愛」を受けて、ヨセフは育ったのです。その結果、「兄たちは…ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」(4節)という家庭内不和が起ってしまいます。

「甘やかす」という英語(spoil)は、「だめにする」「腐らせる」とも訳され、元来は「傷つける」という意味だそうです。過度な甘やかし(偏愛)は、愛しているようで、実は傷つけているのです。

「裾の長い晴れ着」は偏愛の象徴です。この着物は単に袖が長い衣というのでなく、労働しなくてもよい身分の人だけが身に着けることができる特別なものです。「お坊ちゃま」として毎日を過ごしていたのでしょう。兄たちの気持ちが分かるような気がします。

羊の世話をする兄たちの気持ちも考慮せずにその服を着続け、自分の束に兄弟たちの束がひれ伏したという夢を平気で語るヨセフは、KY(空気が読めない人)です。そのヨセフがこの後の経験を通して気配りの出来る人へと変えられ、さらにはKY(危険予知)ができる人へとなっていきます。

この変化(成長)へと私たちも導かれているのです。ヨセフの人生に私たち自身を当てはめながら、ヨセフの歩みを学んで行きましょう。
                                                  (牧師 末松隆夫)

                    6月30日

主の力によって

フィリピの信徒への手紙 4章10~20節

フィリピ教会は、パウロの伝道活動のために献金や物資、さらには人を送って彼の働きを支えた教会でした。パウロはその支援を心から喜んでいますが、それ以上に願っていたのは、自分がそうであるように、フィリピ教会も「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かり」「自分の置かれた境遇に満足する」ことでした。

「満足する」(他の訳では「満ち足りる」)と訳された語は、当時のギリシャ哲学(ストア派)が最高の目標として追求していたものであり、そのためには「自分の願望・自分の感情を取り除く」ことが必要と考えていました。そのような生き方を追求していったら、冷たい人間になってしまうことでしょう。パウロは、当時流行していた言葉を使ってはいますが、その内容は、ストア派の考えとはまったく違っています。

13節でパウロは「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と告白しています。これこそが「満足する」ことの秘訣です。自分の努力では、私たちは本当の満足を得ることはできないのです。聖書は「わたしを強めてくださる方」つまり主の力によって得ることができると教えています。

そのためには、自分が主に頼るべき弱い存在であることと、分かち合うことによって満ち足りる者とされることを知る必要があります。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)ことを、身をもって私たちに示してくださった主イエスに倣う生き方へと導かれるとき、私たちも「いついかなる場合にも対処する秘訣」を得、福音のために仕えたり支えたりすることができる者へと導かれるのです。 
                             
    (牧師 末松隆夫)

                    6月23日

互いに思いを一つにして

ローマの信徒への手紙 12章9~16節

聖書は、「泣く人と共に泣きなさい」と勧めています。私たちの周りの人々や私たち自身が困難を通ることは必ずあります。困難の中で苦しみの涙を流すことがあるでしょう。その時、私たちはどうするべきでしょうか。私たちは「泣く人と共に泣きなさい」と聖書に書かれている通り、思いやりや理解を持つ必要があります。旧約聖書のヨブ記には、ヨブの号泣に対し3人の友人が、「嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった」と書かれています2:11-13。新約聖書のヨハネによる福音書では、イエス様はラザロの家族を訪ねた時、涙を流されました11:35。コリントの信徒への手紙一には次のように書かれています。「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」12:24-26

「泣く人と共に泣く」ということは、イエス様がなさったように、相手が一番深い所にある時に、その人と交わることなのです。それは、悲しんでいる人の深さにまで、私たちもまた立たなくてはならないということでしょう。

大事なことは、喜んでいる人に対して一緒にその喜びを喜ぶということ、泣いている人に対してその悲しみや苦しみを一緒に泣くということが大事なのです。「互いに思いを一つにする」ということです。それは、共感する力が、喜ぶ人の喜びを何倍にも増し加え、悲しむ人の悲しみを何倍も少なくするということです。何も助け手を出さなくてもいいのです。「互いに思いを一つにする」、「気持ちを一つにする」ということなのです。   
                              
(神学生 小櫻 信)