1月26日

朽ちない食べ物のために

ヨハネによる福音書6章22~40節

五千人以上の人々の空腹を満たすという奇跡(6115)は、四つの福音書すべてが伝えている出来事ですが、ヨハネはそれを単なる出来事として終わらせず、その意味を私たちに示しています。それが「しるし」という言葉ですが、「しるし」とは何でしょうか。イエス・キリストとは私たちにとってどういうお方なのでしょうか。

「奇跡」と「しるし」は違います。奇跡は出来事そのものですが、しるしは出来事よりもそれが指し示そうとしているものに意味があるものです。群衆は出来事そのものに心を奪われてしまい、それに「満腹」してしまいました。奇跡は見たけれどもしるしは見なかったと言えるでしょう。

「パン」は、人間の生命を支え養うために必要なものすべてを指すと考られますが、群衆は肉の糧としてのパンとしか理解しませんでした。しかし聖書は一貫して主イエスこそが人間生活を支える基盤であり、必要不可欠な存在であることを主張しています。主イエスは言われています。「わたしが命のパンである」35節)と。

肉の糧であるパンは朽ちてしまうものです。かつてイスラエルの民に与えられたマナでさえそうです。けれども、十字架を通して私たちに与えられた霊の糧(命の糧)であるイエス・キリストは朽ちることのない食べ物なのです。

主イエスは「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と言われました。「働く」とは「信じる」ことです。私たち一人ひとりが主イエスの与える「永遠の命に至る食べ物」をしっかりと受け入れて、キリストの香りをはなつ人間に日々成長したいものです。                                         (牧師 末松隆夫)

                   1月19日

湖上での出会い

ヨハネによる福音書6章16~21節

並行箇所であるマタイ14章やマルコ6章には「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」と、16節以降の出来事が「5千人の給食」の直後であったことと主イエスの計画(思い)がそこにあったことを強調しています。一方、他の福音書が「夕方」と記しているのに対してヨハネは「既に暗くなっていた」と、闇の中を進んでいく様子を印象づけています。弟子たちの心を表わしているかもしれません。

kmほど漕ぎ出たところで弟子たちは強風に遭遇します。このことは、私たちの信仰生活でも似たような事態に遭遇することを教えているものです。大切なのは、強風に遭遇しないことではなく、その状況下にあっても今も生きて働かれる主の現実を味わい知ることです。

主イエスが水の上を歩いて来られたことは、主が神そのものなる方であることを示しています。それは「わたしだ」(エゴー・エイミ VEgw, eivmi)という言葉にも表わされています。これは神がモーセに語られた「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出3:14)のギリシャ語版です。

ヨハネは「彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とまとめています。カファルナウムに向かって舟を漕ぎ出した弟子たちですが、強風に翻弄されていたこの時の弟子たちにとって「目指す地」とは、《恐れと不安から解放される所》《魂の平安が得られる所》だったのではないでしょうか。そしてそれは「わたしだ。恐れることはない」との主の言葉を受けて、主イエスを自分たちの中に迎え入れたいと望んだときに、その「目指す地」に着くことができることをヨハネは私たちに語っているのではないでしょうか。  
                                            
(牧師 末松隆夫)

                  1月12日

水がめをそこに置いて

ヨハネによる福音書4章1~30節

ユダヤからガリラヤへと赴かれる途中、サマリアのシカルという町での出来事が書かれている箇所ですが、ヨハネは「サマリアを通らねばならなかった」と記しています。これは地理的にそこを通る必要があったということではありません。通常は通らない経路だと言われます。では何を意味しているのでしょうか。それは、そこに神の計画・神の御旨があったということです。主イエスご自身の意志や願いではなく、神の計画に押し出されて出かけて行かれたのです。私たちの信仰生活も同じです。「私」の思いを超えて働かれる神の計画に心を合わせていくのが信仰です。

シカルの町で主に声をかけられた女性は、対話を通して徐々に信仰の目が開かれて行きます。15節の「主よ…その水をください」との告白は、主に対する信仰の始まりです。しかし、求道者(信仰者)となった彼女もまだまだ信仰に対する誤解をもっていました。その一つが礼拝の問題です。場所という外面に囚われていた彼女に対して、主は「霊と真理をもって礼拝する」ことの大切さを教えておられます。私たちも、信仰に対する誤解を持つことがあります。だからこそ、対話や学びを通して誤解が解消され、信仰が深められていくことを学ばせられます。 真の信仰に目覚めた彼女は「水がめをそこに置いたまま町に行き…」(28節)と、ヨハネはわざわざ「水がめ」に言及しています。これは何を意味しているのでしょうか。「水がめ」は彼女のこれまでの「古い生活」、さらには「重荷」を象徴していると解することができるのではないでしょうか。「そこに」とは主イエスの足もとです。古い生活や重荷から解放され、証し人として町の人々の所に行った彼女の姿は、この私たち一人一人のことを表わしているのです。 
                   
                     
    (牧師 末松隆夫)

                  1月5日

命への招き

ヨハネによる福音書 3章16~21節

ヨハネ福音書には、1章で「すべての人を照らす光」として世に来たキリストを人々が受け入れなかったこと、2章で礼拝の場である神殿が「商売の家」となっていたことが指摘されています。そして今日の箇所の直前には夜こっそりと主イエスを尋ねてきたユダヤ議会の議員のことが記されています。それに引き続くのが今日の箇所です。

ギリシャ語原文には、「このように」という副詞(ou[tw)と、「何故なら」「すなわち」という接続詞(ga,r)が入っています。礼拝の場を汚し、神から遣わされた者を受け入れなかった「世」に対して、聖書は「すなわち、神は世をさばかれた」ではなく、「すなわち、神は世を愛された」というのです。

驚くべき内容です。「世」とは〈世間〉ではなく、〈私たち〉〈私〉です。

神の愛の深さを示すのが、「独り子をお与えになったほどに」という言葉です。この「与える」(di,dwmi)には、「贈り物として与える」ことと「死に渡す」という意味があります。一つの単語で「クリスマス」と「十字架」が示されているのです。

神の愛の目的は「世」が「永遠の命を得る」ことです。ここには「一人も滅びないで」とあります。ユダヤ人という限定はここにはありません。すべての人が「永遠の命を得る」対象者です。

しかし同時に、ここには「独り子を信じる者」という一つの条件が示されています。「永遠の命」はイエス・キリストと密接につながっているからです。ヨハネは、この福音書の中で「信じる」ことの大切さを繰り返し強調しています。「命」に招かれている私たちの応答は、独り子の存在を認識するだけでなく、信頼を置き、心の中心に迎え入れ、従うことです。それが「信じる」ことの内容です。
                                         (牧師 末松隆夫)

                   12月29日

わたしたちの間に宿られた言

ヨハネによる福音書 1章1~18節

ヨハネ福音書1章1~18節は、ヨハネが主イエスの生涯をどのような視点に立って描こうとしているかを示している重要な序文です。そこには、(ことば)=神」、「(ことば)=イエス」、∴「イエス=神」という三段論法によって福音書の主題が記されています。

ヨハネが語る「(ことば)(ロゴス lo,goj)とは、まぎれもなくイエス・キリストのことです。「(ことば)」と記されているより「イエス・キリスト」と記されていた方が理解しやすいと言えるでしょう。どうしてヨハネは、「イエス・キリスト」ではなく、「(ことば)」という単語を使っているのでしょうか。そこにはヨハネの意図があるように思われます。

第一に、「(ことば)」という表現を用いることによって、キリストに聴くことの大切さを語ろうとしてるのではないでしょうか。「(ことば)」であるキリストに聴くことが信仰生活のスタートであり、基本であり、全てであることを提示しているように思われます。

第二に、イエス・キリストが神の意思(神の思い)を私たちに伝えてくださるお方であることを語ろうとしていると言えるでしょう。神の御子が、ナザレのイエスという人間のかたちをとって来られたという出来事そのものが、神の思いを語っているのです。

第三に、「(ことば)」には「力」が伴うことも関係しているように思われます。4節の「(ことば)の内に命があった」という表現はまさに、私たちを造り替え、励まし、慰め、生かす「力」のあるお方であることを証言していると言えるでしょう。

わたしたちの間に宿られた「(ことば)」であるイエス・キリストに聴き、受け入れ、応答することこそが、私たちがなすべき態度なのです。
                        (牧師 末松隆夫

                12月22日

「喜びにあふれて」

マタイによる福音書2章1~11節

マタイ福音書には、星に導かれて東の国から旅してきた「占星術の学者たち」(天文学者)が生れたばかりの幼子を拝み、贈り物をささげたことが語られています。彼らがメシア(キリスト)に出会えたのは、星を見つめ、ひたすらその方向へと歩んで行ったからです。21世紀に生きる私たちも輝く星を見つめて歩むことが、まっすぐに歩むために必要です。

彼らは、自分の生活の向上や見識を深めるためにではなく、自分たちの真の王(救い主)の前にひれ伏して拝み礼拝するためにやって来ました。人(a;nqrwposj上を向く者)の本分に立ち帰るためだったと言えるでしょう。実は、そのことこそが私たちの人生に本当の喜びを与えることを聖書は語っています。

彼らは家畜小屋の上に星が止まったときに「喜びにあふれた」(10節)と記されていますが、幼子を目の当たりにした時には、もっと「喜びにあふれた」ことでしょう。それは幼子に対する思いが深ければ深いほど(心の距離が近ければ近いほど)大きなものとなります。

現代の私たちが見つめるべき星は、既に輝いています。問題は、その星の輝きに目を(思いを)向けるかどうかです。

 東の方から来た学者たちは、バビロニアからだったのではないかと言われます。人々は、かつての「バビロン捕囚」時に聖書の教えに触れていたと考えられます。
極東」と呼ばれる日本にも470年前に福音が届けられ、
この私たちもキリストのことを聞く者とされました。ここに描かれている学者たちに、私たちの姿を投影することができます。                               (牧師 末松隆夫)

                12月15日

すべての人の救い主

ルカによる福音書 2章8~20節

イエス・キリストの降誕が記してあるのはマタイによる福音書とルカによる福音書ですが、ルカによる福音書にだけ記されていることがあります。(1)ローマ皇帝による住民登録のように当時の政治状況が記されていること。(2)救い主イエスの両親が泊まる場所がなくて、イエスは家畜小屋で生まれ、飼い葉桶の中に寝かされたこと。(3)救い主イエスの誕生が野宿している羊飼いたちに告げられたこと、です。

ローマ皇帝の勅令があったことからベツレヘムでイエスが誕生したことにより、預言(ミカ書5:2)が成就しています。神はあらゆる人々を通してお働きになり、メシア誕生という神の計画を成し遂げられたと言えます。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」(11節)。救い主イエスが宮殿ではなく貧しい家畜小屋でお生まれになったのはなぜでしょうか。福音書に見られる主イエスの生涯は、病をいやし、罪を赦し、弱い立場の人たちに寄り添い、愛の手を差し伸べられました。社会的弱者と言われる人々と同じ立場になって救うために、主イエスご自身が貧しい中にお生まれになったと言えます。

羊飼いたちは野宿しながら移動していたので住民登録もできてない人たち、羊の世話で一生懸命のため安息日の礼拝は守れなかった人たちです。このような当時の社会から差別され、貧しい羊飼いたちに喜びの福音がはじめに告げられたのです。救い主イエスによる救いは、貧しく小さくされた者から始まることを示しています。

小さい者とされた羊飼いたちがしたように、私たちも救い主イエスの降誕を喜び感謝と賛美をもってクリスマスをお祝いしたいと思います。
                                  (主事 八幡正弘)

                12月8日

ヨセフのクリスマス

マタイによる福音書 1章18~25節

12月4日、アフガニスタンで井戸や灌漑用水路を整備するという尊い働きに従事していたバプテストのクリスチャン医師・中村哲さんが銃撃され命を落としました。人々の「命」と「平和」の実現のために身を粉にしてアフガニスタンの人々に寄り添って生きてきた「命」が奪われてしまいました。自分の考えと違う者や自分の利権に反する者を武力で抹殺しようとする私たち人間の中にある醜さ、心の狭さを痛感させられます。

マタイ福音書は、小さな命がいたぶられ、たくさんの命が失われていった出来事がクリスマスの直後に起ったことを記しています。けれども、小さな命が見捨てられようとしたのはそれが最初ではありません。キリスト誕生以前にも、一つの命が風前の灯状態であったことを聖書は示しています。

マリアが「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とき、ヨセフの最初の決心は、「ひそかに縁を切る」ことでした。その前にある「ヨセフは正しい人であったので」という「正しい(di,kaioj)」をどのように解するかによって意味合いが変ってきますが、いずれにしても、マリアと胎内の子どもを見捨ててしまうことになります。この時点では、幼い命が危機にさらされていたのです。

しかし、天使の言葉を受けて彼は違った決断へと導かれます。それはマリアを(そしてイエスを)受け入れるということでした。ヨセフのクリスマスがここに起ったのです。

「迎え入れなさい」とは、命を守りなさい・小さな命の傍らに立ちなさいということです。クリスマスを迎えようとしている私たちも、自分の内外にある「小さな命」を守り、その傍らに立つ者へとさせてもらいましょう。インマヌエルなる神は、我々と共におられるお方です。                                    (牧師 末松隆夫)

                12月1日

傷ついた葦を折ることなく

イザヤ書42章1~4節

この42章では「葦」が取り上げられています。葦は川の畔や中州に群生している植物です。それは1本では強い風に遭ったとき簡単に折れてしまうからです。パスカルも『パンセ』で「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない」と述べています。葦が群生しているのと同様に、私たちは一人では生きられない存在・折れやすい存在・保護を必要としている存在なのです。

にもかかわらず、私たちは弱さを認めようとしないところがあります。自分の中にある弱さを隠そうとするのが普通です。弱さを恥と考え、叱咤激励して自分を追い詰め、その結果ダメになってしまうことがあります。また、他者に対しても、それを求め、追い詰めてしまうことがあります。今日の箇所は、そのような私たちに大切なことを教えてくれます。

「第二イザヤ」(40~55章)と呼ばれている部分は、旧約聖書の中にあって特に新約聖書との結びつきが深い書巻だと言えます。それは「主の僕の歌」(42章、49章、50章、52~55章)と呼ばれる箇所がイエス・キリストを物語っているととれるからです。事実、福音書は、イエス・キリストこそ傷ついた葦を折ることのないお方であるという信仰を言い表しています。
  傷つきやすく折れやすい私たちですが、主イエスが寄り添ってくださり、支えてくださることによって、立ち続けることができていることを感謝するとともに、私たちの生きている場で、傷つき倒れかけている人たちや、そういった人たちに寄り添い続けている宣教師たちの働きを覚えて祈り、支える者でありましょう。                                            (牧師 末松隆夫)