7月7日

K  Y

創世記 37章1~11節

ヨセフはヤコブ(イスラエル)の12人の息子のひとりで、11番目に生れて来ました。通常、「長子」である長男が優遇されるのですが、ヤコブの家庭は複雑で、4人の女性から12人の息子たちが生れています。ヨセフは、その4人の女性のうち、ヤコブが最も愛したラケルが産んだ第一子でした。それ故に、他の兄弟よりもかわいがられ、「裾の長い晴れ着」を作ってもらえるほど特別扱いされました。いわゆる「偏愛」を受けて、ヨセフは育ったのです。その結果、「兄たちは…ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」(4節)という家庭内不和が起ってしまいます。

「甘やかす」という英語(spoil)は、「だめにする」「腐らせる」とも訳され、元来は「傷つける」という意味だそうです。過度な甘やかし(偏愛)は、愛しているようで、実は傷つけているのです。

「裾の長い晴れ着」は偏愛の象徴です。この着物は単に袖が長い衣というのでなく、労働しなくてもよい身分の人だけが身に着けることができる特別なものです。「お坊ちゃま」として毎日を過ごしていたのでしょう。兄たちの気持ちが分かるような気がします。

羊の世話をする兄たちの気持ちも考慮せずにその服を着続け、自分の束に兄弟たちの束がひれ伏したという夢を平気で語るヨセフは、KY(空気が読めない人)です。そのヨセフがこの後の経験を通して気配りの出来る人へと変えられ、さらにはKY(危険予知)ができる人へとなっていきます。

この変化(成長)へと私たちも導かれているのです。ヨセフの人生に私たち自身を当てはめながら、ヨセフの歩みを学んで行きましょう。
                                                  (牧師 末松隆夫)

                    6月30日

主の力によって

フィリピの信徒への手紙 4章10~20節

フィリピ教会は、パウロの伝道活動のために献金や物資、さらには人を送って彼の働きを支えた教会でした。パウロはその支援を心から喜んでいますが、それ以上に願っていたのは、自分がそうであるように、フィリピ教会も「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かり」「自分の置かれた境遇に満足する」ことでした。

「満足する」(他の訳では「満ち足りる」)と訳された語は、当時のギリシャ哲学(ストア派)が最高の目標として追求していたものであり、そのためには「自分の願望・自分の感情を取り除く」ことが必要と考えていました。そのような生き方を追求していったら、冷たい人間になってしまうことでしょう。パウロは、当時流行していた言葉を使ってはいますが、その内容は、ストア派の考えとはまったく違っています。

13節でパウロは「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と告白しています。これこそが「満足する」ことの秘訣です。自分の努力では、私たちは本当の満足を得ることはできないのです。聖書は「わたしを強めてくださる方」つまり主の力によって得ることができると教えています。

そのためには、自分が主に頼るべき弱い存在であることと、分かち合うことによって満ち足りる者とされることを知る必要があります。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)ことを、身をもって私たちに示してくださった主イエスに倣う生き方へと導かれるとき、私たちも「いついかなる場合にも対処する秘訣」を得、福音のために仕えたり支えたりすることができる者へと導かれるのです。 
                             
    (牧師 末松隆夫)

                    6月23日

互いに思いを一つにして

ローマの信徒への手紙 12章9~16節

聖書は、「泣く人と共に泣きなさい」と勧めています。私たちの周りの人々や私たち自身が困難を通ることは必ずあります。困難の中で苦しみの涙を流すことがあるでしょう。その時、私たちはどうするべきでしょうか。私たちは「泣く人と共に泣きなさい」と聖書に書かれている通り、思いやりや理解を持つ必要があります。旧約聖書のヨブ記には、ヨブの号泣に対し3人の友人が、「嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった」と書かれています2:11-13。新約聖書のヨハネによる福音書では、イエス様はラザロの家族を訪ねた時、涙を流されました11:35。コリントの信徒への手紙一には次のように書かれています。「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」12:24-26

「泣く人と共に泣く」ということは、イエス様がなさったように、相手が一番深い所にある時に、その人と交わることなのです。それは、悲しんでいる人の深さにまで、私たちもまた立たなくてはならないということでしょう。

大事なことは、喜んでいる人に対して一緒にその喜びを喜ぶということ、泣いている人に対してその悲しみや苦しみを一緒に泣くということが大事なのです。「互いに思いを一つにする」ということです。それは、共感する力が、喜ぶ人の喜びを何倍にも増し加え、悲しむ人の悲しみを何倍も少なくするということです。何も助け手を出さなくてもいいのです。「互いに思いを一つにする」、「気持ちを一つにする」ということなのです。   
                              
(神学生 小櫻 信)

                    6月16日

主のへりくだりと従順に学ぶ

フィリピの信徒への手紙 2章1~18節

パウロにとって最も信頼関係が強かったフィリピ教会に書き送った手紙の中で、彼は一致の大切さを語っています。そして教会の一致は、「キリスト・イエスによる励まし・愛の慰め・聖霊による交わり」という基盤に立つものであることを示し、逆に「利己心・虚栄心」が一致を妨げるものであることを示しています。「利己心・虚栄心・党派心」が教会に入り込むとき、教会の一致は崩壊し、教会はその本質を失ったものに墜ちてしまいます。そのようにならないためには、各自のへりくだった思いが大事であることをパウロは語り、私たちが倣うべきお方として主イエスを提示しています。

主イエスは、実質的な神でありながら、神としての立場に固執されず、その栄光を捨ててこの世に来られ、人間としての弱さと制限とを徹底的に経験されました。それは「私たちが主によって豊かになるため」です(Ⅱコリント8:9)。私たちを豊かにし、高く引き上げるために、自ら低く降られたその主イエスを救い主として信じ従う者が取るべき態度はおのずと知れています。私たちが利己心に凝り固まり、高慢な思いになる時、それは私たちのための主のへりくだりを忘れている時だと言えます。

パウロは「キリスト賛歌」(6~11節)の中で、主のへりくだりを語り、更に主の従順を語っています。主イエスの生涯は、神への従順の一生でした。来週、「沖縄(命どぅ宝)の日」を迎えますが、武祐一郎氏は「従順・服従は危険を伴う言葉である。戦時中の日本人は天皇に絶対的な服従・従順を強いられた。手放しで・無条件で、従順であれとは勧められない」と語り、「信頼に根ざした従順」の大切さを示しています。私たちは誰を信頼し、誰に学び、どのように応えようとしているのでしょうか。 
                             
(牧師 末松隆夫)

                    6月9日

主の霊の働き

コリントの信徒への手紙二 3章12~18節

本日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。弟子たちに聖霊が臨み、キリスト教会が誕生したこの日は、ユダヤ人にとって収穫祭の時でもあります。主の到来(クリスマス)から主によって蒔かれ始めた福音の種は、十字架と復活によって花が咲き、ペンテコステの日に実りを結ばせたと言うこともできるでしょう。ペンテコステ以降に生きる私たちは、まさに「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)です。

聖霊を受けるということは、使徒言行録1章8節に明記されているように、神からの「力」を受けることです。聖霊は、私たちの閉ざされた心を打ち砕く力であり、私たちの閉じた口を開かせる力です。聖霊に満たされる時、私たちは「確信に満ちあふれて」(口語訳では「大胆に」)福音を語り、主の証し人とされるのです。伝道は決して「私」の力で行い得るものではありません。聖霊の力に導かれ、満たされ、押し出されて可能となるのです。

「主とは“霊のことです」(3:17)と語るパウロは、「霊は生かします」(3:6)と言い、さらに「主の霊のおられるところに自由があります」(3:17)と言っています。聖霊は、罪の奴隷となっている私たちを解放し、自由にしてくださるのです。カール・バルトは次のように言っています。

「もし聖霊の秘義を別の言葉で表現しようと思うならば、『自由』という概念を選ぶのが最も良い。聖霊を受けるということ、聖霊を所有するということ、聖霊の中に生きるということ、それは、自由にされているということ、自由の中に生きることを許されているということである。」

パウロは、聖霊による自由を誰よりも強く体験している人です。しかしそれはパウロだけが体験するものではありません。「主の方に向き直る」ときに私たち一人ひとりが経験できる恵みです。今はまさに聖霊の時代です。

                                 (牧師 末松隆夫)

                    6月2日

新しく創造されて

ガラテヤの信徒への手紙 6章11~18節

パウロは、「わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」(11節)と記しています。これは「小さな字が書けないので…」というのではなく、「この手紙の最後に何としても自分の思いをはっきりと伝えたいので…」という思いが込められたものだと考えられます。

「割礼」(律法の実行)を強要する人たちの問題がこの手紙の背景にありますが、パウロは彼らのことを「人からよく思われたがっている者」であり、「キリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに」と述べています。つまり、ユダヤ人の反感を買うことを避けるために異邦人キリスト者に割礼を強要していたということになります。律法から遠く離れた動機です。

パウロは、外見上のことや表面的な行いを誇るのではなく、神の恵みに生きる人生を選び取ることを勧め、それこそが本来のキリスト者の生き方だと教えています。

15節の「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」 は、この手紙の主題を表わす言葉です。パウロはコリントの信徒への手紙二でも「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(5:17)と述べています。「キリストと結ばれる人」、つまり、イエス・キリストを信じ、キリストから養分(愛)をいただく生き方へと導かれた人は「新しく創造された者」なのです。「イエスの焼き印」を身に受けているその人は、自分の功績ではなく、「キリストの十字架」を誇る者です。

    「だれもわたしを煩わさないでほしい」(17節)とは、「間違った教えに惑わされること    なく、ひたすらにイエス・キリストを信じて生きていってほしい」というパウロの願いが込  められた言葉です。その思いを私たちもしっかりと受け取り、引き継いで行きましょう。                               (牧師 末松隆夫)

                    5月26日

キリストの愛によって生きる

ガラテヤの信徒への手紙 5章1~15節

ガラテヤの教会でも、あるユダヤ人キリスト者が“キリスト者になるにはユダヤ人のように割礼を受けることとモーセの律法を守るべきだ”と主張していました。これは「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」という信仰の本質に反することです。罪の奴隷から解放されキリストにある自由の身にされたのに再び束縛されることのないよう、正しいキリスト教信仰に立ち返るようにとパウロは勧めます。

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(6節)。ユダヤ人は割礼を受けて良いし、異邦人は割礼を受けなくて良いのであって、民族・社会的身分・貧富・男女に関係なく、また幼子・老人でも、強い人・弱い人でも、誰でもイエス・キリストを信じる信仰によって神の前に義とされるのです。

むしろ、イエス・キリストを信じる信仰にとって大切なことは愛の実践が伴っていることです。それはまた、「兄弟たち・・・愛によって互いに仕えなさい」(13節)というようにキリストの体である教会の中で一人一人がキリストの愛によって結ばれており、それぞれの賜物を活かして互いに仕えてゆくことを表しています。

「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(14節)。ここで「隣人」とは、ユダヤ人にとっては助けを必要とする同胞ユダヤ人です。キリスト者にとって「隣人」とは、教会の中だけでなく、この世界で助けを必要とする全ての人のことです。私たちはこのために祈り、実践する使命があります。

2019年度も、私たちは主であられるキリストの僕として、その愛・思い・み言葉に導かれて歩んでゆきたいと思います。                                                                           (主事 八幡正弘)

                    5月19日

キリストが形づくられるまで

ガラテヤの信徒への手紙 4章12~20節

このパウロの手紙を読むと二つの信仰スタイルが見えてきます。一つは、儀式・伝統・戒めなど自分の行いによって信仰生活を全うしようとするものです。一見、熱心なように見えますが、このスタイルはいつの間にか、主語が「神」ではなく、「自分」になってしまいます。聖書が教えている信仰スタイルは主語が「自分」ではなく、「神」である生活です。

パウロがガラテヤの人たちに福音を告げ知らせたとき、彼らはパウロを暖かく迎え入れ、キリストの福音を知った喜びを共に味わいました。しかし、今は「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか」(15節)と嘆くほど、教会にあったはずの喜びが失われ、感謝が消え、信仰生活がとても重く暗いものとなってしまっていたのです。それは間違ったものに熱心になっていたからです。

間違った熱心さはとても危険なものであることを聖書は教えています。「熱心」という語は、「沸騰する」という動詞から派生した言葉だと言われます。ガラテヤ教会は、沸騰したもので大やけどする寸前だったのです。間違った熱心の特徴は、「自分たちに対して熱心にならせようとする」ことであり、福音の恵みから「引き離そうとする」ことです。聖書が教える熱心は、神の熱心です。それは私たちのために救い主を遣わす熱心であり、ヨハネ3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」の「ほどに」という言葉に表わされている熱心です。その神の熱心に応答し、キリストによって自由にされた喜びを感じながら生きているのが、クリスチャンの姿です。その時に私たち一人ひとりの中に「キリストが形づくられる」のです。そのことに熱心な者であり続ける信仰者(群れ)でありましょう。
                             (牧師 末松隆夫)