6月2日

新しく創造されて

ガラテヤの信徒への手紙 6章11~18節

パウロは、「わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」(11節)と記しています。これは「小さな字が書けないので…」というのではなく、「この手紙の最後に何としても自分の思いをはっきりと伝えたいので…」という思いが込められたものだと考えられます。

「割礼」(律法の実行)を強要する人たちの問題がこの手紙の背景にありますが、パウロは彼らのことを「人からよく思われたがっている者」であり、「キリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに」と述べています。つまり、ユダヤ人の反感を買うことを避けるために異邦人キリスト者に割礼を強要していたということになります。律法から遠く離れた動機です。

パウロは、外見上のことや表面的な行いを誇るのではなく、神の恵みに生きる人生を選び取ることを勧め、それこそが本来のキリスト者の生き方だと教えています。

15節の「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」 は、この手紙の主題を表わす言葉です。パウロはコリントの信徒への手紙二でも「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(5:17)と述べています。「キリストと結ばれる人」、つまり、イエス・キリストを信じ、キリストから養分(愛)をいただく生き方へと導かれた人は「新しく創造された者」なのです。「イエスの焼き印」を身に受けているその人は、自分の功績ではなく、「キリストの十字架」を誇る者です。

    「だれもわたしを煩わさないでほしい」(17節)とは、「間違った教えに惑わされること    なく、ひたすらにイエス・キリストを信じて生きていってほしい」というパウロの願いが込  められた言葉です。その思いを私たちもしっかりと受け取り、引き継いで行きましょう。                               (牧師 末松隆夫)

                    5月26日

キリストの愛によって生きる

ガラテヤの信徒への手紙 5章1~15節

ガラテヤの教会でも、あるユダヤ人キリスト者が“キリスト者になるにはユダヤ人のように割礼を受けることとモーセの律法を守るべきだ”と主張していました。これは「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」という信仰の本質に反することです。罪の奴隷から解放されキリストにある自由の身にされたのに再び束縛されることのないよう、正しいキリスト教信仰に立ち返るようにとパウロは勧めます。

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(6節)。ユダヤ人は割礼を受けて良いし、異邦人は割礼を受けなくて良いのであって、民族・社会的身分・貧富・男女に関係なく、また幼子・老人でも、強い人・弱い人でも、誰でもイエス・キリストを信じる信仰によって神の前に義とされるのです。

むしろ、イエス・キリストを信じる信仰にとって大切なことは愛の実践が伴っていることです。それはまた、「兄弟たち・・・愛によって互いに仕えなさい」(13節)というようにキリストの体である教会の中で一人一人がキリストの愛によって結ばれており、それぞれの賜物を活かして互いに仕えてゆくことを表しています。

「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(14節)。ここで「隣人」とは、ユダヤ人にとっては助けを必要とする同胞ユダヤ人です。キリスト者にとって「隣人」とは、教会の中だけでなく、この世界で助けを必要とする全ての人のことです。私たちはこのために祈り、実践する使命があります。

2019年度も、私たちは主であられるキリストの僕として、その愛・思い・み言葉に導かれて歩んでゆきたいと思います。                                                                           (主事 八幡正弘)

                    5月19日

キリストが形づくられるまで

ガラテヤの信徒への手紙 4章12~20節

このパウロの手紙を読むと二つの信仰スタイルが見えてきます。一つは、儀式・伝統・戒めなど自分の行いによって信仰生活を全うしようとするものです。一見、熱心なように見えますが、このスタイルはいつの間にか、主語が「神」ではなく、「自分」になってしまいます。聖書が教えている信仰スタイルは主語が「自分」ではなく、「神」である生活です。

パウロがガラテヤの人たちに福音を告げ知らせたとき、彼らはパウロを暖かく迎え入れ、キリストの福音を知った喜びを共に味わいました。しかし、今は「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか」(15節)と嘆くほど、教会にあったはずの喜びが失われ、感謝が消え、信仰生活がとても重く暗いものとなってしまっていたのです。それは間違ったものに熱心になっていたからです。

間違った熱心さはとても危険なものであることを聖書は教えています。「熱心」という語は、「沸騰する」という動詞から派生した言葉だと言われます。ガラテヤ教会は、沸騰したもので大やけどする寸前だったのです。間違った熱心の特徴は、「自分たちに対して熱心にならせようとする」ことであり、福音の恵みから「引き離そうとする」ことです。聖書が教える熱心は、神の熱心です。それは私たちのために救い主を遣わす熱心であり、ヨハネ3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」の「ほどに」という言葉に表わされている熱心です。その神の熱心に応答し、キリストによって自由にされた喜びを感じながら生きているのが、クリスチャンの姿です。その時に私たち一人ひとりの中に「キリストが形づくられる」のです。そのことに熱心な者であり続ける信仰者(群れ)でありましょう。
                             (牧師 末松隆夫)

                    5月12日

神に対して生きる

ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節

15節には「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と、差別的発言ではないかとドキッとするような言葉が書かれています。しかしそうではありません。[律法を持たない異邦人を、私たちユダヤ人は「罪人」と呼んできました]という意味の、自戒を込めた発言であり、そこから律法を誇る者たちに対して「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」(16節)という論理を展開して行きます。かつて誰よりも熱心に律法を守って生きてきたパウロだからこそ言える言葉です。

「義」とは、「完全に正しい」「神と真っ直ぐな関係にある」という意味があります。つまり、罪人であるはずの私たちを、神が罪なしと認め、神と何の隔たりもなく自由な関わりを持つことができるようにしてくださるということです。そしてそれは、律法の行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって可能となるのだとパウロは熱く語っているのです。

19節には「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられているのです」とあります。律法は、それを守ることができない者に罰を求めます。
 その最たるものが「死」です。パウロは律法によって死んだ自分が、神に対して生きるためにキリストと共に十字架につけられていると語り、更に20節で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と告白しています。自分ではなく、律法でもなく、キリストを人生の主人として生きることが、神に対して生きることになるのです。この恵み(福音)に生きる者がキリスト者(クリスチャン)です。

                               (牧師 末松隆夫)

                    5月5日

神に対して生きる

ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節

15節には「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と、差別的発言ではないかとドキッとするような言葉が書かれています。しかしそうではありません。[律法を持たない異邦人を、私たちユダヤ人は「罪人」と呼んできました]という意味の、自戒を込めた発言であり、そこから律法を誇る者たちに対して「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」(16節)という論理を展開して行きます。かつて誰よりも熱心に律法を守って生きてきたパウロだからこそ言える言葉です。

「義」とは、「完全に正しい」「神と真っ直ぐな関係にある」という意味があります。つまり、罪人であるはずの私たちを、神が罪なしと認め、神と何の隔たりもなく自由な関わりを持つことができるようにしてくださるということです。そしてそれは、律法の行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって可能となるのだとパウロは熱く語っているのです。

19節には「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられているのです」とあります。律法は、それを守ることができない者に罰を求めます。
 その最たるものが「死」です。パウロは律法によって死んだ自分が、神に対して生きるためにキリストと共に十字架につけられていると語り、更に20節で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と告白しています。自分ではなく、律法でもなく、キリストを人生の主人として生きることが、神に対して生きることになるのです。この恵み(福音)に生きる者がキリスト者(クリスチャン)です。

                               (牧師 末松隆夫)

                    4月28日

キリストの福音

ガラテヤの信徒への手紙 1章6~10節

ガラテヤの信徒への手紙は、ローマの信徒への手紙とともにマルティン・ルターによる宗教改革の土台になった書簡です。ルターはこの手紙のことを「わたしのケーテ・フォン・ボーラである」と言い表しています。ケーテ・フォン・ボーラとは、彼の妻の名前です。それほどにルターはこの手紙を愛し、信頼していたということでしょう。

パウロはこの手紙で「使徒職」と「福音」の問題について語っています。手紙の端々に「神によって使徒とされた」ことが語られていますが、パウロが自分の使徒職に関して言及するのは、福音がガラテヤ教会の人たちに届くためです。福音を語る者と聴く者との間に信頼関係がなければ、福音は届きません。教会と牧師の間の信頼関係が損なわれた時、その教会は全く魅力を失ったものになってしまいます。パウロは、信頼関係を再構築するところから始めなければならなかったのです。

ガラテヤ教会の人たちは、パウロの去った後、キリストの福音から離れかけていました。信仰生活に入っても、きちんとした福音理解をもっていなければ、私たちもキリストの福音から離れてしまう危険性があります。

「ほかの福音」という言葉を使いつつも、パウロは「福音」はいくつもあるものではなく、一つだけだということを強調しています。それはキリストが示してくださった福音であり、キリストそのものである福音であり、キリストが働かれる福音です。キリスト抜きには「福音」は成立しないし、私たちの救いも成立しないのです。

福音を信じて生きるとは、キリストが今ここに「私」と一緒にいてくださり、「私」に働きかけてくださっていることを信じることであり、キリストとの生きた関係を持つことです                             (牧師 末松隆夫)

                    4月21日 イースター

「恐れから喜びへ」

ルカによる福音書24章36~49節

イエス・キリストの復活は(十字架と共に)キリスト教信仰の神髄ですが、復活の主イエスが様々な人と出会った時の反応は「恐れ」でした。今日の箇所にも恐れる弟子たちの姿が描かれています。復活の主が弟子たちの前に現れたとき、彼らは「亡霊」と思い「恐れおののいた」というのです。そのような弟子たちに向かって手足を見せ、さらに「何か食べる物はあるか」と求め、弟子たちが差し出した焼き魚を主が食べられたことをルカは記しています。その意味はどこにあるのでしょうか?

その背後には「二元論」への対応があると言われますが、日常生活の中に復活された主が深く関わってくださることをルカは私たちに語っているようにも思われます。

さらに行間を読み取るならば、主イエスが弟子が差し出した焼き魚を食べられたことは、弟子たちの食事に連なってくださったことを意味していると言えるでしょう。「何か食べる物はあるか」との主の言葉に応答して差し出された焼き魚は、弟子たちが食べるために焼かれたものだったことが考えられます。復活の主は、空腹のために食べ物を求められたのではなく、弟子たちと食事を共にしたいと願ってのことだったのではないでしょうか。

そして主が食事をされた時、弟子たちは最後の晩餐をはじめ、これまでの主イエスの言動を思い返したはずです。

 復活の主は食事をすることを通して弟子たちと、ご自分とを結び合わせてくださったのです。そしてそれは特殊な(特別な)非日常的な経験ではなく、日常生活の中でその恵みを与えてくださることを示しています。そのことを通して弟子たちは恐れから喜びへと変えられて行ったのです。
                                  (牧師 末松隆夫)