(2021年9月19日の週報より) 

主イエスは我らを担う方

ローマの信徒への手紙14章9節

  「召天」という言葉は、キリスト教の専門用語です。聖書が語る「天」は「空」のことだけではなく、「神の領域」を意味する言葉です。それは言い換えれば、「人間の手の届かない領域」のことだと言えます。

  「天」という人間の手の届かないその場所には、人間の醜い争いや痛みはありません。そのような「天」に召されることは喜ばしいことです。しかし、頭で分かっていても、心はそう簡単についていかない、ということもあるでしょう。私たちは時に、大切な方が「天」にあることの喜びを思いつつも、同時に寂しさや悲しさを抱きます。そのような複雑な思いを抱えたままで神の前に立って祈り、礼拝を献げること、それは決して不信仰なことではありません。神の前でのその正直な姿は、むしろ誠実な姿であると思います。

  「祈り」には、「人間の手の届かない領域に手を伸ばす=私たちにはどうしようもできない事柄を神に託す」という意味があるように思います。自分に何かをする力や手段が全く無くなってしまった、そのような悲痛な無力さを感じる場所にあってなお「祈ることが出来る」というのは、本当に大きな慰めです。そして、無力さに苦しみながら紡がれるその祈りが、たとえどれほど拙いものであったとしても、聖書の神はその祈りをちゃんと受け止めてくださるのです。

  「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となられるためです」。聖書が語る「主」のイメージは、ある一つの命をどこまでも引き受けていく存在、責任を持って担ってくださる存在です。「今ここ」を生きている私たちに対しても、「天」に召された人たちに対しても「主」となられたイエスこそが、私たちの「祈り」を聞いて下さる神なのです。だからこそ、私たちは天にある人々のことを、また悲しみや無力さを抱える私たち自身のことをも、この方に託すことが許されているのです。(牧師 原田 賢)
 
 応答賛美:新生讃美歌366番「神ともにいまして」


(2021年9月12日の週報より)

回復を約束される神

エゼキエル書 36章25~38節

  36章には二つの回復(物質的、霊的)が約束されています。霊的な回復(恢復)は、まず〈汚れが清められる〉ことから始まります。〈汚れ〉は人間を神から引き離す根源的なものとして捉えられ、神と交わるために必要な信頼関係を打ち壊すものとして理解されていました。「罪」という言葉に置き換えてもよいでしょう。その〈汚れの清め〉は、主が注いでくださる「清い水」によってなされます。人が自分の力で〈清め〉を獲得するのでなく、神の愛による一方的な清めがここに語られています。ここに旧約の枠を超えた新約的光を垣間見ることができるように思われます。

  「振りかける」という表現は〈わずかな水〉という印象を受けます。けれども、汚れたものを水で浄化するためには相当な量の「清い水」、あるいは相当に浄化能力のある「清い水」が必要です。新約の恵みに生きる私たちにとって、この「清い水」はイエス・キリストであると解することがゆるされているのではないでしょうか。そこには莫大な神の愛と犠牲が注がれているのです。

  エゼキエル書のキーワードのひとつは「生きる」です。「お前たちは立ち帰って生きよ」と繰り返し語られています。「生きよ」と語られる主なる神は、その一方で「わたしは生きている」と繰り返し宣言されます(16回)。この言葉を「神の厳粛な裁きを導入する誓いの定型句」と解する人もいますが、エゼキエルは単なる定型句を超えたものとして意識していたと思われます。神は生きておられるからこそ、生きることへの招きや回復(新生)の約束ができるのです。

  36節では「主であるわたしが、これを語り、これを行う」と宣言しておられます。ここに私たちの〈汚れからの回復=罪からの救い〉の土台があるのです。一人ひとりを「わたしの民」となし、「お前たちの神となる」と言い切ってくださっているお方を見上げて歩む神の民でありましょう。    (牧師 末松隆夫)
 
応答賛美:新生讃美歌496番「命のもとなる」 


(2021年9月5日の週報より 

牧者となってくださる神

エゼキエル書34章1~16節

34章は「イスラエルの牧者たち」への神の言葉から始まっています。「牧者」とは〈羊飼い〉をさす言葉ですが、10節までの「牧者」は〈王や政治的指導者〉のことです。神は彼らのことを「災いだ」と語っておられます。その理由は「自分自身を養う」という在り方です。神は私たちが豊かになることが悪いとは言っておられません。貧しくあることを望んでおられるのでもありません。富むことを何よりも優先し、そのことだけを追い求める生き方、そしてその結果、弱い者・小さき者が犠牲になってしまうことを「災いだ」(神の御心ではない)と言っておられるのです。ソロモン以降、南北に分裂してしまったイスラエルとユダの王の多くは、神を無視し、神の御旨に反することを行い、神から授かった権威を自分の欲望を満たすことだけに使いました。「牧者」としてなすべきことをしていない(4)「自分自身を養う牧者」の姿と重なります。

けれどもこれは〈王〉や〈政治的指導者〉のことだけではありません。「牧者」には〈祭司〉をはじめとした宗教的指導者も含まれています。また、17節以降に目を向けると、牧草(神の恵み)を踏み荒らし、弱いものを角で突き飛ばし、追いやる「肥えた羊」についても神は厳しい言葉を語っておられます。私たち一人ひとりが「自分自身を養う牧者」であり「肥えた羊」だという自覚を持つことが必要だと言えるでしょう。

けれども感謝なことに、神はそういう私たちを見捨てることなく、神ご自身が牧者となってくださると言われるのです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない」という33章の内容から続いているものです。神は私たちが滅びることではなく、生きることを望まれる方です。そしてそのために具体的に起こされた牧者「ダビデ」(23)こそが、イエス・キリストなのです。私たちがなすべきことは、「立ち帰って生きる」ことなのです。 (牧師 末松隆夫) 

応答賛美:新生讃美歌612番「主イエスをいつも」


(2021年8月29日の週報より 

人々は立ち止まる。それでも物語は続く。

エゼキエル書 33章10~11節

「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか(10節)」。自分たちの過ちを頑なに認めない、そんな人々の姿はもうそこにはありません。「豊かさ」を求めて奔走し、「利益」のために周りの人たちの命を犠牲にし、自分自身の命さえも傷つけていた人々の歩みは、ここで立ち止まります。

  「どうして生きることができようか」。自らの過ちを認めた人々は、こんな言葉を漏らします。「自分の歩みが間違っていた」と認めることは、いわば「自らの人生=自分の物語」を否定することであり、強烈な「喪失体験」です。こうした、何かを失うことにより「自分の物語」が崩れてしまう体験を「危機体験」と呼びます。人々はまさに、生きていく気力を失うほどの危機の中にいたのでした。

  「立ち帰れ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。危機の中にある人々に、「立ち帰れ」と神は呼び掛けます。その呼びかけは「まずは自己責任で私のところまで来い」というような言葉ではありません。この呼びかけは、「“私が一緒にいる”ということを思い起こせ!」と、そんな意味に聞こえてくる言葉です。人々が立ち止まったその現場に、その苦しみを一緒に担う者として、神は共にいてくださる。そのことを思い起こせと、神は語ります。ガラガラと崩れてしまった人々の物語をそのまま終わりにしてしまうではなく、もう一回、神と一緒に新しく組みなおしていくこと。神はそれを望むのだと、聖書は語るのです。

  聖書の人々の物語は何度も「危機」を経験します。その度に、この「立ち帰れ」の呼び声に招かれ、「神と共に生きる物語」へと何度も再構築され続けてきました。そのように、「立ち帰れ」と人々に呼び掛け続けてくださる神が、人々が死ぬことを決して望まない神が、明日からも、私たちと共に生きてくださる。そんな福音と共に、今週も一緒に歩んでいきましょう。  (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌140番「空の鳥を見よと」 


  (2021年8月22日の週報より)

立ち帰って、生きよ!

エゼキエル書 18章30~32節

「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。希望に満ち溢れた言葉です。「お前なんかいなくなった方がいい」と、そんなレッテルをどれだけ貼り付けられていても、「悪から離れて生きろ」と望む神がいてくださる。「そう信じていいんだよ」と、聖書は励ましてくれます。

 「何も信じないで生きること」は、人間には出来ないと言われます。例えば「無神論」という生き方も、「神なんていない」と信じて世界を見るという生き方です。何を信じているかで、実は世界の見え方は全然違うものになります。「今、自分が目にしているものが世界のすべてだ」、と信じながら世界を見るのなら、「世界なんてこんなもんだ」と呪いたくなる時だってあるでしょう。

 「新しい心と新しい霊を造り出せ」と神は語ります。それは「新しい視点を持って世界を見直してみよ」という命令です。讃美歌73番「善き力にわれ囲まれ」の詩を書いたディートリヒ・ボンヘッファーは、ナチスドイツに抵抗したことによって投獄されますが、その牢獄の中で「自分は今、善き力に囲まれている」と語りました。ボンヘッファーは、「私が未だはっきりと目にしていない“善き力”がこの世界に満ちていて、今も私はその力に囲まれている」と信じているのです。その「善き力」は「夜も朝もいつも共にいてくださる神そのもの」だと、ボンヘッファーは言います。

 あなたに「死んでいいよ」などとは絶対に言わない方が共におられると信じて生きてみたら、この世界はどう見えてくるでしょう。生きることを否定していい命などないと信じて誰かと出会うなら、希望の言葉を互いに贈り合いながら生きるなら、この世界はどう違って見えてくるでしょう。どんな時でも私たちに伴われる主イエスがいてくださる。「そう信じていいんだよ」と聖書から励まされながら、また今週も歩んでいきましょう。  (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌550番「ひとたびは死にし身も」 


 (2021年8月15日の週報より)

それでも今日は、泣かなくてよい。

ネヘミヤ記 8章9~12節

ネヘミヤ記は、イスラエルの民が自分たちの罪や傷つけられた痛みから回させられていく姿を物語っています。今日の箇所では、イスラエルの民が、聖の言葉に耳を傾けることで自分たちの多くの罪や多くの傷に気づかされていき、涙を流している姿が描かれています。

「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」。涙を流す人々に、ネヘミヤたちはそう命じます。「聖なる日」というのは、「他と区別された特別な日」という意味です。「あなたがたが喜び祝うために、主が準備してくださった特別な日なのだから、今日は泣かなくてよい」。そういう「命令」です。人々の中にある「罪」や悔いる思い、人々自身が生み出してきてしまった悲惨な状況など、喜ぶことが難しい現状が人々の前には広がっています。しかし、そうした人間側の事情を、神の「命令」は断ち切ります。「今日だけは喜べ」。今、人々が負うべき責任は、この命令を全うすることに集中させられるのです。

この命令は、「今がどれほど泣かなければならないような状況に満ちていたとしても、必ず喜ぶことが出来る日が来る」という神の約束に裏打ちされた命です。この日、人々が味わう喜びは、いつの日か来る「神の国の喜び」の先取です。その喜びが、泣きたくなるような現実を生きていくための「あなたがたの力の源になる(10節)」と聖書は言うのです。

「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい(10節)」と、神は命じます。そこに生まれるのは、人々が心もお腹も満たされていく「食卓の風景」、本当の意味で「平和な風景」です。「平和を実現する人々は幸いだ」というイエス様の呼び声は、このような風景が生み出されることを願っているのではないでしょうか。(牧師 原田 賢)

 応答賛美:新生讃美歌339番「教会の基」


(2021年8月8日の週報より) 

その礼拝は誰のため?

エゼキエル書 8章1~18節

今日の箇所は「偶像礼拝」を問題としています。ここで様々な偶像が出てきますが、実はいずれも「豊かさをもたらす神」という共通点を持っています。ここで言う「豊かさ」とは、〈人間の「欲しい」と言う気持ちに簡単に応えてくれるもの〉だと言えるでしょう。

何かを「欲しい」と思う気持ちそのものを一概に罪とは言えません。問題は、この気持ちの「歯止め」を破壊してしまう「豊かさ」です。「欲しい」の歯止めが無くなり、「欲しい」が止められなくなってしまった人間は、神すらも自分の「欲しい」を満たすための道具にしてしまい、そこに、神から豊かさを引き出すための手段として偶像礼拝が生まれます。聖書は、偶像礼拝をすることで、実は人間たち自身が自分の命に傷をつけていると語ります。

神は、私たちの「欲しい」という気持ちを満たす「豊かさ」ではなく、私たちに「恵み」を与えると聖書は証言します。「恵み」とは、〈今日、私たちが生きていること、私たちに命が与えられていること、私たちが生きるために与えられているこの世界のすべて、「あなたに生きて欲しい」と願う神の思い〉、私たちが気付こうが気付くまいが、実は、もうすでに私たちを取り囲んでしまっているものです。

偶像礼拝は、すでに与えられている「恵み」を投げ捨ててしまうことです。神を礼拝することは、神から恵みを引き出す手段ではありません。引き出す必要がないのです。すでに与えられている恵み、希望、神の思いを探し出して、今日、また新たにこの身に引き受けて、そのことの嬉しさを表現すること。それが、私たちの礼拝です。偶像を礼拝し、豊かさに惑わされて、命を傷つけることを、もう繰り返さない。命を与え、生きるようにと呼び掛ける神を第一として、この神と共に生きる。そんな恵みに満ち溢れた日々へと、今日もまた、神は招いてくださるのです。   (牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌481番「迷い多きこの世」


(2021年8月1日の週報より) 

エゼキエルの証言:食べてみたら甘かった。

エゼキエル書 2章8~3章3節

神はエゼキエルに神の言葉を「食べる」ことを求めます。「言葉を食べる」とは、その言葉を自分の身に引き受けることです。「なんとなく表面上を合わせておしまい」にはならない。自分が変化するほど深く「聞くこと」を意味するのです。

「食べよ」と言ってエゼキエルに手渡された巻物には書ききれないほどの文字が記されていて、そのすべてが悲しみや呻き、嘆きの言葉だったと言います。これを「食べる」となると、「大丈夫だろうか」と不安になります。しかしエゼキエルがその巻物を「食べた」時、不思議なことに、それは「甘かった」と言うのです。「甘い」とは味覚の話ではなく、自分自身の命の底に染み渡っていくような、満たされていくような、そんな感覚を表しています。

「言葉」には、言葉を紡いだ者の思いが込められています。この巻物から伝わってくる思いは「神の悲しみ」、「痛み」を負っている神の姿です。当時、エゼキエルの同胞たちは「恥知らずで、強情(4節)」、聞く耳を閉ざして、自ら意志で悲惨な道へと歩み進めていました。神はそんな人々を見て、痛んでいのです。人々のことをどうでもいいと思っているのなら、神は悲しみません。人々に対して並々ならない思いを持っているからこそ、神は人々を見て悲しむのです。その神の思いこそが、命の底に染み渡るように「甘かった」と、エゼキエルは証言するのです。

その「甘さ」は、自分で食べなければ分かりません。「自分の足で立て(2節)」と語る神は、他の誰かでなく、「自分」が引き受ける者になることを私たちに求めます。しかしそれは、「自己責任」で頑張ることではありません。神は、私たちが「自分」で引き受けることが出来るようになるために、「霊(助け)」を送ってくださる。その神の助けを存分にいただきながら、神の言葉へと自分の手を伸ばす。そんな人生へと、神は今日も私たちを招くのです。      (牧師 原田 賢)  

応答賛美:新生讃美歌230番「丘の上に立てる十字架」