(2020年8月2日の週報より)

エジプトのイスラエル人

出エジプト記 1章1~14

創世記には、ヨセフによってエジプトが飢饉から守られ、宮廷の責任者となったヨセフが父ヤコブや親族をエジプトへ移住させたことなどエジプトとイスラエルの民が良好な関係を構築したことが記されています。それから長い年月が経ち、「ヨセフのことを知らない新しい王」が出現します。「新しい王」というのは、単に次代の王が即位したというのではなく、〈新しい王朝〉になったということだと考えられます。そうであるならば、前の王朝が大切にしてきたものが無視されることは必然です。

「新しい王」はヨセフのことを知らなかっただけでなく、知ろうとしなかった・関心がなかったというのが正しいでしょう。新しい王は自分が支配する国にあって勢力を伸ばすイスラエル人の数だけに目が行き、脅威を感じるようになったのです。もし王がイスラエル人を知ろうとしたならば、脅威を覚えなくともすんだのではないでしょうか。

人が人と対立するとき、多くの場合、相手のことをよく知らず、相手の思いを知ろうとせず、ただ自分の思いだけですべてを判断し、相手の行動を非難し、責め立てて、その結果、関係が崩れていくことが多いように思います。キリストの体である教会の中で、そのようなことは決してあってはならないと強く思います。私たちはエジプトの王になってはならないのです。

神の祝福によって増加したイスラエルの民ですが、他国に寄留しているために差別され、抑圧され、ついには奴隷として強制労働を強いられました。主イエスを信じる私たちもこの世においては寄留者であり旅人です。その歩みの中で、時代や社会の変化に翻弄されることがあります。しかしその現場に、神は介入してくださることを出エジプト記は私たちに教えているのです。   (牧師 末松隆夫)

 応答讃美歌:新生讃美歌552番「わたしが悩むときも」


(2020年7月26日の週報より) 

たゆまず善いことを

テサロニケの信徒への手紙二 3章1~18節

パウロは「主の言葉が…速やかに宣べ伝えられ…」と記しています(1節)。直訳は「主の言葉が走る」です。「主の言葉」とはパウロたちが語っていた宣教のことです。宣教は人の手によって進んでいきます。しかしパウロは、御言葉自体が力をもって人々の内で働き、救いの業をなし、教会を形成していった」と強く感じています。私たちは一生懸命に伝道しなければいけません。しかし、宣教の主体は私たちではなく、神です。救いは私たちの成果ではありません。だからこそパウロは「祈ってください」と祈りの応援を依頼しているのです。

2節には二つ目の祈りのリクエストが記されています。それは「悪人どもから逃れられるように」というものです。これは単に自分の安全を求めてのものではありません。これも主の言葉が走ることと関係しています。

5節までが〈教会の外部〉に関することだったのに対して、6節からは〈教会の内部〉に関することが取り上げられています。そしてそこには「怠惰な生活」という言葉が3回も記されています。10節には「働きたくない者は、食べてはならない」とありますが、「働かない」ことと「働けない」ことは決して同じではありません。パウロは「働けない」人に向かって「怠惰な生活をしている」と批判しているのではありません。

ここには、誤った終末信仰があります。つまり、主イエスの再臨がすぐそこに迫っているから仕事などしておれないと言って働かない人が取り上げられているのです。パウロ自身は「主の日が来る」という信仰を批判してはいません。むしろ、いつ来るか分からない主の日に向けて「たゆまず善いこと」をすることを勧めているのです。その「善いこと」とは、神がそれぞれに託しておられる働きを感謝をもってなすことであり、主を信頼し神が喜ばれる生き方をすることではないでしょうか。  (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌424番「祈りの山路を」 


(2020年7月19日の週報より) 

人間に従うよりも

使徒言行録5章29~32節

ペトロたちは人間に従うよりも、すなわち最高法院のユダヤ人の有力者たちよりも、神に従わなくてはならないと語りました。彼らが力強く語り続けたことは何でしょうか。イエス・キリストの生涯は神の救いの御計画の成就であること、ユダヤ人がイエスを十字架にかけて殺したということ、神はこのイエスをよみがえらせこの方を救い主としてご自分の右に上げられたということ、その目的はイスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるためであること、使徒たちはそのことの証人であること、その保証として聖霊が与えられたということであります。

使徒たちがこのことを繰り返し語りながら、どこにおいても福音を宣教することにより、人に従うより神に従うべき生き方を人々の前に示して、力強くイエスの名による宣教活動を進めたのです。使徒たちの言葉には、信仰を生み出す力がついていました。なぜなら、彼らは、自分たちが実際のイエス・キリストについて聞いたこと、見たことを語るからであり、彼らの中におられる聖霊の力によって、このように語ることが出来たのです。

使徒たちは力強く言っています。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と。そして、この命の言葉を残らず民衆に告げています。イエスの復活、罪の赦し、救い主の証人であることを伝えています。様々な迫害の状況下でも少しも恐れずに、堂々として神様のことを伝えています。その力は彼らの中で働いておられる聖霊の力によるものです。使徒たちに与えられた使命、福音宣教について語り続けている使徒たちを通して、私も皆さんもそれぞれ与えられた使命を確かめ、感謝を持って生きていきたいと願います。 (西南学院大学神学生 林 守鎮(イム スジン)神学生

 応答讃美歌:新生讃美歌376番「友よ聞け主のことば」


(2020年7月12日の週報より)

神の国にふさわしい者とされるために

テサロニケの信徒への手紙二 1章1~12節

テサロニケ教会に対する2通目の手紙の冒頭で、パウロは「感謝せずにはいられません。そうするのが当然です」(3節)と、非常に強い言葉で感謝を述べています。先の手紙でのパウロの願いや祈りにテサロニケ教会の人たちが応えてくれたことがその背景にあるのでしょう。そこに彼らの成長をパウロは見て取ったのです。それと共に、今受けている苦難に対する信仰姿勢をもパウロは喜んでいます。そして、その「忍耐と信仰」について、終末的視点からその意味を語っています。

聖書は、私たち(信仰者)が迫害や苦難に遭うことを当然の前提としています。それは「世」が主イエスの十字架に逆らって歩んでいるからです。方向性が異なる両者に摩擦が起るのは必然です。しかしパウロは、そこに信仰的意義づけをしています。それは「あなたがたを神の国にふさわしくする、神の判定が正しいという証拠」(5節)であるというのです。「神の判定」は他の聖書では「神のさばき」と訳されていますが、神の正しい支配を意味する言葉です。つまり、神は信仰者を「神の国にふさわしい者」へと成長させるために「苦難」をそのままに、ご自身との関わりの中に置いてくださっているというのです。

そして、「苦しみを受けているあなたがたには…休息をもって報いてくださる」(7節)という〈神にある逆転〉が明らかにされています。ここに「主にある者」の希望があります。復活のイエスを主と信じ従う信仰者にとって、「今」の出来事が全てではありません。「かの日」(再臨・終末)に主にある者として神の前に立つことがゆるされている(=救いの完成)ということのゆえに、「神の国にふさわしい者」とされていく過程を喜ぶのです。 (牧師 末松隆夫) 
応答讃美歌:新生讃美歌550番「ひとたびは死にし身も」


(2020年7月5日の週報より)
 

信仰のトライアングル

テサロニケの信徒への手紙一 5章12~28節

5章16~18節の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という御言葉は、多くの人の愛誦聖句として親しまれている聖書箇所です。私はこの箇所を[信仰のトライアングル]と呼んでいます。

この言葉と共に具体的な勧めを、パウロはこの手紙の結びの部分で書き記しています。その一つが教会で責務を担っている人への愛と尊敬です。パウロが去った後も誰かが指導的立場に立って教会の働きを担っていたはずです。その人とパウロとを比較し、不満を持つ人たちがいたのかもしれません。これは秩序の問題です。指導者への尊敬がなくなれば教会は混乱し対立や分裂が起きてしまいます。パウロはそのことを心配し、愛をもって心から尊敬し、互いに平和に過ごすように勧めています。そこから進展して、信仰のトライアングルを語っているです。

「喜び」「祈り」「感謝」は神が望んでおられることです。そしてここで強調されているのが「いつも」ということです。しかし、[神が命じておられるから頑張っていつも喜んでいなければならない]と律法主義的に受け止めてしまったら、その人の信仰には喜びがなくなります。自分の力で実行しようとすると必ず疲れ、挫折してしまいます。

それでは神は私たちに無理難題をふっかけておられるのでしょうか。そうではなく、神が私たちをいつも喜ぶことができるよう導き招いてくださっていると受け止められてきたからこそ、愛誦聖句として多くの人に愛されてきたのではないでしょうか。この箇所にはキーワードがあります。それは「キリスト・イエスにおいて」です。私たちが主イエスとしっかりつながり、その愛を感じ取りながら歩むときに信仰のトライアングルが私たちの内に生れ、「神があなたがたに望んでおられること」が現実となるのです。 (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌507番「主の手に委ねて」