(2025年2月16日の週報より) 

お宝発見! そのときあなたは?

マタイによる福音書13章44~46節

卒園ソングのひとつに『ぼくのたからもの』という歌があります。「みんなと出会えたこと」「あなたの子どもであること」、それが「ぼくのたからもの」と歌われ、「これから出会う人たち」も「きっと、ぼくのたからもの」で閉じています。出会う一人ひとりがその人にとって「宝」となる人生はすてきですね。

主イエスはこの13章で「天の国」のことについて、いろんな〈たとえ〉を用いて語っておられます。その一つが「宝」を見出した人の話です。「宝」とはその人にとってかけがえのない貴重なものです。大切なものは〈金庫〉など安全だと思われる所に保管しておくのが普通ですが、その「宝」は「畑に隠されていた」というのです。これには当時の社会情勢が反映しているようですが、「宝」を見つけた人は、持ち物を売り払ってその畑を購入するという合法的な方法で「宝」を手にします。そこまでしても手に入れる価値があるということを認識していることが強調されていると言えます。次の「真珠」も同様です。ただ、「畑の宝」が偶然見つけたのに対して、「真珠」は探し求めていた「宝」です。この「宝」は何を意味しているのでしょうか?

ひとつは、〈イエス・キリスト(による救い)〉と言うことができるでしょう。「天の国(神の国)」とは、場所のことではありません。〈神の支配〉〈神との交わり〉という関係性のことです。それはイエス・キリストを通して私たちに与えられました。救い主と突然出会う人もいるし、救いを求め続けて最後にたどり着く人もいます。いずれの場合も、その人のこれまでを人生を大きく変える「宝」を手にしたのです。

いまひとつは、13章の行動者が「神」であることを考慮するとき、「宝」は〈私たち〉と見なすこともできます。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し…」と神は言われています(イザヤ43:4)。その「宝」のために、十字架という代価を払ってくださったのです。      (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生521番「キリストには替えられません」 


(2025年2月9日の週報より)   

蛇のように、鳩のように

マタイによる福音書10章16節

主イエスは、弟子たちを宣教の第一線に派遣するにあたって「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語られました。「飼い主のない羊」状態の人々を導き養うために弟子たちが遣わされるわけですが、人々からは歓迎されないことが明言されています。

   この世の人々が根っからの「狼」であるわけではありません。人間の本質は、一人では生きていけない「羊」です。しかし、多くの人が[羊飼いなしに生きていける]と思い込み、他者を傷つけ、自分を太らせる「狼」化してしまっていることを語っておられるのでしょう。

   そのような現実を踏まえて、「だから…」と、弟子たち(私たち)の在り方をイエスは語られました。それが「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」というものです。「蛇」の賢さについては、エバが蛇の巧みな言葉によって「罪」を犯してしまったという記事に引っ張られる形で[ずる賢い]というイメージを持ってしまいます。イエスは弟子たちに対して「ずる賢く」立ち振る舞うことを勧めておられるのでしょうか。そうではないようです。何よりもイエスが「蛇のように…」とだけでなく、「鳩のように…」と語られている点に着目すべきです。一見、矛盾するような両者ですが、切り離せないものとして一緒に語られていることがポイントです。「鳩のように素直に」の「素直になる」とは、[偽りがなく、純粋な者として生きることを指す](聖書教育)と説明されています。キリスト者としての純粋さ(神を第一とする姿勢)を失わないで生きるということでしょう。

   「蛇」は人の間を縫うようにして移動します。人や諸動物の間で生きていますが、周りのものに迎合して生きてはいません。「狼」の中で宣教していく弟子たち(私たち)が、狼になることなく、羊のままで生きていく賢さ、それは自分の力や策略による歩みではなく、神に身を委ね、いつでも神のもとに戻る帰巣本能を失わないで生きることだと言えるように思います。 (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生614番「主よ 終りまで」     


(2025年2月2日の週報より)    

イエスが驚く信仰とは

マタイによる福音書8章5~13節

カファルナウムには、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の駐屯地があり、収税所もあり、ローマとの関わりが深かった町でした。そのローマの百人隊長が中風で苦しんでいる「僕」のためにユダヤ人であるイエスに懇願したというのが話のスタートです。

   「わたしの僕が…ひどく苦しんでいます」との訴えを聞いたイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われています。異邦人に対しても分け隔てなく応対される愛に満ちた言葉として受け止めることができます。

   その一方で、[「わたしが行って、いやすのか」と疑問文と捉えるべきだ]と指摘する聖書学者もいます。そうだとすれば、否定的な要素を伴う意味合いになります。一蹴したいところですが、15章のカナンの女性に対する場面や10章で弟子たちを伝道に遣わす場面のイエスの言葉を鑑みると、疑問文の方がむしろ自然なのかもしれません。ただその場合も[イエスの拒絶は、決して最終的な意思ではなく、拒絶によって信仰の言葉を引き出しておられる]と説明されています。

   いずれにせよ、イエスの言葉を受けて返した百人隊長の言葉は、「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とイエスを驚かせます。自分が願ったことは必ず成就するという揺るがない思いを高く評価されたのでしょうか。そうではなさそうです。

   [信じれば治る]という思いにおいて見つめられるのは〈信じる自分の信仰〉です。今日の箇所で見つめられているのは〈言葉の権威(力)〉です。そしてそこには〈言葉を語る者の権威〉が前提となっています。つまり、百人隊長は、イエスが絶対的な権威者である神の子であるという信仰に立っているのです。そして権威ある〈言葉の力〉は空間や時間を越えても揺らぐことはないということを信じ、イエスの言葉を求めたのです。  (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生130番「永久なる みことば」    


(2025年1月26日の週報より)   

あなたの言葉を、あなたの神に。

マタイによる福音書6章5~8節

祈るとき、「あなたがたは偽善者のようであってはならない」(5節)とイエスさまは言います。それは「人から褒められるための行動」に対する批判であり、祈りの言葉は神に向けるべきものだと示すものでした。神に向かって祈ること、それは当たり前のことにも思えます。しかし実際のところはどうでしょう。私たちは神に向かって祈っているでしょうか。祈るときにさえ、「人からの評価」を気にして言葉を選んでいることはないでしょうか。正直に言って、人の評価を気にした「人に向かう祈り」をしてしまうことが、私にはあります。

   祈りに限らず、様々な事柄で「人からの評価」を気にしすぎてしまうところが、私たちにはないでしょうか。もちろん、人の意見に耳を傾けることや人と合わせることは、あらゆる人が共に生きていくために必要なことであり、大切なことです。しかし、人からの評価をあまりにも気にしすぎて、自分の素直な気持ちを言葉にできなくなっているとするならば、それは辛いことだと思うのです。SNSが浸透し、あらゆる事柄が数字で分かりやすく価値づけられている現代社会は、ひょっとすると、「人から受け入れられる言葉以外は口にできない」という空気を作りやすくなっているかもしれません。そのような空気が蔓延すると、そこは息苦しい場所になってしまいます。素直な自分の声を受け取ってもらえること、褒められたりせずとも「あなたはそう思うんだね」と聞いてもらえること、その単純なことを、私たちは必要としているのではないでしょうか。

   イエスさまは、人に聞かせられないような思いが秘められた「隠れたところ」にある言葉で、率直に神に祈るようにと招きます。その祈りの中でこそ、飾られることのない素朴な「あなたの言葉」を、尊い一人の声として受け取ってくださる「あなたの神」に出会うだろうと、イエスさまは励ますのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生535番「われは主のもの」    


(2025年1月19日の週報より)  

愛とは闘いだ -命に踏みとどまるための憎しみへの反逆-

マタイによる福音書5章43~44節

「敵を愛し、迫害する者たちのために祈りなさい」(44節)。このイエスさまの命令は本当に難しいものであると思います。この命令は、弟子たちをはじめとした大勢の人々に向けて語られた言葉であると思われます。その人々は、ローマ帝国の支配に苦しめられてきた人たちでした。この人々に、この命令はどう聞こえたでしょう。傷を負わされてきた者たちの悲しみや悔しさを思うとき「敵を愛すること」ほど愚かなことはないと思わないでしょうか。むしろ、「受けた痛みの分だけでもやり返さないと被害者たちが報われない」と言いたくなってしまうのではないでしょうか。

   イエスさまはガリラヤに立ち、歩まれました。そこはとりわけ差別が集中し、苦しみが積み重なってきた場所でした。だからこそ、苦しみを負い続けている者たちの悔しさや復讐したいと思うほどの憎しみを、イエスさまは身をもって知っておられたはずです。しかし、そのイエスさまが報復の論理を覆して、人々に新しい道を指し示そうとして語ったのが、この命令の言葉でした。そこに命のために愛を選び取ろうとするイエスさまの闘いが見えてきます。

   報復の論理は絶え間のない暴力の連鎖を生み出します。その連鎖を断ち切るために愛を選び取る道を、イエスさまはその身をもって示します。イエスさまは被害者たちの苦しむ声を引き出し、受け止めて共感し、癒していかれました。そして加害者たちの行いを批判し、過ちを繰り返さないようにと反省を促して、「加害者」というアイデンティティから脱する道を拓かれました。イエスさまの生きた道は、被害者と加害者の双方を憎しみから解放するための闘いでした。その闘いの果てに立つ十字架に、今日の私たちの生き方が問われているのです。   (牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生339番「教会の基」   


(2025年1月12日の週報より)  

希望への方向転換

マタイによる福音書4章12~17節

神を信じることは「希望を持って生きること」だと言えます。「希望を持つ」とは、問題に対処できる答えを持っていることではなく、「様々な可能性に開かれていること」を意味します。それは、現状の苦しみと向き合いつつも支配されず、現状が変わるきっかけを探し出して受けいれるために、いつも心を開いている状態だと言えるでしょう。

  反対に希望を失うことは「心を閉ざすこと」を意味します。人は長く苦しみを経験し続けると、それ以上痛みを入れないように閉鎖的になります。閉じた心は、「どうせ駄目だ」と諦めの思いを抱くようになります。何かを信じて傷つくよりも、はじめから何も信じない方が楽だと思ってしまうからです。しかし、閉じた心は孤独と空虚さに支配されて、次第に生きる力そのものを失っていきます。だからこそ、その閉じてしまった心も、本当は「解放されること」を求めているものではないかと思うのです。

   マタイ4章は「ガリラヤ」という地にイエスさまが来られたことを記します。ガリラヤは、かつてアッシリアに支配された時に「民族混合政策」が実施され、様々な人々が混ざり合う場所になりました。そこに住む人々は周辺の大国から搾取を受けるばかりでなく、「純粋なユダヤ人」からも「異邦人のガリラヤ」(15節)と差別を受けることになります。長く続く苦しみの中で、人々の心は閉ざされていきます。その「暗闇に住む民」(16節)のところに、イエスさまがやって来られ、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(17節)と語り始めます。「悔い改める」の原語である「メタノイア」というギリシア語は「方向転換」を意味します。イエスさまは、閉じてしまった心を「天の国」という希望の未来に向かって開け放つようにと、「どうせ駄目だ」という思いから「きっと駄目じゃない」という思いへと方向転換するようにと、励ましを語り始めるのです。      (牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生464番「主が来られて 呼んでおられる」   


(2025年1月5日の週報より)  
 

もう一つの“降誕”物語

マタイによる福音書3章13~17節

神を信じることは「新しく生まれること」だと聖書は語ります。神を信じる時、自分の思い・価値観・視点を一旦脇において、神の思い・価値観・視点に心を向けることが求められます。そしてその神の思いとの出会いは、自分の生き方を問い、変革させるのです。その「新しく生まれること」を象徴し、神と共に新しく生きることを告白する行為として、教会は「バプテスマ」を大切にしてきました。

   マタイ3章は〈イエスさまがバプテスマをお受けになる〉という衝撃的な箇所です。イエスさまに新しく生まれる必要があったというのでしょうか。バプテスマのヨハネは、イエスさまが自らのもとに来たことに驚き、語りかけます。「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(3:14)。ここに、ヨハネの戸惑いが表れています。

   イエスさまはヨハネに応えます。「今は、止めないで欲しい」(3:15)。まるで、〈これで良いのだ〉と励ますようなイエスさまの言葉を受けて、ヨハネはイエスさまにバプテスマを授けます。この時、天から聞こえて来た「わたしの心に適う者」(3:17)という言葉は、「神の心=神の思い・価値観・視点」がイエスさまの姿に現れていることを示します。そして、私はここに、人々のもとに「降誕」する神の姿を見るのです。

   パウロは、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6、7)と語ります。自らの在り方を変えて私たちと同じ場所に立ってくださること、それこそが、神が“降って生まれる”ことの意味だと思います。私たちのために自らを変えて新しく生まれてくださり、私たちと同じ視点から「神の国」という希望の未来を指さして、導こうとしてくださる。そうまでしてでも、私たちと共に在ろうとする神の心は、今も変わらず私たちと出会おうとし、「信じるように」と私たちを招くのです。      (牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生550番「ひとたびは死にし身も」  


(2024年12月29日の週報より) 

命を与える方、命を奪う者

マタイによる福音書2章13~15節

12月9日の礼拝で紹介した水野源三さんは、命を与えられた者として、救い主の誕生を心から感謝し喜び祝っています。救い主の誕生を祝う、それはクリスマスという特別な日だけでなく、毎日がそうであることが大事です。

クリスマスの喜びに包まれていたヨセフに天使のみ告げがあります。しかし喜びの知らせではありません。危機的状況の知らせです。その知らせを受けてイエス一家はただちにエジプトに避難します。救い主が難民となり他国に逃げなければならなくなった原因はどこにあるのでしょうか。ある人は[学者たちがユダヤ人の王が誕生したという知らせをヘロデ王にもたらしたからだ]と理由づけています。たしかに、学者たちが星の導き(神の導き)にしっかりと心を向け続けていたら、ヘロデ王に面会することなくベツレヘムにたどり着けたかもしれません。しかし、最大(直接)の原因はヘロデ王の心の闇です。策略家であり猜疑心が強いことで知られるヘロデ王が「ユダヤ人の王」が生まれたことを聞いて、平常心でいられるわけがありません。イエスの命を奪うことに躍起になったことは想像に難くありません。

そしてそれは、学者たちが宮殿に立ち寄らずに帰って行ってしまったことを知ったとき、ベツレヘムの2歳以下の男の子をことごとく殺させるという残忍な暴挙へと発展します。このヘロデによる幼児虐殺の出来事は、この世の不条理を象徴していると言えるでしょう。現代でも不条理と思えることは数え切れないほど起きています。そのような不条理が救い主誕生に合わせて起こったという聖書の知らせは、救い主がそのような不条理の世界に生まれて来られたということを私たちに告げていると言えます。人間の闇(罪)の中にイエス・キリストの誕生があり、そして十字架があったことを聖書は語っているのです。それは、この私たちが命を与える方によって、生きる者となるためです。     (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生496番「命のもとなる」 


(2024年12月22日の週報より) 
 

それぞれの宝の箱を開けて

マタイによる福音書2章9~12節

マタイが記すクリスマスは、ヨセフの信仰(1)と東方から駆けつけた学者たちの信仰(2)を私たちに示しています。ユダヤの人たちが長年待ち望んでいた救い主の誕生ですが、町の人たちがイエスのもとにかけつけたという記載はありません。とても残念なことです。そこには「救い主」に対する思い込みがあったのでしょう。私たちも自分勝手な思い込みで心を縛ってしまっていると、神の恵みが見えなくなるということを教えてくれているように思います。

異国からやってきた学者たちは、幼子に対して「黄金、乳香、没薬」を献げ礼拝しました。伝統的に「黄金」は〈王としてのイエス〉に、「乳香」は〈神であるイエス〉に、防腐効果がある「没薬」は〈十字架のイエス〉に対する献げ物だと言われます。そのどれもがとても貴重で高価なものですが、マタイが書き添えている「宝の箱を開けて」という言葉に着目しましょう。

自分にとって「宝」と感じているのは何でしょうか。「宝」とは、高価なものということ以上に、その人にとって大切なもの、かけがえのないものです。〈子宝〉という表現はまさにそのことを語っています。主イエスは「あなたの宝のあるところに心もある」(マタイ6:21)と言われました。自分にとってかけがえのないものが入っている「宝の箱」、それは「心」を象徴していると言ってもいいでしょう。その「宝の箱」を開けて、学者たちは自分にとって価値あるものをイエスに献げ礼拝しました。それは、これまでの「宝」以上に、イエスの誕生が価値あるものだという信仰の表明です。私たちも、それぞれの「宝の箱」を開けてクリスマスを祝うとき〈イエス・キリストが今、わたしの心に生まれた。その愛の深さに気づくこのクリスマス〉になるのです。   (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生180番「イエスがこころに」