(2022年10月2日の週報より)  

心を動かす神

エズラ記 1章1~11節

エズラ記は、バビロンにおける捕囚の民としての生活が終わり、エルサレムへと帰還し、神殿を再建する様子を描いています。その冒頭で、それらの出来事は、神が人々の心を動かして御自身の約束を実現されるものであること、つまり、歴史を動かすのは神であり、その神に用いられるのがキュロス王やイスラエルの人々であることを、エズラ記は読者にアピールしています。
時は、キュロスがバビロニア帝国を倒してペルシア帝国の王として即位した紀元前538年です。キュロスは、神殿を建てるためにエルサレムに帰還するよう布告しますが、それは神が自分に命じられたことだと説明しています。

   キュロスから始まるアケメネス王朝の王たちは、一神教のアフラマズダを崇拝していたと言われます。異邦人であり、他の神を信奉していたキュロスです。これまで、神が異邦人を動かす時は、イスラエルを裁く道具として用いられることがほとんどでした。バビロン捕囚もその一つです。しかしここで神は、イスラエルを再建し、神を礼拝する神殿を再建させるために異邦人であるキュロスを用いられたのです。

  神はキュロスだけでなく、イスラエルの民の心をも動かされます。その結果、エルサレムに向かう人が起こされ、バビロンに残った人も神殿建築やそれに携わる人々の生活に必要な資材や金銀を献げることを通して、神の御業に参与します。一つの共同体が何かに取り組むとき、すべての人が同じ行動をとるということは不可能です。それぞれに立場があり、なすべき課題を持っています。大切なのは、同じ方向へと心を向けることです。

  神によって「心を動かされる」、それはまさに聖霊の働きだと言えるでしょう。神(聖霊)が人の心を動かすとき、私たちは礼拝へと心が向けられます。奉仕へと心が向けられます。そして、主の働きをなす者たちを支える思いへと心が向けられ、何よりも、神の約束に生きる信仰者としての思いへと心が向けられるのです。 (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌510番「主の言葉の」     


(2022年9月25日の週報より)    

はじめがあり、終わりがあり

ダニエル書12章1~13節

時々、「聖書は難しいですね」という声を聞きます。確かに語られている内容がよく理解できないという箇所は少なくありません。特に、幻が語られ、私たちが想像できないような生き物が描かれているヨハネの黙示録やダニエル書などはなおさらです。しかも、終わりの時のことが語られているため、信仰歴の長い人でも分からないというのが現状だろうと思います。

   12章は、10章から始まった終末的な戦いについての幻の最後の部分です。ここに登場する「北から現れる王」(11:21)、「憎むべき荒廃をもたらすもの」(12:11)は[シリアの王アンティオコス・エピファネス]のことだという見解を多くの神学者が示しています。けれども、主イエスも終末について語られた中でこのダニエル書のことを引用しておられることなどから、過去のこととしてではなく、終末に向けて歩んでいる現代の私たちへの黙示(啓示)として読むことが求められていると言えるでしょう。

   私たちはキリストの再臨(救いの完成)を願います。しかしながらそれは、平穏な日々の延長戦上に終末や再臨があると思うからであって、終わりの時には未曾有の苦難があるという聖書の言葉にたじろぎます。そのような私たちに対して聖書は苦難の中にある神の民を神が守ってくださること、そして永遠の生命へと招き入れられるという希望を語っています。

   ダニエルは事の詳細を尋ねますが、「終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている」という答えが返ってきます。主イエスも「あなたがたは、その日、その時を知らない」と繰り返し弟子たちに語られています。

   未来のことは私たちには分かりません。ただはっきりしていることは、この世の“はじめ”があったように“終わり”もあるということです。その日に向けて、しっかりと主を見上げながら、また、主の言葉に応答しながら生きて行く、それが終わりに備える信仰者の生き方なのです。 (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌614番「主よ 終わりまで」     


(2022年9月18日の週報より)     

あの命たちは、失われたのではない。

マタイによる福音書22章31~33節

キリスト教は「召天」という言葉を使います。聖書において、「天」は「空」のことだけではなく、「神の領域」を意味する言葉です。死に別れた人々は何もない場所に行ったのではなく、神のいてくださる場所へ行ったのだという信仰が、この「召天」という言葉には込められています。

   今日の箇所は、イエスさまがサドカイ派の人々と「復活の有無=死後の世界があるかないか」について論じている箇所です。サドカイ派の人々は、「復活はない=この世の時間がすべて」だと考えていました。このサドカイ派の人々に向かって、イエスさまは語ります。「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(22:31、32)と。アブラハム、イサク、ヤコブとは、イスラエル民族の始祖たちであり、はるか昔に地上での人生を終えた人々でした。神は、この人々の神で「ある」と現在形で語られます。ここでイエスさまが言われたことは、〈今もなお、神がアブラハムたちの神で在り続けていること〉と、〈その神が死んだ者の神ではなく、生きている者の神であること〉です。それは、アブラハムたちと神のつながりは「死」で終わることはなく、彼らが神との関わりの中で今なおも生き続けていることを示すものでした。

   讃美歌「いつくしみ深き」(原題:what a friend we have in Jesus)は、イエスさまは私たちの「友」となり、憐れみと労りの思いを持ってどこまでも伴って下さる方であると歌います。聖書は、このイエスさまの姿こそが神の姿であると語ります。この深い慈しみをもった神の伴いが死の向こう側でもなお続いていくのだと、聖書は語るのです。死に別れた方々の命は失われてしまったのではなく、今もなお、神の伴いの中で生き続けています。そして私たちもその神の伴いの中で、今日を生きることへと招かれているのです。(牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌431番「いつくしみ深き」    


(2022年9月11日の週報より)    

不自由な王と神の救い

ダニエル書6章19~23節

今日の箇所から、ペルシャによる支配の時代に入ります。ダニエルは、その王国の中でも優遇されます。そして、そのダニエルに嫉妬した国の役人たちは、ダニエルを陥れるためだけの身勝手な法律を作り出してしまいます。「向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をするものは、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる(8節)」。この時代の王であったダレイオスは、うかつにもこの禁令に署名してしまい、ダニエルを獅子の洞窟に投げ込むことになってしまいます。ダレイオスはダニエルを救うために必死に努力しますが、自ら署名してしまった身勝手な禁令を前に沈黙させられるのです。

   このような状況で、ダニエルは自由な振る舞いを見せます。彼は、王が禁令に署名したことを知った上で、「いつものとおり」、神に祈ったというのです(11節)。彼は普通の行いとして、まるでそうすることが当たり前であるかのように禁令を破ります。この「いつものとおり」のダニエルの姿には、〈禁令を破って自らの神に祈りを献げるダニエルと個人の内面の自由を支配するような法律、本当におかしいのはどちらの方か〉という問いがあるように思えます。

   ダレイオスは、まるで縋るように、ダニエルに声をかけます。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように(17節)」。この言葉はダニエルへの言葉であると同時に、もはや神への祈りでもあるのではないでしょうか。すなわち、あの禁令をダレイオス自身がここで破っていると言えるのではないでしょうか。ダレイオスは、思わず神に祈り、神に希望をかけます。そしてダニエルが神によって獅子の脅威から救い出された時、ダレイオスは誰よりもその神の御業を喜びます。ダニエルと共に、あるいはダニエル以上に、ダレイオスが救われたのです。〈人間の身勝手な禁令を前に不自由にされていくダレイオスに、神は「信じる自由」を与えた〉、そのような神の救いの物語がここで語られているのではないでしょうか。(牧師 原田賢)
 

応答賛美:新生讃美歌300番「罪ゆるされしこの身をば」   


(2022年9月4日の週報より)   

その希望は奪い取れない

ダニエル書3章14~18節

バビロンの王ネブカドネツァルは、巨大な金の像を建築します。そして、その像を拝むことを人々に強要し、従わない者たちは燃え盛る炉に放り込むと人々を脅していました。そうした状況の中で、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人は金の像を拝むことを拒否します。そのことにネブカドネツァルは怒り、3人を燃え盛る炉の中に放り込んでしまいます。ところがそこで、火の中に神の子のような「4人目」が現れます。最終的にシャドラクたちは衣服が焦げ付くことすらなく、火の中から出てくることになります。〈圧倒的な苦難の中で、それでも神の希望が勝利する〉、そのようなメッセージがここに込められています。

   現代の私たちには、明確な抑圧の象徴である「金の像」は見当たりませんし、燃え盛る炉の中に投げ込まれることなどほとんどありません。しかしこの社会の中で生きることに苦難を感じている人、「死にたい」とつぶやかざるをえない人は決して少なくありません。現代においても、暗黙のうちに服従を強要して命を抑圧する「金の像」は、目に見えない形で存在しているのかもしれません。

   ダニエル書は神の国の福音を物語ります。それは神が涙を拭ってくださる日の約束であり、未来を拓く希望です。それは確かに多くの人を励ましてきました。しかし苦難が積み重なる中で、人間はこの約束を信じることが出来なくなっていきます。「今」が苦しすぎて、「未来」を待てなくなるのです。そこに、ダニエル書はもう一つの福音を語り始めます。それは火のただ中に伴われる神の姿です。「今」に襲い来る圧倒的な苦難のただ中に、苦しめられている者たちと同じ場所に立ち、火の中から救い出されるその時まで伴い、導かれる神の姿です。どれほどの苦難の時にも、私たちに生きることを望んでくださる神が私たちの傍らから離れることはありません。理不尽な死の脅しも、燃え盛る炉も、この希望を奪い取ることはできないのだと、ダニエル書は語るのです。    (牧師 原田賢)
 

 応答賛美:新生讃美歌326番「ガリラヤの風」  


(2022年8月28日の週報より)   

力なき者たちの祈りと希望

ダニエル書2章17~23節

イスラエルがバビロンに支配されていた時代、バビロン王ネブカドネツァルはある夢を見ます。その夢によって不安を抱いたネブカドネツァルは、夢の意味を知ろうとし、バビロン中から賢者たちを呼び集めます。ここで、ネブカドネツァルは夢の解釈だけではなく、「夢そのものを言い当てろ」と賢者たちに要求します。賢者たちは「それは人間には出来ない」と答えます。その答えに腹を立てたネブカドネツァルは怒り、バビロン中の賢者たちを皆殺しにするように命令し、ダニエルたちも命を狙われることになったと、今日の箇所は語っています。

   国の中で要人的な立場であったと思われる賢者たちが、王の無理難題に答えることが出来なかったことを理由に切り捨てられていきます。こうした描写は、絶対的な権力者による「服従か、死か」という強烈な抑圧が人々にあったことを物語っています。まして無力な民衆たちや奴隷のように扱われていた人たちの命は、もっと簡単に切り捨てられていたのではないかと思わされます。

   イスラエルは数百年にわたって列強国からの支配を経験します。実にダニエル書は、この長い支配に苦しみ続けた人々を支え続け、励まし続けた書物であったと言われています。ダニエル書は、今はまだ現実とはなっていない「幻」という形で「神の国」の福音を語ります。それは「人間の権力者による理不尽な支配を神が終わらせてくださる日」の幻です。人々はこの幻に希望を見出して、過酷な現実を歩んでいったのでした。

   ダニエルたちは祈りの中でこの幻を見出していきます。祈りは、ある意味では人間の無力さを象徴します。しかし同時に、目の前の理不尽な現実に対する抵抗でもあります。ダニエルたちは「服従か、死か」という抑圧的な現実に抵抗し、神に助けを求めて祈り、今はまだ見えない神の国の幻に励まされて、ネブカドネツァルの前に立っていきます。聖書は過酷な現実を目の前にする時こそ祈りへ、絶望しか見えない時にこそ希望へと、私たちを招くのです。  (牧師 原田 賢)
 

応答賛美:新生讃美歌430番「しずけき祈りの」  


(2022年8月21日の週報より)    

異教の国で信仰者として生きる

ダニエル書1章1~21節

捕囚の地バビロンへ連れて行かれた人々の中から宮廷に仕えるべく選ばれた少年たち(ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ)に対してネブカドネツァル王がとったのは、名前をバビロン化し、自分たちの言葉と文学(宗教)を教え、同じ食事を取らせるという[同化政策]でした。それは、その人の人格とこれまでの生き様を否定するものに他なりません。かつて日本政府が「八紘一宇」の名のもとで同じことをして朝鮮半島の人たちの人権を損ねたこととオーバーラップします。私たちと決して無縁な話ではありません。

ダニエルと同じように異教の国に住んでいる私たちが大切にしなければならないことは、宗教的アイデンティティの保持です。ダニエルは「宮廷の肉類と酒」を口にしないことでそれを守ろうとしました。その理由は諸説ありますが、「自分を汚すまい」との言葉から、神の戒めに違反する行為、特に偶像礼拝と関係が深いように思われます。王が差し出す料理を辞退するということは、身に危険が及ぶおそれもある行為です。まさに、命をかけて自分の信仰を守ろうとした勇気ある毅然とした態度です。

しかし同時に、彼がすべてを拒否したのではないことを心に留めておくことも必要です。妥協してはいけないこととそうでないこととの分別が私たちにも求められています。その判断は[信仰の良心]です。「あの人がやっているから…」ではなく、[私]と神との間で決めることです。

様々なところで異教の考え方や価値観が浸透している社会に私たちは生きています。その中でキリスト者として生きるためには、「心に定めた」ことに対しては、毅然とした態度でしっかりとそれを保持していくことが求められています。同時に、ダニエルが侍従長に対して示したように、周りの人への配慮も忘れない者へと導かれたいものです。                (牧師 末松隆夫)

応答賛美:新生讃美歌519番「信仰こそ旅路を」 


(2022年8月14日の週報より)    

Peacemakers

マタイによる福音書 5章9節

77回目の「敗戦記念日」を前にした今日、「平和を実現する人々は、幸いである」との主イエスの説教から恵みに与ります。

   主は私たちが「神を愛し、隣人を愛する者となる」ことを望んでおられますが、それはユダヤ教のテーマでもあったものです。ただ、そこでの「隣人」は、ユダヤ人であることはもちろん、律法をきちんと守っている“正しいユダヤ教徒”という非常に狭い概念(枠)でした。主はその“枠”を取り払い、「隣人」を相対化したうえで「敵を愛せよ」「平和を実現せよ」と言われるのです。

   平和は誰しもが願っていることです。しかし、「願う」ことと「実現する」こととは違います。主の言葉は、平和のないところに平和を作り出していくことを私たちに求めておられるものです。主は、私たちの現実(争いの火種を内に持っている私たち、平和を作り出していく力を持たない私たち)を知っておられるお方です。しかし、それを承知の上で、この言葉に立って生きるようにと、私たちに投げかけられるのです。

   「平和を実現する人々」と訳された語は、ギリシア語では「エイレーノポイオイ」という一つの単語ですが、新約聖書にここだけにしか出てこない言葉です。福音書の著者はきっと特別な思いをもってこの言葉を書いたのでしょう。日本語訳では「平和をつくる者」(新改訳)、「平和をつくり出す人々」(口語訳)ですが、英語では「Blessed are the peacemakers」(NKJ)(RSV)と訳されています。

   peacemakerとは「仲裁人、調停者」という意味です。つまり、間に立って争いを収める働きを担うことを主は求めておられるということです。お互いの間に立つこと、それぞれに寄り添うこと、それは決して楽なことではありません。時間もエネルギーも費やします。しかしそのことによって小さな平和が実現したら、それは大きな働きです。peacemakerであるためには、自分の中に「平和」がある必要があります。まずは私たち自身が、キリストの平和をしっかりといただいていることが大切です。そこから平和づくりを始めましょう。  (牧師 末松隆夫)
 

応答賛美:新生讃美歌326番「ガリラヤの風」