(2025年9月14日の週報より) |
信じて一歩を踏み出すときに ヨシュア記3章1~17節 約束の地に向かったイスラエルの民ですが、ヨルダン川を前にして3日間、川の手前に留まっています。そこには、新しい事態に直面した者が抱く不安、目の前の障害に対応できずにいる者が抱く落胆が横たわっています。 そのような状況下でヨシュアは神の言葉を聞き、民に語りました。それは、契約の箱を担いだ祭司を先頭にヨルダン川に足を踏み入れるというものであり、その時に水はせき止められるという神の約束でした。蕩々と流れる川を前に、そんなこと誰が信じることができるでしょうか。しかしヨシュアは信じました。祭司たちも信じました。そして祭司たちの足が水に浸ったとき、神の言葉どおりになり、川床を歩いて渡るという奇跡が起こりました。 出エジプト時にも川床を歩いて渡るという奇跡を経験していますが、その時との違いの一つが、祭司たちの足を実際に水の中に踏み入れたときに水が分かれたということです。そこには神への絶大な信頼と勇気が必要です。まさにそれが信仰であることを教えられます。 私たちは状況の変化を先に求めるところがあります。けれども神はその状況を創られた方であり、その状況を変えることができる方であることを、私たちは心に留めておく必要があります。その神の言葉、神の要求を第一として歩むことの大切さを聖書は一貫して私たちに示しているのです。 4節には「これまで一度も通ったことのない道であるが…」とあります。私たちが歩む人生という道、信仰生活という道、教会形成という道は、常に新しい道です。先が見通せずに不安を覚えるときもあります。しかし、どのような状況下でも、神への信頼を失うことなく、神の言葉に後押しされて、信仰の一歩を踏み出していく、そのような一人ひとりでありたいものです。 (牧師 末松隆夫) |
応答讃美歌:新生507「主の手に委ねて」 |
(2025年9月7日の週報より) |
モーセと共にいたように ヨシュア記1章1~9節 奴隷として苦役を強いられていたイスラエルの民をエジプトから導き出したモーセの生涯は、波乱に満ちたものでした。けれどもそこに自分の役割を見出しその使命のために生き抜くことができた人生は、生き甲斐のある生涯であり、充実した人生であったと言えるでしょう。残念ながらモーセは、約束の地に足を踏み入れることはできませんでしたが、彼はそのことをしっかりと受け取っています。約束の地までの[水先案内人]としてのモーセの働きによって、ヨシュアたちは約束の地に入ることができたのです。教会も、遠くを見据えての「今」の働きがあってこそ、次の世代の人たちが神の業に与ることができます。一人ひとりがモーセのような役割を担うことも、私たちに求められている神の働きであることを覚えたいものです。 モーセの後継者としてヨシュアが選出されたのは、民の多数決ではなく、神の選びによるものでした。ここに神の民(教会)の特殊性があります。教会の政治は会衆政治であり民主主義です。しかし、それ以上に神の意志が優先されます。だからこそ何事も祈って神の御旨を求めることが必要なのです。 ヨシュアを指導者として立てられた神は、ヨシュアに対して「強く、雄々しくあれ」と励ましの言葉を繰り返し語られました。ヨシュアの心に不安や恐れがあったからでしょう。その神の励ましの土台となっているのが「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」という力強い約束です。 神の働きを担っていくには、勇気を必要とします。私たちが新たな一歩を踏み出そうとするとき、不安や恐れを覚えます。しかし神は「あなたと共にいる」から恐れなくていい、心配しなくていいと言ってくださるのです。その神の御声を心に留め、主にあって勇気をいただきながら、今日という日を過ごして行きましょう。 (牧師 末松隆夫) |
応答讃美歌:新生510番「主の言葉の」 |
(2025年8月31日の週報より) |
時を献げる - 慌ただしい日々に安息を - ルカによる福音書10章38~42節 礼拝とはどのような「時」でしょうか。それは、〔他の時とは区別された特別な時であり、神と言葉を交わす時〕だと言えるでしょう。それは「普段の生活」を一時中断し、神との交わりのために時を献げることを意味します。その特別な時の中で〔神と共に生きる自分〕を取り戻して、また新しい気持ちで「普段の生活」へと向かっていくのです。 |
応答讃美歌:新生140番「空の鳥を見よと」 |
(2025年8月24日の週報より) |
巡り巡って、またここへ。‐過ちと赦しの物語‐ 申命記30章15~20節 申命記29~30章は「モーセの第三の説教」と呼ばれます。基本的な内容はそれまでと同じで、〔あなたの幸いのために、主なる神に仕え、その戒めを守れ〕というものです。そして、その戒めを守らないならば「呪い」が臨むという、恐ろしいことも語られます。「呪い」については、これ以前の箇所で詳しく語られていますが、その中で注目すべきは「エジプトに送り返される」(28章68節)だと思います。つまり「呪い」とは〔エジプトの奴隷生活=非人間的な生活の再来〕だと理解することができます。そして、その苦しみの歴史を繰り返さないようにと願って〔新しい道を選べ〕と語る、それが申命記の中心的なメッセージです。 |
応答讃美歌:新生521番「キリストには替えられません」 |
(2025年8月17日の週報より) |
愛に生きる道‐あなたが幸いを得るために‐ 申命記10章12~20節 申命記10章は、神の求めを語ります。神が求めているのは、「わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ること」(13節)だと言います。その「主の戒め」の内容として語られるのが、「寄留者を愛しなさい」(19節)という言葉です。 |
応答讃美歌:新生342番「教会世にあり」 |
(2025年8月10日の週報より) |
神の願いへ立ち帰れ エゼキエル書18章30~32節 イエスさまは「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と語ります。しかし、その言葉に従うべきキリスト者たちが、これまでの歴史の中で幾度となく平和を壊してきました。〔宗教があるから戦争がなくならない〕と言われるような状況をつくりだしてしまったところに、私たちの背きの罪があります。 |
応答讃美歌:新生326番「ガリラヤの風」 |
(2025年8月3日の週報より) |
神は今、あなたに語りかける 申命記5章1~6節 出エジプトから40年、モーセは再び「十戒」を人々に語ります。エジプトの苦役を知っている世代がだんだんと少なくなり、新しい世代が共同体の中心になりつつある中で、十戒を継承できるかどうか、それがこの時の課題でした。 |
応答讃美歌:新生300番「罪ゆるされしこの身をば」 |
(2025年7月27日の週報より) |
呪いと祝福 民数記23章1~30節 21世紀の現代でも「丑の刻参りセット」(藁人形・五寸釘・ハンマー等)がインターネットで販売されています。[誰かに呪われているかもしれない]と考えると、気持ちいいものではありません。日頃「呪い」とは無縁な生活をしていても、災いが続くと、[供養が足りないから呪われている]などの声を無視することができずに財産をだまし取られてしまうという被害もよく聞くことです。「呪い」という束縛から解放されることが平安へとつながっていくと言えるでしょう。「呪い」は人を苦しめることはあっても、幸せにすることはありません。 |
応答讃美歌:新生301番「いかなる恵みぞ」 |
(2025年7月20日の週報より) |
神にひれ伏すことの意味-神の招きに応える者へ- 出エジプト記4章27~31節 「礼拝とは何か」と礼拝の本質について考える時、重要な要素がいくつか見えてきます。その中の一つに、「神にひれ伏すこと」があります。 |
応答讃美歌:新生464番「主が来られて呼んでおられる」 |