(2025年6月15日の週報より)    

はじまりのしるし

ローマの信徒への手紙6章1~4節

バプテスマは、信仰者としての人生の「はじまり」を象徴します。それまでの日々も決して無下にはされませんが、それでも「信仰者」としての歩みはバプテスマから始まります。バプテスマは「一緒に生きよう」と招く神に応える行為です。信仰者として歩みは、神の招きに応えるところから始まるのです。

  パウロは、キリストの死と復活に重なるものとしてバプテスマを語ります。人はバプテスマによって「キリストと共に葬られ、その死にあずかるもの」(6:4)となり、さらに「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」(6:4)だといいます。そして「あなたがたも自分は罪に対しては死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(6:11)と結びます。

  バプテスマ後にも、「罪」としか思えないようなものを抱えることはあります。それはパウロも直面してきた事柄でした。例えば放縦な生活をしていたコリント教会や、律法主義に戻ろうとしていたガラテヤ教会の姿があり、またパウロ自身も「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」(7:18)と自らの弱さを語っています。バプテスマによって罪のない善人になれるとは、パウロも考えませんでした。しかしそれでも決定的に大切なことは、信仰者としての人生が“始まる”ということです。

  「はじまり」は未来を拓きます。今はまだ完璧ではなく、様々な弱さを抱え持つ者であるけれども、いつの日か本当の意味で解放される時がきます。その未来の希望をキリストの復活は示します。その未来へ向かう歩みが始まるのです。「その未来に向かって一緒に歩いていこう」と招く神に応える人生、そして「そのように招いてくださる神がいる」と信仰を表明する人生が、ここから始まるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生491番「信ぜよ み神を」   


  (2025年6月8日の週報より)    

自分を無にするイエス-自分を捨てられない私

フィリピの信徒への手紙2章6節~12節

今日は「ペンテコステ(ギリシア語で50の意味)」と呼ばれる日です。イエスの復活から50日目にイエスの弟子たちに聖霊が降り、福音が世界に向かって大胆に語られ始めます。「キリスト教会誕生の日」として覚えられる特別な日です。「聖霊」という言葉には「助けるもの」という意味も込められています。自分たちのために閉じこもるのではなく、世界のために福音を語ろうとする弟子たちを「助けるもの」があったと、ペンテコステの出来事は物語ります。この「助けるもの」の存在に大きな励ましを見ます。

   フィリピ2章は、「キリストに倣って生きるように」と奨励する箇所です。模範として描かれるイエスの姿は「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」たというものでした(6~7節)。徹底的に「自分のため」という部分を捨て去って、神と人のために尽くされた姿が見えてきます。その姿に倣って生きようとパウロは語りますが、「自分を無にするイエス」に倣うことは簡単ではありません。どうしても、どこかに「自分のため」という思いが残ってしまうからです。もし「イエスと同じように自分を無にできないならば救われない」という話ならば、それは無理難題に思えてしまいます。

   一方でパウロは、「恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさい」(12節)とも語っています。私はここに励ましを見るのです。〔人間は、究極的には「自分の救い」は捨てられない〕と、パウロは分かっているのだと思います。そのような不完全な者でありながら、それでもなお、キリストに倣って神と人のために生きてみよう、とパウロは励ましているのではないでしょうか。そしてそのような歩みの中に「自分の救いにつながる神の助け」もあるのだと、聖書は伝えているのではないでしょうか。            (牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生621番「われに従えとイエスは招く」   


  (2025年6月1日の週報より)   

苦しみさえ益になる‐信仰者が見出す神の不思議‐

フィリピの信徒への手紙1章12~14節

フィリピの信徒への手紙は、パウロが牢獄に囚われている時に書かれた手紙だと言われます。それは、パウロにとっても苦しい日々であったと思われます。しかしパウロは、このことが「福音の前進に役立った」(12節)と喜びます。パウロにとって、「福音の前進」は命を懸けるほどの価値があるものでした。このパウロの熱心さに目を引かれますが、それ以上に注目したいのは、パウロをここまで動かすほどの「イエス・キリストの福音」とは一体何か、という点です。

   かつてのパウロはキリスト教徒を迫害する者でした。この頃のパウロは、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」いたと言われます(使徒9章1節)。このような人物が、イエス・キリストとの出会いによって「福音の前進」に命を懸けるように変えられます。パウロにとって、イエス・キリストは自らの人生を変えた存在であり、さらに言えば、〔迫害をするような悪いものを良いものへと変えていく存在〕であったのだと思います。

   パウロは多くの手紙の中で、「キリストに結ばれること」の幸いを繰り返し語ります。それは、キリストに結ばれて生きたパウロの実体験に基づいた言葉でした。キリストに結ばれて生きるとき、自分の人生を変えたキリストの御業があらゆるところで働き、自分にとっては嫌になるような出来事さえ良い事柄へと変えられていく様子を、パウロは見てきたのです。フィリピ1章12節の「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」という言葉にも、自らの苦しみが益に変えられるのを目の当たりにしたパウロの感動が込められているのではないでしょうか。キリストに結ばれて生きるとき、今日の苦しみも、いつの日か「ちゃんと意味があった」と言えるものに変わる、そのような希望をパウロは告げ知らせるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生73番「善き力にわれ囲まれ」    


  (2025年5月25日の週報より)    

愛によって仕える者へ

ガラテヤの信徒への手紙5章2~15節

パウロは1節で「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」と語り、13節でも同じようなことを述べています。神は私たちを罪からの解放だけでなく、律法の縛りからも解放してくださいました。パウロが再三語っているように、神の愛(主イエスの十字架による贖い)を信じる信仰によって義とされたからです。だからこそ、束縛の世界に逆戻りしないように忠告し、その一つとして「割礼」(律法)の問題を提示しています。

   アブラハムとの契約のしるしとしての「割礼」をユダヤ人は大切に守ってきました。それ自体が悪いことだとはパウロは言っていません。「割礼」を救いの条件として異邦人に強制することを問題にしているのです。「割礼」を異邦人に強制するということは、異邦人に対して[ユダヤ人になれ]と言っているようなものです。ユダヤ人化するという「同化政策」とも言えるでしょう。そこには相手の人権、意思、自由はなく、相手を支配することになります。ある聖書学者は彼らを「律法原理主義者」と呼んでいます。自分の考えを絶対化し、それを他者におしつける愚かさを私たちは知る必要があります。パウロは、「割礼」を救いの条件として強制することの問題性を繰り返し指摘します。

   この事柄を私たちに当てはめるとき、「バプテスマ(洗礼)」の問題と通じるものがあります。「バプテスマ」を救いに与るための条件(バプテスマを受けることで救われる)ととらえる人もいますが、聖書はそうは言っていません。「バプテスマ」は、聖霊の働きによってキリスト告白(信仰)へと導かれた人が、その信仰を目に見える形で神と人々の前で証しするものです。信仰が先立つのです。

   しかし、信じてさえいればそれでいいということではありません。愛されている者としての応答の生活(神への愛、隣人への愛)が伴ってこそ意味のあるものとなります。「愛によって互いに仕える」ことが、神が私たちに望んでおられる教会生活であることを踏まえて、共に仕えて行きましょう。 (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生651番「イエスの愛にこたえ行く」   


 (2025年5月18日の週報より)    

主イエスと共に、もう一歩、前へ

出エジプト記35章4~9節

「教会の歴史」は「礼拝の日々」と言っても過言ではありません。良い時代も悪い時代も、教会は礼拝を続けてきました。その日々の積み重ねが、教会の歴史を形づくってきました。この2025年も、世界的に様々な変化が起こっていて、不安定な状況になっています。この時代の中で、なお未来を望んで歩みを進めるために、「礼拝」について、今一度じっくり考えていきたいと思います。

   出エジプト記35章は「献げ物」について語ります。献げ物をするという行為は「礼拝」の重要な要素の一つです。聖書において、献げ物は〔神を動かすためにするもの〕ではありません。聖書の神は私たちよりも先に動いてくださる方です。出エジプト記においても、エジプトで苦しんでいる人々を救い出すために、神は動いてくださいました。自分たちのために動いてくださった神を思う時、人々は「心動かされ」(35:21)、自ら進んで献げ物をしました。献げ物は、私たちのために動いてくださった神への「感謝のしるし」です。ここに、聖書における礼拝の大切な事柄があります。

   「感謝する」ということは、「自分のために動いてくれた存在」を認識することでもあると思います。そのことの「有難さ」に触れるとき、私たちの心は感謝へと動かされるのではないでしょうか。そして、その「有難さ」を忘れてしまう時には、私たちの心はなにか良くない方向へと流されてしまうかもしれません。

   礼拝は、神への感謝のしるしです。それは、私たちのために動いてくださる神を想起することでもあります。神への感謝を表す人々は、「人間は何ものなのでしょう」(詩編8:5)と言いたくなるほど、自らが生きていることの有難さを感じています。この有難さが、私たちの命をまた一歩、未来へと押し出してくれるでしょう。 (牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生21番「栄光と賛美を」  


 (2025年5月11日の週報より)    

仕上げは肉?

ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~3章6節

先週に引き続き、今日の箇所にもドキッとするような発言があります。そのひとつが「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(2:15)です。差別的発言です。しかしこれはパウロの思いではなく、律法に生きているユダヤ人の声を取り上げていると言えます。

   その直後に「人は律法を実行することによっては義とされない」と語ります。ここにパウロの思いがあります。律法の行いによって義(神と正しい関係にあること)とされないのは、律法を100%実行することができないからです。人が義とされるのは、律法を行うことによってではなく、イエス(十字架の贖い)を信じる信仰によって可能になるという、いわゆる[信仰義認論]をパウロは熱く語ります。この神からの一方的な恵みが、信仰の土台であり福音の中心だからです。3章でもそのことを展開しますが、そこにもドキッとする言葉が書かれています。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(3:1)という呼びかけです。

   「物分かりの悪い」と訳されたギリシア語の直訳は「愚かな」です。聖書の中で「愚かな者」として取り上げられるのは、①神の存在を否定する者(詩編14:1)、②永遠の視野を持って人生を考えようとしない者(ルカ12:16~)などですが、ガラテヤの人たちはそのいずれでもありません。しかし「愚かな者」と呼ばれます。それは、「”霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようと」(3:3)しているからです。つまり、聖霊の導きによって信仰生活を始めたのに、人間的な力(自分の行い)によって救いを完成させようとしていることを、パウロは「愚かだ」と叱責するのです。

   私たちの心にも同じようなことが起こることがあります。何かをすることによってご褒美を得るという思いから脱却できないからです。そうではなく、神の一方的な恵みを受け入れる(信じる)ことで救われ、行いは〈救われた者としての応答〉であることを忘れないようにしましょう 。   (牧師 末松隆夫)

 
 応答讃美歌:新生519番「信仰こそ旅路を」 


 (2025年5月4日の週報より)     

パウロって恐い人?

ガラテヤの信徒への手紙 1章1~12節

ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立された教会でした。けれどもパウロが離れたあと、パウロの信仰理解とはかけ離れた人たち(論敵)によって教会の人たちはパウロが宣べ伝えた「福音」から離れてしまったようです。そんな人たちに今一度「福音」に立ち返るように送られたのがこの手紙です。

   手紙にはパウロの「使徒」としての働きに触れられている箇所があります。12使徒でなく、イエスと寝食を共にしておらず、かつてキリスト者を迫害していたパウロの〈使徒としての資格〉を論敵は否定していたのでしょう。そこでまず神によって使徒とされたことを明らかにし、ガラテヤの人たちとの信頼関係を再構築するところから始めています。信頼関係のないところでは、どんなことを伝えても相手の心には響かないからです。

   それなのに手紙の本文でいきなり「あきれ果てている]とか「呪われるがよい」とか、このようなことを書いて大丈夫だろうかと心配になるほど過激な言葉を綴っています。はじめて聖書を読む人にとって[パウロって恐い人だ]というイメージを持たれてしまいそうです。[呪われるがよいと訳された言葉は…神の裁きに委ねるという意味]という『聖書教育』誌の説明に少しホッとするものを感じますが、それでも強い言葉には変わりありません。

   それは〈パウロの恐さ〉ではなく、〈パウロの熱さ〉と理解すべきでしょう。また、屈託のないストレートな言葉を書き送ることができるということは、パウロとガラテヤの人たちとの関係は完全に壊れてはいないことを物語っています。

   [キリストの愛に(福音に)立ち返ってもらいたい]というほとばしる思いが、厳しい表現になっていることをかみしめながら、ローマ書とともにマルティン・ルターの宗教改革の土台になったこの手紙を、私たちも自分自身の宗教改革の土台として、この手紙が発する「福音」に与っていきましょう。(牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生455番「われに来よと主はいま」    


 (2025年4月27日の週報より)    

先立ち共におられるイエス

マタイによる福音書28章16~20節

約束どおり、弟子たちは復活されたイエスとガリラヤで会います。その時彼らは「ひれ伏した」とあります。これは「礼拝した」ということです。その弟子たちについて聖書は「疑う者もいた」と書き添えています。これが婦人から復活の話を聞いたときであったのなら疑う者がいても不思議なことではありません。ヨハネでは弟子仲間の証言を信じることができなかったトマスのことが紹介されています。当時、証人としての資格がなかった女性の証言であれば尚更のことです。しかし、彼らは復活されたイエスと対面し、礼拝を献げている状況下で尚信じることができず疑う者がいたというのですから驚きです。

   「疑う者もいた」の直訳は「彼らは疑った」です。もしかしたら、11人の中の誰かというのではなく、ひれ伏して礼拝をしていながら、その全員がいくばくかの疑いを抱いていたと解釈することもできます。信仰と不信仰が混在しているような者たちが礼拝へと招かれているのです。しかしそれが私たちの姿なのかもしれません。

   そのような弟子たちに対して、イエスは使命を託されます。ここに復活のイエスによる新たな派遣をみることができます。その内容は伝道と教育です。これまでの弟子たちは聞く側にいました。それがここで「教える」ために遣わされるのです。信仰と不信仰が入り交じったような者が伝道のために・教育のために用いられるのです。どこかホッとするものを感じます。

   このイエスによる派遣の根底に「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)という宣言(約束)があります。この約束があってこそ弟子たちは出て行くことができます。それは「共に」おられるイエスであるだけでなく、「あなたがたより先に行き」「先で待っておられる」イエスであることも心に留めましょう。共に歩まれるイエスは、私たちが経験したことも歩んだこともない一歩先に行かれ、待っておられるお方でもあるのです。(牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生310番「主イエスよ われと」   


 (2025年4月20日の週報より)     

「大きな喜び~イエスとの関係の回復~」

マタイによる福音書28章1~10節

イースターという日は、イエスが復活された日であり、それはとても大きな喜びの出来事でした。しかし、その前に、大きな悲しみがありました。それはイエスが十字架につけられて殺されてしまったということです。

   日曜日の朝、婦人たちは「墓」に向かいます。「墓」は死者を葬る場所であり、生きている者と死んだ者とを隔てるもの、関わりを遮断するものです。「墓」の入口には「大きな石」が置かれ、「封印」され「番兵」が配置されました。イエスを十字架につけた者たちが手段の限りを尽くしてイエスを「闇」に葬り、これで物語は終わるはずでした。しかし、それで終わらなかったのです。ここに単なる「伝記」と「福音書」の違いがあります。

   「墓」に向かった婦人たちは、イエスに香油を塗ることを願ってはいましたが、現実には不可能な状況だと理解しています。たとえ無駄に終わったとしてもイエスのために何かしたいという熱い思いが婦人たちを突き動かしています。そして自分にできる一歩を踏み出したとき驚くべき光景を目にし、大きな喜びへと導かれます。

   天使の言葉を受けた婦人たちが、恐れや戸惑いを抱きつつも「大いに喜び」走り出したとき、復活のイエスが弟子たちより先に婦人たちにご自身を現わされました。死で終わったはずのイエスとの関係が回復したことを、身をもって感じた瞬間だったことでしょう。

   私たちも、「福音」に触れたとき「恐れながらも大いに喜び」走り出す者でありたいものです。復活のイエスによる関係の回復は、現代の私たちにも通じるものなのですから! (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生407番「主と共に」