(2022年5月15日主日礼拝の週報より)

エルサレムでも、ローマでも

使徒言行録 22章30節~2311

「レッテルを貼ってその人が自分らしく生きる権利を奪い取ること、これを差別と言います」と辛叔玉さんは述べています。日本の社会がいかに多くのレッテルを貼っているかということに、そしてその中で生まれ育ってきた私たちも知らず知らずのうちに他者や自分にレッテルを貼っていることに気づかされます。

パウロは、そのような差別と闘うためにエルサレムへと向かったと言ってもいいでしょう。異邦人のための宣教師となったパウロは、差別されている側に立ちました。そのことによって投獄され、尋問を受けることになります。[なにもそこまでしなくとも…]と思う人もいるかもしれません。しかし、実は主イエスこそが、弱い者・貧しい者・差別される人たちの側に徹底的に立ち続けたお方なのです。その主イエスによって180度つくりかえられたパウロは、主が歩まれた道を選び取って行ったわけです。

そのパウロにかけられた主の言葉が「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」という励ましの言葉でした。証しをすることは、パウロにとって勇気を出さなければできないものではないはずです。証しはパウロにとって喜びでした。しかし、今回のエルサレム(最高法院)での証しはこれまでと状況が違います。それは囚われの身での証しであるという点です。状況によってはいつ死罪の判決が出るかもしれないという中での自分の命をかけて語る証しです。「ローマでも」というのは、パウロの使命はまだ終わっていないということを意味しています。囚われの身のままで主を証しすることをも意味しています。

「主の言葉に聞く」とは、現実の生活の場で主の言葉に従うことです。主の言葉を最優先させることです。私たちもそれぞれの場で、この世で片隅に追いやられている人たちの傍らに立って主を証しする者へと導かれたいと思います。   (牧師 末松隆夫)

応答賛美:新生讃美歌614番「主よ 終わりまで」


 (2022年5月8日主日礼拝の週報より) 

パウロの訣別説教

使徒言行録20章17~38節

使徒言行録20章18節~35節は、エフェソ教会の長老たちに対するパウロの訣別説教です。内容的には4つ区分できます。①エフェソにおける働きの回顧(18~20節)、②現在の心境(22~27節)、③将来に対する注意(28~31節)、④祝福と勧告(32~35節)。あるいは、(1)パウロの伝道観(18~27節)、(2)パウロの教会観(28~31節)、(3)パウロの聖書観(32~45節)に区分することもできるでしょう。

   パウロの伝道に対する姿勢は、19節の「主にお仕えしてきました」との言葉に端的に表れています。これは現代の私たちも明確にしておかなければならない大事なことです。パウロの「主に仕える」という伝道姿勢は、[謙遜][痛み・愛][忍耐]という形で示されています。これは、自分がそうであったと述べていると同時に、これからのエフェソ教会の一人ひとりもそうであるようにとの願いが込められていると言えるでしょう。

   パウロの説教は、過去の回顧から将来への展望へと進んで行きます。私たちも、ひとつの区切りを迎えるとき、過去を直視し、反省すべきことは素直に反省し、感謝すべきことは感謝し、正しく総括することが大事です。ドイツのヴァイツゼッカー大統領が語った[過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる]との言葉に心を合わせる者になりたいものです。

   パウロは優先順位をしっかりと持っていた人であると言えるでしょう。[あれも・これも]できれば幸いですが、時には[あれか・これか]を選ばなければならない時があります。自分の思いよりも神の御心を優先したパウロですが、それは主イエスという模範があり、その足跡に従って歩んだからこそ、できたことだと言えます。限られた時間の中で神から託された使命を全うするために優先順位をしっかり持つことは、多忙な現代に生きる私たちにこそ、問われていることではないでしょうか。   (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌495番「主よ み手もて」 


 (2022年5月1日主日礼拝の週報より)

神の励ましと約束

使徒言行録18章1~11節

今日の聖書箇所は、パウロの第二次伝道旅行におけるコリントでの様子が記されている箇所です。コリントは経済的には豊かな町でしたが、倫理的にとても乱れており、富と不正と欲望が渦巻いている町でした。個人的な心証としては福音宣教の場としてはふさわしいとは思えない町だったことでしょう。しかしこの町に1年半という、伝道旅行として各地を巡回していた当時の伝道スタイルからすれば長期にわたって滞在しています。この町での伝道が神の御心だったからです。そのことをパウロに示されたのが、「この町には、わたしの民が大勢いる」(10節)との神の言葉です。

   それに先駆けて、「恐れるな。語り続けよ」(9節)と語られました。これはパウロの心に「恐れ」があったことを示しています。その要因として、エフェソにおけるたった一人での活動や成果をあげることができるかもしれません。精神的に大きな落胆やストレスを抱えてコリントにやって来たのです。事実、後にコリント教会に書き送った手紙の中で「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(Ⅰコリント2:3)と打ち明けています。

   そのようなパウロに対して、主はまずアキラとプリスキラとの出会いを与えてパウロを励ましてくださいました。そして更なる励ましが9節の「恐れるな」との神ご自身の言葉でした。「恐れるな」、それは聖書が私たちに語りかけている一貫したメッセージです。そしてその根拠として「わたしがあなたと共にいる」という約束が伴っています。主が共にいてくださるから、恐れる必要はないというのです。どのような時にも主が共にいてくださる、ここに私たちの生きる根拠のすべてがあり、この主の言葉に励まされて歩むのが信仰生活なのです。主の配慮、励まし、約束によって、私たちは恐れても倒れることなく、新たな一歩を踏み出すことができるのです。 (牧師 末松隆夫)

 
 応答賛美:新生讃美歌384番「語り伝えよ 神のみ言葉」


(2022年4月24日主日礼拝の週報より) 

“愚か者”の戦い

使徒言行録17章16~34節

イエスさまの復活が一週間の最初の日であったことを覚え、教会は一週間の最初の日に礼拝をささげます。教会は礼拝をささげるたびに、イエスさまの復活を喜び祝い、世界に向かってその希望を語っているのです。

   しかし、その希望を語ることは〈愚かだ〉と思われることもあります。今日の箇所は、パウロが復活を語り、笑い者にされる場面を描きだします。32節の内容は、「死者の復活」という言葉を聞いた瞬間に、人々がパウロをあざ笑ったとも受け取れます。その言葉を聞いた瞬間に聞く気が無くなってしまうほどに、「死者の復活」は人々にとってあり得ない話だったと言えるでしょう。そしてこの人々の反応は、〈死んだら何もかもおしまいだ〉と思わせる「死の力」を前に、人々が自らの無力さを強く感じていたことの表れとも言えるのではないでしょうか。「終わり」を突きつけて来る「死の力」を前に、人間は深く傷つきます。その傷が深ければ深いほどに、「死者の復活」は愚かしく聞こえるのではないでしょうか。

   イエス・キリストの福音を語ることは、この「死の力」との戦いだと言えるかもしれません。「死の方」の方が強いと感じる世界の中で「死では終わらない希望がある」と語り続けることは、「愚かだ」という評価を下されることも少なくないでしょう。それでもなお、パウロは「福音を恥とはしない」と、堂々と神の希望を語り続けます。それは主イエス自身が、〈この世界の救いをあきらめない〉と愚かにも戦い続けているからであり、パウロもまた、その主の姿に救われ続けたからではないでしょうか。

   「主イエスの復活」が愚かしく響く世界の中で、それほどに「死の力」に傷つけられている世界の中で、教会は福音を語り続けます。主イエスと共に、〈あなたを赦し、あなたにどこまでも伴われる主イエスの歩みは終わっていない〉と希望をばらまく「愚か者たちの群れ」として、その希望の中で立ち上がる一人一人の存在を喜びながら、これからも歩み続けていきましょう。  (牧師 原田 賢)

 応答賛美:新生讃美歌384番「語り伝えよ 神のみ言葉」


(2022年4月17日イースター礼拝の週報より)  
 
救いの物語は終わらない

マルコによる福音書16章1~8節

パウロは「キリストの復活がなければ、わたしたちの信仰は空しい」と語ります。それは、キリストの復活がないとしたら、「どのような希望も死には勝てない」ということになるからでしょう。罪人たちへの赦しも、傷つけられてきた者たちへの伴いも、そこに「復活」がないのなら、それは空しく終わってしまうことになるのです。「死」は命にとっての最大の脅威であり、「すべての終わり」を象徴するものです。その「死」が「終わり」ではなくなったということこそ、聖書が物語る復活の福音です。

復活の物語を、マルコが語り始めます。女性たちは墓に出かけていき、そこで墓をふさいでいた非常に大きな石が転がしてあるのを目撃します。4節では石の大きさが強調されます。それは、「とてつもない出来事がそこに生じていた」ということを暗示するのです。墓の中には真っ白な服を着た若者がいて、「主イエスはガリラヤにいる。弟子たちにそう伝えよ」と女性たちに声をかけます。ガリラヤは、イエスさまと弟子たちが出会った場所であり、イエスさまと弟子たちの旅が始まった場所です。イエスさまと弟子たちが沢山の痛みや罪を抱えた人々と出会い、神の国の福音を分かち合ってきた場所です。イエスさまは十字架の死の後で、ガリラヤに戻られました。十字架の死の後で、ガリラヤの日々の「続き」が始まったのです。神の国の福音を分かち合い、みんなを救い出そうとするイエス・キリストの物語は、「死」では終わらなかったのです。

イエス・キリストの復活は、「死が最後の出来事ではない」と私たちみんなに語ります。イエスさまと共に生きる歩みは「死んでおしまい」にはならないのだという希望を私たちに語りかけてくれるのです。今日もまた、ガリラヤの日々の「続き」です。沢山の痛みや罪を抱えた人々と出会いながら、死では終わらない希望をみんなで分かち合って生きていきましょう。     (牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌244番「救い主にぞ われは仕えん」  


(2022年4月10日の週報より) 

神の子はここにいた。

マルコによる福音書15章33~41節

イエスさまが十字架に架けられます。十字架の周りには、イエスさまを馬鹿した笑い声で満ちていました。そのような嫌な笑い声が響く中、イエスさまは叫んで死んでいきます。その叫びは、最も深い絶望の叫びでした。「我が神、我が神、なぜ、私をお見捨てになったのですか」。晒し者にされ、嘲られ、笑いものにされて、神からも見捨てられてしまうという徹底的な絶望を味わい尽くした者の叫びです。そして、〈十字架の上で叫んで死んでいった、絶望の中で死んでいったあのイエスが神の子だったのだ〉と、マルコは語るのです。

この十字架を遠くから見守っている人々がいました。それは、イエスさまと一緒に旅をしてきた女性たちです。聖書の時代、女性たちは大変な差別を受けて生きていました。女性であるというだけで人々からの理不尽な暴力の標的にされてしまう、そのような危険に怯えながら、抵抗する術も力もないまま、生きていたのです。彼女たちは、最後の最後まで、十字架のイエスさまを見つめ続けました。イエスさまの苦難の姿は、女性たちが経験してきた理不尽な苦難と重なるものがあったのではないかと思うのです。彼女たちは、徹底的な絶望のただ中で死んでいったイエスさまの姿に、どのような苦難の場にも伴われる神の姿を見ていたのではないでしょうか。理不尽な苦しみを負う自分たちの真の友となってくださった神の姿を、ここに見出したのではないでしょうか。

十字架は二重の福音を語ります。罪人たち、暴力を選び取ってしまった者たちには「赦し」を語ります。それは、[あなたはやり直すことが出来る]という励ましであり、招きです。そして被害者たち、理不尽な暴力に傷つけられてきた者たちには「伴い」を語るのです。それは[死の場所ですら、あなたは決して一人ではない]という希望です。神は、罪からも、傷からも、私たちを救おうとされるのです。復活は、死の向こう側の希望を語ります。それは、すべての者たちに拓かれた未来、「神の国」という未来を物語るのです。   (牧師 原田 賢) 

応答賛美:新生讃美歌550番「ひとたびは死にし身も」 


(2022年4月3日の週報より) 

主イエスは黙って、そこに立つ。

マルコによる福音書 15章1~15節

イエスさまに死刑の判決が下されます。十字架は死刑の道具でした。それも〔権力者に反逆した者たちに執行される見せしめ〕であり、非常に長い時間にわたって苦しむ姿を晒されて、あざけりの言葉を繰り返し投げかけられるものです。そのような人間の暴力性に満ちているものが十字架刑でした。その性格からして、人間が考え出した死刑の中でも、最悪なものの一つだと言われています。

   今日の箇所は、その場にいた全員がイエスさまに十字架刑を言い渡した場面を描きだします。祭司たちも、群衆たちも、ピラトも、この非人道的な十字架刑を選んだのです。それぞれの立場から、それぞれに理由をつけて、人々は暴力を選びとったのです。ここには「人間の罪」が如実に描き出されていると、そう思えて仕方がありません。どれほど非道な選択肢であったとしても、それをする理由さえあれば、人間はそれを選び取ってしまうのです。

   〈人々が暴力を選び取る時、神はどこにいるのか〉、その問いに対して、聖書は真っ直ぐにイエス・キリストを指さします。イエスさまは黙って、暴力のただ中に立ちます。暴力に加担する側でも、傍観する側でもなく、暴力にさらされる場所に立っておられます。そして神は、イエスさまが立っている場所から「赦し」を宣言するのです。その赦しは、暴力を繰り返すためのものではありません。暴力を選び取ってしまった罪人たちが、悔い改めて、互いを大切にし合えるようになってほしいという期待が込められたものなのです。

   暴力の足音がだんだんと大きくなっていく中、わたしたちは十字架のイエス・キリストに目を注ぎたいのです。わたしたちが拳を振り上げる時、その拳を受ける場所に立ち、黙って見つめてこられる方を覚えたいのです。わたしたちは暴力を選ぶためではなく、互いを大切にし合い、共に生きるために赦されました。今一度、その神の期待に思いを馳せたいのです。(牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌205番「まぶねの中に」 


(2022年3月27日の週報より) 

弱さを包む愛

マルコによる福音書14章66~72節

今日の個所には12弟子の一人であるペトロの様子が取り上げられていますが、ペトロはカトリック教会では[初代教皇]とされ、バチカン市国にはサン・ピエトロ大聖堂(聖ペトロ教会)が建っています。初代キリスト教における中心的人物の一人です。そのペトロが主であるイエスを三度も否認したというショッキングな出来事は、四つの福音書すべてに書かれています。キリスト教にとって都合の悪いようなことをなぜ聖書は記し、それが私たちにとってどのような意味を持っているかを知ることはとても重要だと言えるでしょう。

   ペトロの否認は、中庭で火にあたっていた時の女中のひと言を受けて始まります。ペトロは決して臆病な人間ではありません。もしこれが裁判の席での詰問であれば、主イエスとの関係を打ち消すようなことはおそらくなかったでしょう。日常的会話での不意な問いかけであったことが、[自己保身]に走ってしまったのではないでしょうか。それは私たちにも言えることです。

   否認を重ねるたびにその調子は激しくなり、最後には「呪いの言葉」さえ口にします。自分を守ろうとすればするほど、嘘は拡大していくのです。このときのペトロの心は[自分]にしか向いていません。その心を主イエスへと向けさせたのが「鶏の鳴き声」でした。それは主の言葉を思い出させます。そして自分の[弱さ]を実感する中で、すべてを知ったうえで先立ってくださる主の愛を感じ、「泣き出した」のです。その涙は[絶望の涙]に留まらず、[悔い改めの涙][赦しを感じた感謝の涙][主が先立ってくださる喜びの涙]だったのではないでしょうか。この涙が、挫折から立ち上がらせるのです。

   マルコは、自分を導いたペトロの口から、このときのことを幾度となく聞き、人間の弱さと主の愛を強く感じたからこそ福音書に記したのでしょう。14章には「愛」という言葉は出てきませんが、弱さを包む主イエスの愛が凝縮されており、その愛は私たちにも注がれているのです。   (牧師 末松隆夫)
 

応答賛美:新生讃美歌486番「ああ 主のひとみ」