(2021年6月20日の週報より) 

まずは“つながる”ところから

ヨハネの手紙一 4章16節~21節

  「互いに愛し合いましょう。神がまずわたしたちを愛してくださったのだから」。ヨハネの手紙が伝えたかったことが、この一言に集約されています。聖書には「愛」を意味するギリシア語が二つあります。神の愛を意味する「アガペー」と人間同士の愛を意味する「フィレオ」です。「フィレオ」は感情が強く働く「愛」であるのに対し、「アガペー」は感情に左右されない「愛」を意味します。それはいわば一つの決断です。〈好きじゃないところが見えてこようが何だろうがあなたを絶対に捨てない。もうそうすることに決めた!〉。「アガペー」には、そんな神の決断が込められています。

 「神が“まず”わたしたちを愛してくださったのだから」。この「まず」という言葉には〈何をおいてもまず先に〉という意味が込められています。神は、私たちが神の愛に応えるようになってからではなく、何をおいてもまず「私たちを絶対に捨てない」と決断される方なのです。

 「愛すること」は、〈私とあなたがどんな“つながり”を作っていくのか〉という話に繋がります。「愛」を表現する一つ一つの行いにとどまらず、〈つながりを構築し続けていく営み〉の全体が、「愛する」という行為です。〈私たちを絶対に捨てない=私たちとのつながりを絶対に断ち切らない〉とまず決めてしまってから、神と私たちのつながりを造り続けていくこと。これが、神の「愛する」のやり方です。

  実は、この神の決断に基づいて、私たちの間でもつながりを作り続けていくことが、ヨハネの言う「互いに愛し合うこと」なのです。私には到底好きになることができない相手にすら、神は「絶対に見捨てない」と決断して、つながりを作っておられる。そんな神の愛に驚きながら、相手を好きになることは出来なくても、「敵」というイメージを捨てて、まずは“つながる”こと。そんな「互いに愛し合う」という道へと、ヨハネは招くのです。  (牧師 原田 賢)
 
応答賛美:新生讃美歌16番「み栄えあれ 愛の神」 


(2021年6月13日の週報より) 

キリストに繋ぎとめられながら

ヨハネの手紙一 2章1節~17節

  「世も世にある欲も、過ぎ去って行く」。この「世」という言葉が意味するのは、この世界の命そのもののことではなくて、命たちの営みが生み出した「文化」や「価値観」、「時代」のことです。「欲」は「他者の生きる権利に影響を及ぼしてしまうほど増幅された欲求=むさぼり」を意味します。それは、経済的・物質的な意味に留まりません。16節の「生活のおごり」は名誉を欲しがる欲求で、「他者の価値を地に落としてでも、自分の価値を高めたい」という思いです。

  私たちの価値観というものは、その時代によって大きく変わる曖昧なものです。そのような中で「欲」は力を発揮し、人々を競争させます。「生き残ることが出来る数は限られていて、互いにむさぼりあう必要がある」と思い込ませようとするのです。そうして命の選別が繰り返され、「捨てられて良い命などない」という神の宣言が捏造され、「生きるに価しない命がある」という闇の言葉が世の真実として打ち立てられます。ヨハネは、そうした闇の中に生きる者は、「自分がどこにいるのかさえ分からなくなる」と語ります。

  神は、この世界の命たちが闇に騙されることなく、「互いの命を大切にして生きること=互いに愛し合って生きること」を期待しています。その期待が幾度となく裏切られ続けているにもかかわらず、神は命たちが互いに愛し合う世界を望んでやみません。それゆえに神は命たちの罪を幾度も赦し、新しく生きることを望み続け、「互いに愛し合うための道」を拓き続けているのです。

  「神の御心を行う」とは、その神の期待に応え、闇の言葉と「命の言」を聞き分けながら歩むことであり、あらゆる場面で「赦し」を選び取っていく闘いです。この闘いは厳しく思えますが、実はもう勝つことが決まっている闘いです。「捨てられて良い命など一つもない」という神の宣言が勝利するのです。私たちは赦しを選び取る闘いの日々を、勝利を迎えるその日まで、過ぎ去ることのない命の言に繋ぎとめられながら歩みゆくのです。 (牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌583番「イエスにある勝利」 


(2021年6月6日の週報より) 

赦された罪人 ― 命の言と共に生きる

ヨハネの手紙一 1章1~10節

  この手紙は「グノーシス思想」を念頭に置いて書かれています。聖書は、イエス・キリストが十字架で血を流したゆえに世界の「罪」が赦されると語ります。グノーシスは、この「罪の赦し」を曲解し、「私たちが何をやっても、神は赦してくれるのだから、欲望のままに生きていこう」と言います。この考え方を、ヨハネは「闇の中に歩む」と言うのです。「闇」とは「捏造する力」と言えます。「罪の赦し」という福音の言葉を用いながら、自らの欲望を自分の神に据えて、真実を捏造するのです。

  「自分の思い通り、勝手気ままにふるまうこと」を意味する「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)」という言葉は訓読みにすると、「傍らに人無きが若(ごと)し」となります。この言葉を深読みすると、〈「他者」という存在は、「自分の思い通り」を砕く存在で、「自分の思い通り」を突き通すために「他者」という存在を消し去らなければならない〉となります。グノーシスは、この「傍若無人」につながります。

  「光の中を生きなさい」と語るヨハネが、その光の中で見つけてほしいと願っているのは、「命の言」です。光は、世界の「罪」、傍若無人に生きる世界の命たちの姿を隠しません。しかし、その光が何よりも強く照らし出すのは、その罪を赦すために、痛みを負われた主イエスの姿です。ヨハネは、その主の姿こそが「命の言」だと語ります。

  主の姿が語りかけてくるのは、「私は、痛みを負ってでも、あなたたちが滅びることではなくて、やり直して、新しく生きることを望む。あなたたちは、生きるのだ!」という「命の言」です。この宣言を受け取った「赦された罪人」として生きること、それは、「傍若無人」ではなく、〈神を愛し、あなたの隣りに生きる人を愛する〉という生き方です。この生き方へと舵を切りなおせと語るのが、本当の意味での「罪の赦し」です。私たちは、この命の言と共に生きるようにと、招かれているのです。 (牧師 原田 賢)
 
応答賛美:新生讃美歌300番「罪ゆるされしこの身をば」 


(2021年5月30日の週報より) 

こんな時さえ、我らは歌う。

使徒言行録16章25~34節

  牢屋の看守はパウロたちに語りかけます。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。この「先生方」という言葉は、原文では「主よ」という言葉が使われています。当時、「神」への呼びかけにすら使われていた言葉です。その呼びかけに対して、パウロは「主イエスを信じなさい」と応えます。パウロは、「あなたの主はわたしではない、イエスだ」と宣言するのです。

  主イエスの姿から見えてくるのは、私たちを絶対に手放すことがない神の姿だとパウロは言います(ローマ8:38~39)。たとえ「死」という出来事が襲いかかってきても、神は私たちとのつながりを絶たない。それぐらい深く、私たちを受け止めて、つながっていてくださる方こそが「主」だとパウロは言うのです。牢獄に捕らわれていても、「主イエスは私から離れていない」と確信しているから、パウロは神を讃えて歌うのです。

  牢獄の中までパウロたちに伴われた主は、いつまで続くか分からない「緊急事態」にある世界の中で、「どんなことであっても、主イエスによって示された神の愛から、あなたがたを引き離すことはできない」という希望を語り続けています。だから私たちも、この主イエスを信じ、こんな時代の中でさえ、神を讃えて歌うことをやめません。神を賛美し歌うことで、教会は「神の希望はまだ死んでいない」と世界に宣言するのです。

  あらゆる理由で「歌声」を響かせることは出来ないことがあります。それでも教会は、ある時は楽器の音色だけで、ある時は身振り手振りだけになっても神を讃えてきました。そこに「歌声」がなかったとしても、あの手この手で「神を讃えて歌うこと」はできるのです。私たちの「主」は、希望を胸に神を讃えて歌う道を、あらゆる形で開き続けてくださるのです。     (牧師 原田 賢)
 
応答賛美:新生讃美歌437番「歌いつつ歩まん」 


(2021年5月23日の週報より) 

閉ざすのも開くのも聖霊

使徒言行録16章6~10節

  本日はペンテコステ(五旬祭)です。この日は、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして…わたしの証人となる」と主イエスから言われていた聖霊が弟子たちに降り、弟子たちが大胆に福音を語るようになった日であり、キリスト教会が誕生した日とされています。

  そのペンテコステの日に誕生したキリスト教会がどのように進展していったかが書き記されている使徒言行録ですが、その全てに聖霊が関わっていることを著者であるルカは強調しています。
聖霊は、わたしたちに主イエスを証しする力を与えるだけではなく、わたしたちの歩みを導かれる方でもあります。しかしそれは、時として、わたしたちの思いとは違った形で臨まれます。パウロもそのことを経験した一人です。

  6節には「御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」、7節には「イエスの霊がそれを許さなかった」とあります。このことにわたしたちは戸惑いを感じます。御言葉の伝達(伝道)は、どのような時にも神の御心だと思うからです。しかし、聖霊がそのことを妨げることがあることを聖書は語っています。わたしたちはそのことを厳粛に受け止めなければなりません。それと同時に、神は違った道を開かれることも心に留めたいものです。

  パウロは「一人のマケドニア人」が助けを求める幻を見、即座に向かいます。そこに神の御心を感じ、神が開かれた道であると信じたからです。ここからヨーロッパ伝道がスタートします。一つの道が閉ざされ、挫折するようなことがあっても、神は新たな道を開いてくださるのです。コロナ危機にあって、従来の教会生活(礼拝、交わり、伝道)が難しい状況下にありますが、そのような時にこそ、「一人」を助けるための道を聖霊(神)が開いてくださることを、信仰をもって受け止める者でありましょう。      (牧師 末松隆夫)



応答賛美:新生讃美歌263番「満たしめたまえ み霊を」