(2021年8月1日の週報より) 

エゼキエルの証言:食べてみたら甘かった。

エゼキエル書 2章8~3章3節

神はエゼキエルに神の言葉を「食べる」ことを求めます。「言葉を食べる」とは、その言葉を自分の身に引き受けることです。「なんとなく表面上を合わせておしまい」にはならない。自分が変化するほど深く「聞くこと」を意味するのです。

「食べよ」と言ってエゼキエルに手渡された巻物には書ききれないほどの文字が記されていて、そのすべてが悲しみや呻き、嘆きの言葉だったと言います。これを「食べる」となると、「大丈夫だろうか」と不安になります。しかしエゼキエルがその巻物を「食べた」時、不思議なことに、それは「甘かった」と言うのです。「甘い」とは味覚の話ではなく、自分自身の命の底に染み渡っていくような、満たされていくような、そんな感覚を表しています。

「言葉」には、言葉を紡いだ者の思いが込められています。この巻物から伝わってくる思いは「神の悲しみ」、「痛み」を負っている神の姿です。当時、エゼキエルの同胞たちは「恥知らずで、強情(4節)」、聞く耳を閉ざして、自ら意志で悲惨な道へと歩み進めていました。神はそんな人々を見て、痛んでいのです。人々のことをどうでもいいと思っているのなら、神は悲しみません。人々に対して並々ならない思いを持っているからこそ、神は人々を見て悲しむのです。その神の思いこそが、命の底に染み渡るように「甘かった」と、エゼキエルは証言するのです。

その「甘さ」は、自分で食べなければ分かりません。「自分の足で立て(2節)」と語る神は、他の誰かでなく、「自分」が引き受ける者になることを私たちに求めます。しかしそれは、「自己責任」で頑張ることではありません。神は、私たちが「自分」で引き受けることが出来るようになるために、「霊(助け)」を送ってくださる。その神の助けを存分にいただきながら、神の言葉へと自分の手を伸ばす。そんな人生へと、神は今日も私たちを招くのです。      (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌230番「丘の上に立てる十字架」


(2021年7月25日の週報より) 

忍耐と祈り

ヤコブの手紙 5章7~20節

  ヤコブはこの手紙の締めくくりの部分で「兄弟たち」との呼びかけを幾度も重ねつつ、熱き思いをもって最後の勧め(励まし)をしています。この箇所のキーワードは「忍耐」「祈り」です。
ここで使われている「忍耐する」は、マクロスメオーとヒュポメノーという2種類の単語が使われています。前者は[愛をもって忍び合うというような対人関係においてとるべき態度]、後者は[困難な状況に直面する際に自らの意思を伴った態度]と言われます。ヤコブはこの二つの言葉を交えて、両者を合わせた「忍耐」を私たちに提示し、例をあげながら励ましの言葉を私たちに語っています。

  「農夫」「預言者」「ヨブ」の忍耐がモデルとして紹介されています。ヨブは確かに信仰深い人でしたが、最初から最後まで一貫して忍耐できたわけではありません。そのヨブがここで取り上げられているのは、私たちに近い存在としての信仰者の忍耐を示していると言えるのではないでしょうか。

  そういった忍耐との関連性をもって、祈りのことを最後に取り上げてヤコブはこの手紙を終えています。まず「苦しんでいる人は祈りなさい」と勧められています。「苦しい時の神頼み」との言葉にはマイナスなイメージがありますが、苦しいときに神を頼り、神に祈るのは信仰者として当然の姿勢です。

  「病気の人」については、自らが祈るだけでなく「長老(複数形)を招いて、祈ってもらいなさい」とあります。万人祭司主義に立つバプテストでは、牧師や執事だけでなく、すべての信徒が「長老」です。ここには祈り祈られるという協働牧会の姿が示されており、その働きが私たちに託されているのです。[互いのために祈りましょう][主の御名によって祈り合いましょう]、それが今日の箇所で教えられ、勧められていることです。        (牧師 末松隆夫)
 
応答賛美:新生讃美歌430番「しずけき祈りの」 


(2021年7月18日の週報より) 

上からの知恵

ヤコブの手紙 3章13~18節

  ヤコブはこの箇所で「二種類の知恵」があることを私たちに提示しています。「知恵」[ギ]ソフィア[ヘ]ホクマーには、①「人が社会の中で賢く生きてゆくために必要な実践的知識(学びや訓練によって習得)」、②「神から賦与される霊的賜物、③「人格化された啓示者としての知恵」などがあります。


ヤコブは「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか」と問うていますが、この問いは「知恵者を探している」のではなく、「正しい知恵を持つ者であってほしい」という切なる願いが込められたものであり、その知恵とは「上(=神)からの知恵」であり、その知恵に生きる者の特徴を「柔和」([ギ]プラウテース)という言葉で言い表しています。


「柔和」とは、日本語においては「性格や態度が優しく穏やかであること」と説明されていますが、聖書における「柔和」には「暴力によらずに物事を解決していこうとする力」「他者との関係を新しく造り出して行く力」という意味があります。そのような柔和を生み出す「知恵」を賜物として神から受けてほしい(否、受けているのだから人々の回復のために仕えてほしい)、これがヤコブの願いなのです。

別の知恵のことについてもヤコブは語り、それは「悪魔から出たもの」とまで言い切っています。そして、教会の中に「混乱」が生じているとき、それは「上からの知恵」ではない知恵で物事を判断し、処理している時だとヤコブは主張しています。教会の中に求められている状態は「平和」です。どんなに信仰や知恵が豊かであったとしても、教会の中に混乱を生み出すものであれば、それは神に従っていることにならないばかりか、自分の中の欲望に従う態度であって、神をないがしろにしていることになるという、このヤコブの指摘を厳粛な思いを持って受け止めたいと思います。 (牧師 末松隆夫)
 
応答賛美:新生讃美歌615番「主はわがすべてぞ」 


 (2021年7月11日の週報より)

人を分け隔てせず

ヤコブの手紙 2章1~13節

  ヤコブはこの箇所で、外観上に大きな違いがある二人の人が教会の集会にやって来たときの彼らを迎え入れる教会の態度を引き合いに出して、差別をしてはならないことを強く勧めています。
「分け隔て」(新改訳聖書では「えこひいき」)と訳されている語は、字義通りには「顔を受け取る」という意味だと言われます。私たちには分かりづらい表現ですが、[肉体的な特徴、社会的な立場、人種など、外見に基づいて判断し、特別な反応を示すこと]であり、違った単語が使われてはいますが4節の「差別をする」、さらには3節の「特別に目をとめて」という語も含めて、意味合い的にはすべて同じだと言えます。

  ドイツの神学者・シュラッターは「正当な理由なく、好意と不親切とを使い分け、一方を低め他方を高め、一方を軽視し他方を尊重する、こういったえこひいきする態度は、自分の好みによる恣意に従った真理に反する行動である」と指摘しています。

  ヤコブは、この話を「入って来るとします」「と言うなら」と、仮定のこととして記しています。しかし、多くの神学者は「おそらくそれに似たようなことが当時の教会において行われていた」と述べています。様々な差別が渦巻いている社会において、気をつけていないと教会さえも飲み込まれてしまうことがあるという事実を、現代の私たちも厳粛な思いで受け取ることが大切です。人を分け隔てすることは、「尊い名」(イエス・キリスト)を冒瀆する富める者たちと同じであり、罪を犯すことになると、ヤコブは厳しく語っています。

  主イエスによって贖われ、新しい歩みをしている私たちは、この世の物差しではなく主イエスの思いで全てを計り、主の慈しみ中に自分の生を(また相手の生も)置いて、分け隔てることなく共に生きていく者でありましょう。  (牧師 末松隆夫)
 
応答賛美:新生讃美歌533番「一羽のすずめの」 


  (2021年7月4日の週報より)

信仰は行い?!

ヤコブの手紙 1章19~25節

  日本には数多くの宗教施設があり、多くの人が礼拝や修行をしています。その中には「千日回峰行」「真冬の一日7回の水浴び」「滝行」「火渡り」「断食」など荒行・苦行をする宗教が少なくありません。私たちの心の中に「頑張れば頑張るほど御利益がある」という思いがあることの表れだと言えるでしょう。

  それに対して、聖書は「救い主であるイエス・キリストを信じることによって救われる」と端的に語っています。いわゆる[信仰義認]です。

  ところがヤコブは、「行い」が大事であることを繰り返し語っています。パウロをはじめとした聖書のメッセージと逆のことを言っているのでしょうか。もしヤコブの言葉を[信仰よりも行いが大事だ]とか[行いによって人は救われる]と受け取るならば、それは正しい聖書理解ではありません。ヤコブは、信仰によって救いに与った者としてのあるべき姿を私たちに示しているのです。

  21節には「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」とあります。御言葉は私たちが自分で心に蓄えるのではなく、御言葉を私たちの心に植える誰かがいるということです。さらにはそれを「受け入れる」ことが求められています。「御言葉を受け入れる」とはどういうことでしょうか。それは、ただ「聞く」(感じ取る)のではなく、「従う・応答する」ことです。

  応答が伴う信仰は、必ず「行い」へと向かいます。[祈り][賛美][感謝の献げ物][奉仕]すべて「行い」です。信仰が信仰生活になるとき、そこには必ず行動が伴います。行動が伴わない信仰は、頭だけの信仰であり、その信仰にいのちはありません。神の愛への応答としての自分に出来る小さな「行い」、その積み重ねが信仰生活となるのです。「無理をせず、しかし楽をせず」(私の座右の銘)、大きな恵みをいただいている者としての御言葉への応答(行い)に励んでいきましょう。   (牧師 末松隆夫)
 
応答賛美:新生讃美歌612番「主イエスをいつも」 


 (2021年6月27日の週報より)
 

招 き

マルコによる福音書2章13~17節

  徴税人であったレビはその職業ゆえに「罪人」とされ、一個人としての尊厳を認めてもらえず、絶望の中にいました。当時で言う「罪人」とは決して犯罪を犯し、留置場や牢に入れられている人のことだけを指しません。生きていくうえで律法を守ることができない人々、持っている病気のために律法に隔離せよと記されている人々は律法学者から罪人と規定され、社会から隔絶されて生きていかなくてはなりませんでした。それは軽蔑、侮蔑、憎悪の目を向けられながら生きていくという事にほかなりません。

  しかし、絶望は絶望のままで終わりませんでした。イエス様の旅の途中、カファルナウムに到着した一行は、イエス様ご自身は収税所に座るレビを見ます。イエス様の瞳にはどのように彼が映っていたのでしょうか。罪人でしょうか。徴税人でしょうか。イエス様の瞳に映ったのは、一人の心の貧しい人間でした。人間から仲間外れにされて神様からも失われてしまった人間でした。その彼がイエス様によって招かれました。それはまさに私たちと重なる出来事ではないでしょうか。イエス様の招きとはまさに失われた状態からの回復であり、永遠の命に生きる復活につながっていく出来事です。

  この世界にあって苦しみの声をあげる隣人が本当に多くおられることを思わされます。他者からの無理解、理不尽な暴力によって疎外されている人が私たちの周囲にもおられるのではないでしょうか。互いにキリストの体として、関心を示し合い理解に努める必要性を思わされます。そして何よりも私たちが教会に連なり、支え合っていくことを考える時に、まずは私たち一人ひとりがイエスキリストという一人の救い主によって無条件に招かれ、愛されているのだという事を自覚していきましょう。 (神学生 長尾基詩)

応答賛美:新生讃美歌550番「ひとたびは死にし身も」 


(2021年6月20日の週報より) 

まずは“つながる”ところから

ヨハネの手紙一 4章16節~21節

  「互いに愛し合いましょう。神がまずわたしたちを愛してくださったのだから」。ヨハネの手紙が伝えたかったことが、この一言に集約されています。聖書には「愛」を意味するギリシア語が二つあります。神の愛を意味する「アガペー」と人間同士の愛を意味する「フィレオ」です。「フィレオ」は感情が強く働く「愛」であるのに対し、「アガペー」は感情に左右されない「愛」を意味します。それはいわば一つの決断です。〈好きじゃないところが見えてこようが何だろうがあなたを絶対に捨てない。もうそうすることに決めた!〉。「アガペー」には、そんな神の決断が込められています。

 「神が“まず”わたしたちを愛してくださったのだから」。この「まず」という言葉には〈何をおいてもまず先に〉という意味が込められています。神は、私たちが神の愛に応えるようになってからではなく、何をおいてもまず「私たちを絶対に捨てない」と決断される方なのです。

 「愛すること」は、〈私とあなたがどんな“つながり”を作っていくのか〉という話に繋がります。「愛」を表現する一つ一つの行いにとどまらず、〈つながりを構築し続けていく営み〉の全体が、「愛する」という行為です。〈私たちを絶対に捨てない=私たちとのつながりを絶対に断ち切らない〉とまず決めてしまってから、神と私たちのつながりを造り続けていくこと。これが、神の「愛する」のやり方です。

  実は、この神の決断に基づいて、私たちの間でもつながりを作り続けていくことが、ヨハネの言う「互いに愛し合うこと」なのです。私には到底好きになることができない相手にすら、神は「絶対に見捨てない」と決断して、つながりを作っておられる。そんな神の愛に驚きながら、相手を好きになることは出来なくても、「敵」というイメージを捨てて、まずは“つながる”こと。そんな「互いに愛し合う」という道へと、ヨハネは招くのです。  (牧師 原田 賢)
 
応答賛美:新生讃美歌16番「み栄えあれ 愛の神」 


(2021年6月13日の週報より) 

キリストに繋ぎとめられながら

ヨハネの手紙一 2章1節~17節

  「世も世にある欲も、過ぎ去って行く」。この「世」という言葉が意味するのは、この世界の命そのもののことではなくて、命たちの営みが生み出した「文化」や「価値観」、「時代」のことです。「欲」は「他者の生きる権利に影響を及ぼしてしまうほど増幅された欲求=むさぼり」を意味します。それは、経済的・物質的な意味に留まりません。16節の「生活のおごり」は名誉を欲しがる欲求で、「他者の価値を地に落としてでも、自分の価値を高めたい」という思いです。

  私たちの価値観というものは、その時代によって大きく変わる曖昧なものです。そのような中で「欲」は力を発揮し、人々を競争させます。「生き残ることが出来る数は限られていて、互いにむさぼりあう必要がある」と思い込ませようとするのです。そうして命の選別が繰り返され、「捨てられて良い命などない」という神の宣言が捏造され、「生きるに価しない命がある」という闇の言葉が世の真実として打ち立てられます。ヨハネは、そうした闇の中に生きる者は、「自分がどこにいるのかさえ分からなくなる」と語ります。

  神は、この世界の命たちが闇に騙されることなく、「互いの命を大切にして生きること=互いに愛し合って生きること」を期待しています。その期待が幾度となく裏切られ続けているにもかかわらず、神は命たちが互いに愛し合う世界を望んでやみません。それゆえに神は命たちの罪を幾度も赦し、新しく生きることを望み続け、「互いに愛し合うための道」を拓き続けているのです。

  「神の御心を行う」とは、その神の期待に応え、闇の言葉と「命の言」を聞き分けながら歩むことであり、あらゆる場面で「赦し」を選び取っていく闘いです。この闘いは厳しく思えますが、実はもう勝つことが決まっている闘いです。「捨てられて良い命など一つもない」という神の宣言が勝利するのです。私たちは赦しを選び取る闘いの日々を、勝利を迎えるその日まで、過ぎ去ることのない命の言に繋ぎとめられながら歩みゆくのです。 (牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌583番「イエスにある勝利」 


(2021年6月6日の週報より) 

赦された罪人 ― 命の言と共に生きる

ヨハネの手紙一 1章1~10節

  この手紙は「グノーシス思想」を念頭に置いて書かれています。聖書は、イエス・キリストが十字架で血を流したゆえに世界の「罪」が赦されると語ります。グノーシスは、この「罪の赦し」を曲解し、「私たちが何をやっても、神は赦してくれるのだから、欲望のままに生きていこう」と言います。この考え方を、ヨハネは「闇の中に歩む」と言うのです。「闇」とは「捏造する力」と言えます。「罪の赦し」という福音の言葉を用いながら、自らの欲望を自分の神に据えて、真実を捏造するのです。

  「自分の思い通り、勝手気ままにふるまうこと」を意味する「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)」という言葉は訓読みにすると、「傍らに人無きが若(ごと)し」となります。この言葉を深読みすると、〈「他者」という存在は、「自分の思い通り」を砕く存在で、「自分の思い通り」を突き通すために「他者」という存在を消し去らなければならない〉となります。グノーシスは、この「傍若無人」につながります。

  「光の中を生きなさい」と語るヨハネが、その光の中で見つけてほしいと願っているのは、「命の言」です。光は、世界の「罪」、傍若無人に生きる世界の命たちの姿を隠しません。しかし、その光が何よりも強く照らし出すのは、その罪を赦すために、痛みを負われた主イエスの姿です。ヨハネは、その主の姿こそが「命の言」だと語ります。

  主の姿が語りかけてくるのは、「私は、痛みを負ってでも、あなたたちが滅びることではなくて、やり直して、新しく生きることを望む。あなたたちは、生きるのだ!」という「命の言」です。この宣言を受け取った「赦された罪人」として生きること、それは、「傍若無人」ではなく、〈神を愛し、あなたの隣りに生きる人を愛する〉という生き方です。この生き方へと舵を切りなおせと語るのが、本当の意味での「罪の赦し」です。私たちは、この命の言と共に生きるようにと、招かれているのです。 (牧師 原田 賢)
 
応答賛美:新生讃美歌300番「罪ゆるされしこの身をば」