(2021年1月17日の週報より) 

義の成るところ

マタイによる福音書5章17~20節

この個所は、5章から7章までの「山上の説教」と呼ばれる主イエスの22におよぶ説教のひとコマですが、バラバラの説教がただ集められたのではなく、相互につながっており、今日の箇所は「地の塩・世の光」(13~16節)の「あなたがたの光」「あなたがたの立派な行い」を受けて語られています。

ユダヤ人(特に「律法学者やファリサイ派の人々」)にとって「立派な行い」とは、律法の教えを忠実に守って生きることでした。弟子たちも〈彼らのようになりなさい〉と受け取ったことでしょう。

しかし、主イエスはその律法学者たちを引き合いに出して、とんでもないようなことを言われました。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」と。主は弟子たちや私たちにどのような「立派な行い」「義」を求めておられるのでしょうか。

ここで主イエスが言われているのは、〈律法学者たちと行いを競い合って優劣をつけなさい〉ということではありません。〈彼らよりも神に喜ばれる者になりなさい〉ということです。彼らは「義」を「律法」(自分の行い)によって得ようとしていました。しかし、律法を守ることだけに心が向けられ、神の恵みのもとで神の民として生きるためという律法本来の意味を見失っていました。主イエスは律法が目指していたものを「完成(成就)」するために来られたのです。十字架と復活を通して! 主によって実現しているこの恵みのもとで、神の民として神との交わりの中に生きることこそが、主が言われる「立派な行い」です。「あなたがたの義が…」という主の言葉が語っているのもそのことです。自分の正しさを拠り所として生きるのではなく、十字架と復活によって与えて下さった神の義と恵みを拠り所として生きることが、私たちのあるべき姿であり、私たちの「義」なのです。    (牧師 末松隆夫)

応答賛美・新生讃美歌379番「行きて告げよ あまねく」;


(2021年1月10日の週報より)

荒れ野での誘惑

マタイによる福音書 4章1~11節

今日の舞台は「荒れ野」ですが、荒れ野はエルサレムの街や城壁の外側にあり、神の恵みから洩れたと見なされていた人たち(重い病気の人、罪人というレッテルを貼られた人)が追いやられた場所です。その荒れ野に、バプテスマ直後に主イエスも導かれました。それは瞑想にふけるためではなく、たまたま赴かれたのでもありません。「(聖霊)」に導かれて、しかも「悪魔から誘惑を受けるため」に荒れ野に行かれたと聖書は語っています。

「悪魔からの誘惑」の内容は、①石をパンに変える、②神殿の屋根から飛び降りる、③悪魔を拝むというものでした。どだい無理なことを「してみろ」と言われてもそれは〈誘惑〉にはなりません。これが〈誘惑〉である前提には、主イエスにはそれが出来るということです。「神の子」なら出来る、だからこそ〈誘惑〉なのです。①と②の誘惑は、神の子であることを主に確かめさせようとしたものだと言えます。〈確かめる〉というのは〈試す〉ことです。悪魔は〈神を試すこと〉を主に求めたのです。もし、〈神を試す〉ことで神の恵みや愛を実感しようとするなら、主の十字架はなかったことでしょう。十字架は自分が神に愛されていることを確かめることにつながらないからです。主は明確に拒否されました。「あなたの神である主を試してはならない」と。

さらに、②の誘惑が「神殿の屋根」であったことは、人々の面前で神の子である証拠を見せつけろということでもあります。その誘惑も主イエスは退けられました。だれもが納得する証拠(しるし)を求める思いは、私たちにもあるものです。ということは、そのような〈しるし〉を求める私たちの思いを退けられるということにも通じます。〈自分の思い通りの神〉を求めるのではなく、〈神の御心に適う自分〉であることを求めましょう。   (牧師 末松隆夫)

 応答賛美・新生讃美歌131「イエスのみことばは」


(2021年1月3日の週報より)

これはわたしの愛する子

マタイによる福音書 3章13~17節

今日の箇所は、成人された主イエスが最初に登場する場面です。ここで主は、洗礼者ヨハネからバプテスマを受ける方として登場します。主がヨハネからバプテスマを受けられたことはマルコやルカも記していますが、ヨハネが主に対してバプテスマを思い留まらせようとしたことはマタイだけが記していることです。ヨハネは、自分こそが主からバプテスマを受け、救っていただかなければならない者であることをわきまえていました。

それに対して主イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われています。「正しいこと」とは他の所では「義」と訳されている語です。それを主は〈人間が行うべき正しいこと〉という意味で使っておられます。そしてこれこそが、主がヨハネからバプテスマを受けられたことの意味なのです。つまり、主がバプテスマを受けられたのは、それが主にとって必要だったからというのでなく、それが人間として正しいなすべきことだったからです。主はひとりの人間として、なすべきことを私たちの先頭に立って行われたのです。

主イエスが水の中から上がられたとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が聞こえてきたことをマタイは記しています。マルコとルカは「あなたはわたしの愛する子」という主に対する神の呼びかけであるのに対して、マタイは「これは」と記して、天の声が主にではなく、ヨハネをはじめそこに共にいる人々に対するものとして描いています。神が私たちに〈わたしの独り子を、人間として正しいなすべきことを人々の先頭に立って行う者としてあなたがたのもとに遣わした〉と宣言されたこの点にマタイは強調点を置いているのです。私たちがなすべきことは、そのあとに続くことです。     (牧師 末松隆夫)

応答賛美・新生讃美歌363「キリスト 教会の主よ」


(2020年12月27日の週報より)

「クリスマス、その後」

マタイによる福音書 2章13~23節

今日の箇所には、クリスマスに関連して生じた悲しみが記されています。ヘロデ王によって命が狙われた幼い主イエスを守るため、ヨセフたちはエジプトにまで逃げて行かなければならなくなりました。エジプトから帰還した時にも、ヘロデの息子が支配しているユダヤに住むことができず、ナザレに住むことになったとマタイは記しています。また、ヘロデ王の命令によって、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男児が殺されてしまうという悲劇が起ります。マタイはこのようなクリスマスの悲しみ・苦しみを伝えています。

その大きな要因となっているのがヘロデ王の心の闇です。あくまでも自分が王であり続けようとするヘロデの思いが悲しみを生み出しています。しかしこのヘロデの思いは、彼だけの問題ではありません。私たち一人ひとりが、自分という王国において主イエスに主権を譲ろうとせず、常に王であろうとしているなら、私たちは小さなヘロデです。その闇が周囲に悲しみや苦しみを与えることを、私たちは人事としてではなく受け止める必要があります。

男児虐殺の出来事について、マタイはエレミヤ書31章15節を引用して、子を亡くした母の〈深い悲しみ〉や〈不条理〉を語っています。私たちも自然災害や事故など〈不条理〉を味わうことがあります。でもそれは私たちだけではありません。私たちのもとに来られた神の御子は、十字架上で「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と神に叫んでいます。これこそ〈不条理〉の極みです。しかしその〈不条理〉を自らが味わうことで、主イエスは〈不条理〉の只中で苦しむ者と〈共に苦しむ神〉として寄り添ってくださるのです。

(牧師 末松隆夫)  

応答賛美・新生讃美歌507「主の手に委ねて」


(2020年12月20日の週報より)
 

「不安と喜びのクリスマス」

マタイによる福音書2章1~12節

メシア(キリスト)預言のひとつ、イザヤ書60:2には「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」とあります。コロナ禍の今の状況を示していると言っても過言ではないでしょう。「不安」を抱えてのクリスマスを私たちは迎えています。しかし、聖書にはクリスマスに遭遇した人たちも「不安」を抱いたことが記されています。クリスマスの立役者であるマリアやヨセフもそのひとりです。しかし、彼らは「不安」を乗り越えて「喜び」に与りました。

一方、「不安」の中にあり続けた人もいます。それはヘロデ王とエルサレムの住民です。猜疑心の強かったヘロデ王が不安を抱いたのは理解できます。しかし、長年メシア到来を待ち続けていたエルサレムの人たちが、なぜ「喜び」ではなく「不安」を抱いたのでしょうか。それは、今の自分たちの生活環境が変ってしまうかもしれないという思いから生れる不安だったのではないでしょうか。

一方、クリスマスを素直に(そして非常に)「喜んだ」人たちのことも描かれています。それは東の国から星に導かれてやってきた占星術の学者たちです。何百キロも離れたエルサレム(彼らにとっては外国)に、危険と隣り合わせの旅をしてやってきた彼らには、「クリスマスを祝いたい」という熱い思いが感じられます。だからこそ彼らは「喜びにあふれた」のです。どのような思いでクリスマスを迎えるのか、とても重要なことです。

 それとともに、学者たちが幼子に対して礼拝をささげたことを重く受け止めたいと思います。見返りを期待しての礼拝ではなく、救い主というただそのことだけで幼子に礼拝をささげた姿に、礼拝をささげる姿勢(クリスマスを祝う姿勢)が示されているのです。    (牧師 末松隆夫)
応答賛美・新生讃美歌167「天にはさかえ」


(2020年12月13日の週報より)

イエス・キリスト誕生の次第

マタイによる福音書 1章18~25節

イエス・キリストの誕生について記してあるのは、マタイによる福音書とルカによる福音書です。マタイはマリアの夫ヨセフの立場から記しています。

「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。夫ヨセフは身に覚えのないことです。彼の考えは「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)ことでした。ヨセフは当時の離婚法によって事を公にせずに縁を切る決心をしました。しかし、人間の考えは神のお考えとは違います。それが20節です。「主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである』」。永遠の神の御子イエスが神性を持って人間としてお生まれになったことを示しています。

マリアの胎内に命が宿ったのは聖霊(神の霊)の働きによるということは「処女降誕」と言われます。これは現代の医学でも説明できないことでしょう。しかし、私たちが読む聖書には、夫ヨセフと妻マリアが実際に体験したことの「証し」が記されています。このように聖書に事実の結果として記されていることを、私たちは信じ受け入れています。

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)。罪のために神から離れていた人間が神との正しい関係に立ち返ることです。救いは、まず選民イスラエルに与えられ、そして、世界の全ての人に救いが及ぶこと、これがイエス誕生の目的です。

預言者イザヤはイエス誕生の700年以上前に預言しました(23節)が、クリスマスの日にイエスが実際に降誕されたことにより、預言が実現しました。

救い主イエスのご降誕を喜びと感謝をもって待ち望みましょう。 (主事 八幡正弘)

 
応答賛美・新生讃美歌149「来たれやインマヌエル」