(2020年11月22日の週報より)

とどのつまり

コヘレトの言葉 12章9~14節

今日の箇所は、コヘレトがこの書巻で述べてきたことの結論(行き着いたところ)です。彼はまず9節で、指導者としての自分、学者としての自分、そして信仰者としての自分について触れ、「突き棒」「釘」という表現をもって「賢者の言葉」(格言)が《行動を鼓舞する》ものであり、《心の中に打ち止める》という二つの働きを持っていることを述べています。

世の中には格言や名言があふれています。〈コヘレトの言葉〉をそのような一つとして楽しむこともできます。しかしそれでは「御言葉」にはなりません。〈コヘレトの言葉〉が正典として聖書に加えられているのは、単なる格言を超えた「神の言葉」と認知されたからです。神との関わりの中で読むことが大切だと思います。

これまで「わたし」だった主語が、この箇所から「コヘレト」に変っていることからコヘレト自身の言葉ではないという解釈がなされています。ただ〈コヘレトの言葉〉が知恵文学であることを考慮するとき、コヘレトと名乗っている執筆者が第三者の視点に立って、客観的に自分を見つめている表現をしても不思議なことではありません。

コヘレトは誰かということに関しても、「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」(112)などの言葉や、〈コヘレトの言葉〉が〈箴言〉と〈雅歌〉の間に置かれているということなどから、コヘレトがソロモン王であるという認識も間違いとは言えません。むしろ、ソロモンと理解した方が彼の行状から納得することができるように思われます。

そのコヘレトが、声を大にしているのが「神を畏れ、その戒めを守れ」(13節)であり、それは、あらゆるものを観察し、探求し、経験して得た包括的な結論です。「神を畏れる」とは神を愛することであり、「その戒めを守る」とは神に聞き従うことです。これはソロモンの人生経験(失敗)から引き出された「とどのつまり」であり、神に造られた人間として最も大切なことだというこのコヘレトのメッセージに耳を傾ける者となりましょう。       (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌519「信仰こそ旅路を」


(2020年11月15日の週報より)

あなたの若い日に

コヘレトの言葉11章9節~12章8節

本日は「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(121)という御言葉を中心に学びます。

「青春」という言葉は、元々は季節の「春」を示す言葉でしたが、今ではほとんど人に対して使われるようになった感があります。この言葉が日本人に定着したのは、夏目漱石の『三四郎』で使われたことによると言われています。

11章9節以下では、青春真っ只中にいる者に対して、若さゆえの力や感覚を喜ぶように(若い今を精一杯楽しむように)と語り、さらには「心にかなう道を、目に映るところに従って行け」とさえ言っています。はち切れるような青春のエネルギーを受容し、はみ出した部分さえも頭ごなしに押さえつけていません。すごい寛容さです。

けれどもコヘレトは、若者の無鉄砲を100%容認しているわけではありません。その自由さを認めつつも、一つの真理を付け加えることを忘れていません。それが9節後半の「知っておくがよい。…」との言葉です。神の前に立たなければならない時が来ることを示したあと、12章1節の言葉をその結論として、さらにはそのあと語る導入として命令形で語っています。

1節後半からは老いることを、6節では死を迎えることを、象徴的な文言を並べて描いています。自由に動き回れる青春時代はあっという間に過ぎて行き、長生きしたとしても様々な老化現象が私たちを襲います。楽しく生きることは大事ですが、もしそれだけが人生の幸せだとすれば「なんと空しいことか」と言い、そうならないためにコヘレトが声を大にしているのが12章1節の言葉です。

「あなたの若い日」、それは青春時代だけではありません。「今日」という日が今の人生で一番「若い日」です。「今日」、創造主を心に迎え入れるようにと、コヘレトは私たちに《信仰の決断》を迫っているのです。  (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌431「いつくしみ深き」


(2020年11月8日の週報より)

遠くを見つめつつ

コヘレトの言葉 11章1~6節

松下幸之助氏は「会社経営の極意」を聞かれたとき、「雨が降ったら傘をさす経営」と答えたと言われます。その言葉には[当たり前のことをする][事前に準備しておく][人間の力ではコントロールできないことがある]ということを意味しているのではないかと推察します。彼の言葉とコヘレトの言葉はリンクしているようです。コヘレトの言葉を通して、私たちも自分の人生を健全に経営する者へと導かれたいと思います。

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」(1節)との言葉について様々な解釈がなされています。パンを「魚の餌(撒き餌)」と解したり、「商品」と解して海外貿易のことと捉える人もいます。列王記を読むと、ソロモン王が所有するタルシシュの船団は、3年に一度、貿易に赴いています。商品を出荷して利益が手元に届くのは、何ヶ月も先のことです。1節をそのように解釈しても決して間違ったものとは言えません。

2節の「…分かち合っておけ」は、危機管理(リスク回避)の格言として捉えることができます。もし、コヘレトがソロモンであるとすれば、彼らしい格言だと言えるでしょう。まさに投資哲学の基本である[Don’t put all your eggs in one basket(すべての卵を一つの籠に盛るな)]に通じるものです。

3節は、予測可能なことと想定外のことの例として読むことができます。しかし、そのことにあまりに気を取られすぎると、種まきも収穫も時期を逸してしまいます。コヘレトは、自分の知識や力ではどうしようもないことを考えすぎないで「種を蒔け」(なすべきことをなせ)と語っているのです。

キリスト教界は「パン」を「福音」と解してきました。それは間違った解釈ではないと思います。教育にしても伝道にしても、目先ではなく遠くを見つめつつ、自分がなすべきことを持続的になしていく私たちでありましょう。   (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌384「語り伝えよ 神のみ言葉」


(2020年11月1日の週報より)

なお、そこで生きる

コヘレトの言葉 8章8~17節

コロナ禍の旅行業・宿泊業・飲食業の救済を目的として始まったキャンペーンを悪用(制度の穴をついて)して電子クーポンを不正取得している人がいます。マスメディアを通して再三注意を促されている「特殊詐欺」もいっこうに少なくなりません。警察庁の発表では2019年の被害額は301億5千万円で、8年連続で300億を超える被害が出ています。パソコンにはしょっちゅうフィッシングメールが送られてきます。まさに、詐欺が横行している現代であり、公文書偽造などの犯罪がまかり通る現代です。権力におもねる社会の姿や「自分さえよければ」という個々人のエゴが目につきます。けれどそれは今に始まったことではありません。

コヘレトも、社会不正(悪人が尊重され、正しい人が無視される)の事実に目を向けています。「悪人が葬儀をしてもらう」(10節)とは、名誉ある取り扱いをされるということです。悪人が高く評価されたり、悪事を働いても検挙されなければ、倫理は腐敗していきます。特殊詐欺が減らないのも、なかなか検挙されないからでしょう。それはまさに「空しい」ものです。

8章の結論としてコヘレトは「それゆえ、わたしは快楽をたたえる」(15節)と語っていますが、「快楽」とは「喜び、楽しさ、陽気、歓喜」と訳される語です。官能的な欲望の満足ではなく、『聖書教育』が解説しているように、「飲み食いし、楽しむ」という日常生活の素朴な人間の喜びを神からいただいたものとして感謝をもって受け取ることであると言えるでしょう。

たとえ悪人が栄えても、神への畏れが健全な結果をもたらすという希望をコヘレトは捨てません。悪が栄えているようにみえる不条理な世界で、なお、そこで生きる(われ、ここに立つ)と、そのように宣言しているとみなすことができます。現実だけを見て一喜一憂するのでなく、神を見、将来を見て前に進んでいく、そのことをコヘレトの言葉から学びとりたいと思います。 (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌124番「この世はみな」


(2020年10月25日の週報より)
 

人を裁かないように、裁き返されないために

ヨハネによる福音書 8章1~11節

春日原キリスト教会で、九州バプテスト神学校月間のアピールと説教のご奉仕をさせていただくことを主に感謝いたします。

九州バプテスト神学校には、現在、45名の方々が学んでおられます。専攻科コースが5名、本科コースが19名、聴講が21名です。ほとんどの方々が働きながら学びをしています。また、約8割の方々がインターネットやDVDで学んでおられます。皆様も自分が学びたいコースを選択して豊かな講義を受け、信仰生活のさらなる高嶺をめざして学ばれてはいかがでしょうか。これからも九州バプテスト神学校を覚えていただき、皆様のご協力とお祈りをどうかよろしくお願いいたします。

私たちは罪人であることを認識しなければなりません、熱心さや積極性が過ぎると、自己主張が強くなり、そのように出来ない人を裁いてしまいます。自分が納得する形を押し通そうと一人突っ走る、批判的・攻撃的言葉によって相手を傷つける、自分が相手を傷つけている自覚がないなどが「裁き」です。

私たちの罪は、すでにイエス・キリストが十字架の上で身代わりとなってあがなってくださいました。そのことを忘れてはならないと思います。真理から生まれる裁きは(神の声、イエス・キリストの語りかけ、呼びかけ)であり「レーマ」です。真理に基づかない裁きは(世の裁き・人による肉の裁き)だと教えられました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と諭してくださいます。イエス様の愛を受けて、そこから応答していくことをイエス様は喜んでくださるのではないでしょうか。   (神学生 河野正成)

 応答讃美歌:新生讃美歌300番「罪ゆるされしこの身をば」