(2025年3月30日の週報より)   

“終わり”を思い、“今”を生きる

マタイによる福音書25章31~40節

2024年度の最後の礼拝です。この1年間も様々なことがありました。嬉しいことも、反省させられることもありました。しかし、何はともあれ、2024年度は終わります。どのような時も、過ぎ去ってしまうと取り戻すことはできません。そのような “終わり”を思うとき、取り戻すことのできない“今”がどれだけ大切であるかを知らされ、この“今”をどう生きるのかと問われるのです。

   マタイ25章は世界の終わりの場面を描きます。世界中の人々が王(イエス)の前に集められ、審判を受けます。その時、王は、ある人々を祝福してこう言われます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(34~36節)。すると、人々は答えます。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37~38節)。人々は、自らの行いに気付いていません。この後に、王は別のある人々に罰を言い渡しますが、この人々もまた、自らの行いに気付いていません。しかし、その小さな悪や小さな愛を王は見ていたのです。

   この場面が語っている大切な事柄は、〔自分でも気づけないような小さな悪や小さな愛をちゃんと見ておられる方がいる〕、ということではないでしょうか。誰よりもきめ細かく私たちの人生を見つめておられる方の前で人生の総決算をする時、それが “終わり”の時だと聖書は言います。そして、この“終わり”を思いながら、“今”をどう生きるかと聖書は問いかけるのです。 (牧師 原田 賢)

 
  応答讃美歌:新生550番「ひとたびは死にし身も」    


 (2025年3月23日の週報より)   

幸せの在り処

マタイによる福音書23章25~26節

マタイ23章は、イエスが律法学者やファリサイ派の人たちを厳しく批判する箇所です。彼らは宗教的な指導者であり、人々に聖書の言葉を語り聞かせ、人々の人生を正しく導くという大切な役割を負っていました。彼らは“正しい言葉”を人々に語ります。しかし、その彼らの行いは「すべて人に見せるためである」(5節)と、イエスは言います。表面上の“正しさ”ではなく、内面にある動機や思いを問題にしているのです。自らの正しさを誇示し、“自分を高めるため”に振舞おうとする指導者たちの姿を、イエスは批判されたのでした。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」(25節)。

   このイエスの言葉を、私は“誰かを批判するため”ではなく、“自分の内面を問うため”に受け取りたいと思います。表面上は正しいことや大切な事柄があったとしても、その内面には“自分を高めるため”という「強欲」がある、それは他人事ではありません。そのように生きる人々を、イエスさまは「不幸だ」と言います。その言葉の内側には、“どうか考え直してほしい”という嘆きが籠っているのではないでしょうか。

   自分を高めること、自分を綺麗に見せること、多くの人から褒められること、そういったことに「幸せ」を見ようとし、自分のために外側を綺麗にしようと奔走する人々へ、イエスは“そこに幸せはない”と語ります。そして聖書は、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)と、他者のために生きることを教えます。それは、行動の動機を“自分のため”から“他者のため”に入れ替えるようにとの招きです。そして、そこには確かにあなたがたの幸せがあると、聖書は励ますのです。(牧師 原田 賢)

 
  応答讃美歌:新生392番「めぐみのうつわ」   


 (2025年3月16日の週報より)  

ここはあなたの祈りの家

マタイによる福音書21章12~14節

この箇所は「イエスの宮清め」と呼ばれる箇所で、4つの福音書すべてに記載されている出来事です。神殿の境内には、「両替人」や「鳩を売る者」がいました。当時、一般に流通していたローマ貨幣を神殿への献金に用いることができなかったので、献金のために貨幣を両替する必要がありました。「鳩」も献げ物として必要なものと考えられていました。そのため「両替人」や「鳩を売る者」は、表向きは参拝者のためのサービスであったと見ることもできます。しかしその裏の実態は、宗教指導者たちの私腹を肥やすことに繋がっていました。一部の人を豊かにするために搾取のような行いをしていた神殿を、イエスは嘆きます。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(13節)。

   この場所には、「目の見えない人」や「足の不自由な人」がいたと記されています。この部分は4つの福音書の中でもマタイにしか描かれていません。〔ここは祈りの家であるべきだ〕という主張と共に、身体に痛みを抱えた人たちを癒されるイエスの姿をマタイは描き出します。それは、〔ここはこの人たちのための祈りの家だ〕というメッセージを発するためのものかもしれません。

   身体に抱えたハンディキャップは、生まれつきのものとは限りません。特にイエスの時代の人々は、搾取を受けることや過酷な労働を強いられること、不衛生な環境での生活などを余儀なくされていました。そうした中で病気やケガをし、目や手足が不自由になってしまった人々は少なくなかったであろうと思われます。そのような人生の苦労を抱えて歩んできた一人ひとりのための「祈りの家」を、イエスは取り戻そうとされたのでしょう。生きる希望を取り戻すための場所、〔わたしと共に歩まれる神〕を思い起こすための場所、そのような「祈りの家」を取り戻そうと、イエスは語りかけるのです。 (牧師 原田 賢)

 
 応答讃美歌:新生461番「迷い悩みも」   


(2025年3月9日の週報より)  

能力主義を打ち破る神の愛”

マタイによる福音書20章1~16節

本日の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、13章のたとえ同様に「天の国」(神とのつながり)のたとえとして語られており、「主人」は神であり、「労働者」は私たちのことだと受け止めることができます。そして「ぶどうの収穫」は、〈人生〉とも、主人のための働きであることから〈伝道や奉仕をはじめとした教会生活〉とも理解することができるでしょう。

   たとえでは、早朝から仕事に就いた人を筆頭に、9時、12時、15時、そして日没間近の17時に主人から声をかけられた5つのグループが存在します。具体的な賃金の提示は早朝の人だけになされており、1デナリオンという適切な金額です。それ自体は何の問題もありません。ところが、日当の支払いの時に、17時過ぎに仕事に就いた人たちに1デナリオン支払われたことから(そして早朝からの人にも1デナリオンであったことから)不満の声があがります。この世の物差しで測れば当然な反応だと言えるでしょう。

   しかし、視点を変えて、見えない部分に目を向けるとどうでしょうか。早朝から働いた人に比べて1時間程度しか働いていない人の肉体的な疲れは少なかったはずです。けれども、彼は1時間しか働かなかったのではありません。雇われなかったために働けなかったのです。仕事を待ち続けて一日が終わろうとしている人たちの心の疲れは、決して小さなものではなかったはずです。主人はそこに思いを向けて、同じ賃金を払ったのではないでしょうか。

   「ふさわしい(賃金)」の動詞形は「義とされる」(ローマ3:24)です。つまり、〈救い〉であり〈永遠の命〉です。それは、私たちの能力や働き具合によって決まるものではなく、ぶどう園の主人である神の愛によるものです。神の招きに与る時間(タイミング)は人それぞれに違います。けれども、神は「ふさわしい賃金」を一人ひとりのために準備しておられるのです。  (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生431番「いつくしみ深き」   


 (2025年3月2日の週報より) 

赦しへ向かう“第一歩”

マタイによる福音書18章21~35節

ある王と家来たちの譬え話が語られます。ある家来は「一万タラントン」の借金をしています。それは一生かかっても返済できないような途方もない金額でした。王は返済できない家来を憐れに思い、家来の借金を帳消しにします。ところがその直後に、赦された家来は自分に百デナリの借金をしている仲間を見つけ、「借金を返せ」と言って首を締めあげてしまいます。そのことが王の耳に入り、その家来は牢に繋がれることになり、この話は終わります。

   この話を通してイエスさまが語ろうとしていることは、〈あなたは神から赦されている。だからあなたも他者を赦しなさい〉というものです。そのメッセージそのものは分かりやすいものですが、自分事として受け入れようとすると難しく感じるものではないでしょうか。イエスさまは最後にこう言われます。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(35節)。正直に言って、私はこの言葉に戸惑っています。どうしても赦せないことがある私はどうしたら良いのでしょうか、そう言いたくなるのです。

   「赦しを迫る聖書」と「赦せない私」の狭間で、私が見出すことのできた僅かな糸口は、赦しを「今すぐ」の事柄にしないというものでした。〈今すぐ心を入れ替えて、憎いあの人を赦さなければならない〉とすれば、私には不可能に思えてしまい、赦しと向き合えなくなってしまいます。しかし誰かを赦すことを、「赦しをゴールに据えた一つの旅路」として捉えることができるなら、少しだけでも向き合えるように思うのです。〈いつか赦せる日が来る〉、そのはるか遠いゴールを見つめながら踏み出す「第一歩」は、〈自分もまた神から赦された者である〉と深く心に留めることにあるのではないでしょうか。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生300番「罪ゆるされし この身をば」  


 (2025年2月23日の週報より)

あなたはわたしをだれと言うか

マタイによる福音書16章13~20節

イエスが弟子たちに信仰の根幹に関わる問いかけをされた場所は、ローマ皇帝の名が付された「フィリポ・カイサリア」でした。この町の神殿には皇帝の像が置かれ、バアルやパンといった偶像崇拝も盛んになされていたところです。その町でイエスは「人々は、人の子(=イエス)を何者だと言っているか」と弟子に問われたのです。これは現代の私たちに何を語っているのでしょうか。

弟子たちは人々の声を伝えます。第三者の声を伝えるのは簡単です。そこには自分の責任は伴いません。誰が言ったかということも問われません。時に噂やSNSでの不確かな情報を信憑性のあるかのように思い込み、その結果、他者を傷つけてしまうこともあります。弟子たちが伝えたイエスに対する町の人々の評価も正しいものではありませんでした。

続けてイエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われます。この問いこそが重要であり、この問いによって自分自身と向き合わされます。一人ひとりが自分の思い(信仰)をイエスの前にさらけ出すことが求められる呼びかけです。

「あなたはメシア(=キリスト、救い主)、生ける神の子です」との答えは信仰告白そのものです。信仰告白は神の導きによって生まれ、その内容の理解は、時間をかけて自己の中で深められていくものであることを、ペトロの歩みから教えられます。

イエスが語られた「岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てる」とは、〈信仰告白〉〈ペトロを初めとした信仰者〉〈ペトロ自身〉など様々な解釈が可能ですが、何よりもイエスご自身が「岩」であり、その「岩」の上に教会(呼び集められた群れ)がイエスによって建てられることをしっかりと認識することが大切です。そこが抜けてしまうと、キリストの教会ではなくなります。私たち一人ひとりが、イエスをだれと言うか、だれの上に教会を建てるか、とても重要なことです。 (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生353番「われは愛す 主の教会を」 


(2025年2月16日の週報より) 

お宝発見! そのときあなたは?

マタイによる福音書13章44~46節

卒園ソングのひとつに『ぼくのたからもの』という歌があります。「みんなと出会えたこと」「あなたの子どもであること」、それが「ぼくのたからもの」と歌われ、「これから出会う人たち」も「きっと、ぼくのたからもの」で閉じています。出会う一人ひとりがその人にとって「宝」となる人生はすてきですね。

主イエスはこの13章で「天の国」のことについて、いろんな〈たとえ〉を用いて語っておられます。その一つが「宝」を見出した人の話です。「宝」とはその人にとってかけがえのない貴重なものです。大切なものは〈金庫〉など安全だと思われる所に保管しておくのが普通ですが、その「宝」は「畑に隠されていた」というのです。これには当時の社会情勢が反映しているようですが、「宝」を見つけた人は、持ち物を売り払ってその畑を購入するという合法的な方法で「宝」を手にします。そこまでしても手に入れる価値があるということを認識していることが強調されていると言えます。次の「真珠」も同様です。ただ、「畑の宝」が偶然見つけたのに対して、「真珠」は探し求めていた「宝」です。この「宝」は何を意味しているのでしょうか?

ひとつは、〈イエス・キリスト(による救い)〉と言うことができるでしょう。「天の国(神の国)」とは、場所のことではありません。〈神の支配〉〈神との交わり〉という関係性のことです。それはイエス・キリストを通して私たちに与えられました。救い主と突然出会う人もいるし、救いを求め続けて最後にたどり着く人もいます。いずれの場合も、その人のこれまでを人生を大きく変える「宝」を手にしたのです。

いまひとつは、13章の行動者が「神」であることを考慮するとき、「宝」は〈私たち〉と見なすこともできます。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し…」と神は言われています(イザヤ43:4)。その「宝」のために、十字架という代価を払ってくださったのです。      (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生521番「キリストには替えられません」 


(2025年2月9日の週報より)   

蛇のように、鳩のように

マタイによる福音書10章16節

主イエスは、弟子たちを宣教の第一線に派遣するにあたって「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語られました。「飼い主のない羊」状態の人々を導き養うために弟子たちが遣わされるわけですが、人々からは歓迎されないことが明言されています。

   この世の人々が根っからの「狼」であるわけではありません。人間の本質は、一人では生きていけない「羊」です。しかし、多くの人が[羊飼いなしに生きていける]と思い込み、他者を傷つけ、自分を太らせる「狼」化してしまっていることを語っておられるのでしょう。

   そのような現実を踏まえて、「だから…」と、弟子たち(私たち)の在り方をイエスは語られました。それが「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」というものです。「蛇」の賢さについては、エバが蛇の巧みな言葉によって「罪」を犯してしまったという記事に引っ張られる形で[ずる賢い]というイメージを持ってしまいます。イエスは弟子たちに対して「ずる賢く」立ち振る舞うことを勧めておられるのでしょうか。そうではないようです。何よりもイエスが「蛇のように…」とだけでなく、「鳩のように…」と語られている点に着目すべきです。一見、矛盾するような両者ですが、切り離せないものとして一緒に語られていることがポイントです。「鳩のように素直に」の「素直になる」とは、[偽りがなく、純粋な者として生きることを指す](聖書教育)と説明されています。キリスト者としての純粋さ(神を第一とする姿勢)を失わないで生きるということでしょう。

   「蛇」は人の間を縫うようにして移動します。人や諸動物の間で生きていますが、周りのものに迎合して生きてはいません。「狼」の中で宣教していく弟子たち(私たち)が、狼になることなく、羊のままで生きていく賢さ、それは自分の力や策略による歩みではなく、神に身を委ね、いつでも神のもとに戻る帰巣本能を失わないで生きることだと言えるように思います。 (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生614番「主よ 終りまで」     


(2025年2月2日の週報より)    

イエスが驚く信仰とは

マタイによる福音書8章5~13節

カファルナウムには、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の駐屯地があり、収税所もあり、ローマとの関わりが深かった町でした。そのローマの百人隊長が中風で苦しんでいる「僕」のためにユダヤ人であるイエスに懇願したというのが話のスタートです。

   「わたしの僕が…ひどく苦しんでいます」との訴えを聞いたイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われています。異邦人に対しても分け隔てなく応対される愛に満ちた言葉として受け止めることができます。

   その一方で、[「わたしが行って、いやすのか」と疑問文と捉えるべきだ]と指摘する聖書学者もいます。そうだとすれば、否定的な要素を伴う意味合いになります。一蹴したいところですが、15章のカナンの女性に対する場面や10章で弟子たちを伝道に遣わす場面のイエスの言葉を鑑みると、疑問文の方がむしろ自然なのかもしれません。ただその場合も[イエスの拒絶は、決して最終的な意思ではなく、拒絶によって信仰の言葉を引き出しておられる]と説明されています。

   いずれにせよ、イエスの言葉を受けて返した百人隊長の言葉は、「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とイエスを驚かせます。自分が願ったことは必ず成就するという揺るがない思いを高く評価されたのでしょうか。そうではなさそうです。

   [信じれば治る]という思いにおいて見つめられるのは〈信じる自分の信仰〉です。今日の箇所で見つめられているのは〈言葉の権威(力)〉です。そしてそこには〈言葉を語る者の権威〉が前提となっています。つまり、百人隊長は、イエスが絶対的な権威者である神の子であるという信仰に立っているのです。そして権威ある〈言葉の力〉は空間や時間を越えても揺らぐことはないということを信じ、イエスの言葉を求めたのです。  (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生130番「永久なる みことば」    


(2025年1月26日の週報より)   

あなたの言葉を、あなたの神に。

マタイによる福音書6章5~8節

祈るとき、「あなたがたは偽善者のようであってはならない」(5節)とイエスさまは言います。それは「人から褒められるための行動」に対する批判であり、祈りの言葉は神に向けるべきものだと示すものでした。神に向かって祈ること、それは当たり前のことにも思えます。しかし実際のところはどうでしょう。私たちは神に向かって祈っているでしょうか。祈るときにさえ、「人からの評価」を気にして言葉を選んでいることはないでしょうか。正直に言って、人の評価を気にした「人に向かう祈り」をしてしまうことが、私にはあります。

   祈りに限らず、様々な事柄で「人からの評価」を気にしすぎてしまうところが、私たちにはないでしょうか。もちろん、人の意見に耳を傾けることや人と合わせることは、あらゆる人が共に生きていくために必要なことであり、大切なことです。しかし、人からの評価をあまりにも気にしすぎて、自分の素直な気持ちを言葉にできなくなっているとするならば、それは辛いことだと思うのです。SNSが浸透し、あらゆる事柄が数字で分かりやすく価値づけられている現代社会は、ひょっとすると、「人から受け入れられる言葉以外は口にできない」という空気を作りやすくなっているかもしれません。そのような空気が蔓延すると、そこは息苦しい場所になってしまいます。素直な自分の声を受け取ってもらえること、褒められたりせずとも「あなたはそう思うんだね」と聞いてもらえること、その単純なことを、私たちは必要としているのではないでしょうか。

   イエスさまは、人に聞かせられないような思いが秘められた「隠れたところ」にある言葉で、率直に神に祈るようにと招きます。その祈りの中でこそ、飾られることのない素朴な「あなたの言葉」を、尊い一人の声として受け取ってくださる「あなたの神」に出会うだろうと、イエスさまは励ますのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生535番「われは主のもの」