(2025年3月30日の週報より) |
“終わり”を思い、“今”を生きる マタイによる福音書25章31~40節 2024年度の最後の礼拝です。この1年間も様々なことがありました。嬉しいことも、反省させられることもありました。しかし、何はともあれ、2024年度は終わります。どのような時も、過ぎ去ってしまうと取り戻すことはできません。そのような “終わり”を思うとき、取り戻すことのできない“今”がどれだけ大切であるかを知らされ、この“今”をどう生きるのかと問われるのです。 |
応答讃美歌:新生550番「ひとたびは死にし身も」 |
(2025年3月23日の週報より) |
幸せの在り処 マタイによる福音書23章25~26節 マタイ23章は、イエスが律法学者やファリサイ派の人たちを厳しく批判する箇所です。彼らは宗教的な指導者であり、人々に聖書の言葉を語り聞かせ、人々の人生を正しく導くという大切な役割を負っていました。彼らは“正しい言葉”を人々に語ります。しかし、その彼らの行いは「すべて人に見せるためである」(5節)と、イエスは言います。表面上の“正しさ”ではなく、内面にある動機や思いを問題にしているのです。自らの正しさを誇示し、“自分を高めるため”に振舞おうとする指導者たちの姿を、イエスは批判されたのでした。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」(25節)。 |
応答讃美歌:新生392番「めぐみのうつわ」 |
(2025年3月16日の週報より) |
ここはあなたの祈りの家 マタイによる福音書21章12~14節 この箇所は「イエスの宮清め」と呼ばれる箇所で、4つの福音書すべてに記載されている出来事です。神殿の境内には、「両替人」や「鳩を売る者」がいました。当時、一般に流通していたローマ貨幣を神殿への献金に用いることができなかったので、献金のために貨幣を両替する必要がありました。「鳩」も献げ物として必要なものと考えられていました。そのため「両替人」や「鳩を売る者」は、表向きは参拝者のためのサービスであったと見ることもできます。しかしその裏の実態は、宗教指導者たちの私腹を肥やすことに繋がっていました。一部の人を豊かにするために搾取のような行いをしていた神殿を、イエスは嘆きます。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(13節)。 |
応答讃美歌:新生461番「迷い悩みも」 |
(2025年3月9日の週報より) |
能力主義を打ち破る神の愛” マタイによる福音書20章1~16節 本日の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、13章のたとえ同様に「天の国」(神とのつながり)のたとえとして語られており、「主人」は神であり、「労働者」は私たちのことだと受け止めることができます。そして「ぶどうの収穫」は、〈人生〉とも、主人のための働きであることから〈伝道や奉仕をはじめとした教会生活〉とも理解することができるでしょう。 |
応答讃美歌:新生431番「いつくしみ深き」 |
(2025年3月2日の週報より) |
赦しへ向かう“第一歩” マタイによる福音書18章21~35節 ある王と家来たちの譬え話が語られます。ある家来は「一万タラントン」の借金をしています。それは一生かかっても返済できないような途方もない金額でした。王は返済できない家来を憐れに思い、家来の借金を帳消しにします。ところがその直後に、赦された家来は自分に百デナリの借金をしている仲間を見つけ、「借金を返せ」と言って首を締めあげてしまいます。そのことが王の耳に入り、その家来は牢に繋がれることになり、この話は終わります。 |
応答讃美歌:新生300番「罪ゆるされし この身をば」 |
(2025年2月23日の週報より) |
あなたはわたしをだれと言うか マタイによる福音書16章13~20節 イエスが弟子たちに信仰の根幹に関わる問いかけをされた場所は、ローマ皇帝の名が付された「フィリポ・カイサリア」でした。この町の神殿には皇帝の像が置かれ、バアルやパンといった偶像崇拝も盛んになされていたところです。その町でイエスは「人々は、人の子(=イエス)を何者だと言っているか」と弟子に問われたのです。これは現代の私たちに何を語っているのでしょうか。 弟子たちは人々の声を伝えます。第三者の声を伝えるのは簡単です。そこには自分の責任は伴いません。誰が言ったかということも問われません。時に噂やSNSでの不確かな情報を信憑性のあるかのように思い込み、その結果、他者を傷つけてしまうこともあります。弟子たちが伝えたイエスに対する町の人々の評価も正しいものではありませんでした。 続けてイエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われます。この問いこそが重要であり、この問いによって自分自身と向き合わされます。一人ひとりが自分の思い(信仰)をイエスの前にさらけ出すことが求められる呼びかけです。 「あなたはメシア(=キリスト、救い主)、生ける神の子です」との答えは信仰告白そのものです。信仰告白は神の導きによって生まれ、その内容の理解は、時間をかけて自己の中で深められていくものであることを、ペトロの歩みから教えられます。 イエスが語られた「岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てる」とは、〈信仰告白〉〈ペトロを初めとした信仰者〉〈ペトロ自身〉など様々な解釈が可能ですが、何よりもイエスご自身が「岩」であり、その「岩」の上に教会(呼び集められた群れ)がイエスによって建てられることをしっかりと認識することが大切です。そこが抜けてしまうと、キリストの教会ではなくなります。私たち一人ひとりが、イエスをだれと言うか、だれの上に教会を建てるか、とても重要なことです。 (牧師 末松隆夫) |
応答讃美歌:新生353番「われは愛す 主の教会を」 |
(2025年2月16日の週報より) |
お宝発見! そのときあなたは? マタイによる福音書13章44~46節 卒園ソングのひとつに『ぼくのたからもの』という歌があります。「みんなと出会えたこと」「あなたの子どもであること」、それが「ぼくのたからもの」と歌われ、「これから出会う人たち」も「きっと、ぼくのたからもの」で閉じています。出会う一人ひとりがその人にとって「宝」となる人生はすてきですね。 主イエスはこの13章で「天の国」のことについて、いろんな〈たとえ〉を用いて語っておられます。その一つが「宝」を見出した人の話です。「宝」とはその人にとってかけがえのない貴重なものです。大切なものは〈金庫〉など安全だと思われる所に保管しておくのが普通ですが、その「宝」は「畑に隠されていた」というのです。これには当時の社会情勢が反映しているようですが、「宝」を見つけた人は、持ち物を売り払ってその畑を購入するという合法的な方法で「宝」を手にします。そこまでしても手に入れる価値があるということを認識していることが強調されていると言えます。次の「真珠」も同様です。ただ、「畑の宝」が偶然見つけたのに対して、「真珠」は探し求めていた「宝」です。この「宝」は何を意味しているのでしょうか? ひとつは、〈イエス・キリスト(による救い)〉と言うことができるでしょう。「天の国(神の国)」とは、場所のことではありません。〈神の支配〉〈神との交わり〉という関係性のことです。それはイエス・キリストを通して私たちに与えられました。救い主と突然出会う人もいるし、救いを求め続けて最後にたどり着く人もいます。いずれの場合も、その人のこれまでを人生を大きく変える「宝」を手にしたのです。 いまひとつは、13章の行動者が「神」であることを考慮するとき、「宝」は〈私たち〉と見なすこともできます。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し…」と神は言われています(イザヤ43:4)。その「宝」のために、十字架という代価を払ってくださったのです。 (牧師 末松隆夫) |
応答讃美歌:新生521番「キリストには替えられません」 |
(2025年2月9日の週報より) |
蛇のように、鳩のように マタイによる福音書10章16節 主イエスは、弟子たちを宣教の第一線に派遣するにあたって「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語られました。「飼い主のない羊」状態の人々を導き養うために弟子たちが遣わされるわけですが、人々からは歓迎されないことが明言されています。 |
応答讃美歌:新生614番「主よ 終りまで」 |
(2025年2月2日の週報より) |
イエスが驚く信仰とは マタイによる福音書8章5~13節 カファルナウムには、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の駐屯地があり、収税所もあり、ローマとの関わりが深かった町でした。そのローマの百人隊長が中風で苦しんでいる「僕」のためにユダヤ人であるイエスに懇願したというのが話のスタートです。 |
応答讃美歌:新生130番「永久なる みことば」 |
(2025年1月26日の週報より) |
あなたの言葉を、あなたの神に。 マタイによる福音書6章5~8節 祈るとき、「あなたがたは偽善者のようであってはならない」(5節)とイエスさまは言います。それは「人から褒められるための行動」に対する批判であり、祈りの言葉は神に向けるべきものだと示すものでした。神に向かって祈ること、それは当たり前のことにも思えます。しかし実際のところはどうでしょう。私たちは神に向かって祈っているでしょうか。祈るときにさえ、「人からの評価」を気にして言葉を選んでいることはないでしょうか。正直に言って、人の評価を気にした「人に向かう祈り」をしてしまうことが、私にはあります。 |
応答讃美歌:新生535番「われは主のもの」 |