(2023年2月8日の週報より)  
 

平和への道を知る者であるために

ルカによる福音書19章41~48節

これまでガリラヤを中心に活動されていた主イエスは、いよいよエルサレムに向かわれます。四福音書全てに記されている[エルサレム入城]ですが、ルカは「ダビデの子にホサナ」と叫んで後に従う群衆の姿は描いていません。36節の「人々」も、直訳は「彼ら」であり、文脈的には「弟子たち」です。彼らの[無理解]もこの後の主の振る舞いと関係があるように思われます。

   エルサレムの都が見えたとき、主イエスが泣かれるという驚くべき事態をルカは私たちに伝えています。[神の平和][平和の町]という意味の「エルサレム」ですが、[誰よりも平和への道を知っているはずのあなたが分かっていない]と、主は泣かれたのです。そこには「弟子たち」も含まれているように感じます。「号泣する」とも訳せる強い意味を持っている言葉が使われており、主の悲しみと憐れみの極みが表現されていると言えるでしょう。

   主イエスが言われている「わきまえていたら…」との言葉は、実際は「わきまえていない」ということであり、人々は[自分たちは平和だ]と間違った思いの中に生きていたということです。その背景には、[選民思想]や[神殿信仰]が横たわっているようです。[自分だけは大丈夫…][自分は間違っていない]、この思いは私たちの中にもあるのではないでしょうか。だとすると、主はこの私たちのためにも泣かれたことになります。

   大きな悲しみをもって泣かれた主イエスですが、「平和への道」をわきまえていない人たちを見捨てることはありません。45節以降の[神殿から商人を追い出す]という行動は、そのことの表れです。人々の神への姿勢を[ひっくり返した]だけでなく、主はそこで毎日教えられます。ルカは、夢中になってイエスの話に聞き入っていた民衆の姿を描いています。ここに「平和への道」があることを伝えているのです。  (牧師 末松隆夫)

応答賛美:新生讃美歌330番「み使いの歌はひびけり」   


 (2023年1月29日の週報より) 

信じて、見る

ルカによる福音書7章18~23節

今日の箇所に登場するバプテスマのヨハネは、イエスさまから「ヨハネより偉大な人物はいない」と語られるほどに、特別な人物です。そのヨハネが、イエスさまに問いかけます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。不安を抱くヨハネの姿が見えてきます。

   ヨハネは、「もうじき来る救いの時に備えて、悔い改めなければならない」と人々に語っていました。ヨハネ自身、「救いの時がすぐに来る」と信じて、その時を待っている人でした。そして、イエスさまと直接出会った時に、ヨハネは「この方こそ私たちが待っていた“来るべき方”だ」と思ったはずです。しかし、イエスさまと出会った後も、ヨハネの目の前では権力者たちは横暴に振る舞い、「救いの時が来た」とは思えない日々が続きます。〈“すぐに来る”と信じた救いが見えない。イエスさまの到来と共に“もうすでに来た”はずの救いが見えてこない〉。そのような不安を、ヨハネは抱いていたのだろうと思われます。

    ヨハネが遣わした二人の使いに、イエスさまは伝言を託します。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。イエスさまは、ヨハネを不安にさせた〈救いが見えない景色〉から、イエスさまの周りに広がりつつあった〈救いが動き始めている景色〉へと、ヨハネの目線を動かそうとします。〈大丈夫だ。あなたの待っていた救いの時は、今ここで、動き始めている。私を信じて、見てみなさい〉。そのような励ましを、イエスさまは語っているように思います。

   「神を信じる」という営みは、「視点を変えて、世界を見直す」という意味を含んでいると私は思います。〈目の前の現実を「救いがない世界」ではなく、「救いが動き始めている世界」だと信じて、見直した時にはじめて見えてくるもの〉、神の希望とはそのようなものなのかもしれません。      (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌491番「信ぜよ み神を」    


 (2023年1月22日の週報より) 

あなたの見つめるものは、なに?

ルカによる福音書6章6~11節

世界が創造された時、七日目に神は創造の業から離れて休まれました。このことから、神が休まれた日を「安息日」と呼び、休むことが定められました。

   ある安息日のこと、イエスさまは会堂に入って教えておられました。そこには、律法学者たち・ファリサイ派の人たちと「右手の萎えた人」がいました。当時の考えでは、「病人を癒すこと」は「労働」に当たります。安息日の「労働」は禁止されていましたので、ファリサイ派の人たちはイエスさまを訴える口実を得ることができるかもしれないと、目を光らせていました。

   ファリサイ派の人たちの関心は、「自分が清く正しいかどうか」にあります。彼らは熱心に律法を学び、律法に違反する者たちを見つけては「罪人」の烙印を押していきました。その振る舞いに宗教的な「正しさ」を感じ、優越感を持っていたと考えられます。彼らのまなざしは、「人の間違いを指摘できる正しい自分」にのみ向けられています。そのまなざしの中で、いつしか「安息日」は、人々を裁く声に満ちた、「息が詰まりそうな日」に変わってしまっていました。

   イエスさまは、彼らに問いかけます。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか(9節)」。この問いかけは、ファリサイ派の人たちを「論破する」ためのものではないと思います。むしろ、彼らが立ち止まって、悔い改めて、新たに生きる者になって欲しいと願うものだったのではないでしょうか。彼らを見つめるイエスさまのまなざしに、「彼らの命を救うため」というイエスさまの優しさを見るのです。

   聖書の言う「悔い改め」は「自分のまなざしを神の思いに向けなおすこと」を意味します。ルカは「悔い改めの必要性」を強調します。それは、「誰もが、自らのまなざしを神の思いに向けなおすことができる」という確信に基づいています。ルカはこの確信に立って、「問われること」すらも「福音」として物語ります。「悔い改めることができる」という希望を、私たちに語るのです。(牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌486番「ああ主のひとみ」   


 (2023年1月15日の週報より)

罪の赦しを宣言されるイエスさま

ルカによる福音書 5章17~26節

御言葉を聞くために各地から人々が集っていた時のことです。皆が積極的な姿勢で御言葉に耳を傾けていたかは定かではありませんが、どのような形であれ、御言葉の語りかけがなされていたところから今日の出来事はスタートしています。御言葉が語られ、御言葉に触れることの大切さを感じます。

中風を煩っていた男性が数人の助けによって主イエスのおられた家に連れて来られますが、既に多くの人が押し寄せており、群衆に阻まれてしまいます。ある牧師は「キリストのもとには“いつ行っても予約席が空いていると油断することは許されない。キリストとの出会いは、厳しい時間的制約のもとでこそ起こる。だから、一回限りの時間の中で決断が大切なのである」と述べています。

彼らは諦めることなく、次の一歩を踏み出します。恵みが失われたと思えるとき、それでもなお恵みに与る道を探り求め、主イエスの御前に行くことに全力を注いだ、そこには主への信頼があります。それこそが“信仰”と言えるでしょう。その人に寄り添い、我が事として捉え、共に救いを求める一途な姿を、主も「信仰」と呼び、罪の赦しを宣言されました。

「罪」とは“神との関係の破れ”ですが、それは“人との関係の破れへと波及します。その罪の赦しは、神の御子であり、この後十字架で私たちの罪を贖う主イエスだからこそ言える宣言です。しかし、主によって罪赦された者は“人との関係の破れの修復を託されると言えます。主は中風の人に向かって「人よ」と呼びかけられました。神によって創造され「極めて良かった」と評価され、「わが目に高価で尊い」と認められている「人」を、病ゆえに「汚れている」とか「罪人」とのレッテルを貼って差別したり、裁いたりするのでなく、共に生きる大切さをルカは教えています。ルカが中風の人を連れてきた人数を記していないのは、“人との関係の破れを修復する仲間が増えていくことを信じてのことだと思われます。その一人に私たちも連なりましょう。  (牧師 末松隆夫)  

応答賛美:新生讃美歌102番「罪にみてる世界」    


 (2023年1月8日の週報より)  

神の子イエス、“神らしさ”を拒否する

ルカによる福音書4章1~13節

今日は「悪魔の誘惑」の箇所です。読者の視点からは、これが「悪魔」からの「誘惑」であると一目で分かります。しかし、実際に誘惑をされる現場では、それが誘惑であるかを見極めることは簡単ではありません。誘惑する側も、それが誘惑であると悟られないように努力するでしょう。なので、〈悪魔が神の子を陥れるために知恵を振り絞った言葉〉という視点で、悪魔の誘惑の言葉を見つめてみたいと思います。

   神の子は、〈世界の人々に神を示し、人々が神を信じて救われるため〉に来られました。その神の子の「目的」を悪魔は知っていたでしょう。悪魔の3つの誘惑の言葉は、どれも単純に「人間の欲望」を刺激するものではなく、〈それをすることで神の子の目的を果たすことができる〉と囁くものであった可能性があります。「石をパンに変えよ」という誘惑は、〈その力を使うことで飢えた人々を満たすことができ、そのような奇跡を目の当たりにした人々はイエスを神と崇めるでしょう〉と囁きます。「世界の権力を与えよう」という誘惑は、〈その権力によって世界を導き、すべての人々を神のもとに導くことができるでしょう〉と、また神を信じる人々が集まる「神殿」という場所で「天使に助けてもらえ」という誘惑は、〈信仰者たちが待ち焦がれている神の力を示すことになり、人々はますます強く信じ、救われるでしょう〉と囁くものであったと考えられます。これらの誘惑が指し示す「神」は、手っ取り早く強引に解決をもたらす神であり、その力強さは一見すると「神らしい」と思えるかもしれません。しかしそれは、「十字架のイエス」において示される「神」とは「別もの」です。

  イエスさまは、申命記からの引用によってこれらの誘惑に応じます。それは、出エジプト後の荒野を旅する人々と御自分を重ね合わせる行為であり、徹底的に人々と共にある者として自らを表明する行為でした。実にこのイエスさまの姿にこそ、「インマヌエルの神」の姿が見えてくるのです。 (牧師 原田 賢)
 

応答賛美:新生讃美歌521番「キリストには替えられません」   


 (2023年1月1日の週報より)   

はじめのことば

創世記1章1~3節
 ヨハネによる福音書20章19節

2023年が始まりました。2022年が一言では語り切れないほどに様々な出来事に彩られた一年であったように、2023年も様々な出来事と出会いながら、歩むことになるでしょう。その私たちに向けられた2023年の「はじめのことば」、聖書が語る神の福音を今日も共に分かち合いたいと思います。

   創世記第1章は聖書のはじめであり、世界の始まりを物語る個所であり、神の「はじめのことば」が記されている箇所です。2節には「闇」の存在が語られます。その存在理由は分かりません。ここに記されている〈どこから来たのか分からない闇〉は、私たちが現実に出会う不条理や、なぜ存在するのか分からない悲しみを物語っているように思います。聖書は「闇」を無視しません。むしろ、その「闇」を真っ直ぐに見据えながら、神は「光あれ」と語られるのです。その一言は、〈神は「闇が晴れること」を望んでくださる方だ〉と物語るのです。

   ヨハネによる福音書20章では、復活のイエスと弟子たちの再会が語られます。「週の初めの日の夕方(19節)」、弟子たちは人々を恐れ、部屋の中に閉じこもっていました。まさしく暗闇の中にいた弟子たちが耳にした主イエスからの「はじめのことば」は、イエスを裏切った弟子たちへの恨み節や、恐れて閉じこもる弟子たちを見下す言葉ではなく、「平和があるように」という言葉でした。そこには「大丈夫だ、恐れなくてよい」と弟子たちを励ますイエスの思いが響いているように思えます。

   「闇」としか思えない悲しみがなぜ存在するのか、それは分かりません。しかし少なくとも神は、闇が晴れることを望み、「光あれ」と語ってくださいます。恐れて閉じこもるしかない状況でさえ、「平和があるように」と語る主が、私たちの傍らにそっと立ってくださいます。この神の福音に励まされながら、今年も神と共にある日々へと歩み出していきましょう。 (牧師 原田 賢)
 

応答賛美:新生讃美歌554番「イエスに導かれ」    


 (2022年12月25日の週報より)   

全ての人のクリスマス

ルカによる福音書2章1~20節

ルカが語るクリスマスは、「皇帝アウグストゥス」の勅令による「住民登録」からスタートしています。それは、皇帝が自分の掌に全世界を握っておく(掌握する)ための手段であったと考えられますが、とても負担の大きな施策です。その「住民登録」を実行したのは「権力」「自信」の表れであったと分析することができます。

   「アウグストゥス」は称号で、本名はオクタヴィアヌスです。独裁政治を行ったために暗殺されたユリウス・カエサルの跡を継いで18歳で皇帝となった彼は、伯父とは違い慎重に時間をかけて権力を手中に収め、国内の治安も安定し、「ローマの平和」と呼ばれる時代を築いて行きます。「主」「救い主」「神」「平和」という語は、人々がアウグストゥスに使っていたものです。そのアウグストゥスの時代に、真の主であり、救い主であり、神の子であり、平和の君が私たちのもとに生まれたということを、意識的に対比してルカは私たちに提示しているようです。その姿は全く対照的です。

   洗礼者ヨハネ誕生の際には奇跡や預言の歌がありました。しかしイエス誕生の際には、煌びやかなものは全くありません。天使登場も羊飼いに対してだけです。ルカは一切の装飾を行わずにクリスマスの出来事を語り、いと小さき者として来られたこと、小さき者に寄り添われて誕生したこと、そしてやがて、イエスご自身が小さき者たちに寄り添って生き抜かれたことを、この福音書で証言しているのです。
  
   時の政権に翻弄される形でローマ帝国の人々がうごめく中で、神は権力者を用い、信仰者を用いて、旧約の預言を成就されました。それは「民全体」に与えられた大きな喜びであり、その喜びの中に、小さな者の代表として羊飼いたちが招かれます。クリスマスは全ての人のためのものなのです。(牧師 末松隆夫)
 

応答賛美:新生讃美歌163番「きよしこの夜」   


 (2022年12月18日の週報より)  

価値の逆転

ルカによる福音書 1章39~56節

ルカは、救い主イエス・キリストの誕生を告げるにあたって、洗礼者ヨハネのことと交互に語っています。そのちょうど真ん中にあたる今日の箇所で二人が合流します。つまりマリアのエリサベト訪問は、二人の「誕生の告知」と[誕生物語]という大きな二つの出来事を結びつけ、そのことによって両者の共通点と相違点を際立たせる構図になっています。ルカらしい執筆法です。

   マリアはエリサベトが妊娠6ヶ月だということを天使から聞いていますが、エリサベトはマリアが身ごもっていることを知らないはずです。その彼女からの聖霊に満たされての言葉(42~45節)に、マリアは驚きとともに自分に与えられた神の言葉をより一層確信したと思われます。信仰の友のすばらしさを垣間見る思いがします。神の言葉を信じる者同士だからこそ理解し合い、共感し合い、互いに励まし合うことができるのです。それが教会ではないでしょうか。

   エリサベトの祝福の言葉を受けてマリアは歌い出します。マグニフィカートと呼ばれる「マリアの賛歌」です。ここで歌われている内容は「身分の低い主のはしため」から主が目を留めてくださった「幸いな者」への《自己認識の転換》と、自分の境遇の中に神の力と恵みを見る《新しい現実》への開眼です。そしてその価値の逆転を、マリアは自分だけのこととして捉えるのでなく、民に対して神がイエス・キリストを通してこれから行ってくださる恵みとして歌っています。つまり、自分は「身分の低い者」「飢えた人」たちのモデルとして選ばれたのだという理解をしていると言うことができます。

   「わたしの魂は主をあがめ」の「あがめる」とは「大きくする」ということです。「主をあがめる」「主を大きくする」とは《神を神とすること》です。私たちにとってその最たるものが「礼拝」だと思います。主の御前に自らを小さくし、共にしっかりと神と向き合うことを通して、「主をあがめる」教会となりましょう。   (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌151番「わが心はあまつ神を」