(2022年12月4日の週報より)   

クリスマスへの準備

ルカによる福音書1章5~25節

カタールで行われているワールドカップ。日本はドイツ戦に続きスペイン戦にも勝利をおさめ、決勝トーナメントに進むことになり、日本中のサッカーファンが盛り上がっています。そこに至るまでに様々な準備があったことは言うまでもありません。

   アドヴェント(待降節)は、クリスマスへの準備をする期間です。アドヴェントクランツ、クリスマスリース、イルミネーションなどの飾り付けだけでなく、礼拝や祝会に向けて聖歌隊をはじめ多くの人が準備を重ねています。けれどもクリスマスへの準備は私たちだけではありません。私たちより早くから準備をしている方がおられます。それは主なる神です。

   神はクリスマスの800年も前からイザヤやミカたち預言者を通じてメシア(キリスト)到来を語り、準備を始められました。そして新約に入ると、その準備は急ピッチで進められます。そのことを詳しく紹介しているのがルカです。

   最初に登場するのは祭司ザカリアと妻エリサベトです。この二人に予想だにしない大きなプレゼントが与えられます。それは「長年願っていた子ども」が与えられるというものであり、しかもその子はキリストの道を整える働きを担うというものでした。しかし、それを否定してしまいます。クリスマスは、告げられた「喜びの知らせ(福音)」を聞いて“信じた人”の物語ではなく、“信じることができず、その子が生まれるまで口が利けなくなり、沈黙を余儀なくされてしまった人”の物語で幕を開けます。

   その“沈黙”は神の言葉を信じなかったが故の結果です。“裁き”と言う人もいます。しかし、裁きであったとしても、それはその人を滅ぼすことが目的ではなく、悔い改めへと導き、新たな人生へと導くためのものです。神と向き合うための“沈黙”であったと言えるでしょう。クリスマスを前に、私たちも神としっかりと向き合う“時”を持ち、心を整えて行きましょう。 (牧師 末松隆夫)
 

 応答賛美:新生讃美歌148番「久しく待ちにし」 


(2022年11月27日の週報より)   
 

神の慰めを待つ者たちの祈り

マタイによる福音書5章4節
ヨハネによる福音書9章1~3節

人間は「意味のない・意味の分からない悲しみ」には耐えられないと言われます。だからでしょうか。悲しみの出来事と出会う時、その出来事の「意味・答え」をすぐに求めたくなったり、即座に「原因追求」へと動くことがあります。もちろん、それらは「悪」ではないでしょう。原因が分かることによって何らかの解決に至ることもありますし、意味や答えを見出すことによって一歩前進することができるようになることもあります。しかし、心の本当に深い部分で求めているのは、実はそれらとは別の何かなのではないか、と私は思うのです。

イエスさまの時代、不幸や悲しみの原因は「人間の罪」にあると言われていました。弟子たちもそのように考えており、生まれつき目が見えない人と出会った時、「この不幸の原因は誰の罪にあるのか」とイエスさまに問いかけます。その問いに対するイエスさまの答えは、「誰の罪でもなく、神の業が現れるため」というものであり、その後すぐに、イエスさまはその人を癒されたのでした。このイエスさまの姿から、〈悲しみの時、その原因を知ることより先にまず必要なのは、「癒し・慰め」ではないか〉とそう思わされるのです。そしてイエスさまは、悲しみの「意味」や「原因」を論じるためにではなく、癒し、慰めるためにその場所に訪れて下さる方であることを聖書は語るのです。

「悲しみの場所」は「慰めを待ち焦がれる場所」だと言うことができるかもしれません。世界祈祷週間であり、アドヴェント第一週を迎えた今日、私たちは世界の悲しみに連帯して祈ることへと招かれています。世界の悲しみとつながり、世界と共に慰めを待ち焦がれ、「主よ、ここに来て下さい!」と祈ることができるのです。ここに、イエス・キリストを信じる教会だからできる働きがあります。人間の力が到底及ばないような深い悲しみと出会う時にも、その場所に「神の慰め」が訪れることを願い続ける教会でありたいと願います。     (牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌205番「まぶねの中に」 


(2022年11月20日の週報より)    

喜びの声は遠くまで

ネヘミヤ記12章43節

ネヘミヤ記12章は、ネヘミヤ記のクライマックスと言われる箇所です。「エルサレムに大きな不幸があり、城壁は崩れ、人々は辱められている」との知らせを聞いたネヘミヤが心を痛めて祈り始めたところから、ネヘミヤ記は始まりました。城壁の再建が始まると、それを妨害する者たちが現れて、ネヘミヤたちは多くの困難を経験することになりました。しかし、今や城壁は完成し、その上に聖歌隊が整列し、喜びの歌が献げられています。

   この箇所は、エズラ記3章の「神殿の基礎が据えられた時」の様子と似ています。その時にも、大きな喜びの声が上がりました。しかし、その時とは大きく異なっている点があります。エズラ記の時には喜びの声の中に「泣く声」が混じっていましたが、ネヘミヤ記12章には「泣く声」がありません。もはやそこには、「妨害する者たち」の姿や「泣く者たち」の姿はなく、正真正銘、「喜び一色」の声で満たされていたのです。

   この「喜び一色」の風景は、私たちの現実からは遠く感じます。2020年のユニセフの調査によれば、日本の15歳の子たちの「精神的幸福度」は先進国38ヵ国中37位だと言われています。本当に多くの人たちが「生きづらい」という思いを抱えていることを忘れてはなりません。その声を無視して、今、この瞬間を「喜び一色だ」と言うことはできません。

   ですから、私は今日の箇所を「喜びの声を上げる者」としてではなく、「喜びの声を聞く者」として受け取りたいのです。それは、この喜び一色の風景を私たちの目指すべき未来の風景として受け取ることです。今はまだ、私たちの中には「泣く声」があります。私たちを悩ませる数々の困難があります。その私たちの現実に、聖書は歓声を届けます。その声は、〈目指すべき未来はこっちだ!〉と語る導きの声です。ネヘミヤたちの「大きな不幸」を終わらせ、「大いなる喜び」で満たされた神が、遠く離れた現場に生きる私たち一人一人を「喜び一色」の未来へと導くために、今日も、私たちの傍らを歩まれるのです。(牧師 原田 賢)
 

応答賛美:新生讃美歌16番「み栄えあれ 愛の神」    


(2022年11月13日の週報より)   
 

神の祝福・みんなのお祝い

ネヘミヤ記8章9~12節

「子ども」という存在は様々なものを象徴しています。子どもは「無邪気さ」や「素直さ」を、また日々成長をしていく姿は「将来・未来」を思わせます。あるいはまた、「未熟さ」や「弱さ」を象徴しているとも言えるかもしれません。

   イエスさまの時代は典型的な男性中心社会であり、女性や子どもは数に入れられませんでした。また医療や福祉が行き届いていない環境であったため、子どもたちの命は常に脅かされていたと言えます。そのような社会にとって、「子ども」は無視されやすく、傷つきやすい、「小さくされた者」を象徴する存在だったと言えるでしょう。現代の日本においても、子どもたちは多くのストレスの中で生きています。傷ついている子たち、うつになってしまう子たち、生きづらさを抱えている子たちがこの社会に大勢います。

   イエスさまは「子どもたち」を祝福されます。未熟であっても、弱くあっても、その存在を大切に思ってくださいます。周囲から無視され、傷つけられ、生きづらさを抱えざるを得ない状況にあっても、「どうかその生きる道に恵みが豊かにあるように」とイエスさまが望んでくださるのです。イエスさまの子どもたちへの祝福は、「無視されていい存在などない」というすべての命へ向けられた神さまのメッセージを象徴していると言えるのではないでしょうか。

   聖書の語る神さまは、命を祝福してくださる神さまです。その祝福は、強く、立派で、正しい者たちだけに独占されるものではありません。あらゆる人たちと共に分かち合い、みんなで喜び祝うためのものです。私たち一人一人が神さまから祝福された命であることを心に留めて、その喜びをみんなで分かち合うこと、そこに私たちの「生きる糧」があるのです。

   「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8章10節)  (牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌523番「主われを愛す」      


(2022年11月6日の週報より)   

“祈り”へと召し出される者の歩み

ネヘミヤ記2章16~20節

ネヘミヤ記はエルサレムの城壁再建の物語を語ります。エルサレム神殿の再建が終わり、エズラがエルサレムへ向かってから13年後、エルサレムの人々は大きな不幸の中にあったといいます(1:3)。ネヘミヤはエルサレムの人々の不幸を他人事にできず、心を痛めて泣き、祈ります。このネヘミヤの祈りから、ネヘミヤ記は始まるのです。

   ネヘミヤは、事あるごとに祈る人でした。2章から7章にかけて、ネヘミヤの城壁再建の働きが語られます。そこでは城壁再建を妨害する者たちが現れ、ネヘミヤは多くの苦難を経験しています。その大変な道の中で、事あるごとに祈り続けながら歩むネヘミヤの姿が描き出されていきます。

   時折、「祈り」は「現実逃避」のような消極的な印象を持たれることがあります。しかし、本来の「祈り」は現実逃避とは真逆の事柄だと私は思います。祈りとは、自分の人生・沢山の経験の中から生まれ出た言葉を神に投げかける行為であり、そのことによって「神と私」の関係の中に立つことであり、その言葉を受け取って下さる神と共に現実と向き合い、不幸がある現実の中へ神と共に歩み出すための営みであると言えるのではないでしょうか。

   私たちには、この「祈り」という選択肢が与えられています。それは、〈どのような現実の中にあってもなお、神と共に歩み出すことが出来る〉という励ましであり、〈あなたの生きる道を諦めなくてよい〉という希望です。ネヘミヤは、エルサレムの不幸と出会い、心を動かされて歩み出します。その歩みの中で、多くの妨害や嘲笑を経験します。〈もう諦めろ〉という声が、ネヘミヤに繰り返し迫るのです。そのような声に対して、ネヘミヤは反論します。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する(20節)」。このネヘミヤの姿に込められた、〈あなたたちの生きる道を諦めなくてよい。神と共に歩み出せ!〉という励ましを受けながら、「祈り」の日々へと招かれていきたいと願います。  (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌8番「主の呼びかけに」      


(2022年10月30日の週報より)  
 

信じる者は救われない?

詩編 139編1~6節
ガラテヤの信徒への手紙 4章8~11節

私たちは、人生の不確かさから来る不安の中で、何とか幸福になりたいと願っています。カルト宗教は、そんな人間の心の隙間を上手に突き、信じさせ、心も生活も支配していきます。

   お釈迦様は「人生は苦なり」と言い、「生老病死」という四つの言葉でその苦しみを言い表しました。どの苦しみも人間である限り、逃れることはできないものです。それが人間の生きる現実であり、その苦しみからどう救われるかということが、宗教の目指すところでしょう。多くの人は、それらの苦しみが起こらないように、あるいは起こったとしても、それらが取り去られることを願って宗教の門を叩きます。しかし、果たして苦しみや悲しみを無くすことは出来るのでしょうか。苦しみや悲しみが無くなることが幸福だと思っている限り、それらは、どこまで行っても追いかけてきます。苦があっても苦にはならない、悲しみがあっても悲しみでは終わらない。苦しみや悲しみがあってもそれらを受け入れ生きて行ける、そのような世界に目を開かせる。それがすべての人に開かれる宗教的な境地ではないでしょうか。そして、そういう宗教的境地を説く宗教がまず教えていることは、「人間とは何か。私とは何か」という問いと、「人間とは不完全な存在であり、(それゆえ信仰も含めて)私の生き方も不完全である」ことのように思います。

   パウロは神様を知るということは、この私が、神様によって知られていることを知ることなのだ、と言っています。信仰の根拠は、人間にはなく、ただ神様にのみあるということでしょうか。神様は、私たちの髪の毛一本一本までも数え尽くしておられると主イエスは言われています。弱さや罪を含む私たちのすべてを知り尽くしておられるというのです。その上で、神様は、多くの雀よりもまさったものとして、私たちを守ってくださっている、その神様に委ねて、安心して生きて行きなさい。それが主イエスを通して与えられた福音であり、カルト宗教から身を守る確かな方法であろうと思います。   (枝光教会牧師 岩崎一宏)

応答賛美:新生讃美歌476番「ゆるされて」     


(2022年10月23日の週報より)   

今また再び

エズラ記8章21~23節

エズラ記のテーマの一つはバビロン捕囚を経験した人々の「再出発」です。「再出発」とは、〈それまでの歩みをすべて無かったことにして、まるっきり新しくなること〉ではありません。むしろ、過ちや傷も含めて、それまでの歩みを引き受けた上で、新しく歩み出すことだと言えるでしょう。イスラエルにとって、バビロン捕囚は「単なる敗戦」ではありません。〈その出来事を引き起こしたのは自分たち自身だった〉という罪の意識が、イスラエルの中にはっきりと存在していたのです。エズラ記は、その罪の意識・苦々しい失敗の記憶をもった人々が、今また再び、新しく歩み出す姿を描き出すのです。

   今日の箇所では、エズラたちが「歩兵や騎兵を王に求めること=武力に頼ること」を恥とし、代わりに「旅の安全を願って祈ることにした」と語られます(21節)。かつてイスラエルは、周囲の国々の脅威が大きくなっていた時に武力に頼り、覇権争いにのめり込んでいきました。その果てに起こったことが「バビロン捕囚」だったのです。エズラたちはその歴史の上に立ち、かつて選んだ「武力に頼る道」を拒否し、「祈ること」を選びます。祈ることとは、言い方を変えれば「神と共に生きること」です。エズラたちの旅路には敵からの脅威があったでしょう。そのような敵・危険・不安がある旅路を神と共に歩むこと、それがエズラたちの選んだ新しい道であり、イスラエルの「再出発」なのでした。

   苦々しい記憶を抱えながらも、同じ過ちを繰り返さないように、前を向いて新しく歩み出す人々の姿は私たちに勇気を与えてくれます。しかし、聖書が語っているもっと大切なことは、失敗した人々を切り捨てることなく、「再出発」に向かって人々の心を動かす神の思いにあります。人々の失敗にもかかわらず、その人々と共に歩むことを神が望んでくださったのです。この神の思いに心を動かされて、〈今また再び、目の前の現実を神と共に生きる〉、そのような歩みへと、聖書は絶えず私たちを招くのです。(牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌550番「ひとたびは死にし身も」    


(2022年10月16日の週報より)    

不自由な私たち

使徒言行録4章10~14節

ロシアがウクライナに攻め入り8か月が経過しました。世界中がロシアを非難しています。しかし、侵攻当初、ロシア国民はこの戦争を支持していました。なぜなら正しい戦いだと信じていたからです。

   人間は、自分が正しいと信じているとき、一番狂暴になると心理学者は言います。誰かが怒鳴り合いをしています。何を言い争っているのか聞き耳を立てると大抵の場合、自分の正しさを主張し合っています。自分の正しさを主張する時、私たちは好戦的です。そして終着点は戦争です。

   旧約聖書には、悪い王と良い王が登場します。悪い王は、唯一の神を神としないで、たくさんの偶像を作ります。良い王は、偶像を作りません。ただ唯一の聖書の神だけを神として従います。

   聖書にイエス・キリストは、私たちを自由にし、解放されたと書かれています。何から解放されて自由になったかというと罪からです。聖書の語る罪とは、本当の神を神としないことです。旧約聖書でいえば偶像のことです。

   偶像礼拝とは、本当の神以外に従うものがあるということでしょう。では、私たちは誰に従っているのでしょうか。私自身です。なぜなら、私が神を信じる、信じないに関係なく、神は神だからです。そうであれば、神を神でないとする者の正体は「私」です。

   私たちは、正しいことは正しいでしょう、なんで正しい私が引かなければならないんですかと心の中で思っています。自己を絶対化するということは、自分以外のものを相対化するということです。そして、相対化された自分以外の中に神も含まれています。私たちは、自分を正しいとすることが、実は、神は義なる方ではないと言っていることと同じであると気づいていません。

神の主権は、私が自分の正しさを捨てるところから始まります。「私」という偶像を捨て、神の正しさに従うとき、本当の平和が実現します。

マタイ16:24 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」  (神学生 山﨑 誠)

 
応答賛美:新生讃美歌621番「われに従えとイエスは招く」    


(2022年10月9日の週報より)   

基礎からの神殿建築

エズラ記 3章1~13節

ペルシアのキュロス王の布告により、故郷のエルサレムに帰還した人々がまず行ったことは、祭壇を築いて主に礼拝をささげることでした。心情的にはすぐにでも城壁や神殿再建のための作業に取りかかりたかったことでしょう。しかし彼らは、まず神への礼拝をささげました。ここに、神の民の“優先順位”を教えられます。“神を第一としていく”ことができなかったが故にバビロン捕囚を経験することになりました。そのバビロンから解放された時、彼らは、自分たちが何をなさなければならないのかということにしっかりと向き合っていたのです。これは、いつの時代にも、“神の民”が大事にしなければならない姿勢です。

   礼拝をささげた後、神殿再建に取りかかりますが、9節の「一緒になって」は、直訳では「一つになって」です。一つになって礼拝し、一つになって奉仕に携わるという教会のあるべき姿がここに表れています。

   10節を見ると、建築作業は神殿の基礎を据えるところから始まっています。新築の場合は当たり前のことですが、そこは神殿があった場所です。神殿は破壊されたとはいえ、基礎は残っていたことでしょう。その基礎が使えなかったということは、以前の神殿と同じサイズのものではなかったということです。基礎が据えられた時に「大声をあげて泣いた」人々は、まさにそのこと故の反応です。以前の神殿と比べてあまりにも小さなものであることを知り、深い失望を味わったのでしょう。

   しかしその一方で「喜びの叫び」も上がっています。半世紀以上、異国の土地で捕囚の民として礼拝する自由もない生活を余儀なくされていた人にとって、自由に主なる神を礼拝する場が与えられるということは、言葉に表せない大きな喜びがあったことを教えられます。

   私たちも「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」との告白をなすべく、人生の土台に主なる神を据えて、「一つになって」主を礼拝し、「一つになって」主のために仕えていく信仰者の群れであり続けましょう。 (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌348番「きよき所を」