(2022年1月16日の週報より) 
 

主にある家族

マルコによる福音書 3章31~35節

教会でよく聞く言葉(教会用語)に「兄弟・姉妹」という敬称があります。ある人が[血のつながりもない人たちを兄弟と呼んでいるのは、ヤクザと教会ぐらいだ]と言っていました。たしかに教会では血のつながりのない人に対して「○○兄弟」「○○姉妹」と呼んでいますが、それは主イエスにあって神の家族とされているからです。

  今日の箇所は、主イエスの母と兄弟たちが、ある家で大勢の人に語っておられた主を呼び出そうとしたところから話は始まります。家族は何のために主を呼び出そうとしたのでしょうか。神の国のことを宣べ伝えておられた主を激励に来たのではなさそうです。21節の「取り押さえに来た」との言葉から、主に宣教活動をやめさせようという目的があったことがうかがえます。

  主イエスの母や兄弟姉妹たちは、「外に立ち」「人をやってイエスを呼ばせた」ことが記されていますが、これは彼らの心の状態を象徴的に表していると言えるでしょう。たとえ肉親であれ、それだけの理由では神の家族にはなれません。自分は外に立って、人をやって呼ばせるという〈間接的〉なものではなく、主の周りに座って御言葉を聞くという〈直接的〉な関わりが求められるのです。

  主イエスは、ご自分の周りに座っている人々に「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。この言葉は[教会設立の制定語]とまで言われるほど重みのある大切な言葉です。

  ここで注目すべき点は、主イエスが言われている「わたしの○○」という〈所有格〉です。教会の一切はこの「わたしの」と言われる主によるのであり、主によってのみ私たちは神の家族として受け入れられるのです。この恵みに感謝し、兄弟姉妹という言葉に対する認識を、今一度深めたいものです。(牧師 末松隆夫
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応答賛美:新生讃美歌639番「主の恵みに生きる」 


(2022年1月9日の週報より) 
 

自分との関係の修復

マルコによる福音書 2章13~17節

今日の個所に登場する「アルファイの子レビ」は、12弟子の「マタイ」と同一人物です。彼は「徴税人」でした。おそらく〈通行税〉を取り立てていたと思われます。徴税人は、ユダヤ人を支配していたローマ帝国に仕える者であり、人々から嫌われていました。家族の誰かが徴税人になると、家族みんながユダヤ人の会堂から追放されていたとも言われます。

  レビはどうしてそのような仕事をしていたのでしょうか。理由は聖書には書かれていませんが、当時の徴税人の立場などを考慮しつつ、想像を豊かにして考えてみたいと思います。

  もしかしたら彼は、自分というものを大切にできず、自分を価値ある存在として受け入れることができずにいたのかもしれません。私たちは、〈大切な人〉として扱われる時に価値ある存在であることを実感します。自分が価値ある存在であることがわからないとき、自虐的になり、暴力的になり、反社会的生き方をしてしまいやすいと心理学者は指摘します。しかし、マイナス思考に陥っているときに、自分の力でプラス思考へと方向転換することは、簡単なことではありません。だからこそ、そこに主イエスの介入が必要となってくるのです。〈主はこの私をどういう存在として見ておられるのか〉ということを知るときに、自分との関係の修復が始まります。

  「わたしに従いなさい」という主イエスの言葉は、レビの人生を180度変えます。徴税人である自分を弟子として迎えることのリスクは、レビ自身が誰よりもよく知っていたはずです。その自分を召してくださった主の言葉に〈主の愛〉と〈自分の価値〉を見出した時に、彼は主に従うことができたのではないでしょうか。「彼は立ち上がって」(14節)とありますが、主に従うためには、自分が今座り込んでいるところから立ち上がる必要があります。その力もまた、主の言葉から生み出されると言えるでしょう。 (牧師 末松隆夫)

応答賛美:新生讃美歌639番「主の恵みに生きる」 


(2022年1月2日の週報より) 

新たな幕開け

マルコによる福音書 1章14~20節

2022年という新しい年が幕を開けました。3月までマルコ福音書から恵みに与ります。「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1節)との書き出しで始まるマルコ福音書ですが、マタイやルカがイエス・キリストの誕生をもって〈福音の初め〉を語るのに対し、マルコは「声」として主イエスの道を整える働きに徹した洗礼者ヨハネの活動をもって〈福音の初め〉を語り、それから主のガリラヤでの伝道開始という新たな幕開けを私たちに提示しています。

  そのヨハネの活動と主の活動の間に、主御自身のバプテスマと荒れ野でサタンから誘惑を受けられたことをマルコはスポット的に入れています。それは主が私たちと同じ立場に身を置かれたことを意味しています。まさに、ここに新たな幕開けがスタートしたことをマルコは語っているのです。

  それは、16節以降の4人の弟子が選ばれる出来事にも表れています。ガリラヤという〈小さな町〉で伝道を始められた主イエスは、シモンたちを弟子として招かれますが、彼らも〈小さな者〉であり、彼らが主の招きを受けたのは日常の営みに追われていた時でした。主による新たな幕開けは、第一声を発せられた場所、最初に弟子として招かれた人物、その時の状況、いずれも予想外のことだらけです。しかし、そこにも「イエス・キリストの福音」が表れています。

  「時は満ち」(14節)とは、〈満期を迎えた〉ということであり、〈神が定められた時が到来した〉ということです。それは「ヨハネが捕らえられた後」であったと、特記しています。古い時代が終わり、新しい時代が始まったことを意図してヨハネのことを取り上げているのでしょう。「悔い改め」だけを迫るヨハネと違い、主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」(15節)と言われます。「悔い改め(方向転換)」と「福音を信じる」ことはセットです。「時」は満ち、救いの満期は既に迎えています。あとは私たちがそれ(福音)をしっかりと受け取ることです。 (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌326番「ガリラヤの風」 


(2021年12月26日の週報より)  

キリストが在るから、我らは在る

ヨハネによる福音書1章19~34節

今日の箇所に登場する「バプテスマのヨハネ」は、4つの福音書のすべてに登場する重要な人物でありつつ、同時にすぐに身を引いて姿を消していく人物です。「この人物がいったい何者なのか」を巡って、「ユダヤ人たち」がヨハネに問いを発します。このユダヤ人たちは「民衆の信仰を導く者たち=信仰生活のエキスパート」でした。そして、基本的には〈自分たちは人々を悔い改めさせる側の人間で、悔い改めが必要な側の人間ではない〉と考えていました。だからこそ、そのようなユダヤ人たちにも「悔い改めよ」と迫るヨハネのことを疎ましく思っていたのです。ユダヤ人たちの「あなたは何者か」という問いは、ヨハネの行動の「権威」の出どころを問いただすことを意図していました。これに対して「わたしは“荒れ野で叫ぶ声”だ」とヨハネは応答します。「声」は、その告知している内容が重要視され、「誰の声か」は重要視されていないために、この応答は〈私自身は何者でもない〉と告げるものだったのです。その姿は、自らの姿や功績を誇る「ユダヤ人たち」とは対照的な形で描かれています。

   ヨハネは自らの活動を通して、しかし自分自身ではなく、ひたすらにキリストを指し示し続けます。その姿は、どの教会にも当てはまる普遍的な教会の使命を物語ります。この一年を振り返れば、私たちもさまざまな働きをしてきました。その歩み自体を問われるならば、そこには沢山の「破れ」があり、不完全な罪人たちの歩みであったことは否めません。しかし、その「キリストの履物のひもを解く資格もない者」のままで、その私たちと共に生き続けておられるキリストを指し示すようにと、聖書は語るのです。それは、この世界に来られた希望、私たちの希望から目を離さない歩みです。キリストに注目し、キリストを指し示す、その福音に満ちた日々へと、これからも歩んでいきましょう。
「見よ。世の罪を取り除く神の小羊だ(29節)」   (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌363番「キリスト 教会の主よ」 


(2021年12月19日の週報より) 


希望は、我らの間に宿られた。

ヨハネによる福音書114

聖書はイエス様のことを「神の子」や「神の言」と呼びます。それは〈イエス・キリストを見つめると、神がどのような方かが分かる〉ことを意味しています。イエス様が誕生した時、最初に訪問してきたのは羊飼いや博士たちでした。当時の羊飼いは卑しい職業と見なされ、人々から遠ざけられていました。博士たちは典型的な異教徒であり、当時の宗教観から言えば「救い」から一番遠い存在でした。この羊飼いや博士たちと、イエス様は出会われます。その様子は、人々から卑しいと思われ、あるいは「救い」から遠いと思われている場所に神はいたのだということを物語るのです。それは人々の期待とかけ離れていた事柄であっただけに、多くの人々は「イエス・キリスト」という在り方で神がおられたということに気づきませんでした。イエス様の生きた姿は人々の期待した「救い主」とは違ったのです。それにもかかわらず、この方からは、〈誰が何と言おうとも、私があなたを愛する〉という私たちのための希望を物語る神の姿が見えてきます。

「言は肉となって、私たちの間に宿られた(14節)」。この世界がイエス・キリストを生み出したのではなく、イエス・キリストがこの世界に「到来」されました。希望は向こうからやって来たのです。私たちがそのことに気付いていようがいまいが、神は罪だらけ、痛みだらけのこの世界の中で私たちと共に生き、私たちに「生きよ」とび掛けると決意されたのです。神は、私たちのところで、私たちと共に生きておられます。そう信じていいんだ招かれるこのクリスマスは、なんと幸いな時でしょうか。  (牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌157番「来れ 友よ 喜びもて」 


(2021年12月12日の週報より)  

平和が始まる、動き出す。

ミカ書5章1~5節

今日の箇所は「ベツレヘム預言」と呼ばれている箇所です。ベツレヘムは「いと小さき者」と呼ばれますが、それは土地面積の話ではなく、「いてもいなくても変わらない」と見なされることを意味しています。いつも蚊帳の外に置かれているような疎外感を味わい続けることという痛みは決して「小さく」ありません。そのような経験を積み重ねて続けてきた人々が生きる町が「ベツレヘム」だったのです。

救い主は、そのベツレヘムに生まれると語られます。それも、苦難をもろともしない屈強な力を持った姿ではなく、「人間の赤ちゃん」という無力な姿で生まれてきます。そのことは、救い主が抵抗する力のない姿で「小さい」という痛みを味わわれたことを物語っているのではないでしょうか。救い主は何の苦労も痛みも知らない者ではなく、「小さい」という痛みをよく分かっている者なのです。その救い主が、3節では「群れを養う者=羊飼い」に例えられます。羊飼いは牧草地から牧草地へと羊たちを導いていく者でした。その羊飼いに例えられる救い主は、傷ついた人々のところへ向かい、痛みがなくなる未来へと人々を導き上られるのです。

この救い主がイエス・キリストだと、私たちは信じています。イエス様はまさしく「小さい場所」に生まれ、まさしく羊飼いのように傷ついた人々を養い、その歩みを導いていく方でした。クリスマスの日、「この方こそ、まさしく平和(シャーローム)」だと呼ぶにふさわしい方の歩みが始まり、世界の果てにまで福音を届け、痛みが拭い去られる未来まで導き上るために動き出したのです。イエス様は今日も、あらゆる人たちが安らかに住まう場所に行くことが出来るように歩み続けておられます。その働きに私たち自身も励まされながら、イエス様についていく「アドベント」の期間を歩んでいきましょう。(牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌149番「来たれやインマヌエル・A」 


 (2021年12月5日の週報より) 

福音の道しるべを辿りながら

ミカ書4章1~5節

預言者ミカは「バビロンの捕囚」より前の時代、イスラエルがアッシリアという敵国の脅威にさらされ、それに対抗するために軍事力を強化していく時代の人でした。ミカは「モレシェト」という場所の出身です。そこは羊飼いたちや農民たちが暮らしていた場所であり、エジプト等の敵国に非常に近い場所でした。そのため、モレシェトは周辺諸国との関係悪化による影響を受けやすく、実際にアッシリアからの侵略を受けて滅ぼされてしまいます。アッシリアの侵略から生き残った人々はエルサレムへと逃れていきますが、ミカ自身もその生き残りの1人だと言われています。

  そのミカを通して「終わりの日」の預言、「わたしたちは主の道を歩もう」と世界のあらゆる人たちが言う日の預言が語られます。3節、4節では、「世界の国々がもはや戦うことを学ばず、自分の耕した実りに満足することができ、互いに取り合う必要がない」という様子が物語られています。「いつか、互いにいがみ合う日々が『終わる日』が来る」という神の約束は、実際に周辺諸国との緊張を味わい続け、略奪や搾取を経験してきたモレシェトの人々にとって、希望そのものと言える約束でした。

  「終わりの日」はまだ来ません。「今」はまだ、いがみ合うこと、略奪や搾取はなくなっていません。その「今」にあって、「我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む(5節)」と告白が語られます。それは、神が語ってくださった約束を「別の世界の話」にしてしまわないこと、自分たちに与えられた約束を、自分たちの人生の道しるべに据えるということです。「希望の未来が来る」と信じるところから、今の自分の歩みを捉えなおし、方向づけるのです。まだその時は来ていないのに、すでに「剣」を「鋤」に打ち直すことを学び始めること、そのような信仰の歩みへと、ミカは招いているのです。 (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌519番「信仰こそ旅路を」 


 (2021年11月28日の週報より)

エッサイの根はすべての民の旗印

イザヤ書 11110

イザヤ書は、預言書の中で最も重要視されています。それはキリストに関する預言が数多く記されており、また、驚くほど細かいことまでが預言されているからです。

イザヤは紀元前8世紀から7世紀にかけて南王国ユダで活動した預言者です。彼の時代に北王国イスラエルはアッシリアによって滅び(BC722)、ユダも大国の猛威のもと風前の灯火状態で、ユダの人たちを取り巻く環境は危険に満ちた先が見えないものでした。事実、後にバビロニアによって捕囚の民となります(BC587)。そのような痛みを経験するユダの人々に対して、希望の預言を語ります。それが「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでる」という預言です。

「エッサイ」はダビデの父であり、「エッサイの株」「エッサイの根」とはダビデの家系を意味しますが、ガリラヤに栄光をもたらす救い主が「ダビデの根」でなく「エッサイの根」と呼ばれていることは不思議です。これは、ダビデの家系からではあるもダビデ王朝とは違ったものとして救い主が到来することが強調されているものであり、王国と結びついた希望としては語られていないことが重要です。

「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ」と言われています。当時の人たちはこのイザヤの預言が実現した「その日」のことを知りません。しかし私たちは、この預言の一部が実現したことを知っています。それがクリスマスです。クリスマスは「エッサイの株」から「芽が萌えいで」た出来事です。

けれども、6節以降のパラダイス的な平和はまだ実現していません。その意味では、現代の私たちもまた究極的な平和が実現する「その日」(キリストの再臨)を待ち望む者の一人であると言えるでしょう。私たちはクリスマスを体験しつつ、なおアドヴェントの中に置かれているのです。              (牧師 末松隆夫)

応答賛美:新生讃美歌153番「エッサイの根より生い出でたる」