(2025年6月29日の週報より) |
神の愛が私たちの心に注がれている ローマの信徒への手紙5章1~11節 「最後まで諦めない。」素敵な言葉です。何事においても、最後まで諦めないことは、本当に大切なことです。でも、本当に最後まで諦めない方は神さまではないでしょうか。ヘブライ人への手紙の冒頭には、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」とあります。神さまは、罪に墜ちた人間のために、諦めることなく、救いに至る道を備えて下さったのです。そのためにご自身の御子を私たちに与え、御子の十字架上の死という身を切るような思いをしてまで私たちの罪を贖い、救いをもたらしてくださったのです。神さまは本当に、最後まで私たちに寄り添い、私たちを救うことを諦めない愛の方なのです。その私たちの実態は、「正しいものはいない。一人もいない」状態なのです。そのような私たちに対して、神さまは、信仰によって救われる道を備えて下さったのです。 |
応答讃美歌:新生495番「主よ み手もて」 |
(2025年6月22日の週報より) |
パウロの礼拝-神の前に生きること- ローマの信徒への手紙12章1節 今年度は「礼拝」を教会のテーマに据えています。そのことに則って、今日はローマ書12章から「礼拝とは生活の基盤である」ことに着目します。 |
応答讃美歌:新生626番「主はいのちを与えませり」 |
(2025年6月15日の週報より) |
はじまりのしるし ローマの信徒への手紙6章1~4節 バプテスマは、信仰者としての人生の「はじまり」を象徴します。それまでの日々も決して無下にはされませんが、それでも「信仰者」としての歩みはバプテスマから始まります。バプテスマは「一緒に生きよう」と招く神に応える行為です。信仰者として歩みは、神の招きに応えるところから始まるのです。 |
応答讃美歌:新生491番「信ぜよ み神を」 |
(2025年6月8日の週報より) |
自分を無にするイエス-自分を捨てられない私 フィリピの信徒への手紙2章6節~12節 今日は「ペンテコステ(ギリシア語で50の意味)」と呼ばれる日です。イエスの復活から50日目にイエスの弟子たちに聖霊が降り、福音が世界に向かって大胆に語られ始めます。「キリスト教会誕生の日」として覚えられる特別な日です。「聖霊」という言葉には「助けるもの」という意味も込められています。自分たちのために閉じこもるのではなく、世界のために福音を語ろうとする弟子たちを「助けるもの」があったと、ペンテコステの出来事は物語ります。この「助けるもの」の存在に大きな励ましを見ます。 |
応答讃美歌:新生621番「われに従えとイエスは招く」 |
(2025年6月1日の週報より) |
苦しみさえ益になる‐信仰者が見出す神の不思議‐ フィリピの信徒への手紙1章12~14節 フィリピの信徒への手紙は、パウロが牢獄に囚われている時に書かれた手紙だと言われます。それは、パウロにとっても苦しい日々であったと思われます。しかしパウロは、このことが「福音の前進に役立った」(12節)と喜びます。パウロにとって、「福音の前進」は命を懸けるほどの価値があるものでした。このパウロの熱心さに目を引かれますが、それ以上に注目したいのは、パウロをここまで動かすほどの「イエス・キリストの福音」とは一体何か、という点です。 |
応答讃美歌:新生73番「善き力にわれ囲まれ」 |
(2025年5月25日の週報より) |
愛によって仕える者へ ガラテヤの信徒への手紙5章2~15節 パウロは1節で「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」と語り、13節でも同じようなことを述べています。神は私たちを罪からの解放だけでなく、律法の縛りからも解放してくださいました。パウロが再三語っているように、神の愛(主イエスの十字架による贖い)を信じる信仰によって義とされたからです。だからこそ、束縛の世界に逆戻りしないように忠告し、その一つとして「割礼」(律法)の問題を提示しています。 |
応答讃美歌:新生651番「イエスの愛にこたえ行く」 |
(2025年5月18日の週報より) |
主イエスと共に、もう一歩、前へ 出エジプト記35章4~9節 「教会の歴史」は「礼拝の日々」と言っても過言ではありません。良い時代も悪い時代も、教会は礼拝を続けてきました。その日々の積み重ねが、教会の歴史を形づくってきました。この2025年も、世界的に様々な変化が起こっていて、不安定な状況になっています。この時代の中で、なお未来を望んで歩みを進めるために、「礼拝」について、今一度じっくり考えていきたいと思います。 |
応答讃美歌:新生21番「栄光と賛美を」 |
(2025年5月11日の週報より) |
仕上げは肉? ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~3章6節 先週に引き続き、今日の箇所にもドキッとするような発言があります。そのひとつが「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(2:15)です。差別的発言です。しかしこれはパウロの思いではなく、律法に生きているユダヤ人の声を取り上げていると言えます。 |
応答讃美歌:新生519番「信仰こそ旅路を」 |
(2025年5月4日の週報より) |
パウロって恐い人? ガラテヤの信徒への手紙 1章1~12節 ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立された教会でした。けれどもパウロが離れたあと、パウロの信仰理解とはかけ離れた人たち(論敵)によって教会の人たちはパウロが宣べ伝えた「福音」から離れてしまったようです。そんな人たちに今一度「福音」に立ち返るように送られたのがこの手紙です。 |
応答讃美歌:新生455番「われに来よと主はいま」 |
(2025年4月27日の週報より) |
先立ち共におられるイエス マタイによる福音書28章16~20節 約束どおり、弟子たちは復活されたイエスとガリラヤで会います。その時彼らは「ひれ伏した」とあります。これは「礼拝した」ということです。その弟子たちについて聖書は「疑う者もいた」と書き添えています。これが婦人から復活の話を聞いたときであったのなら疑う者がいても不思議なことではありません。ヨハネでは弟子仲間の証言を信じることができなかったトマスのことが紹介されています。当時、証人としての資格がなかった女性の証言であれば尚更のことです。しかし、彼らは復活されたイエスと対面し、礼拝を献げている状況下で尚信じることができず疑う者がいたというのですから驚きです。 |
応答讃美歌:新生310番「主イエスよ われと」 |