(2025年8月31日の週報より)     

時を献げる - 慌ただしい日々に安息を -

ルカによる福音書10章38~42節

礼拝とはどのような「時」でしょうか。それは、〔他の時とは区別された特別な時であり、神と言葉を交わす時〕だと言えるでしょう。それは「普段の生活」を一時中断し、神との交わりのために時を献げることを意味します。その特別な時の中で〔神と共に生きる自分〕を取り戻して、また新しい気持ちで「普段の生活」へと向かっていくのです。

   ルカ10章に、マルタとマリアという二人の女性の記事があります。マルタは、旅をしていたイエスさまを迎え入れ、一生懸命にもてなします。一方で、その妹のマリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)と言います。マルタは腹を立て、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」(40節)とイエスさまに言います。その言葉に対してイエスさまは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(42節)と答えたのです。「お客さまをもてなす」という点で、常識的な振る舞いをしているのはマルタの方です。しかし、イエス・キリストを前にする特別な時には、その語りかけを聞こうと耳を澄ますほうが大切だと言おうとしているのかもしれません。

   イエスさまは、マルタの名前を2度繰り返して呼びかけます。これは親密な相手に対する呼びかけ方であり、当時の女性蔑視的な社会において、女性が家族以外の男性からこのように呼びかけられることは異常なことでした。イエスさまは、人々の「普段の生活」に溢れた価値観や思想を振り払って、「マルタ」という一人の存在に目を注ぎ、その名前を大切に呼びます。この姿に、私たちが礼拝をする神の姿が表されています。〔わたしはあなたに語りかける〕と私たちひとりひとりに特別に語りかけてくださる神の言葉を聞くために耳を澄ます時、礼拝とはそのような時なのではないでしょうか。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生140番「空の鳥を見よと」    


(2025年8月24日の週報より)    

巡り巡って、またここへ。‐過ちと赦しの物語‐

申命記30章15~20節

申命記29~30章は「モーセの第三の説教」と呼ばれます。基本的な内容はそれまでと同じで、〔あなたの幸いのために、主なる神に仕え、その戒めを守れ〕というものです。そして、その戒めを守らないならば「呪い」が臨むという、恐ろしいことも語られます。「呪い」については、これ以前の箇所で詳しく語られていますが、その中で注目すべきは「エジプトに送り返される」(28章68節)だと思います。つまり「呪い」とは〔エジプトの奴隷生活=非人間的な生活の再来〕だと理解することができます。そして、その苦しみの歴史を繰り返さないようにと願って〔新しい道を選べ〕と語る、それが申命記の中心的なメッセージです。

   ところが、人々は神の言葉でなく、自分の思いに従って歩んでいきました。「この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み、『わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ』と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる」(29章18節)とある通り、人々は繰り返し悲劇を経験し、その果てに「バビロン捕囚」という「滅び」に至ることになります。

   「モーセの第三の説教」は、そうした未来を見越しているかのような内容になっています。30章冒頭では、「呪い」が臨んだ後、人々が神に立ち帰るなら、「主はあなたの運命を回復」させると語られます(30章1~3節)。「運命を回復させる」は、原文では「捕囚の状態から元に戻す」と訳すことのできる文章です。事実、人々は「バビロン捕囚=非人間的な生活」から解放され、再び「神に従って歩むように」との言葉を聞くことになるのです。

   この箇所には、旧約聖書全体の大きな物語が凝縮されています。この大きな物語は、過ちと悲劇を繰り返す人間を、それでも幸いへと導こうとし続ける神の奮闘を描きます。そしてその神が、今日の私たちにも語りかけていることを聖書は示します。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」(30章15節)。私たちは、命を選ぶことができるでしょうか。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生521番「キリストには替えられません」    


(2025年8月17日の週報より)   

愛に生きる道‐あなたが幸いを得るために‐

申命記10章12~20節

申命記10章は、神の求めを語ります。神が求めているのは、「わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ること」(13節)だと言います。その「主の戒め」の内容として語られるのが、「寄留者を愛しなさい」(19節)という言葉です。

   寄留者とは、自らと異なる国や民族出身の者を指します。聖書の時代から、寄留者を巡るトラブルは数多く存在してきました。悲しいことに、憎しみが異常に深まってしまい、命の奪い合いにまでなってしまうことがあります。アフリカのルワンダでは、政府によって意図的に民族間の対立構造が作り出され、虐殺が起こりました。この歴史に立脚して、ルワンダには次の言葉が残されました。「あなたが私のことを知っていたら、あなたがあなた自身のことを知っていたら、こんな悲劇は起こらなかったかもしれない」。民族としてではなく個人として相互に向き合えていたなら、という反省と教訓の言葉です。

   「寄留者」という言葉は、そこにある一人の命の姿を見えにくくします。「寄留者を愛しなさい」とは、「そこにある一人の命と出会うように」との招きなのではないでしょうか。「愛する」とは、感情的に「好きになる」ことではありませんし、無批判に相手を全肯定することでもありません。愛するがゆえに、相手と自分の間にある問題を直視して、時には苦言を呈し、不満を伝え合うこともあるでしょう。そうしたことをくり返しながら、互いの命を肯定し、共に生きるための関係を構築することを、「愛する」というのではないでしょうか。

   聖書は、愛に生きることを私たちに求めます。これは簡単なことではありません。アメリカで黒人差別と闘ったジェームズ・ボールドウィンは、「愛とは戦いだ」と口にします。しかし、その戦いの中で私たちは、命の価値を見出し、肯定することができる「幸い」を得ることになるのでしょう。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生342番「教会世にあり」   


(2025年8月10日の週報より)  

神の願いへ立ち帰れ

エゼキエル書18章30~32節

イエスさまは「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と語ります。しかし、その言葉に従うべきキリスト者たちが、これまでの歴史の中で幾度となく平和を壊してきました。〔宗教があるから戦争がなくならない〕と言われるような状況をつくりだしてしまったところに、私たちの背きの罪があります。

   使徒パウロは、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)と語ります。過ちを犯す罪人たちへの愛を示すために自らの死を選ぶ神が、戦争や侵略を望まれるはずがありません。十字架で示された神の愛は、私たちが罪を繰り返すことではなく、立ち帰って新たな道を選ぶこと、すなわち〔平和を実現するように〕と呼びかけているのです。

   戦争は命を奪う行為です。どのような理由が挙げられていようとも、その行為によって人々の生活が破壊されたという事実は変わりません。だから、正しい戦争・聖なる戦争などないのです。日常の生活が破壊される苦しみ、突然の爆撃で人生を奪われる理不尽さを、80年前の戦争を体験した私たち日本は、知っています。だから、私たちも誰かにその苦しみを味わわせてはいけません。すべての命が尊ばれる世界を目指すことが、聖書の神に従う道です。

   「わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼキエル18:32)と神は語ります。神は、たとえ悪人であっても、悪から離れて命を選ぶことを喜びます。神は「誰」の死をも喜びません。その「誰」の中に、あなたも、あなたの大切な人も、あなたの嫌いな人も含まれています。みんな、死んではいけません。平和を思うこの日、「立ち帰って、生きよ」と呼びかける神の願いを、今一度、深く心に留めたいのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生326番「ガリラヤの風」    


(2025年8月3日の週報より)    

神は今、あなたに語りかける

申命記5章1~6節

出エジプトから40年、モーセは再び「十戒」を人々に語ります。エジプトの苦役を知っている世代がだんだんと少なくなり、新しい世代が共同体の中心になりつつある中で、十戒を継承できるかどうか、それがこの時の課題でした。

   十戒は、一見すると禁止命令です。しかし、原文では未来形と否定詞の組み合わせで、「○○しないだろう」という形で記されています。旧約聖書学者である関根正雄氏はここに注目して、「ただの禁止命令の形ではなく、出エジプトの恵みに与って神のものとされた民として、『……することはあり得ない』というような断定である」と言います。「出エジプトの恵みに与って神のものとされた」とは、エジプトでの奴隷労働の苦しみを自らの体験として知っていること、だからこそ、その苦しみから解放されたことがどれほどの喜びかを知っているということです。〔それらのことを知っているあなたがたが、解放をもたらした神以外にひれ伏したり、他の誰かを苦しめることなど、あるはずがない〕という神の期待を語るもの、それが十戒だと言えるでしょう。十戒を本当の意味で継承できるかどうかは、その言葉の背景にある苦役と解放の歴史を継承できるかにかかっていました。

   モーセは十戒の内容だけではなく、そこにある歴史を人々に語って聞かせます。その際、「主は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた」(4節)とあるように、「あなたたち」という言葉を使います。この言葉には、モーセの願いが込められています。かつての日々を知っている人たちには思い出してほしい、新しい世代には、〔自分がそこにいたとしたら何を思っただろう〕と想像力を働かせてほしい、そのようにして、この歴史を「あなたたちの歴史」にしてほしいと、モーセは願うのです。「出エジプトの恵みに与って神のものとされた」ことをあなたのものにできたときに、十戒の語るあなたへの神の思いが届くだろう、と聖書は私たちにも語りかけるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生300番「罪ゆるされしこの身をば」   


(2025年7月27日の週報より)    

呪いと祝福

民数記23章1~30節

21世紀の現代でも「丑の刻参りセット」(藁人形・五寸釘・ハンマー等)がインターネットで販売されています。[誰かに呪われているかもしれない]と考えると、気持ちいいものではありません。日頃「呪い」とは無縁な生活をしていても、災いが続くと、[供養が足りないから呪われている]などの声を無視することができずに財産をだまし取られてしまうという被害もよく聞くことです。「呪い」という束縛から解放されることが平安へとつながっていくと言えるでしょう。「呪い」は人を苦しめることはあっても、幸せにすることはありません。

   モアブの王バラクは、イスラエルを呪うためにバラム(占い師?まじない師?)を呼び寄せます。23章からバラムの三つの託宣が掲載されていますが、いずれもイスラエルを賛美し、祝福するものです。「神が呪いをかけぬものに、どうしてわたしが呪いをかけられよう」「見よ、祝福の命令をわたしは受けた。神の祝福されたものを、わたしが取り消すことができない」とのバラムの言葉の背後には、「この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」という神の声があります。バラムはその声に従い、呪いではなく祝福したのです。

   神の民と呼ばれるイスラエルや霊的イスラエルと呼ばれるキリスト者は神に祝福されたものと言えるかもしれません。しかし、それだけでしょうか。神が人(アダム)を創造されたとき「神は彼らを祝福された」ことを聖書は語っています。人が罪を犯してしまったときにも人に対する「呪い」の言葉は語られていません。「神にかたどって創造された」すべての人が、神の祝福の中に置かれているのです。

   最近、国内外で排外的な発言が目立ちます。私たちが今日の箇所から学ぶべきことは、神に創られたすべての人が「祝福されたもの」であり、その人たちを呪ったり排斥したりすることは、神がよしとされることではないということではないでしょうか。 (牧師 末松隆夫)

 
 応答讃美歌:新生301番「いかなる恵みぞ」    


(2025年7月20日の週報より)     

神にひれ伏すことの意味-神の招きに応える者へ-

出エジプト記4章27~31節

「礼拝とは何か」と礼拝の本質について考える時、重要な要素がいくつか見えてきます。その中の一つに、「神にひれ伏すこと」があります。

   出エジプト記4章において、「神にひれ伏すこと」は神への感謝と服従を意味しています。「主が親しくイスラエルの人々を顧み、彼らの苦しみを御覧になった」(31節)という主なる神の行動が先にあり、人々はひれ伏します。そこには、まず自分たちに目を注いでくださった神への感謝があります。その上で、「ひれ伏す」という人々の行動は、当時の支配者であったエジプトのファラオに「ひれ伏さないこと」を意味しました。それは、人々が主なる神への服従を選択し、ファラオへの服従を拒否したことを意味したのです。

   「神に従う」という選択は、「神以外のものの支配を拒否する自由」と繋がっています。私たちは、様々な言葉や考えと出会います。それらの中には、私たちを理不尽に傷つけるものや、脅しかけて無理やりに支配しようとするものもあります。「神に従う」という選択をしたとき、これらの言葉を絶対的な「神の言葉」としてではなく、自らと同じ「人間の言葉」として聞くことができるようになります。そこでこそ、私たちは理不尽な支配から解放され、かえって周囲の言葉と誠実に向き合うことができ、神が創造されたままの等身大の人間として生きることができるようになるのです。

   礼拝は「神にひれ伏すこと」、それは「神以外のものの支配を拒否する自由」を取り戻し、「神に従って生きる者」の生き方へと私たちを導きます。それは、ある問いを持って、日々の事柄と向き合っていく生き方です。その問いとは「神は私たちに何を語りかけているだろうか」という問いです。日々の生活の中で、その問いに自分なりの仕方で応えようとするときに、神から与えられる自由の喜びを知ることになるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生464番「主が来られて呼んでおられる」     


(2025年7月13日の週報より)    

恵みが見えなくなった時

民数記11章1~15節

民数記は、イスラエルの民が「荒れ野」にいたときの民やモーセの様子(信仰)が記されている書巻です。それは、約束の地を目指して神と共に歩む私たち(教会)の姿を表すものでもあります。

   先週の個所(9章)では「主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った」民の姿(まさに信仰者の理想の姿)が描かれていました。ところが、聖書を1頁めくっただけの今日の箇所(11章)には、民の激しい不満と、そのために苦悩しているモーセの姿が描かれています。

   荒れ野で食べ物に窮する民の状況は理解できますが、問題は「どこを見回してもマナばかりで何もない」という発言内容です。「マナ」は神から与えられた特別な食べ物です。どこを見回してもマナがあるという〈神の支え〉〈神の恵み〉の中に彼らは置かれていたにもかかわらず、それを感謝することなく、不満を垂れているのです。神の恵みが見えなくなった時、喜び、感謝、平安は失われます。

   13節や20節のモーセのネガティブ発言をみると、この時のモーセもまたマナを通して示されている神の恵みが見えなくなってしまっていたのかもしれません。目の前にある問題に心奪われ、神の恵みが見えなくなってしまってネガティブ思考に陥いる、それが私たち人間の現実の姿だと言えるでしょう。

   「今」の〈私〉に与えられている神の恵みは何でしょうか?冷静に自分自身に問うとき、たくさんの恵みの中に私たちは置かれているのではないでしょうか。

   信仰を持つ前の生活(エジプト)が、自分の中で美化され、すてきなものであったかのように錯覚して、「今」を不満に思う弱さを私たちは持っています。そのような弱さだらけの私たちを徹頭徹尾愛し抜かれたお方がおられるという事実、その恵みに心を向けるときに、私たちの中に新しいエネルギーが与えられ、ネガティブな考え方からポジティブな生き方へと変えられ、不満ではなく感謝が、口からあふれてくるようになるのではないでしょうか。 (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生552番「わたしが悩むときも」     


(2025年7月6日の週報より)      

時に旅立ち、時にとどまり~主と共に歩む私たち~

民数記9章15節~23節

ケンブリッジ大学のバーバラ・サハキアン教授の研究によると、「人は一日に2万~3.5万回もの意思決定をしている」とのことです。すごい数です。皆さんにとって一番大きな意思決定(決断)は何でしょうか。バプテスマを受ける決心などはとても大きな意思決定です。信仰に関することだけでなく、日常生活の様々なことで、毎日、数え切れないほどの決断をしているのは確かなことです。その選び取りが自分の感情という不安定なものでなく、しっかりとした拠り所があれば安心です。神の民が行動の指針にしていたものは何だったのでしょうか。

   荒野を旅していた民は「天幕」(テント)暮らしでした。その中心には「幕屋」(十戒が入った契約の箱がある天幕)がありました。移動の度にそれらを解体し、荷造りし、次の場所で再び組み上げるという作業は楽ではなかったと思われます。しかし、短いときには二日で旅立ったというのですから驚きです。そして、その決断の根拠となっているのが「雲」だというのです。

  聖書が語る「雲」は〈神の臨在のしるし〉であり〈神が民と共におられる象徴〉です。その「雲」の移動を「主の命令」と聖書は表現しています。「主の命令」によって旅立ち、「主の命令」によって宿営する民の姿は、信仰をもって生きる私たちの生活を象徴的に表していると言えるでしょう。

  信仰をもって生きるとは、主が留まれと言われるところにしっかり留まって生きることです。そこでなすべきことをしっかりと責任を持って背負うということです。しかし同時に、「主の命令」によって旅立つことでもあります。新たな一歩を踏み出すのです。そしてその判断基準は、自分たちの思いではなく、「主の命令」であることを聖書は語ります。

  「主の命令」によって行動することは容易ではありません。応えることができない時が多いかもしれません。しかしそれでも、「主の命令」に生きていこうとする思い・姿勢だけは失わないで歩んでいきたいものです。 (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生483番「主と共に歩む」      


(2025年6月29日の週報より)     

神の愛が私たちの心に注がれている

ローマの信徒への手紙5章1~11節

「最後まで諦めない。」素敵な言葉です。何事においても、最後まで諦めないことは、本当に大切なことです。でも、本当に最後まで諦めない方は神さまではないでしょうか。ヘブライ人への手紙の冒頭には、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」とあります。神さまは、罪に墜ちた人間のために、諦めることなく、救いに至る道を備えて下さったのです。そのためにご自身の御子を私たちに与え、御子の十字架上の死という身を切るような思いをしてまで私たちの罪を贖い、救いをもたらしてくださったのです。神さまは本当に、最後まで私たちに寄り添い、私たちを救うことを諦めない愛の方なのです。その私たちの実態は、「正しいものはいない。一人もいない」状態なのです。そのような私たちに対して、神さまは、信仰によって救われる道を備えて下さったのです。

   パウロは、主イエス・キリストが、私たちが神さまとの間に平和を、その栄光に預かるための希望を得るためにいかに大きな働きをしてくださったかを雄弁に語ります。私たちは、その恵みの大きさを知れば知るほど、苦しみや絶望したくなるような状況でさえ、喜びへと、誇りへと変えられていく、とさえ言えるのです。苦難を喜ぶことができるのは、私たちがキリストにあって造りかえられた存在となったことの証明なのです。

   最後まで諦めることをなさらない神さまは、最後に御子を私たちの許へ送り出し、あまつさえ十字架に架けて私たちの罪を滅ぼし、信仰によって神に連なって神との平和の中に生きるものへと変えてくださったのです。「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれて」いることを覚えましょう。神さまは、究極の、最後の手段とでも言うべき方法を用いてまで、最後まで諦めずに私たちに向かい、責任を取ってくださる方なのです。 (神学生 伊藤健一)

 
応答讃美歌:新生495番「主よ み手もて」     


(2025年6月22日の週報より)     

パウロの礼拝-神の前に生きること-

ローマの信徒への手紙12章1節

今年度は「礼拝」を教会のテーマに据えています。そのことに則って、今日はローマ書12章から「礼拝とは生活の基盤である」ことに着目します。

   11章まで「教理」を語ってきたパウロですが、12章から「倫理=どのように生きるか」を語り始めます。その12章の最初に言及されているのが「礼拝」です。礼拝が生き方の問題の最初に置かれるものであることを、パウロは示します。

   「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(1節)、と語られます。ここで注意したいことは、「生けるいけにえ」という言葉です。通常、いけにえは「死にゆくもの」です。しかしパウロは「生きるものであれ」と呼びかけるのです。その呼びかけは、「死」ではなく「生」を望まれる「神の憐れみ」(1節)に基づいています。

   「礼拝」とは「生」を望まれた者として神の前に立つこと、それは「神の思いが向けられている自分」を取り戻す時であると言えるかもしれません。生きていく中で、私たちは様々な言葉と出会います。その中には、自らの存在が否定されたと感じるものもあるでしょう。例えば「役に立たない」という言葉に苦しめられ、「自分が生きていることは迷惑なのではないか」と考える人は少なくありません。そのような言葉が自分の基盤になってしまうとき、そこから生じる「生き方」は自虐的になり、最悪の場合は「死にゆくもの」になってしまうかもしれません。しかしそれは、「神の思い」ではないのです。

   「礼拝を生活の基盤に据える」とは、「あなたに生を望む神」と共に生活を始めることです。「神の思いが向けられている自分」を取り戻し、その思いに応える者として生きようと心に留めること、そこから始まって行く生活は、「死」ではなく、いつも「生」へと方向づけられたものなのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生626番「主はいのちを与えませり」