(2021年10月10日の週報より)
 

御手にゆだねます

ルカによる福音書23章44節~46節

  主イエス・キリストの御名がほめたたえられますように。今日というこの日に、神さまの恵みによって春日原教会で奉仕をさせて頂き、皆さんと共に礼拝を捧げられることを大変うれしく思っております。神学校と神学生を覚えてお祈りくださり感謝申し上げます。

  2020年度は札幌バプテスト教会で、主事として働きながら、神学生として研修をさせて頂くという恵みに与りました。九州から北海道へ移り住むことに多少の不安もありましたが、神さまの御心と信じて、わたしはただ従おうという神さまの御手にゆだねる気持ちの方が大きく、不思議な平安がありました。

  わたしの場合の「御手にゆだねます」は、無力ゆえに神さまにおゆだねするしかないという人間的なものですが、本日の聖書箇所にある「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というイエスさまの言葉は、わけが違います。イエスさまは、ご自身の意思として、父なる神にご自分の命をゆだねられました。肉体が滅び、死んで陰府に下ることを、父なる神の御心としてお受けになりました。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」(Ⅱコリント5:21)と聖書に記されています。イエスさまはわたしたちの罪のために、父なる神との断絶を経験されました。イエスさまの言葉、行動…生涯に一貫している、父なる神に対する絶対的な信頼と従順によって、わたしたちの罪は贖われ、永遠の命が与えられました。そのことに感謝しつつ、皆さんとご一緒にイエスさまの御言葉に耳を傾け、ゆだねることについて思い巡らすひと時が豊かに祝福されますようお祈りいたします。    (間村史子神学生)
応答賛美:新生讃美歌623番「時は満ちて」 


(2021年10月3日の週報より) 

弱さが紡ぐ神への信頼

詩編19編12~15節

「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください」(13節)。新改訳では「だれが、自分の数々のあやまちを悟ることができましょう」と訳されており、人間全体を見渡しながら語るような広い視野を持った訳になっています。新共同訳にはその「広さ」はありません。ただしその分、新共同訳は極めて個人的な「私」の話としてこの箇所を語ります。人間全体へと広がるような普遍性と「私」に迫ってくるような直接性、この両方を二つの訳を通して聞くことが出来るのは非常に豊かなことだと私は思います。〈人間は自らの過ちにすら気付くことが出来ない。人間はそのようなどうしようもない「弱さ」を抱えているものだ。そしてそれは、まさに「私」の話だ。私こそ、そのような弱さを抱えた人間なのだ〉、そのような自らの弱さをそのまま神に開示し、助けを願う祈りが聞こえてきます。

この祈りは自虐的な祈りではなく、諦めて開き直ってしまう祈りでもありません。自らの弱さを開示できるほどの、神に対する深い信頼が込められた祈りです。讃美歌「いつくしみ深き」は、〈神さまという方は、自らの弱さを打ち明けるような人間の祈りを、憐れみと労わりをもって受け取ってくださる方だ〉と歌います。祈りを聞かれる神がそのような方だと信頼しているからこそ、詩編はここまで率直に祈ることが出来るのでしょう。

そして詩編は、「さあ、一緒に祈ろう」と私たちを招くのです。「みっともなく思える祈りでも、拙くて、情けなく感じる祈りでも、神さまはちゃんと受け取ってくださるから」と、私たちを励まし、祈りつつ歩む日々へと導くのです。   (牧師  原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌431番「いつくしみ深き」 


(2021年9月26日の週報より) 

神の栄光が満ちるところ

エゼキエル書 43章1~12節

  40章から「新しい神殿の幻」が語られています。それはエゼキエルたちがバビロンに連行されて25年、エルサレム神殿が破壊されて14年という歳月が経った時でした。町は荒れたまま放置され、復興の目処がたたない絶望的な状況下で、神は〈神殿の復興〉を示して人々を慰め、励まし、希望を与えてくださいました。その内容を読むと、様々なサイズが指示され、驚くほど細やかに語られています。まさに精密な建築設計図を示されたと言えます。そこに神の計画の確かさが示されていると言えるでしょう。

  神殿の前身はモーセの幕屋です。「会見の幕屋」「臨在の幕屋」とも呼ばれていますが、幕屋は神が共におられ、神の栄光が満ちている所であり、神と人々とが交わる場でした。それは神殿も同様です。その神殿が壊されてしまったのです。しかし聖書を読むと、それ以前に大きな動きが起こっています(10章)。その内容は〈神殿から主の栄光が去ってしまった〉という神の民にはこれ以上にない衝撃的なものでした。バビロン捕囚や神殿崩壊は、イスラエルの不信仰に対する神の裁きとして描かれていますが、〈神殿から主の栄光が去ってしまう〉ということこそが、神の裁きの最たるものであったと言えるのではないでしょうか。この時に偶像礼拝から立ち帰り、真剣に悔い改めていれば、バビロン捕囚や神殿崩壊はなかったかもしれません。

  しかし感謝なことに、神はその民に対して神殿の回復とともに、「神の栄光」が神殿に満ちる幻を見せてくださいました。新約聖書においては「神の栄光」はイエス・キリストと結びついて現されています。神の栄光が満ちるところが神殿であり、教会です。そのときに教会は生きたものとなるのです。  (牧師 末松隆夫)
 
 応答賛美:新生讃美歌614番「主よ 終わりまで」


(2021年9月19日の週報より) 

主イエスは我らを担う方

ローマの信徒への手紙14章9節

  「召天」という言葉は、キリスト教の専門用語です。聖書が語る「天」は「空」のことだけではなく、「神の領域」を意味する言葉です。それは言い換えれば、「人間の手の届かない領域」のことだと言えます。

  「天」という人間の手の届かないその場所には、人間の醜い争いや痛みはありません。そのような「天」に召されることは喜ばしいことです。しかし、頭で分かっていても、心はそう簡単についていかない、ということもあるでしょう。私たちは時に、大切な方が「天」にあることの喜びを思いつつも、同時に寂しさや悲しさを抱きます。そのような複雑な思いを抱えたままで神の前に立って祈り、礼拝を献げること、それは決して不信仰なことではありません。神の前でのその正直な姿は、むしろ誠実な姿であると思います。

  「祈り」には、「人間の手の届かない領域に手を伸ばす=私たちにはどうしようもできない事柄を神に託す」という意味があるように思います。自分に何かをする力や手段が全く無くなってしまった、そのような悲痛な無力さを感じる場所にあってなお「祈ることが出来る」というのは、本当に大きな慰めです。そして、無力さに苦しみながら紡がれるその祈りが、たとえどれほど拙いものであったとしても、聖書の神はその祈りをちゃんと受け止めてくださるのです。

  「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となられるためです」。聖書が語る「主」のイメージは、ある一つの命をどこまでも引き受けていく存在、責任を持って担ってくださる存在です。「今ここ」を生きている私たちに対しても、「天」に召された人たちに対しても「主」となられたイエスこそが、私たちの「祈り」を聞いて下さる神なのです。だからこそ、私たちは天にある人々のことを、また悲しみや無力さを抱える私たち自身のことをも、この方に託すことが許されているのです。(牧師 原田 賢)
 
 応答賛美:新生讃美歌366番「神ともにいまして」


(2021年9月12日の週報より)

回復を約束される神

エゼキエル書 36章25~38節

  36章には二つの回復(物質的、霊的)が約束されています。霊的な回復(恢復)は、まず〈汚れが清められる〉ことから始まります。〈汚れ〉は人間を神から引き離す根源的なものとして捉えられ、神と交わるために必要な信頼関係を打ち壊すものとして理解されていました。「罪」という言葉に置き換えてもよいでしょう。その〈汚れの清め〉は、主が注いでくださる「清い水」によってなされます。人が自分の力で〈清め〉を獲得するのでなく、神の愛による一方的な清めがここに語られています。ここに旧約の枠を超えた新約的光を垣間見ることができるように思われます。

  「振りかける」という表現は〈わずかな水〉という印象を受けます。けれども、汚れたものを水で浄化するためには相当な量の「清い水」、あるいは相当に浄化能力のある「清い水」が必要です。新約の恵みに生きる私たちにとって、この「清い水」はイエス・キリストであると解することがゆるされているのではないでしょうか。そこには莫大な神の愛と犠牲が注がれているのです。

  エゼキエル書のキーワードのひとつは「生きる」です。「お前たちは立ち帰って生きよ」と繰り返し語られています。「生きよ」と語られる主なる神は、その一方で「わたしは生きている」と繰り返し宣言されます(16回)。この言葉を「神の厳粛な裁きを導入する誓いの定型句」と解する人もいますが、エゼキエルは単なる定型句を超えたものとして意識していたと思われます。神は生きておられるからこそ、生きることへの招きや回復(新生)の約束ができるのです。

  36節では「主であるわたしが、これを語り、これを行う」と宣言しておられます。ここに私たちの〈汚れからの回復=罪からの救い〉の土台があるのです。一人ひとりを「わたしの民」となし、「お前たちの神となる」と言い切ってくださっているお方を見上げて歩む神の民でありましょう。    (牧師 末松隆夫)
 
応答賛美:新生讃美歌496番「命のもとなる」 


(2021年9月5日の週報より 

牧者となってくださる神

エゼキエル書34章1~16節

34章は「イスラエルの牧者たち」への神の言葉から始まっています。「牧者」とは〈羊飼い〉をさす言葉ですが、10節までの「牧者」は〈王や政治的指導者〉のことです。神は彼らのことを「災いだ」と語っておられます。その理由は「自分自身を養う」という在り方です。神は私たちが豊かになることが悪いとは言っておられません。貧しくあることを望んでおられるのでもありません。富むことを何よりも優先し、そのことだけを追い求める生き方、そしてその結果、弱い者・小さき者が犠牲になってしまうことを「災いだ」(神の御心ではない)と言っておられるのです。ソロモン以降、南北に分裂してしまったイスラエルとユダの王の多くは、神を無視し、神の御旨に反することを行い、神から授かった権威を自分の欲望を満たすことだけに使いました。「牧者」としてなすべきことをしていない(4)「自分自身を養う牧者」の姿と重なります。

けれどもこれは〈王〉や〈政治的指導者〉のことだけではありません。「牧者」には〈祭司〉をはじめとした宗教的指導者も含まれています。また、17節以降に目を向けると、牧草(神の恵み)を踏み荒らし、弱いものを角で突き飛ばし、追いやる「肥えた羊」についても神は厳しい言葉を語っておられます。私たち一人ひとりが「自分自身を養う牧者」であり「肥えた羊」だという自覚を持つことが必要だと言えるでしょう。

けれども感謝なことに、神はそういう私たちを見捨てることなく、神ご自身が牧者となってくださると言われるのです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない」という33章の内容から続いているものです。神は私たちが滅びることではなく、生きることを望まれる方です。そしてそのために具体的に起こされた牧者「ダビデ」(23)こそが、イエス・キリストなのです。私たちがなすべきことは、「立ち帰って生きる」ことなのです。 (牧師 末松隆夫) 

応答賛美:新生讃美歌612番「主イエスをいつも」


(2021年8月29日の週報より 

人々は立ち止まる。それでも物語は続く。

エゼキエル書 33章10~11節

「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか(10節)」。自分たちの過ちを頑なに認めない、そんな人々の姿はもうそこにはありません。「豊かさ」を求めて奔走し、「利益」のために周りの人たちの命を犠牲にし、自分自身の命さえも傷つけていた人々の歩みは、ここで立ち止まります。

  「どうして生きることができようか」。自らの過ちを認めた人々は、こんな言葉を漏らします。「自分の歩みが間違っていた」と認めることは、いわば「自らの人生=自分の物語」を否定することであり、強烈な「喪失体験」です。こうした、何かを失うことにより「自分の物語」が崩れてしまう体験を「危機体験」と呼びます。人々はまさに、生きていく気力を失うほどの危機の中にいたのでした。

  「立ち帰れ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。危機の中にある人々に、「立ち帰れ」と神は呼び掛けます。その呼びかけは「まずは自己責任で私のところまで来い」というような言葉ではありません。この呼びかけは、「“私が一緒にいる”ということを思い起こせ!」と、そんな意味に聞こえてくる言葉です。人々が立ち止まったその現場に、その苦しみを一緒に担う者として、神は共にいてくださる。そのことを思い起こせと、神は語ります。ガラガラと崩れてしまった人々の物語をそのまま終わりにしてしまうではなく、もう一回、神と一緒に新しく組みなおしていくこと。神はそれを望むのだと、聖書は語るのです。

  聖書の人々の物語は何度も「危機」を経験します。その度に、この「立ち帰れ」の呼び声に招かれ、「神と共に生きる物語」へと何度も再構築され続けてきました。そのように、「立ち帰れ」と人々に呼び掛け続けてくださる神が、人々が死ぬことを決して望まない神が、明日からも、私たちと共に生きてくださる。そんな福音と共に、今週も一緒に歩んでいきましょう。  (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌140番「空の鳥を見よと」