(2020年5月24日の週報より  
 

散らされた人々は

使徒言行録 8章1b~8節

使徒言行録の目的は、使徒たちによる福音宣教がエルサレムから始まってローマにまで及んで行く様子を記し、キリスト教会の発展を紹介することにあります。けれどもそれは順風満帆なものではありませんでした。この8章にはステファノの殉教を機に「大迫害」が起ったことが記されています。そのために多くの信徒が、ユダヤ当局者の影響が少ないユダヤの地方都市やサマリアへと避難せざるを得ませんでした。ルカは「散って行った」と表現しています。

ここに「教会の無力さ」というものを教えられます。聖霊の満たしにより大胆に福音を語り、一日に3千人も5千人も信徒が増えていくという圧倒的な恵みを体験しつつも、権力に対してあらがうことができず、自分の教会を離れて散って行かざるを得なかった姿は、人間的には無力としか言いようがありません。しかし、ルカはこの箇所で、人間の無力さが教会にとって致命傷にはなっていないことを私たちに示しています。

フィリポはユダヤ人とは犬猿の仲だったサマリア人の町へと散って行きました。自ら望んで赴いたのではなかったかもしれません。しかし、フィリポはそこでキリストを宣べ伝えています。これは、両者の関係を考えると、とても勇気のいるすごいことです。

しかし、もっとすごいと感じるのは、ユダヤ人であるフィリポをサマリアの人々が受け入れ、彼の語る福音を受け入れたということです。ここに聖霊の働きを見ることができます。そしてまた、それに先駆けての主イエスの働き(ヨハネ4章)を見ることができます。

「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(4節)とありますが、それができたということは、平常時にエルサレムの教会において、しっかりと福音を聞いていた(よき学びを受けていた)ということです。私たちもそのようなキリスト者でありたいと願います。    (牧師 末松隆夫)

 応答讃美歌:新生讃美歌376番「友よ聞け主のことば」 


(2020年5月17日の週報より) 
 

金銀はわれにないが

使徒言行録 3章1~10節

エルサレム神殿の「美しい門」で施しを乞うていた男が癒やされるという出来事は、彼にとって生涯で最大の出来事だったことでしょう。私たちもキリストの福音に触れることによって、生涯で最大の恵みを体験することができます。ここに描かれている男やペトロの中に、自分自身の姿や教会の姿を見出すことができます。

ペトロは「わたしには金や銀はない」と言っています。それはペトロの現実です。私たちも時として同じような現実を口にしがちです。「金銀はない、能力はない、力はない、若さはない」などと。けれども、無いものばかりに心が向いている限りは、そこからは喜びや力は湧いてきません。「しかし、持っているものをあげよう」とペトロが語っているように、私たちに「あるもの」をきちんと認識し、活用することが私たち信仰者に求められているのです。

一方、男の状況に目を向けると、「毎日…置いてもらっていた」と言う表現には、彼の悲惨さが漂っています。あきらめの世界に「置かれていた」と言えるでしょう。しかし、ペトロを通して彼は「イエス・キリストの名」によって立ち上がる力が与えられ、古い生活から一歩踏み出したとき、神への感謝と賛美の世界に導き入れられました。

私たちも、ペトロの大胆さと男の決断を見倣い、主が復活された日曜日から始まる一週間を、感謝と賛美をもって過ごして行きましょう。ご一緒に感謝と賛美を主の御前に表わすことができる日が一日も早く来ることを願っています。   (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌131「イエスのみことばは」 


 (2020年5月10日の週報より) 

新しい言葉

使徒言行録 2章1~13節

教会の大きな行事として「クリスマス」「イースター」「ペンテコステ」がありますが、「ペンテコステ」とは50番目を意味するギリシャ語で、新共同訳聖書では「五旬祭」と訳されています。何故、その「ペンテコステ」が重視されるのか、それはこの日に聖霊が弟子たちのうえに降り、彼らが大胆に福音を語る者に変えられたからです。この日は、キリスト教会が誕生した日とされています。

著者(ルカ)は、大きな「音」と「炎のような舌」という表現をもって聖霊降臨の様子を描いていますが、これは圧倒的な神の臨在を表わしているものと考えられます。その神の力に覆われた弟子たちは「ほかの国々の言葉で話しだした」ことをルカは証言しています。ここに聖霊降臨の意味が示されていると言えるでしょう。つまり、キリスト教会は「めいめいが生れた故郷の言葉」で福音が語られるところから出発したのです。

それぞれの地域や国の言葉は、そこで生活を営んでいる人たちの「生活の座」に根ざしているものです。地方色、民族性、国民性を表わしていると言ってもよいでしょう。聖霊に導かれての福音の証しは、生活に密着した相手が普段使っている言葉で語られたのであり、それは、相手の生活に合わせて語ることの大切さを教えていると言えます。相手の文化・生活習慣・常識・価値観を無視してこちら側のものを相手に押しつけるのでなく、相手の状況を考えながら証しをするとき、その言葉は相手に届くのです。様々な違いを違いとして認めつつ、その状況下でこれまで心が通じ合わなかった人たちと通じるようになって行く、それが聖霊の働きの一つなのです。       (牧師 末松隆夫) 

応答讃美歌:新生讃美歌263「満たしめたまえ み霊を」  


(2020年5月3日の週報より)   
 
準備の大切さ

使徒言行録1章3~11節

使徒言行録は、文字通り使徒たちの言葉や行動を通して教会が誕生していく様子(教会の起源)を私たちに示しているものですが、教会の誕生にあたってどのような準備がなされたかをまず語っています。何事にも「準備」は大切です。いきなり動き出しても良い結果は生れません。

その準備を手がけられたのは主イエスご自身です。そしてそれは意外にも「とどまっていなさい」(ルカ2449)、「待ちなさい」(14)というものでした。神の働きを担っていくということは、私たち人間の側でバタバタと動いて何かを用意するところから始まるものではないことを示しているものです。ルカは、全ては主イエスが既に行なわれた働きに始まることを私たちに告げています。その神の働きを正しく認識するために、心を静めて祈り、待つことの大切さを教えているのです。待つべきものは「高い所からの力」(ルカ2449)、「父の約束されたもの」(14)であり、それが「聖霊」です。

聖霊を受けるために彼らが経験した備えの一つは、自分に絶望するということだったと言えるかもしれません。「わたしはつまずきません」(マルコ1429)と豪語し、自信満々だった弟子たちは、自分のやる気や勢いがいかに当てにならないものかを嫌というほど思い知らされました。その結果、自分の内側に何の誇れるものがないことに気がついたのです。だから、ひたすら聖霊を待ち望むことができたと言えます。神に希望を置いたのです。

新型コロナウイルスのため、行動の自粛が要請されている私たちは、何もできない状況に置かれています。しかし、それを祈り待つという準備の時として受けとめたいと思います。               (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌363「キリスト 教会の主よ」 


(2020年4月26日の週報より)
 
再出発

ヨハネによる福音書 21章1~14節

ヨハネ福音書20章30~31節の「本書の目的」を読む限り、これが福音書の締めの言葉のように受け取れます。となると、21章は後代の付加であるということになります。この箇所が不可欠なものと判断されたからこそ書き記されたと言えるでしょう。ここには復活の主イエスと出会った後の弟子たちが漁をしていた様子と、主イエスが朝食を準備してくださって弟子たちを招かれたことが記されています。これは何を意味しているのでしょうか。

復活された主イエスから「あなたがたを遣わす」(2021)と言われた弟子たちですが、即座に宣教活動に邁進したのではないことが記され、そこからもう一度再出発している弟子たちの姿が描かれていることは、信仰を持ちながらも事あるごとに挫折してしまう私たちには大きな慰めと励ましです。

彼らがガリラヤにいた理由の一つとして、「あの方(復活のイエス)は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」(マルコ167)との言葉を受けてとも考えられますが、ヨハネは違った視点から語っているように思われます。主イエスの十字架と復活が起った「エルサレム」(過越祭期間中)が弟子たちにとって特別なものであったのに対して、「ガリラヤ」は慣れ親しんだ地であり、ごく普通の営みをしていた場です。「非日常」の場ではなく、「日常」という生活の場に復活の主イエスが御自分を現してくださったことを、ヨハネ福音書は証言していると言えるでしょう。そしてそれは、復活された主イエスが弟子たちのために「朝食」を準備し、招かれた出来事の中にも表われています。

新型コロナウイルスのために教会での礼拝を共にできない状況に置かれている私たちですが、それぞれの家庭という「日常」の場で復活の主イエスが出会ってくださることを体験していると言えるでしょう。そしてそれは、私たちが再出発するための準備の時なのです。  (牧師 末松隆夫)

 応答讃美歌:新生讃美歌300「罪ゆるされしこの身をば」