(2021年5月16日の週報より)

協働のための選び取り

使徒言行録15章1~21節

パウロを宣教師として送り出したアンティオキア教会は、ユダヤ人と異邦人が互いに差別することなく、共に教会形成のために力と祈りを注いでいた教会だったようです。しかし、エルサレム教会のメンバーには、異邦人への割礼実施を求める人が少なからずいました。けれどもそれは〈信仰によって救われる〉という道から逸脱したものです。パウロは争いを好む人ではなかったと思われますが、〈これを譲ったらもはや真理ではなくなる〉というときは毅然とした態度で臨んでいます。だからといって、〈あなたたちとは別れて新しい組織を作る〉と縁を切ってしまうのでなく、きちんと話し合いをすることを選び取りました。ここに私たちが見習うべき点があるように思います。

  この時の話し合いは、〈エルサレム会議〉と呼ばれている西暦49年頃に行われた会議です。7節には「議論を重ねた後」とさりげなく書かれていますが、時間的にも内容的にも白熱した話し合いがなされたものと考えられます。

  救われるために割礼が必要となれば、主イエスの十字架による救いは不完全であったということになってしまいます。主は十字架上で「成し遂げられた」と叫ばれました(ヨハネ19:30)。これは〈負債が全て返済された〉という意味であり、救いの完成を表しています。その真理がないがしろにされることは、キリスト教にとって存亡の危機と言えます。

  ペトロとパウロの発言の後、「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」(割礼を強要しない)との議長声明(公式見解)をヤコブが発表します。それは共に福音に仕えるという協働のための選び取りであり、同時に、律法を守ることが出来ない人のことを配慮する選び取りであったと言えるでしょう。このことは、コロナ危機にあって協働のためにどのような選び取りをしていくかという私たちへの問いかけでもあるように思います。 (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌424番「祈りの山路を」


(2021年5月9日の週報より) 

わたしはクリスチャン

使徒言行録11章19~26節

私は高校3年生の時に友人に誘われて教会の門をくぐり、その年のクリスマス礼拝で受浸しました。それから46年間、クリスチャンとしての歩みをなし、この春日原教会で牧師としての働きに携わらせていただいていることを感謝しています。そういった救いに至る経緯、救われてからの歩み(いわゆる救いの歴史)を《救済史》と呼びます。《救済史》は、一つひとつの出来事が神の救いの御業の中に位置づけられているという視野に立って物事を捉える歴史観です。旧約聖書の出来事(物語、歴史)はまさに救済史が記されている訳ですが、新約聖書で救済史を記しているのは、使徒言行録だけです。

   7章のステファノの殉教、大迫害という痛ましい出来事によって主イエスを信じる者たちは散らされていきますが、それが異邦人伝道のきっかけになったことを聖書は記しています。福音が異邦人へ(全世界へ)広がっていくという神による救済史がここに示されています。そしてその延長線上に私たちがいます。

   国際都市アンティオキアで「ギリシャ語を話す人々」(異邦人)にも福音を告げ知らせた無名の信徒によって異邦人伝道が本格的に始まり、神の救済史が書き進められていきます。それは今の時代も同じだと言えるでしょう。

   主を信じる者として生きていた人たちを、アンティオキアの人々は「クリスティアノス」(キリスト者・クリスチャン)と呼びました。それは敬意や親しみを込めた呼び名ではなく、さげすんだものであったと言われます。けれども彼らは、そう呼ばれることをむしろ名誉なことだと捉えていたと思うし、胸を張って答えていたと思います。「そうです。わたしはクリスチャンです」と。
わたしたちも周りの人からそのように呼ばれるほど福音に生きる者でありたいと思います。               (牧師 末松隆夫)
    

 
応答賛美:新生讃美歌363番「キリスト 教会の主よ」 


 (2021年5月2日の週報より)
 

神が選んだ器

使徒言行録 9章1~19節a

キリスト教界にとって偉大な功績を残した伝道者パウロ(この時点ではまだサウロ)ですが、当初から主イエスを受け入れていたわけではありません。 1節には「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」という描写があります。「なおも」とはその状態が以前から継続している様子を、「意気込んで」とは《正義中毒》になって迫害に燃えていたことを示しています。そのサウロが180度の方向転換をして主イエスに仕える伝道者となります。一体何がサウロをこれ程までに変えさせたのでしょうか。

サウロは「天からの光」によって地に倒れされます。神の力に触れたとも、自分のありのままの姿が照らし出されたとも言えます。教育、宗教、経済などあらゆる面で彼の人生で「倒れる」(挫折する)ということはなかったと思われます。「倒される」経験を通して、はじめて「弱さ」を知り、それは人生の転機を迎える準備となります。わたしたちは「倒される」ことを嫌いますが、そこにも神の計画があることを信じる者でありたいものです。主(神)と出会うということは、無力な自分をさらけ出すことです。自分の力に頼るのではなく、ただ神の力によって生かされていることを実感する、それが主にある生き方です。そしてそのときに、わたしたちは新しい使命に生きる者とされます。

サウロは、主ご自身が「わたしが選んだ者である」(15)と言われており、明らかに《神が選んだ器》です。けれども、サウロの目が見えるようになるために、サウロのもとに出かけて行って按手して祈ったアナニアもまた、《神が選んだ器》です。器には様々な形があるように、神の召しと選びにも様々な形があります。わたしたち一人ひとりが《神が選んだ器》なのです。

わたしたちが「倒される」ことがあったとしても、それはわたしたちを滅ぼすためではなく、神の器として整えるためであることを信じて、それぞれが立たせられている所で主の声を聞いていく者でありましょう。     (牧師 末松隆夫)

応答賛美:新生讃美歌523番「主われを愛す」


 (2021年4月25日の週報より)

「赦しのつながり」への招き

マタイによる福音書18章15~20節

18章冒頭、主イエスは弟子たちに「心を入れ替えて、子どものようにならないと神の国には入れない」と言います。「子どものようになる」とは、自らの小ささを受け止めて、神さまの助けに縋る者になることを意味します。神の国は、「小さい者たち」が神の助けの中で一緒に生きている場所だと言います。

小さな者たちの間で、互いを傷つけあうような出来事が起こったらどうするかという問題を語ったのが、今日の箇所です。「相手がどこまでやったら赦さなくてよいか」ではなくて、「どこまでも赦し合うにはどうしたら良いか」がテーマです。というのは、「これらの小さい者のひとりが滅びることは、天の父の御心ではない」からです。互いを赦し合ってつながり合うことを、今日の箇所は語ろうとしているのです。

人を赦すことは簡単ではありません。他者の「小ささ」を目の前にする時こそ、それを赦せないという自分の「罪」を見せつけられます。しかしその自らの罪を受け止める時にこそ、私たちは真剣に「助けて」と神さまに祈ることが出来るのです。その祈りを、神さまは決して軽んじません。

神の国には、もう罪はありません。そこにあるのは、小さな者たちが神の助けの中で手を取り合って一緒に生きることの喜びだけです。その神の国の「片鱗」を少しずつ拾い集めながら生きることが、地上の教会の歩みです。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。他者同士の小ささがぶつかり合うところ、まさに神の助けを必要としているその場所に、主イエスは共にいてくださいます。私たちが何度失敗を繰り返そうとも、主がそこにいてくださる限り、そこには必ず神の助けの中で産み落とされた神の国の片鱗も落ちているのです。       (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌339番「教会の基」