(2023年3月26日の週報より) 

主イエスの切なる願い

ルカによる福音書22章14~23節

イエスさまは、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と語ります。この「苦しみ」は、イエスさまの十字架の苦しみを意味しつつ、同時に、弟子たちの苦しみをも含んでいるのではないか、と思います。弟子たちは、この後、イエスさまを見捨てて逃げ出すことになります。それはイエスさまに対する裏切り行為であり、そのことに彼らは少なからず後ろめたさを感じたでしょう。さらに、「命を捨てることになってもイエスさまに従う」と語っていた彼らにとって、イエスさまを失うことは生きる指針を失うことを意味します。もちろんイエスさまの経験する「苦しみ」とは質が違いますが、しかし弟子たちも大きな苦しみを受けることになります。そう考えてみると、15節の「苦しみ」は、イエスさまの「苦しみ」と弟子たちの「苦しみ」の両方を意味しているのではないか、と私には思えるのです。

  「苦しみ」を経験する前に、イエスさまは主の晩餐という「記念」を残していかれました。記念とは、ある物事を思い起こす、あるいは覚え続けるためのものです。イエスさまは、これから御自分の受ける苦しみが、弟子たちをはじめすべての人々に希望を与えるものになることを示すために、そしてその希望を、弟子たちが苦しみの中で思い起こすことができるようにと、「苦しみを受ける前に」、この食事を共にしたいと切に願ってくださったのです。

   逃げ出していった弟子たちは、十字架のイエスさまが物語る神の希望を受け取って、主の晩餐を分かち合う「教会」という共同体を生み出していきます。教会とは、神の希望を受け取って、その希望を互いに分かち合って、一緒に生きていこうとする人々の群れです。主の晩餐において、私たちは神さまから「罪があっても、それでもなお、生きよ!」と語りかけられていることを思い起こし、自分たちが「神の赦し」を分かち合っている仲間である、ということを確認します。そのような「記念」を、私たちもまた大切にしていきたいと願います。(牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生讃美歌415番「わが主よ ここに集い」   


(2023年3月19日の週報より)  

“期待外れ”の中に希望がある

ルカによる福音書20章9~19節

ぶどう園の譬え話が語られます。そこに登場する「農夫」と「農園の主人」の関係は、イスラエルと神さまの関係を暗示しており、農夫たちのもとにくり返し送られる「僕たち」は、農夫たちの回心を願って遣わされてきた預言者たちのことを意味していると言われます。農夫たちは、僕たちを追い返すことを通して、主人を拒否し続けます。主人は、「自分の息子であれば敬ってくれる」と思い、息子を農夫たちのもとへ送ります。しかし農夫たちは、その息子を殺してしまいます。そして、その農夫たちは滅ぼされてしまうだろうと言われるのです。

   この話は、十字架の出来事と重ねられて語られる箇所です。十字架には、様々な人たちの“期待外れ”が集約されています。律法学者たちは、常に自分たちの正しさを肯定する言葉を期待していました。しかし、イエスさまはその期待に応えず、むしろ彼らに鋭く問いを投げかけました。民衆たちや弟子たちは、「ローマ帝国の転覆」を期待していました。ところが、イエスさまは無力にも捕まってしまいます。期待を裏切られた人々の失望が、イエスさまを十字架へと追いやるのです。そのような様々な人たちの姿をも、「農夫たち」は投影していると言えるかもしれません。

   聖書は、十字架の出来事を「他人事」にすることを許してはくれません。自らの期待通りにならないことに苛立ち、「そんな邪魔者はいらない」と切り捨ててしまう人々の中に、イエスさまを十字架へと追いやっていく人々の中に、私たち一人ひとりの姿を映し出そうとします。そこにある自分の姿が見出された時、あの農夫たちの運命を、他人事にはできなくなっていくのです。

   「そんなことがあってはならない」と戸惑う人々を見つめて、イエスさまは語ります。〈これからあなたたちが捨てていく「石」がある。その石は、あなたたちの期待を砕いていく。しかし、その石があなたたちにとって、なくてはならない肝心かなめの石になる。その石に目を注ぎなさい〉。十字架のイエスさまのもとにある本当の意味の「希望」が、今、語られようとしているのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生讃美歌230番「丘の上に立てる十字架」    


(2023年3月12日の週報より)   
 

呼び出された子ろばのお話

ルカによる福音書19章28~36節

エルサレムに入るにあたり、イエスさまは、「子ろば」を呼び出します。その背景には、ゼカリヤ書9章の御言葉があります。そこでは、平和の王が「ろば」に乗って来ること、エルサレムから「軍馬」を絶つことが語られています。

   聖書の時代、「馬」は戦争で用いられており、「強さ」を象徴する存在でした。それに対して、「ろば」は人や荷物を運搬するために用いられており、堅実に一歩一歩足を進める様子から、「謙虚さ」や「柔和さ」をイメージさせる動物でした。さらに、この箇所に登場する「子ろば」は、ろばよりもさらに低い、さらに弱いイメージを持っています。

   昔から人間は、「平和のため」と言いながら、「馬」を求めてきました。〈他者の暴力を抑止するために必要だ〉と言われると、〈それしかない〉とさえ思えます。しかし一方で、互いに「力」をちらつかせて、けん制し合うための「より強い力を求める競争」には終わりがありません。そして今、世界の中でもかなりの「力」を持っている国が戦争のただ中にある現実を目の当たりにする時、〈本当にこれしかないのだろうか〉と、問われる思いがあるのです。

   イエスさまは、「平和を告げるために」と、「まだだれも乗ったことのない子ろば」を呼び出します。それは、「熟練した即戦力」ではなく、むしろあらゆることに不慣れで、「のろま」だと馬鹿にされようが、ゆっくり一歩一歩足を進める以外のことはできない存在です。その歩みに、「平和は丁寧に、少しずつ積み上げていくことでしか作れない」というメッセージが示されているように思います。

   子ろばに乗ったイエスさまを前に、弟子たちの賛美の声が上がります。「力」を持つ者に怯えて口をつぐむ人々の姿ではなく、喜びの歌声を上げる人々の姿が描かれます。それこそが、本当の「平和」にふさわしい風景ではないでしょうか。その風景に続く「平和への道」を告げ知らせるために、イエスさまは、「馬」ではなく、「子ろば」を呼んでおられるのです。(牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生讃美歌92番「喜びたたえよ」   


(2023年3月5日の週報より)  

耐え忍ぶ者たちのために‐やせ我慢は身体に毒‐

ルカによる福音書 18章1~8節

「気を落とさずに祈らなければならないことを教えるために」、イエスさまがたとえ話をはじめます。それは、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」と「一人のやもめ」の話です。「やもめ」は、当時の社会の中で弱さや貧しさを象徴する存在でした。この女性は、繰り返し裁判官のもとに訪れ、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と願います。そのしつこさに、裁判官はしぶしぶではありながら、彼女のために動きます。このたとえの後、イエスさまは語ります。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(6~7節)と。

   ここには、「忍耐」というテーマがあります。忍耐という概念には、注意が必要です。「苦難の中で静かに耐えている人の姿は美しい」と語る時に、「その人が痛みに耐え続けなければならない状況」を正当化し、無批判に維持してしまう場合があるからです。それは、人を痛みの現場に置き去りにし、「やせ我慢=無理をして平気なふりをすること」を強要することにつながりかねません。

   聖書の語る「忍耐」は、あの「やもめ」の姿に映し出されています。それは「必ず答えて下さる」という信頼のもとで、訴えるように祈り続けることです。「神が苦しみを終わらせてくださる」という希望を抱きながら、根気強く祈り続け、困難な日々を一歩一歩生き抜いていくことです。イエスさまは、気を落としてしまいそうになる現実の中で、「無理をしてでも平気なふりをしろ」と言ったのではなく、「あのやもめのように祈り続けよう」と語ったのです。

   「主の祈り」の中で「御国が来ますように」と祈っています。この祈りは、まさに「苦しみの終わり」を待ち望む祈りです。イエスさまはこの祈りを「わたしたちの祈りだ」と言って、祈ってくださいました。イエスさまと共に「御国が来ますように」と祈り続けること、そこに「忍耐」の本質があるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生讃美歌424番「祈りの山路を」  


(2023年2月26日の週報より) 

失ったのであって捨てたのではない

ルカによる福音書15章1~10節

この15章には「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」という三つのたとえが連続して記されています。この三つのたとえに共通するのは、[手元にあった大事なものを無くした]こと、[捜し続けた結果(あるいは待ち続けた結果)それを見出し、再び手元に戻ってきた]こと、そして[その時の喜びがどんなに大きなものであったか]ということです。

私たちも似たような体験、つまり自分の大事なものを失った悲しみ、そしてそれが出てきた時の喜びを、誰しもが経験しているのではないでしょうか。私自身の忘れない思い出として、小学生の時のお年玉紛失事件、牧師になってからの書類紛失事件があります。

手元から離れるという同じ現象であっても、失ったものと捨てたものとでは、全く違います。捨てるというのは自分にとって必要なくなったから処分すること、失うというのは自分にとって必要なものがどこかにいってしまうことです。百匹もいる中の一匹、数字上は100分の1ですが、この羊飼いにとっては、かけがえのない大事な一匹です。それは一枚の銀貨にしても同じです。「見つけ出すまで捜し回る」(5)、「見つけるまで念を入れて捜す」(8)、ここに失ったものに対する持ち主の思いの深さを見ることができます。「ファリサイ派」が捨てた「徴税人や罪人」も、決して捨てたものではなく大事な存在として神は捜しておられることを、そしてこの私たち一人ひとりをも、かけがえのない羊(なくてはならない銀貨)として神は捜し求めてくだっていることを、聖書は語っているのです。

私たち一人ひとりが、失われ、のちに見出されたものであることを覚えると同時に、その私たちが[見出す側]にも立って、失ったもののために心を痛める愛(捜し求める愛)、そして見出した時の喜びを共有する者になることを、神は望んでおられるのではないでしょうか。 (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌134番「生命のみことば たえにくすし」 


(2023年2月19日の週報より)   

命どぅ宝

ルカによる福音書12章13~21節

「命どぅ宝」という言葉は、明治政府の廃藩置県で廃位を強いられ東京移住を命じられた琉球王朝最後の王(尚(しょう)泰(たい))が、嘆き悲しむ民に向かって詠んだ詩だと言い伝えられています。命こそが宝であることをどれほど私たちは認識し、大切にしているでしょうか。聖書は、肉体的な命を大切にするだけでなく、霊的な命に目を向けることを教えています。

   穀物の備蓄や財産の貯蓄は必要なことです。かつて、冷夏による米不足で急遽外国米を輸入した時がありました。ロシアによるウクライナ侵攻によって穀物や天然ガスが不足し、困っている人が数多くいます。備蓄は国の方策として大事なことです。個人的にも、老後のために各自が様々な形で蓄えておかなければならない時代になっています。譬えの中の「ある金持ち」がとった行動が悪いと一概に決めつけることはできません。ただ、彼は二つの点で過ちを犯していると思われます。

   そのひとつは、彼の心が自分自身にしか向いていなかったことです。17節から19節の彼の言葉には、「わたしの」という語が繰り返されています。

   いまひとつは、貯蓄(目に見えるもの)が人生の全てであるかのように思い込んでいることです。故に「愚か」だと主イエスは言われるのです。

   大阪大学名誉教授の柏木哲夫氏は、ホスピスで二千人近い人を看取ってきた中で、地位・名誉・財産という「衣」がはげ落ちる末期の状態(魂がむき出しになった時)、そこに何もない人と、魂の真ん中にしっかりとした信仰を持っている人との大きな違いを語っています。

   「神の前に豊かになる」(21節)、「尽きることのない富を天に積む」(33節)、これらは、善行を積むことでも財産を蓄えることでもなく、私たちのすべては神のものだという認識を持って神を中心とした生活をすることです。限りあるものや朽ちていくものに人生の基盤を置くのではなく、永遠へと至るものを大切にしていく生活を築き上げて行きたいものですね。  (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌292番「安かれ わが心よ」    


(2023年2月12日の週報より)   

どう聞くかに注意しなさい

ルカによる福音書8章16~18節

福音書には主イエスの譬え話が数多く掲載されていますが、「譬え」の内容そのものは生活に密着したものであり、誰しもが理解できるものです。けれどもその譬えが何を意味しているのか、聞き手は自らが考える必要性が生じます。だからこそ、聞き手自身がその“聞き方”を問われることになります。

   「聞く」ことは人間関係を築くうえで大切なことです。精神科医・斎藤茂太氏は著書『初対面で好かれる七つの秘訣』で、第一の秘訣として聞き上手になることの重要性を述べています。旧約聖書には「主の言葉を聞きなさい」と繰り返し語られていますが、いつも神の言葉を聞くことに失敗しています。神の民(信仰者)であっても、「聞く」ことは決してたやすいものではないことを教えられます。

   今日の「ともし火」の譬えの直前に、「種を蒔く人」の譬えが置かれています。そこでは、「種」は「神の言葉」であり、それぞれが聞いてはいますが、その後の在り方が異なり、結果も違っています。今日の「ともし火」も「神の言葉」(福音)のことです。その「ともし火」をどこに置いているかが問われます。「置く」と「聞く」は共通した態度です。[わたしがあなたがたのもとに携えて来たともし火を、あなたたちはどのように受け取り、扱っていますか? せっかく受け取ったともし火を、まさか寝台の下に隠すようなことはしていないでしょうね?]と、主イエスはわたしたちに問いかけておられるのです。

   ルカは、「ともし火」の譬えの後に、「イエスの母、兄弟」の出来事を持ってきています。それは21節の「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」との主の言葉を、一連の譬え話のまとめの句として置きたかったからでしょう。「聞く」とは[言われたとおりに行動する意志を持って聞く]ことです。神の言葉を高く上に置いて、その言葉に聞き従っていく信仰者であり続けましょう。   (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌131番「イエスのみことばは」   


(2023年2月5日の週報より)  
 

平和への道を知る者であるために

ルカによる福音書19章41~48節

これまでガリラヤを中心に活動されていた主イエスは、いよいよエルサレムに向かわれます。四福音書全てに記されている[エルサレム入城]ですが、ルカは「ダビデの子にホサナ」と叫んで後に従う群衆の姿は描いていません。36節の「人々」も、直訳は「彼ら」であり、文脈的には「弟子たち」です。彼らの[無理解]もこの後の主の振る舞いと関係があるように思われます。

   エルサレムの都が見えたとき、主イエスが泣かれるという驚くべき事態をルカは私たちに伝えています。[神の平和][平和の町]という意味の「エルサレム」ですが、[誰よりも平和への道を知っているはずのあなたが分かっていない]と、主は泣かれたのです。そこには「弟子たち」も含まれているように感じます。「号泣する」とも訳せる強い意味を持っている言葉が使われており、主の悲しみと憐れみの極みが表現されていると言えるでしょう。

   主イエスが言われている「わきまえていたら…」との言葉は、実際は「わきまえていない」ということであり、人々は[自分たちは平和だ]と間違った思いの中に生きていたということです。その背景には、[選民思想]や[神殿信仰]が横たわっているようです。[自分だけは大丈夫…][自分は間違っていない]、この思いは私たちの中にもあるのではないでしょうか。だとすると、主はこの私たちのためにも泣かれたことになります。

   大きな悲しみをもって泣かれた主イエスですが、「平和への道」をわきまえていない人たちを見捨てることはありません。45節以降の[神殿から商人を追い出す]という行動は、そのことの表れです。人々の神への姿勢を[ひっくり返した]だけでなく、主はそこで毎日教えられます。ルカは、夢中になってイエスの話に聞き入っていた民衆の姿を描いています。ここに「平和への道」があることを伝えているのです。  (牧師 末松隆夫)

応答賛美:新生讃美歌330番「み使いの歌はひびけり」   


 (2023年1月29日の週報より) 

信じて、見る

ルカによる福音書7章18~23節

今日の箇所に登場するバプテスマのヨハネは、イエスさまから「ヨハネより偉大な人物はいない」と語られるほどに、特別な人物です。そのヨハネが、イエスさまに問いかけます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。不安を抱くヨハネの姿が見えてきます。

   ヨハネは、「もうじき来る救いの時に備えて、悔い改めなければならない」と人々に語っていました。ヨハネ自身、「救いの時がすぐに来る」と信じて、その時を待っている人でした。そして、イエスさまと直接出会った時に、ヨハネは「この方こそ私たちが待っていた“来るべき方”だ」と思ったはずです。しかし、イエスさまと出会った後も、ヨハネの目の前では権力者たちは横暴に振る舞い、「救いの時が来た」とは思えない日々が続きます。〈“すぐに来る”と信じた救いが見えない。イエスさまの到来と共に“もうすでに来た”はずの救いが見えてこない〉。そのような不安を、ヨハネは抱いていたのだろうと思われます。

    ヨハネが遣わした二人の使いに、イエスさまは伝言を託します。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。イエスさまは、ヨハネを不安にさせた〈救いが見えない景色〉から、イエスさまの周りに広がりつつあった〈救いが動き始めている景色〉へと、ヨハネの目線を動かそうとします。〈大丈夫だ。あなたの待っていた救いの時は、今ここで、動き始めている。私を信じて、見てみなさい〉。そのような励ましを、イエスさまは語っているように思います。

   「神を信じる」という営みは、「視点を変えて、世界を見直す」という意味を含んでいると私は思います。〈目の前の現実を「救いがない世界」ではなく、「救いが動き始めている世界」だと信じて、見直した時にはじめて見えてくるもの〉、神の希望とはそのようなものなのかもしれません。      (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌491番「信ぜよ み神を」    


 (2023年1月22日の週報より) 

あなたの見つめるものは、なに?

ルカによる福音書6章6~11節

世界が創造された時、七日目に神は創造の業から離れて休まれました。このことから、神が休まれた日を「安息日」と呼び、休むことが定められました。

   ある安息日のこと、イエスさまは会堂に入って教えておられました。そこには、律法学者たち・ファリサイ派の人たちと「右手の萎えた人」がいました。当時の考えでは、「病人を癒すこと」は「労働」に当たります。安息日の「労働」は禁止されていましたので、ファリサイ派の人たちはイエスさまを訴える口実を得ることができるかもしれないと、目を光らせていました。

   ファリサイ派の人たちの関心は、「自分が清く正しいかどうか」にあります。彼らは熱心に律法を学び、律法に違反する者たちを見つけては「罪人」の烙印を押していきました。その振る舞いに宗教的な「正しさ」を感じ、優越感を持っていたと考えられます。彼らのまなざしは、「人の間違いを指摘できる正しい自分」にのみ向けられています。そのまなざしの中で、いつしか「安息日」は、人々を裁く声に満ちた、「息が詰まりそうな日」に変わってしまっていました。

   イエスさまは、彼らに問いかけます。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか(9節)」。この問いかけは、ファリサイ派の人たちを「論破する」ためのものではないと思います。むしろ、彼らが立ち止まって、悔い改めて、新たに生きる者になって欲しいと願うものだったのではないでしょうか。彼らを見つめるイエスさまのまなざしに、「彼らの命を救うため」というイエスさまの優しさを見るのです。

   聖書の言う「悔い改め」は「自分のまなざしを神の思いに向けなおすこと」を意味します。ルカは「悔い改めの必要性」を強調します。それは、「誰もが、自らのまなざしを神の思いに向けなおすことができる」という確信に基づいています。ルカはこの確信に立って、「問われること」すらも「福音」として物語ります。「悔い改めることができる」という希望を、私たちに語るのです。(牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌486番「ああ主のひとみ」