(2024年3月24日の週報より) 

いのちの終わりは、いのちの始め

ヨハネによる福音書 19章17~30節

聖書には「栄光」という言葉が300回以上使われています。讃美歌の中でも頻繁に登場します。「栄光」という言葉から連想されるのは「輝き」「誉れ」「栄誉」「賞賛」といった人々が憧れるような、あるいは人々に幸いを与えてくれるようなものです。弟子たちもそのように理解し、「栄光をお受けになるとき、一人を右に、もう一人を左に座らせてください」と頼み込んでいます(マルコ10章)。

  けれども、ヨハネ福音書が語りかけている「栄光」はちょっと違います。「十字架」が「栄光」だというのです。十字架刑はローマの処刑方法でありながらローマ市民には適用されない、それほど残虐な極刑であったわけです。「栄光」の対局にあると考えられていました。だからこそ、弟子たちもイエスの十字架を理解することができずにいたのです。その「十字架」が「栄光」だということを、ヨハネ福音書は強調しています。

  それは、ヨハネ福音書だけが記していることの中にも見ることができます。
17節では「自ら十字架を背負い」ゴルゴタへと向かわれるイエスの姿が描かれています。そこには「十字架」という神の計画を引き受けられたイエスの意志が表されていると言えるでしょう。また、十字架のもとにたたずむ人々が新しい関係・新しい共同体を形成し、神の家族として結び合わされることもイエスの意志です。

  十字架上での「成し遂げられた」という言葉は、口語訳では「すべてが終わった」と訳出されていました。けれどもそれは失意・落胆の声ではありません。神の御心が「完了した」という勝利の叫びです。イエスのいのちの終わりは神の計画の成就であり、すべての終わりではありません。ここから新たに始まるものがあるのです。[命から死へ]というのがこの世の法則ですが、十字架によって[死から命へ]という私たちの常識を覆す法則が始まるのです。だからこそ、十字架は「栄光」の時であり、「勝利」の時なのです。    (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌229番「十字架のもとは」 


(2024年3月17日の週報より)  

真理は“私の声”を自由にする

ヨハネによる福音書18章33~40節

 いよいよ十字架の場面へと入っていきます。「人々」(18:28)は、イエスをローマ総督ピラトに引き渡し、十字架に架けるようにと迫ります。この時の人々の主張内容は、多くの点で矛盾しています。ピラトは繰り返し「イエスに罪は見いだせない」と主張します。しかし人々は、〈自らの手を汚さずに、ローマ人の手でイエスを十字架に架ける〉という目的のために、矛盾もお構いなしに声を大きくし、自らの主張を押し通します。その大きな声が、権力者ピラトの声さえもかき消して、イエスを十字架へと追いやるのです。

  「大きな声」は、時に暴力的な「正しさ」を纏い、他の声をかき消します。ただでさえ発言力の強い権力者に対抗するために、結託して声を大きくすることが大切な場面は多くあります。そうした活動を否定したいのではありません。しかし、十字架の場面が描きだす「大きな声」の暴力性は、〈その大声は何のための声か〉と私たちに問いかけてきているように思うのです。

  イエスは、御自分を「真理」だと語ります(14:6)。その言葉は、「他のものは真理ではない」という主張を含んでいるように思います。真理であるイエスの前に立つとき、それがいかに「大きな声」であったとしても、多くの人の賛同を得た言葉であったとしても、世を支配する「権力者の声」であったとしても、それは「真理の声=絶対的に正しい声」ではないのです。

  ヨハネは「イエスが真理だ」と語ります。その真理の声は、私たちの声をかき消しません。真理の声は、私たちとの対話を求めて、問いかけます。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか」(18:34)。真理の問いかけの声は、絶対的な正しさなど持ち合わせていない、等身大の私たちの声を引き出します。真理との対話の中でこそ、私たちは「自分の声」で語る自由を得るのです。その声は、時に間違いを犯し、他者から問われる必要があるけれど、だからこそ考え直し、変化していくことができる自由を持ちます。そのような自由へと招くために、真理は私たちに問いかけてくるのです。(牧師 原田 賢)

 
 応答讃美歌:新生讃美歌437番「歌いつつ歩まん」  


(2024年3月10日の週報より)   

悩みあるあなたに、平和を!

ヨハネによる福音書16章16~33節

主イエスの弟子たちへの訣別説教の最後の部分です。この日の夜に捕縛され大祭司のもとに連行されることになります。主の最後の説教に耳を傾けましょう。
「しばらくすると…わたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見るようになる」(16節)という謎めいた言葉に、弟子たちの頭には?マークが点灯します。十字架と復活が語られていることを私たちは理解します。この後に何が起こるか知っているからです。しかし弟子たちは、繰り返し聞きながらも、まだ実体験していない出来事だけに理解できずにいます。それが私たちの現実の姿だと言えるでしょう。

  そのような無理解な弟子たちをイエスは叱りつけることなく、彼らが直面する悲嘆が喜びに変わることを語られます。弟子たちの悲しみに寄り添い、弟子たちにつながってくださるイエスの姿をみることができます。

  25節からは「悲しみが喜びに変わる」ことを、「苦難においても平和を得る」という形で弟子たちに語られます。16節以降で語られていることは、このあと弟子たちが「苦難」に直面しても「わたしによって平和を得るため」だと言われるのです。徹頭徹尾、弟子たちを思いやられるイエスの配慮(愛)を感じます。

  「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」(33節)は、口語訳聖書では「悩みがある」と訳出されていました。苦難・艱難・迫害といった大それたものだけでなく、小さな「悩み」も私たちの心を重く・暗く・悲しくします。それは「世」に生きるかぎりついて回るものです。それを全て承知のうえで、イエスは「勇気を出しなさい」と言われます。「勇気を出す」「勇敢である」(新改訳)というと、自分の力で踏ん張ってというイメージがついてきます。しかし、マルコ6章50節などでは、同じ単語が「安心しなさい」と訳されています。こちらの方がイエスの思いが伝わってくるように思うのです。なぜなら、その根拠とされるのが「わたし(イエス)は既に世に勝っている」からです。    (牧師 末松隆夫)

 
 応答讃美歌:新生讃美歌515番「静けき河の岸辺を」 


(2024年3月3日の週報より)    
 

つながり合い、つながり続ける大切さ

ヨハネによる福音書15章1~17節

ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの自己紹介(自己開示)が7回登場しますが、今日の「わたしはぶどうの木…」は、最後の晩餐を終え、いよいよ十字架へと向かおうとする中で語られた最後の自己紹介です。ここに記されている内容は、まさに遺言と言ってよいでしょう。

  ぶどうはイスラエルの人々にとってなじみ深いものであり、旧約聖書にもイスラエルのことをぶどうにたとえて語られている箇所がいくつもあります。しかし、その内容は、イスラエルが神の期待からそれて「野ぶどう」に変わり果ててしまったといった、神のなげきが語られている箇所が多くを占めています。

  そのような背景の中、イエスは「わたしはまことのぶどうの木…」と語られます。「まことに」とは、偽物に対する本物、堕落し変質してしまったものに対する純粋なものという意味であり、文法的にも「わたし」が強調されていて「このわたしこそが」という意味で語られています。実に物騒な発言ですが、[わたしが来たのは、人々を命に・神の祝福につなげるためである]という使命をはっきりと伝えてから、十字架へと進みたいという思いの表れだと言えます。

  今日のキーワードは「つながる」「とどまる」(メノー)です。13回も使われています。イエスは私たちに「つながる」ことの大切さを、さらには「つながり合う」ことの大切さを語ります。そしてそれは瞬間的な関係ではなく、「つながり続ける」という継続的なものです。それが枝である私たちが「実」を結ぶ秘訣です。

  「実」とは何でしょうか? 9節以降で展開されている内容から「愛」であると言えます。徹底して私たちを大切にされるイエスの愛、この「愛」をイエスにつながり続けることによって実らせることができるとすれば、これ以上に大きな恵みはありません。そしてその愛が、単にイエスと「私」という縦の関係にとどまることなく、「互いに愛し合う」という横の関係へと広がっていく、それこそが「イエスの愛」が結実した姿だと言えるでしょう。     (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌431番「いつくしみ深き」  


(2024年2月25日の週報より)   

十字架という絶望に光が灯る日

ヨハネによる福音書12章27~36節

キリスト教ではイースター前の40日間(日曜日を除く)を「レント」と呼び、イエスの十字架の苦しみを心に留め、自らの罪と向き合う時を持ちます。この期間に特別な催しをするか否かはともかく、いずれにしてもイエスの十字架を覚える日々を過ごすことは、私たちにとって重要なことであると言えるでしょう。

  今でこそ宗教的な意味合いを持つ十字架は、新約聖書の時代には残酷な死刑道具であり、絶望の象徴でした。それはローマ帝国に反逆した者たちになされる「見せしめ」の刑であり、長い時間苦しみながら死んで行く死刑囚の姿は、人々のローマ帝国への反抗の意志を打ち砕いてきました。十字架には、人間の暴力性やおぞましさ、互いを尊重し合う関係性を破壊する「罪」がにじみ出ています。しかし、その十字架という場所に、イエスはまっすぐ向かって行きます。

  イエスは語ります。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27節)。イエスにおいても、「十字架」はおぞましいものであり、心が騒ぐものです。そうでありながら、しかしイエスは、そこに神の光が輝くことを指し示します。十字架はイエスが死ぬ場所であり、人間のおぞましさの勝利・神の敗北の場所であるかのように見えます。しかし、イエスがそこで死なれる時、十字架は、おぞましいものであるにもかかわらず、神の赦しが宣言され、「立ち帰って、生きるように」との声が響く場所に生まれ変わります。

  十字架という絶望の場所に神の光を見出したからこそ、キリスト教は十字架を自らのシンボルマークとして背負い、歩んできました。そして、人間の罪が生み出した恐ろしい現実を希望の場所に変えて下さる神への信仰を抱くからこそ、私たちは自らの弱さ・おぞましさ・罪とも、恐れずに向き合うことができるようにさせられるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生讃美歌230番「丘の上に立てる十字架」  


(2024年2月18日の週報より)   

イエス、叫ぶ。命、目覚める

ヨハネによる福音書11章23~26節、43~44節

ヨハネ11章は、ラザロの命を巡る物語です。ある時、ラザロは病気になり、死にそうになってしまいます。そこで、ラザロの姉妹マルタとマリアはイエスを家に呼びますが、イエスが家に着く前にラザロは死んでしまいます。ラザロが墓に葬られてから四日後に到着したイエスに、マルタは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。マルタの悔しさや、「もっと早く来て欲しかった」というイエスへの不満が聞こえてくるように思います。

  この物語は「死」という現実を鮮明に描きます。死は命を飲み込んで、「おしまいだ」と告げます。その死の言葉を前に、絶望し、悔しさや怒りをにじませる人々の姿を、聖書は隠しません。しかし同時に、聖書は死を「絶対的なもの」にもしません。この後、死が命を飲み込むものであることを否定し、死に戦いを挑むイエスの姿が描かれていきます。

  イエスはラザロの墓の前に行き、泣き崩れる人々の姿を前に、心を騒がせ、涙を流します(35節)。そして、「もう四日も経っているから」と引き止めるマルタの声を押しとどめ、「ラザロ、出て来なさい!」と大声でラザロを呼び出します(43節)。そこにはラザロの命を見つめるイエスのまなざし、〈あなたの命をおしまいになんてさせてたまるか!〉と叫ぶ神の思いが映し出されています。

  「わたしは復活であり、命である」(25節)とイエスは語ります。それは、〈イエスのうちにあなたの命を見出し、生きよ〉という招きなのではないでしょうか。イエスは心を騒がせ、涙を流し、「出て来い」と大声で叫ぶほどに、あなたの命を愛されます。このイエスの呼び声の中に、命の本来の価値が輝いています。〈死に無価値化させない、死にすら「おしまい」にさせない〉という神の思いを受けた「本来の命の輝き」を持って、今この時を生きること、それが「復活であり、命であるイエス」を信じて生きることなのではないでしょうか。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生讃美歌583番「イエスにある勝利」 


(2024年2月11日の週報より)   

通りすがりのイエス‐不意に訪れる神の希望‐

ヨハネによる福音書9章1~3節、10~12節

人は、「唯一絶対の正解」を求めることがあります。「正解」は、人を悩みから解放し、安心感や安定感をもたらします。しかし、時に自らの安定を求めるあまりに、誰かに自らの「正解」を押しつけ、苦しめてしまうこともあります。聖書の語る「真理」は、私たちがつかみ取った「正解」を揺さぶり、答えのない、不安定で、不確実な場所へと私たちを連れ戻します。

  ヨハネ9章に登場する「生まれつき目が見えない人」は、〈なぜ、ある人は幸福で、ある人は不幸なのか〉という、いつの時代の人も直面する問いを象徴しています。その問いに対する「正解」として考えられてきたのは、〈不幸が降りかかるのは、その人が何か間違ったことをしたから〉という因果律でした。弟子たちもその「正解」を土台として、イエスに質問します。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)。この問いに対し、イエスは因果律を否定し、弟子たちの「正解」を揺さぶります。

  この後、非常に不可解な形で、この人に癒しが訪れます。この人がイエスに癒しを求める描写はなく、この人に癒しを受けるべき「徳」や素晴らしい信仰があったと思わせる描写もありません。この人が癒される必然性のようなものが見えないのです。この人がなぜ癒されたのかは、謎に満ちています。しかし、重要なことは、何はともあれ「この人は癒された」という事実です。

  イエスの語った「神の業がこの人に現れるため」(3節)という言葉は、この人の不幸の原因や答えを述べるものではなく、〈神とはどのような方なのか〉を示すものであったように思えます。不可解な不幸に苦しむこの人のもとに、神は通りすがり、癒しの必然性を示すことなく、ただ癒されます。神は、人間の考えだした「正解」に一切縛られず、人間から見ると不可解に見える仕方で働かれる方であると、この物語は示します。そのような神がおられることへと目を開かせるために、聖書は私たちの「正解」を揺さぶるのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生讃美歌73番「善き力にわれ囲まれ」 


(2024年2月4日の週報より)  
 

唯一無二の良い羊飼い

ヨハネによる福音書10章1~18節

聖書には「蛇」「いなご」「牛」「豚」など多くの生き物が登場し、それぞれに抱くイメージがあります。イエスと結びつくことの多い「小羊」は、汚れ無きものというイメージを抱きます。一方、「羊」となると「弱さ」を多く持つ動物というイメージ、そして「私たち」と直結したものとして迫ってきます。また、牧師はpastor(羊飼い)と呼ばれ、羊飼い(牧師)と羊(信徒)として理解されています。けれども、その関係で今日の箇所を読むと、牧師には辛いものがあります。「良い羊飼い」とのギャップが大きいからです。

 「良い羊飼い」の特徴として、①「自分の羊を知っている」、②「羊を正しい道に導く」、③「最後まで世話する・守る」、④「羊のために命を捨てる」などがあげられています。羊と言っても、いろんな種類の羊がおり、また、一頭飼いではなく群れで飼われます。しかし、十把一絡げでなく、一頭一頭の特徴などを知った上で世話をします。名前をつけ、名前を呼ぶのもその一つの表れです。また、目が悪く、方向感覚も鈍い羊を、牧草地へと導いて行き、囲いへと戻すという羊飼いの役割をきちんとなすこと、途中で投げ出さず最後まで世話をすることなど、①から③までの特徴はよく理解できます。けれども、④「羊のために命を捨てる」となると、「良い羊飼い」と呼べる人は決して多くはない、否、一人もいないと言わざるを得ません。羊飼いが羊のために命を捨てる、それは常識ではなく常軌を逸したものです。これらの特徴全てに該当するのはイエスだけです。イエスだけが唯一無二の「良い羊飼い」なのです。

  イエスは私たちに対して[あなたも良い羊飼いになりなさい]とは言われていません。私たちに求められているのは、イエスが「良い羊飼い」であることを認知すること、そして「良い羊飼い」に飼われる羊として「命を受ける」ことです。ぜひ、お一人お一人が、「良い羊飼い」に牧される羊として「囲い」に入る決心をしていただきたいと節に願っています。(牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌585「救いのぬし 主よ」 


(2024年1月28日の週報より) 

その渇きは命の飢えか、満たされたい願望か

ヨハネによる福音書6章30~35節

ヨハネ6章は「五千人の給食」と呼ばれる記事から始まります。この記事は4つの福音書すべてに登場しますが、ヨハネには他の福音書にはない「続き」が描かれています。「給食」の後のある日、人々はイエスを捜して見つけ出します。その時、イエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と言います。そして、「朽ちる食べ物のためでなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と語ります。

  聖書の言う「永遠の命」とは「不老不死」のことではありません。それは「神とのつながりに生きる命」を指し、そのつながりは死ですらも断ち切ることのできないものだ、という考えを持っています。ヨハネは、人々のお腹を満たす「五千人の給食」の出来事の後に、敢えて「永遠の命」の話を強調して書き留めます。それこそが今この瞬間の空腹を満たすことよりも大切なことだ、と語ろうとするのです。

  「永遠の命」は目に見えません。だからこそ人間はその不確かさに不安を感じ、目に見える確かな「しるし」(30節)が欲しくなります。そのような人々に対し、イエスは「信じろ」と呼びかけます。それは、厳しくも感じますが、同時に希望を語ります。イエスの「信じろ」という呼びかけは、私たちの目に見えるものがすべてではない、と語ります。たとえ今、絶望的な状況しか目の前になかったとしても、絶対に断ち切られることのない神とのつながりの中にあなたは生きている、と励まします。「どのような時にも、私はあなたと共にいる」という神の思いを人々に届けるために、イエスは「信じろ」と呼びかけます。その神とのつながりこそが、本当の意味で命を満たし、命を支え、生かし続けるものだと、私たちに訴えかけてくるのです。 (牧師 原田 賢)

 
 応答讃美歌:新生讃美歌521番「キリストには替えられません」 


(2024年1月21日の週報より) 

イエスとの出会いは偶然? 必然?

ヨハネによる福音書4142

主イエスが「ヤコブの井戸」に水を汲みに来たサマリアの女性に声をかけることから話は展開していきます。当時のユダヤ人とサマリア人との不仲は相当のもので、ユダヤ人は旅をするとき遠回りをしてでもサマリアを避けていたと言われます。そのサマリアの地にイエスが足を運び、昼間に水を汲みに来た女性と会話することを通して、彼女はメシア(キリスト)を知ります。劇的な回心を経験したパウロとはまた違った救いへのプロセスであると言えるでしょう。

ヨハネは、旅に疲れて一人井戸の傍らで休んでおられるイエスの姿を私たちに紹介しています。この描写に私はホッとするものを感じます。イエスだって疲れることがある、疲れて座っているときに新たな出会いが生まれることがある、そのことを知ることもまた福音だと思うのです。

彼女が幾度も結婚を重ねていたことが語られていますが、それは「人生の幸せ」「生活の安定」を求めてのことであり、そのことで“心の渇き”を満たそうとしていたと思われます。けれども彼女のこれまでの生き方では、渇きを満たすことはできなかったのです。しかし、イエスが声をかけ、彼女との関わりをもたれたことから、事態は急変します。彼女との会話の中で「水」は、「神の賜物」(10)、「生きた水」(10)、「永遠の命に至る水」(14)とだんだん具体的になっていきます。と同時に、彼女の心は徐々に開かれて行き、交わりを避けていたような町の人たちに証しをする者へと変えられて行きます。

この出来事、つまりサマリアの女性がヤコブの井戸で主イエスと出会ったのは偶然だったのでしょうか。ヨハネは「サマリアを通らねばならなかった」と語り、そこに神の思い・神の計画があったことを示唆しています。神はこの女性とイエスを出会わせるためにヤコブの井戸へとイエスを歩ませたと言えます。そこまでしても救いへと導こうとされる神の愛をここに見ることができます。そしてそのことは、私たちの救いにもそのまま当てはまることなのです。      (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌563番「すべての恵みの」