(2020年10月25日の週報より)
 

「人を裁かないように、裁き返されないために」

ヨハネによる福音書 8章1~11節

春日原キリスト教会で、九州バプテスト神学校月間のアピールと説教のご奉仕をさせていただくことを主に感謝いたします。

九州バプテスト神学校には、現在、45名の方々が学んでおられます。専攻科コースが5名、本科コースが19名、聴講が21名です。ほとんどの方々が働きながら学びをしています。また、約8割の方々がインターネットやDVDで学んでおられます。皆様も自分が学びたいコースを選択して豊かな講義を受け、信仰生活のさらなる高嶺をめざして学ばれてはいかがでしょうか。これからも九州バプテスト神学校を覚えていただき、皆様のご協力とお祈りをどうかよろしくお願いいたします。

私たちは罪人であることを認識しなければなりません、熱心さや積極性が過ぎると、自己主張が強くなり、そのように出来ない人を裁いてしまいます。自分が納得する形を押し通そうと一人突っ走る、批判的・攻撃的言葉によって相手を傷つける、自分が相手を傷つけている自覚がないなどが「裁き」です。

私たちの罪は、すでにイエス・キリストが十字架の上で身代わりとなってあがなってくださいました。そのことを忘れてはならないと思います。真理から生まれる裁きは(神の声、イエス・キリストの語りかけ、呼びかけ)であり「レーマ」です。真理に基づかない裁きは(世の裁き・人による肉の裁き)だと教えられました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と諭してくださいます。イエス様の愛を受けて、そこから応答していくことをイエス様は喜んでくださるのではないでしょうか。   (神学生 河野正成)

 応答讃美歌:新生讃美歌300番「罪ゆるされしこの身をば」


 (2020年10月18日の週報より)
 

ひとりよりもふたり

コヘレトの言葉4章9~12節

こどもたちが好きな童話の一つに「ブレーメンの音楽隊」があります。4匹の動物たちが力を合わせて協力することにより生きる場を得、交わりを持つことにより楽しく暮らしたという話は、現代の私たちにも教えるところが大きいように思われます。

主イエスは、「最も重要な掟」として「主を愛する」ことと「隣人を愛する」ことを挙げられました(マタイ22章)。この「愛する」という言葉は、「交わる」という言葉と置き換えることもできるでしょう。愛には交わりが不可欠です。

コヘレトも「ひとりよりもふたりが良い」(9節)と、交わりを持つことの重要性を述べ、その理由として四つのことを挙げています。

①「共に労苦すれば、その報いは良い」(9節)

②「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」(10節)

③「ふたりで寝れば暖かい」(11節)

④「ひとりが責められれば、ふたりでこれに対する」(12節)

それらの最後にまとめの句としてコヘレトは「三つよりの糸は切れにくい」(12節)と述べています。似たような言葉に毛利元就が語ったと言われる「三矢の教え」がありますが、「三矢の教え」が三人の息子に語ったものに対して、コヘレトの言葉は「ふたり」という言葉に続けて「三つよりの糸」を語っています。つまりコヘレトは、もう一人を意識して私たちに語っていると受け取ることができます。その「一人」とは「神」です。

私たち人間同士がより合わさった二つよりの糸ではなく、そこにもう一本神という糸がより合わされるときに丈夫な糸になるのです。神を中心として交わりを持ち、神を中心として協力するということが大切であり、そこにキリスト教会が成立していくのです。  (牧師 末松隆夫)

 応答讃美歌:新生讃美歌424番「祈りの山路を」


(2020年10月11日の週報より)

永遠を思う心

コヘレトの言葉 3章1~17節

ある牧師は「人には三つの時計(「自分時計」「世間時計」「永遠時計」)が用意されている」と語っています。「自分時計」は自分の欲するままに生きることで自分を中心とした生き方(時の用い方)です。「世間時計」は周りに合わせる生き方です。隣の田から水を引き次の家の田に水を送るという水田農耕民族である日本人は、この「世間時計」に縛られます。それは世間を何より意識し、周りに合わせる生き方です。「永遠時計」を持っている人の生きる基準は神であり、神に自分を合わせる生き方です。

1章で「太陽、風、川、大地」など宇宙論的なことを語ったコヘレトは、この3章では「時」という時間論を取り上げています。ここで用いられている「時」(エート)は、ギリシャ語のカイロスに匹敵するものです。ただ単に流れていく「時」ではなく、神が取り扱われる「時」、神によって定められた「時」です。

2節から8節にかけて「時のカタログ」とも言える具体的な事象が列挙されています。「生まれる時、死ぬ時」という人生の始まりと終わりという私たちにとって最も重要な事柄ですが、私たちはそれを定めることはできません。私たちの一生は神によって定められているということを知るところから「時」の理解は始まると言っていいでしょう。

11節では「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」とコヘレトは述べています。ここに「永遠時間」を持つことが出来る理由が書かれています。神が与えてくださるのです。永遠なる神が、私たちに「永遠を思う心」を与えてくださっているからこそ、「永遠」へと私たちの思いを向けるときに、平安や希望が生まれるのです。 (牧師 末松隆夫) 

応答讃美歌:新生讃美歌512「日ごと主イエスに」

(2020年10月4日の週報より)

意味のある人生

コヘレトの言葉 1章1~11節

「コヘレト」とは集会で教える教師または指導者という意味があります。

旧約聖書39巻の中で、ヨブ記、箴言、コヘレトの言葉、詩編は「知恵文学」と呼ばれています。これら4つの文書は教師たちの格言を集めたもので、教訓としてイスラエルの民を育成する役割があったと言われています。

コヘレトの言葉1章から12章までの中に、「空しい」という言葉が38回も出てきます。しかし、内容としては「空しさ」だけでなく「教訓」の部分も記されています。全体の内容の大まかな構成は、1章~4章、6章、8章に「空しさ」が記され、一方、5章、7章、9章~12章には「教訓」が記されています。

1章2節に「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と、「空しさ」がくり返されています。「空しさ」の元の意味は、「息」で、消え去り、つかみ所がないことから「はかなさ」、「価値のなさ」、「空しさ」を意味するようになったと言われます。3節から11節にかけて、自然界の単調なくり返しが記され、それは空しいことであると言い表しています。しかし、これを自然の恵みとして読むと、自然界の命が見えてきます。

この世に生きている私たちが空しい意味のない人生ではなく、意味のある人生を送るのに、人間的な視点ではなく、神の視点から見る必要があります。そのことを心にとめて神の言葉である聖書を読むわけです。これから学ぶ「コヘレトの言葉」は聖書66巻全体の中で読み、聞くことが重要です。たとえば、コヘレトの言葉1章の否定的な見方は、創世記1章によって肯定的な見方へ変えられると思います。

聖書のみ言葉を読んで、それを生活の中に生かすことによって、意味のある人生を体験したいと思います。    (主事 八幡正弘)

応答讃美歌:新生讃美歌510番「主の言葉の」


(2020年9月27日の週報より)

金の子牛

出エジプト記 32章1~14節

モーセは、神から十戒を授かるためにシナイ山に登りました。そのモーセの帰りを待ちきれなかったイスラエルの民は、アロン(モーセの兄)にある要望を出します。それは「我々に先立って進む神々」を造ってほしいということでした。不安の中での発言だったと思われますが、これは大きな問題です。

彼らはこれまで誰に導かれていると思っていたのでしょうか。過越の出来事からスタートし、葦の海の底を歩いて渡るなど多くの奇跡を目の当たりにしてきた彼らにとって、主なる神こそが自分たちを導いてくださっていることは分かっていたはずです。しかし、「エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」との彼らの発言は、モーセという目に見える指導者のことしか見ていなかったということを示しています。神よりも指導者(人間)の存在によって安心を得ていたということです。私たちは大丈夫でしょうか。牧師ではなく、神を見、神によって安心を得なければ、この時のイスラエルの民と同じです。

彼らは、モーセに代わって「神々」を求めます。モーセがいなくなれば次の指導者(後継者)を求めるのが普通ですが、彼らはアロンに指導者となることを求めるのでなく、目に見える神を求めています。目に見える神とは、自分の思い通りの神ということです。神に自分たちが従うのではなく、自分が描いたイメージ、自分の願望が形になった神を求め、自分の願いを叶えてくれる神を求め、金の子牛を造り上げてしまいました。そこに安心感を求めたのです。

私たちは、真の神以外のところに[safety blanket](移行対象)を求めてはいないでしょうか。ピーナツの作者、チャールズ・シュルツは「ライナスが好きな毛布は、わたしたちがしがみついているものの象徴である」と言っています。私たちがたよるべきものは何なのか、今一度、自分自身に問いましょう。 (牧師 末松隆夫)  

応答讃美歌:新生讃美歌543番「千歳の岩よ」