(2020年6月28日の週報より)
 
主と共に生きる

テサロニケの信徒への手紙一 4章13節~5章11節

パウロの伝道によって生まれたテサロニケの教会には問題が2つありました。(1)主の再臨が遅れていること。(2)先に召されたキリスト者は復活にあずかれるのかという疑問。それに対してパウロは主イエスが天から降って来られることを語り、この問題に答え、励ましています。

主イエスが死んで復活されたように、先に召されたキリスト者も復活する(14節)と言うことですから、テサロニケのキリスト者は嘆き悲しむことはないのです。次いで15~17節で復活がどのように起こるのかが記されています。

「主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し」(16節)、「それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(17節)。

わたしたちは、先に死んだ愛する兄弟姉妹を、悲しみの涙をもって天に見送りますが、やがて、主の再臨の時に彼らと再会できるとはなんと幸いなことでしょうか。しかも、わたしたちは永遠の主イエスといつまでも共にいることになるとはなんという祝福でしょうか。

「主のもとでは、一日は千年のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのはありません。そうではなく、一人も滅びないで、皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペトロ3:8,9)のように、わたしたちはまわりの人が救われるようにとりなしの祈りをする必要があります。

「イエスの死と復活により、わたしたちが生きていても死んでいても、主と共に生きる」(5章10節)ことを覚えつつ、喜び、平安、希望をもって、一日一日を歩みたいと思います。   (主事 八幡正弘)

 応答讃美歌:新生讃美歌608番「かなたにはまばゆき」 


 (2020年6月21日の週報より) 

今、わたしたちは生きている

テサロニケの信徒への手紙一 3章1~13節

この3章には、テサロニケ教会に派遣したテモテからの報告を受けた時のことが記されています。「もはや我慢できず」(1)、「もはやじっとしていられなくて」(5)などにパウロの心境がよく表れています。さらに「あなたがたを励まして、信仰を強め」(2)、「…という心配から」(5)などからもパウロの思いを知ることができます。牧会者がいなくなり、苦難に直面しているテサロニケ教会の人たちが誘惑に引きずられてイエス・キリストへの信仰を放棄してしまうことが何よりも心配だったのです。主イエスから直接弟子として招かれ、寝食を共にし、誰よりも身近で主の説教を聞き、奇跡を見ていた12弟子でさえ、命が脅かされた時に信念を貫くことができなかったのですから、生れたばかりのテサロニケ教会の人たちのことを心配するパウロの思いはよく分かります。

テモテからの報告はパウロを歓喜させるものでした。彼らの「信仰と愛」について聞いたからです。「信仰」とは「主にしっかりと結ばれている」こと、「愛」とはパウロに対して今でも好意をもってくれていることです。この二つは、時代が変っても変ることのない牧会者の喜びです。

8節の言葉は理解しづらいものかもしれませんが、「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら」という「なら」は、事実の確認であり、「から」と言い換えた方が分かりやすいでしょう。「今、わたしたちは生きている」とは、テサロニケ教会の人たちとパウロが密接につながっている運命共同体であることの表明であり、使徒としての使命観がにじみ出ているものであり、テサロニケを離れた今も運命共同体としてのキリスト者の関わりを大事にしていたことの表れです。ここに教会の姿があると言えます。私たちも励まし・励まされるという相互の関係を更に構築して行きましょう。 (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌388番「主よ わが心に」 


(2020年6月14日の週報より

神の信任を得て

テサロニケの信徒への手紙一 2章1~13節 

パウロはテサロニケでの伝道活動を振り返って「そちらへ行ったことは無駄ではありませんでした」(1)と書き記しています。そのように思えるこことは、伝道者にとって本当に幸いなことです。

その一方で、パウロたちの活動についての誹謗中傷の声も届きました。自分に対する誹謗中傷や誤解に対して、私たちは二つの態度を取ることができます。一つは〈我関せず〉と放置すること、今一つはきちんと弁明することです。パウロは教会の人たちに弁明しました。それは自分の立場を守るための自己弁護とは少し違います。神の働きがそしられないためであり、教会の人たちの信仰を守るためでした。

その弁明の中にパウロの伝道観が示されています。それは、《伝道は神に委ねられて為すものである》ということです。「自分がしたいから」とか「勢力を拡張するため」とかの目的で伝道をするのではありません。伝道は、独り子を十字架にかけてまで罪人(私たち)を救おうとされる神の意志に従うことです。そのことをパウロは「神に認められ、福音をゆだねられている」(4)と述べています。パウロの伝道者としての活動は、神の信任を得ているという一点に立っていたと言ってもいいでしょう。私たち一人一人も、神の信任を得てこの教会に立てられ福音を委ねられているという認識をしっかりと持つことが、揺るがない教会生活や伝道活動の鍵だと言えるでしょう。

また、「神に喜んでいただくためです」(4)というパウロの言葉も注目に値するものです。あらゆる生活の中で「自分はいったい誰を喜ばせようとして、今、このことをしようとしているのか」と、自己吟味する者でありたいと思います。   (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌519番「信仰こそ旅路を」 


 (2020年6月7日の週報より)  

祈りの包囲網

テサロニケの信徒への手紙一 1章1~10節

使徒言行録17章に、パウロとシラスがテサロニケで伝道したときのことが記されています。それによると、テサロニケ教会はパウロたちの3週間の伝道で生れた教会です。しかし、ユダヤ当局者による騒動で町が混乱し、そこから離れざるを得ませんでした。この手紙は、新約聖書の中で最も早く書かれたものだと言われていますが、生れたばかりの教会のことを思って書かれたパウロの愛の手紙です。

パウロは冒頭で「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして…」と書き記しています。自分のことではなく他者のための祈り、いわゆる執り成しの祈りです。「祈りの度に」つまり日毎の祈りの中で、しかも「あなたがたのこと」「あなたがた一同のこと」がパウロによって祈られています。誰一人として祈りの対象から除外されることはないのです。

クリスチャン作家・三浦綾子氏は「人々に祈っていただきたいという、人の信仰を当てにしているのがわたしの信仰である」と語っています。主イエスの執り成しはもちろんですが、周りの人たちの祈りによって私たちの信仰は支えられていると言えます。その祈りの包囲網に気づくときに、私たちは生きる勇気や希望を持つことができる者とされるのではないでしょうか。

3節には「信仰」「愛」「希望」という語が記されています。キリスト教の恵みの本質を示すものです。信仰は多くの働きを生み出す原動力です。小さな信仰であっても、それが生きて働くときに人や社会を動かし、世界や歴史を動かして行きます。その信仰は「神の愛」「主イエスに対する希望」と深く結ばれています。現代に生きる私たちも、祈られている幸いを感じながら、信仰・希望・愛に生きる者へと更に導かれていきましょう。 (牧師 末松隆夫) 

応答讃美歌:新生讃美歌435番「山辺に向かいてわれ」  


 (2020年5月31日の週報より)  
 

人を差別せず

使徒言行録 10章1~48節

本日は「ペンテコステ」(聖霊降臨日)です。聖霊を受けた弟子たちは、他国語で福音を語り(2)、命をかけて伝え(7)、仲たがいしていた場所にも届けました(8)。それまで福音を[聞く者]であった弟子たちが[語る者]へと変えられたのです。そこに聖霊降臨の大きな意味があります。

ペンテコステ以来、迫害という危機的状況をくぐりながらも福音が大きく広がっていく様子が描かれ、いよいよ異邦人伝道が本格的にスタートします。しかし、そこには乗り越えなければならない壁がありました。それは、異邦人に対する差別意識です。

ペトロは、コルネリウスの家で語った説教の第一声で「神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました」と語っていますが、これは前々から彼が抱いていた思いではありません。ユダヤ人以外は救われないというのが当時のユダヤ教の常識であり、ペトロもその常識の中に生きていました。

差別が生まれる時、三つの要素が関わると言われます。①宗教的価値基準(きよさ・汚れ)、②社会的尺度(能力、経済力)、③政治的尺度(支配、従属)。エジプト、バビロン、ローマという国に支配されたユダヤ人は②と③で誇れるものはなく、①だけが誇りだったのでしょう。異邦人を差別することで、自分たちの優位性を感じていたのかもしれません。

ペトロは、コルネリウスと出会う直前に、食物規程に反する生き物の幻を見せられ、その思いが変えられました。しかし、すんなりと受け入れたわけではなさそうです。「こういうことが三度あり」(16)との表現は、ペトロの固定観念と信仰のせめぎ合いがそこにあったことを物語っています。私たちの思いが変えられるのにも時間がかかると言えるでしょう。具体的な歩み、出会い、出来事を通して、少しずつ成長させていただくのです。 (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生讃美歌344番「聖なるみ霊よ」