(2025年12月7日の週報より)   

なぜ今?なぜ私?-神の希望は空気を読まない-

ルカによる福音書1章26~38節

クリスマスが近づいてきています。クリスマスは、「イエス・キリストの降誕=神が人間になってこの世界に来られたこと」を覚える時です。イエスは、この世界の暗くなっている場所に生まれます。それは、暗く冷たくなっている場所を暖かく照らすためです。私たちに希望を届けるためならば、神は空気を読まずに私たちのところへ割って入ってこられることがあると、聖書は語ります。

   イエス誕生の前、マリアという少女のもとに天使が現れ、子どもを身ごもることを告げます。「受胎告知」と呼ばれる有名な場面です。その突然の告知は、マリアを戸惑わせます。その戸惑いは、「突然のことに驚いた」というだけではないかもしれません。当時の社会は、「個人」よりも「家」が重んじられました。聖書学者ブルース・マリーナによれば、結婚とは「家と家が結びつくこと」であり、結婚することによってお互いの家に不利益がないように細心の注意が払われたと言います。そのような中で、結婚の約束を交わした者が妊娠したとなれば、それは契約違反と見なされ、両家に恥をかかせることになります。人々は、そのスキャンダルを放っておかず、最悪の場合、死刑に処せられることになります。それが当時の社会でした。この社会での受胎告知は、マリアの人生を大きく揺るがすものだったのです。

   イエス・キリストは、このマリアのもとに生まれます。神の出来事は私たちの納得できる形で起こるとは限りません。聖書のクリスマスは、理解し難く、困ってしまうような形で始まります。しかし、それは人々を不幸にするためではありません。この日、マリアに宿るのは神の希望であり、マリアや人々の命を幸いな未来へ導こうとする神の決意の表れです。そのような神がおられると、聖書は私たちに告げるのです。思いがけない場所に響く「おめでとう」の声に心を開くクリスマスでありたいと願います。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生550「ひとたびは死にし身も」 


 (2025年11月30日の週報より)   

受け継ぐ恵み、小さい者の一人に

マタイによる福音書25章31~46節

日本バプテスト連盟女性連合が世界祈祷日週間の礼拝(活動)を始めてから、今年で94年を迎えました。いま、そしてこれから、私たちはどのような働きを担い、繋いでいくべきかを祈らされています。

   私は沖縄の宮古バプテスト教会で育ち、青年時代を東京で過ごし、牧師である夫と共に福島、福岡と歩んできました。中でも忘れがたいのは、2011年の東日本大震災の経験です。福島で被災した際、日本、世界の多くのバプテストの仲間に祈り支えられ、困難の中でも立ち上がる力を与えられました。変化の激しい時代にあって、私たちはつい容易な答えや安心を求めがちですが、この経験を通して、知識や力に限りある私たちが真に信頼できる方は、変わらずにいてくださる神おひとりであることを教えられました。福岡に移ってから、今度は自分自身に何ができるのかを問われ続けています。

   姪浜バプテスト教会では、ミャンマーからのご家族と出会い、軍事クーデター以降、「Atutu Myanmar Fukuoka」という働きを続けています。“Atutu”とはビルマ語で「共に」という意味です。当初は訪れるゲストが憩える場を願っていましたが、やがて彼らの方から「私たちにも料理をさせてください」との声が上がり、教会の台所にはミャンマー、韓国、中国、シンガポール、台湾…など、多国籍の香りが満ちるようになりました。共に料理し、食卓を囲むそのひととき、厳しい現実の中でも主が開かれる天の国の食卓を垣間見る思いがします。そして、そこにイエス・キリストも共におられるのだと感じます。

   本日の聖書の箇所にはこうあります。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。この御言葉に示されるように、隣人と共に生きる喜びと使命を聴き、これからも祈りのうちに歩んでいけたらと願います。

(姪浜教会 鈴木加織姉)

 
 応答讃美歌:新生335「小さき者のひとりに」


   (2025年11月23日の週報より)  
 

愛の補給所‐“生きて欲しい”を取り戻すために‐

イザヤ書6章1~7節

2025年度の活動方針のなかで、「変わらない礼拝の本質を心に留めて」という言葉を掲げています。「礼拝の本質」とは、「神さまに心を向けること」です。礼拝の形式的な部分は様々に変わっていきますが、「神さまに心を向ける」という本質は変わりません。神さまに心を向けるとき、私たちや世界のことに深く心を注いでくださっている神さまの姿が見えてきます。その神さまの姿から、私たちは生きる力を得て来たのです。

   人は誰しも「自分が愛されている」という実感を必要としています。そして、その実感は、「一度造られれば一生安泰」といった盤石なものではなく、揺らぎやすく、傷つきやすいものです。日々の生活の些細な出来事で傷ついて、疲れてしまうことは、誰にでもあります。自分の存在意義が分からなくなるような悲しい日を過ごすことが、きっと誰にでもあるのです。だから、私たちは誰しも愛を補給する場所を必要としているのではないでしょうか。

   イザヤ書6章は、預言者イザヤが神さまの幻を見る場面が描かれています。神の使いである「セラフィム」が神さまを賛美して礼拝しているところをイザヤは見ます。その圧倒的に美しいものを前に、「わたしは汚れた唇の者」(5節)と言って、イザヤは絶望します。理由ははっきりしませんが、「唇」が彼にとっての良くない部分に感じたのでしょう。その唇に、セラフィムが炭火を押し当てて「赦し」を宣言します(7節)。イザヤの絶望を癒すように、崩れかかった「愛されている」という実感をイザヤに取り戻させるように、イザヤの唇に赦しが焼き付けられます。その赦しを受け取って、イザヤは立ちあがるのです。

   絶望したイザヤを立ちあがらせた神さまが、今、私たちと共におられると聖書は証言します。あなたに赦しを宣言し、「生きて欲しい」と願われる神の思いを受け取って、またこの日々を生きていきましょう。  (牧師 原田 賢)

 応答讃美歌:新生461「迷い悩みも」 


  (2025年11月16日の週報より)   

主による建て直し

アモス書9章11~15節

先週は幼児祝福式でしたが、子育てには愛が必要です。愛することと甘やかすことは違います。100%受容する優しさとともに、時には厳しさも必要です。以前、テレビで少子化問題が報道されていました。その中で[きょうだい喧嘩によって子どもたちは駆け引きや手加減を無意識のうちに取得する]と語られていました。痛みを伴う関わりや交わりの中でいろんなことを学び、それが成長へとつながっていきます。それは、神との関係においても言えることです。

   アモス書には神の厳しさが語られ、イスラエルの罪に対する神のさばきが色濃く描かれています。さばきの言葉に身をさらすことはとても辛いものがあり、痛みが伴います。しかしそれは、イスラエルを愛するがゆえのものであることを私たちは認識する必要があります。神はイスラエルの家が「生きる」ことを誰よりも望んでおられるのです。そしてそれは、この9章で「回復の約束」という形で表れます。

   「ダビデの仮庵(家)」はイスラエルにとって理想の国を意味します。そこには神の信任によって立てられた王がおり、民は王と共に神を礼拝し、神の御旨に従おうと努める信仰者の群れが存在します。しかし、当時の現状はその「家」が倒れた状態でした。その民に向かって主なる神は「その破れを修復し、復興し、建て直す」と約束してくださったのです。

   私たちは、この神の言葉がクリスマスの出来事を通して、また十字架と復活を通して成就したことを知っています。しかし同時に、「破れ」や「廃墟(崩れ)」を抱えている現代の私たちや教会に対する希望のメッセージとして読み取りたいと思います。個人的にも教会としても「修復」し、「復興」しなければならないことがたくさんあります。私たちが「生きる」ための「建て直し」へと、神は私たちを招いておられるのです。 (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生570「たとえばわたしが」  


  (2025年11月9日の週報より)  
 

将来と希望を与える神の計画

エレミヤ書29章10~14節

子どもたちが好きなテレビアニメに「それいけ!アンパンマン」があります。そのテーマソングで原作者のやなせたかしさんはこう書き出しています。

 [なんのために 生まれて なにをして 生きるのか
 こたえられないなんて そんなのは いやだ]

  なんのために生まれて、なにをして生きるのか、この問題に聖書は「祝福を受け継ぐためである」(Ⅰペトロ3:9)と答えます。聖書には神の祝福の言葉がたくさん書かれています。その一つがエレミヤ書29章11節です。その内容は神の「平和の計画」であり、「将来と希望を与えるもの」だと、神は言われます。

  しかし、この言葉は、バビロン捕囚という状況下で語られたものです。わたしたちは、「平和・将来・希望がある」というとき、生活が安定し、問題がなく、家庭円満で健やかなイメージを持ちます。逆に、それらの一つでも欠けてしまったら、将来や希望は吹き飛んでしまうと思いがちです。しかし、聖書はそうは語りません。私たちの思いと神の思いとは違ったものであり、私たちの思いを超えたところで進められていく神の計画・神の時があることを語ります。

  ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎さんは、たとえ苦難の人生であっても、その苦難が自分を成長へと至らせるものであるとすれば、それはグレイス・恩寵と言えるのではないかと語っています。

  「70年」というバビロンでの日々は決して短いとは言えません。しかし、ここには捕囚に終わりがあることが示されています。また、神は「そこに家を建てて住み…」と、しっかりと地に足をつけて生きていくように、そして神を見上げて生きていくようにと語られます。信仰生活にしても、育児にしても、私たちの思いを超えた神の思い、神の祝福、神の計画があることを心に留めて、歩んでいきたいものです。 (牧師 末松隆夫)

 応答讃美歌:新生301「いかなる恵みぞ」   


 (2025年11月2日の週報より)    

イスラエルの罪。対岸の火事?

アモス書2章6~16節

アモスは、南王国ユダで牧羊業に携わり果樹園も営んでいた人で、当時としては裕福な生活だったようです。そのアモスが北王国イスラエルに神の言葉(さばき)を伝える預言者となったのは、アモス自身の思いではなく、神の招き・神の迫りに対する応答によるものです。私たちが毎週ささげている礼拝も、神の恵みを受ける時であるとともに、神の招きと迫りを受ける時でもあります。神の迫りを受けて悔い改め、新たな決断をし、新たな一歩を踏み出す、それが礼拝です。

   アモス書はダマスコ(アラム)、ガザ(ペリシテ)、ティルス(フェニキヤ)などイスラエルと緊張関係にあった国々に対する神のさばきの言葉から始まります。「わたしは決して赦さない」との神の言葉を、イスラエルの人々は心地よく聞いていたことでしょう。[真の神を信じていない連中は神に裁かれて当然だ]という思いで、神の側に自分を置いて聞いていたのかもしれません。

   しかし、「わたしは決して赦さない」という神の言葉は、北イスラエルにも語られ、他の国々以上に長く語られます。内容は、司法倫理・道徳倫理・性的倫理の堕落であり、信仰の堕落です。8節の「神殿」と訳されている語は、直訳すると「彼らの神の家」です。偶像礼拝が行われていた神殿を神は「わたしの家」とは呼ばれません。

   イスラエルの罪に関して「正しい者を金で売った」ことがあげられています。この個所と直接の関係はありませんが、イスカリオテのユダの事象が浮かんで来ます。また、「預言者を…ナジル人を起こした」(11節)の700年後に、預言者やナジル人を超えたお方が神によって起こされたことへとつながっていきます。「そうではないか」(11節)とのイスラエルへの神の迫りは、私たちへの迫りでもあります。その迫り(招き)に私たちがどのような決断をするかを神は見ておられるのです。  (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生478「ともに在せ わが主よ」   


 (2025年10月26日の週報より)   
 

地べたで“ごろん”、明け渡そう

ヨハネによる福音書15章5、16~17節

みなさん、はじめまして!巻頭言のスペースをお借りして自己紹介をさせてください。僕とキリスト教会との出会いは幼稚園です。我が家はクリスチャンファミリーではありません。母が家から一番近い幼稚園を探していて、たまたま見つけたのが久留米バプテスト教会の附設幼稚園、“めぐみのその幼稚園”でした。年中/年長のたった二年間でしたけど、楽しかった!

   どれくらい楽しかったかと言いますと、20歳の僕の証言が残っております。当時僕は小学校教師を目指し教育大学で学んでいました。ある日美術の授業で課題が出ます。「人生を振り返って、今の自分を形成していると思う出来事や出会いを自由に表現しなさい」というもの。僕は絵が好きでしたから、大きな画用紙に20年生きた中での思い出を八つほどに絞って“人生マップ”みたいな絵を描きました。その一つにめぐみのその幼稚園のことを入れているのです。

   友だちのかよちゃんと手をつないで教会の門をくぐっている自分のイラストを描き、こんなコメントを添えていました。「幼稚園は教会でした。先生から神さまのお話を聞いて、クリスマスにはキャンドルに火を灯してみんなで劇をして、僕の人生の絶頂とも言える二年間でした」。笑っちゃうでしょう?「人生の絶頂」と書いているのです。友人たちからは「5歳6歳で絶頂期を迎えてしまっているなら、お前もう相当やばいぞ」と心配されました。卒園してからはまったく教会には行かなくなり、教会とは無縁の人生を歩んでいる20歳の僕でしたけど、偽わらざる素直な気持ちでした。

   教育大学を卒業して、子どもの頃からの夢叶って小学校の先生になって、でもそれはたった8年で挫折して…。どん底、人生これで終わりと絶望したただ中で、僕は不思議にも幼稚園のことを思い出して教会を再訪したのです。25歳の夏、20年ぶりでした。5歳、6歳の僕の心に幼稚園の先生が神さまの種を蒔いてくださっていたことが、僕のいのちの救いになりました。この春日原教会にも恵星幼稚園があります。昨日と今朝と、僕は“ありがとう”の気持ちで立たせていただいています。    (久留米荒木教会牧師 溝上哲朗)

応答讃美歌:新生510「主の言葉の」   


 (2025年10月19日の週報より)  
 

永遠の命とは

ヨハネによる福音書3章16~21節

「永遠の命」とは何でしょうか。多くの人は「死んだ後も続く命」と考えるかもしれません。しかし聖書が語る「永遠の命」は、単なる寿命の延長ではなく、神とのつながりの中で生きる命を指しています。

   ヨハネによる福音書17章3節には、「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と書かれています。ここでいう「知る」とは、知識として理解することではなく、人格的に深く結ばれることを意味します。つまり、永遠の命とは、神とイエス・キリストとの交わりに生きることなのです。

   私たちは日々の生活の中で、不安や孤独を感じることがあります。先の見えない状況や、思いがけない出来事に心が揺さぶられることもあります。しかし永遠の命を与えてくださる主は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。その約束は、私たちが地上の生涯を終えた後も続き、決して途切れることはありません。永遠の命は、未来にだけあるものではなく、すでに今ここに始まっている命です。イエスを信じる者は、すでに神の愛のうちに置かれ、御国の希望をいただいて歩んでいます。日々の生活の中で祈り、御言葉に耳を傾け、兄弟姉妹と交わりを持つとき、永遠の命の豊かさを少しずつ味わうことができます。

   この永遠の命は、人の努力によるのではなく、神の恵みにより、キリストを信じる信仰によって与えられます。その恵みはすべての人に開かれ、過去がどうであっても神に立ち返る時に新しくされます。だから私たちは恐れずに主に信頼し、永遠の命に生きましょう。この希望が私たちの支えです。 (天野正道神学生)

応答讃美歌:新生437「歌いつつ歩まん」  


 (2025年10月12日の週報より) 
 

神さま、リプライ待ち。

ヨナ書4章1~4節

神は、ヨナをニネベに派遣します。一度は逃げ出したヨナでしたが、今度は逃げませんでした。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(3章4節)というヨナの言葉を聞いて、ニネベの人々は直ちに態度を改めます。その様子を見た神はニネベを滅ぼすのをやめますが、そのことでヨナは怒りを抑えられなくなります。そのヨナに、神は問いかけます。「お前は怒るが、それは正しいことか」(4章4節)と。

   怒るヨナに、神は「とうごまの木」を与えます。大きな葉っぱが日陰を作り、ヨナを癒します。ヨナはとうごまの木の存在を心から喜びました。しかし、その木はすぐに枯れてしまいました。ヨナは悲しみ、嘆きます。そこで、再び神は問いかけます。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」(4章9節)と。

   問いかけは、返事を求めます。まるでキャッチボールをするように、互いに言葉を交わすやりとりを作り出します。神は、怒るヨナに問いかけます。ヨナからの返事を期待して、ヨナと言葉を交わし合いたくて、神は問いかけるのです。

   ヨナ書は、あらゆる命を惜しむ神の言葉で終わります。しかし、神とヨナの対話は終わっていないのではないか、と思うのです。ヨナが最後の神の言葉をどのように受け止めたのか、ヨナ書は語りません。ヨナに代わって、私たちが対話を続けることを、神は期待しているのではないでしょうか。

   ヨナにとって、「ニネベ」は赦し難く、怒りの湧く存在でした。私たちにとって、「ニネベ」のような存在はないでしょうか。ヨナにとって、「とうごまの木」は失い難いほど大切な存在でした。私たちにとって、「とうごまの木」のような存在はないでしょうか。〈あなたがとうごまの木を惜しむように、私もニネベを惜しむ〉と語り、返事(リプライ)を待っておられる神に、あなたなら、どのように応えるでしょう。(牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生445「心静め語れ主と」