(2024年3月24日の週報より) |
いのちの終わりは、いのちの始め ヨハネによる福音書 19章17~30節 聖書には「栄光」という言葉が300回以上使われています。讃美歌の中でも頻繁に登場します。「栄光」という言葉から連想されるのは「輝き」「誉れ」「栄誉」「賞賛」といった人々が憧れるような、あるいは人々に幸いを与えてくれるようなものです。弟子たちもそのように理解し、「栄光をお受けになるとき、一人を右に、もう一人を左に座らせてください」と頼み込んでいます(マルコ10章)。 |
応答讃美歌:新生讃美歌229番「十字架のもとは」 |
(2024年3月17日の週報より) |
真理は“私の声”を自由にする ヨハネによる福音書18章33~40節 いよいよ十字架の場面へと入っていきます。「人々」(18:28)は、イエスをローマ総督ピラトに引き渡し、十字架に架けるようにと迫ります。この時の人々の主張内容は、多くの点で矛盾しています。ピラトは繰り返し「イエスに罪は見いだせない」と主張します。しかし人々は、〈自らの手を汚さずに、ローマ人の手でイエスを十字架に架ける〉という目的のために、矛盾もお構いなしに声を大きくし、自らの主張を押し通します。その大きな声が、権力者ピラトの声さえもかき消して、イエスを十字架へと追いやるのです。 |
応答讃美歌:新生讃美歌437番「歌いつつ歩まん」 |
(2024年3月10日の週報より) |
悩みあるあなたに、平和を! ヨハネによる福音書16章16~33節 主イエスの弟子たちへの訣別説教の最後の部分です。この日の夜に捕縛され大祭司のもとに連行されることになります。主の最後の説教に耳を傾けましょう。 |
応答讃美歌:新生讃美歌515番「静けき河の岸辺を」 |
(2024年3月3日の週報より) |
つながり合い、つながり続ける大切さ ヨハネによる福音書15章1~17節 ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの自己紹介(自己開示)が7回登場しますが、今日の「わたしはぶどうの木…」は、最後の晩餐を終え、いよいよ十字架へと向かおうとする中で語られた最後の自己紹介です。ここに記されている内容は、まさに遺言と言ってよいでしょう。 |
応答讃美歌:新生讃美歌431番「いつくしみ深き」 |
(2024年2月25日の週報より) |
十字架という絶望に光が灯る日 ヨハネによる福音書12章27~36節 キリスト教ではイースター前の40日間(日曜日を除く)を「レント」と呼び、イエスの十字架の苦しみを心に留め、自らの罪と向き合う時を持ちます。この期間に特別な催しをするか否かはともかく、いずれにしてもイエスの十字架を覚える日々を過ごすことは、私たちにとって重要なことであると言えるでしょう。 |
応答讃美歌:新生讃美歌230番「丘の上に立てる十字架」 |
(2024年2月18日の週報より) |
イエス、叫ぶ。命、目覚める ヨハネによる福音書11章23~26節、43~44節 ヨハネ11章は、ラザロの命を巡る物語です。ある時、ラザロは病気になり、死にそうになってしまいます。そこで、ラザロの姉妹マルタとマリアはイエスを家に呼びますが、イエスが家に着く前にラザロは死んでしまいます。ラザロが墓に葬られてから四日後に到着したイエスに、マルタは言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。マルタの悔しさや、「もっと早く来て欲しかった」というイエスへの不満が聞こえてくるように思います。 |
応答讃美歌:新生讃美歌583番「イエスにある勝利」 |
(2024年2月11日の週報より) |
通りすがりのイエス‐不意に訪れる神の希望‐ ヨハネによる福音書9章1~3節、10~12節 人は、「唯一絶対の正解」を求めることがあります。「正解」は、人を悩みから解放し、安心感や安定感をもたらします。しかし、時に自らの安定を求めるあまりに、誰かに自らの「正解」を押しつけ、苦しめてしまうこともあります。聖書の語る「真理」は、私たちがつかみ取った「正解」を揺さぶり、答えのない、不安定で、不確実な場所へと私たちを連れ戻します。 |
応答讃美歌:新生讃美歌73番「善き力にわれ囲まれ」 |
(2024年2月4日の週報より) |
唯一無二の良い羊飼い ヨハネによる福音書10章1~18節 聖書には「蛇」「いなご」「牛」「豚」など多くの生き物が登場し、それぞれに抱くイメージがあります。イエスと結びつくことの多い「小羊」は、汚れ無きものというイメージを抱きます。一方、「羊」となると「弱さ」を多く持つ動物というイメージ、そして「私たち」と直結したものとして迫ってきます。また、牧師はpastor(羊飼い)と呼ばれ、羊飼い(牧師)と羊(信徒)として理解されています。けれども、その関係で今日の箇所を読むと、牧師には辛いものがあります。「良い羊飼い」とのギャップが大きいからです。 |
応答讃美歌:新生讃美歌585「救いのぬし 主よ」 |
(2024年1月28日の週報より) |
その渇きは命の飢えか、満たされたい願望か ヨハネによる福音書6章30~35節 ヨハネ6章は「五千人の給食」と呼ばれる記事から始まります。この記事は4つの福音書すべてに登場しますが、ヨハネには他の福音書にはない「続き」が描かれています。「給食」の後のある日、人々はイエスを捜して見つけ出します。その時、イエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と言います。そして、「朽ちる食べ物のためでなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と語ります。 |
応答讃美歌:新生讃美歌521番「キリストには替えられません」 |
(2024年1月21日の週報より) |
イエスとの出会いは偶然? 必然? ヨハネによる福音書4章1~42節 主イエスが「ヤコブの井戸」に水を汲みに来たサマリアの女性に声をかけることから話は展開していきます。当時のユダヤ人とサマリア人との不仲は相当のもので、ユダヤ人は旅をするとき遠回りをしてでもサマリアを避けていたと言われます。そのサマリアの地にイエスが足を運び、昼間に水を汲みに来た女性と会話することを通して、彼女はメシア(キリスト)を知ります。劇的な回心を経験したパウロとはまた違った救いへのプロセスであると言えるでしょう。 ヨハネは、旅に疲れて一人井戸の傍らで休んでおられるイエスの姿を私たちに紹介しています。この描写に私はホッとするものを感じます。イエスだって疲れることがある、疲れて座っているときに新たな出会いが生まれることがある、そのことを知ることもまた福音だと思うのです。 彼女が幾度も結婚を重ねていたことが語られていますが、それは「人生の幸せ」「生活の安定」を求めてのことであり、そのことで“心の渇き”を満たそうとしていたと思われます。けれども彼女のこれまでの生き方では、渇きを満たすことはできなかったのです。しかし、イエスが声をかけ、彼女との関わりをもたれたことから、事態は急変します。彼女との会話の中で「水」は、「神の賜物」(10節)、「生きた水」(10節)、「永遠の命に至る水」(14節)とだんだん具体的になっていきます。と同時に、彼女の心は徐々に開かれて行き、交わりを避けていたような町の人たちに証しをする者へと変えられて行きます。 この出来事、つまりサマリアの女性がヤコブの井戸で主イエスと出会ったのは偶然だったのでしょうか。ヨハネは「サマリアを通らねばならなかった」と語り、そこに神の思い・神の計画があったことを示唆しています。神はこの女性とイエスを出会わせるためにヤコブの井戸へとイエスを歩ませたと言えます。そこまでしても救いへと導こうとされる神の愛をここに見ることができます。そしてそのことは、私たちの救いにもそのまま当てはまることなのです。 (牧師 末松隆夫) |
応答讃美歌:新生讃美歌563番「すべての恵みの」 |