(2024年11月17日の週報より) |
希望の対話-福音を語る神と戸惑いを祈る私- エレミヤ書32章6~9節、24~25節 神はバビロン捕囚直前の状況にあって、「アナトトの畑を買うように」とエレミヤに命じます。「アナトト」はエルサレムの北に位置する場所で、進軍する軍隊の通り道でした。踏みにじられていく土地を購入するようにとの命令は、エレミヤを戸惑わせます。その命令には、捕囚後の未来を約束する福音が宿っています(32:15)。エレミヤもそのことは承知していますし、それを可能にする神の力を信じています(32:17)。それでもなお、エレミヤは戸惑うのです(32:25)。 |
応答讃美歌:新生550番「ひとたびは死にし身も」 |
(2024年11月10日の週報より) |
あなたに目を注ぐ神 エレミヤ書31章33~34節 福音書には、イエスさまが「子ども」を祝福されたことが記されています。イエスさまの時代は典型的な男性中心社会であり、女性や子どもは軽視されていました。この当時の子どもは無視されやすく、傷つきやすい存在であり、「小さくされた者」を象徴する存在だったと言えるでしょう。イエスさまの子どもたちへの祝福は、「無視されていい存在などない」という、すべての命へ向けられた神のメッセージを象徴しています。 |
応答讃美歌:新生16番「み栄えあれ 愛の神」 |
(2024年11月3日の週報より) |
傷の癒しについて-再構築を望む神- エレミヤ書30章17節 エレミヤ書の30章から33章までを「慰めの書」と呼びます。厳しい言葉が語られるエレミヤ書の中で、希望や慰めの言葉が語られる箇所だからです。そうであるからこそ、厳しい言葉を読み飛ばしてこの部分だけを読みたくなってしまいますが、そうしてしまうと「慰めの書」の意味自体も失われてしまうでしょう。エレミヤ書の厳しい言葉と慰めの言葉は一体となって神の愛を語ります。 |
応答讃美歌:新生431番「いつくしみ深き」 |
(2024年10月27日の週報より) |
死から命へ マルコによる福音書5章1~20節 イエスがゲラサ人の地に着かれた時、真っ先に出迎えたのは悪霊に憑りつかれた男であった。この人は墓場に住み、昼も夜も叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。悪霊に支配され凶暴なふるまいを続ける彼に、家族や土地の人は手を焼いていた。彼は孤立し、絶望と死の世界である墓場にしか居場所を見出せなかった。イエスはこの人を憐れみ、まっすぐに向き合われた。「汚れた霊、この人から出ていけ」とイエスが命じられると、悪霊どもは抵抗を示しながらも、イエスが神の子であり、その御力には抗えないことを知っていたので、豚の群れに乗り移ることを願い出、許される。乗り移られた豚は、いっせいに湖になだれ込み溺れ死んだ。 |
応答讃美歌:新生384番「語り伝えよ 神のみ言葉」 |
(2024年10月20日の週報より) |
その言葉は誰のため? エレミヤ書10章17~19節、23~24節 エレミヤは預言者でありながら、同時にイスラエルの民の一員でした。つまり、エレミヤは神の言葉の語り手であり、同時に聞き手でもあったのです。神は、エレミヤを通して厳しい懲らしめの言葉をイスラエルの人々に語ります。エレミヤは、その言葉を自分の事柄として引き受けます。だからこそ、エレミヤ自身が「傷を負う」(10:19)のです。 |
応答讃美歌:新生536番「燃え立つ言葉も」 |
(2024年10月13日の週報より) |
偽りの平和から真実な平和へ エレミヤ書6章13~17節 エレミヤが預言者として活動し始めたとき、北イスラエルは既にアッシリア帝国によって滅亡していました。南ユダも厳しい社会情勢の中にありましたが、祭司たちが語る「平和」に人々は安心を抱いていたようです。その背景には、アッシリアが衰退したことや、首都エルサレムには神殿があるから大丈夫という勝手な思い込みがあります。14節の言葉は、神に聞くのではなく民衆を喜ばせることに終始していた祭司たちの宗教的堕落の姿が描かれています。しかし実際には、アッシリアに代わって北(バビロニア)が世界を席巻する時代がすぐそこに迫っていました。 |
応答讃美歌:新生330番「み使いの歌はひびけり」 |
(2024年10月6日の週報より) |
“狭間”に響く神の言葉 エレミヤ書1章1~10節 エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。人々はエレミヤを拒否し、笑いものにします(20:7)。それは、エレミヤの語る言葉が人々にとって煩わしく、愚かに思えたからでした。しかし、人々が退けたエレミヤの言葉こそ、人々に命を与える神の言葉であったのです。神の言葉は、いつも私たちを肯定して安心させてくれる言葉ではなく、時には厳しく、受け入れがたいものになることがあると聖書は示しています。 |
応答讃美歌:新生131番「イエスのみことばは」 |
(2024年9月29日の週報より) |
若者と共に歩む教会の祈り ヨハネによる福音書15章1~5節 「わたしにつながっていなさい。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」 |
応答讃美歌:新生363番「キリスト 教会の主よ」 |
(2024年9月22日の週報より) |
赦しという奇跡-“いつの日か”を目指す旅路- 創世記45章1~5節 45章はヨセフ物語のクライマックスで、ヨセフと兄たちが再会し、涙ながらに喜ぶ場面(45:15)が描かれます。ここまでの道のりは単純ではありませんでした。もともとヨセフは兄たちから恨まれていて(37:5)、エジプトへ奴隷として売られてしまいます。その後、不思議な導きの中で、ヨセフはエジプトで高い地位を得ることになり、この地域一帯を襲う大飢饉への対応を任されることになります(41:47以下)。飢饉への対応が自らの使命であり、そのために自分がエジプトへ導かれたことをヨセフは知り、責任をもってその働きを担います。それはヨセフにとって名誉なことであり、やりがいもあったでしょう。しかし同時に、ヨセフにとってエジプトは「悩みの地」(41:52)であり、苦労を積み重ねた場所でもありました。その発端となる「身売り」をした兄たちに対して、ヨセフは複雑な思いを抱えていたと思われます。 |
応答讃美歌:新生464番「主が来られて呼んでおられる」 |