(2024年10月13日の週報より)  

偽りの平和から真実な平和へ

エレミヤ書6章13~17節

エレミヤが預言者として活動し始めたとき、北イスラエルは既にアッシリア帝国によって滅亡していました。南ユダも厳しい社会情勢の中にありましたが、祭司たちが語る「平和」に人々は安心を抱いていたようです。その背景には、アッシリアが衰退したことや、首都エルサレムには神殿があるから大丈夫という勝手な思い込みがあります。14節の言葉は、神に聞くのではなく民衆を喜ばせることに終始していた祭司たちの宗教的堕落の姿が描かれています。しかし実際には、アッシリアに代わって北(バビロニア)が世界を席巻する時代がすぐそこに迫っていました。

   強い者が世界を支配する、だから軍事力の強大な国になれと聖書は語っているのでしょうか。イスラエルやユダの捕囚は社会情勢の自然な流れだったと言っているのでしょうか。聖書は違った観点でそのことを説明します。罪の問題をそこに見ているのです。エレミヤ書には「背信の女」「淫行」「姦淫」という表現が頻繁に出てきます。これらは偶像崇拝(神以外のものを神とする生き方)を表しています。偽りの神に望みをおくことが、偽りの平和へとつながり、神の裁きへとつながっていることを語っています。自分は今どこに立っているのか、どうあることが、何をすることが今求められているのか、それは現代の私たちが問うべきことでもあります。「さまざまな道に立って、眺めよ」とはまさにそのことです。

   「問いかけよ」と言われている「昔からの道」とは、歴史であり、神の戒めだと言えます。武力によって本当の平和は実現しないことを歴史は証明しています。神に造られた者として神が示してくださっている道を歩むことが「幸いに至る道」であり、「魂に安らぎを得る」道であることを聖書は一貫して語っています。

   「そこをあゆむことをしない」と、反発するのでなく、「その道に歩み、魂に安らぎを得る」一人ひとりでありたいと心から願います。     (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生330番「み使いの歌はひびけり」    


 (2024年10月6日の週報より)   
 

“狭間”に響く神の言葉

エレミヤ書1章1~10節

エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。人々はエレミヤを拒否し、笑いものにします(20:7)。それは、エレミヤの語る言葉が人々にとって煩わしく、愚かに思えたからでした。しかし、人々が退けたエレミヤの言葉こそ、人々に命を与える神の言葉であったのです。神の言葉は、いつも私たちを肯定して安心させてくれる言葉ではなく、時には厳しく、受け入れがたいものになることがあると聖書は示しています。

   イスラエルはメソポタミア文明とエジプト文明に挟まれた地にいて、いつの時代もその2つの大きな力に悩まされてきました。当初、メソポタミアの主力は「アッシリア」という国でした。しかしカルデア人がアッシリアに反旗を翻して古代の帝国「バビロニア」を復興させたことをきっかけに、アッシリアは滅亡の道を辿ります。エレミヤの時代は、そのバビロニア復興の時代です。そこには、バビロニアの脅威に不安を覚える人々の姿がありました。

    神はエレミヤに言葉を託します。それは「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるため」(1:10)の言葉でした。前半の4つの連なった否定句は「古き世界の決定的な終わり」を、後半の2つの言葉は「徹底的に新しい世界の始まり」を意味します(左近豊『エレミヤ書を読もう』)。古き世界は、〈強さを競い、互いに奪い合い、暴力と憎しみを連鎖させる世界〉です。この世界との訣別のために、〈バビロニアに降伏せよ〉とエレミヤは語ります。それは大きな痛みを伴いますが、しかし未来を拓くための言葉であったのです。「戦いの放棄」を示すエレミヤの言葉は受け入れがたく、人々はエレミヤを退けます。しかし、そこで人々が真に退けたものは「神の言葉」であり、命の道でした。この人々の物語が、私たちに問いを投げかけてきます。(牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生131番「イエスのみことばは」   


 (2024年9月29日の週報より)    

若者と共に歩む教会の祈り

ヨハネによる福音書15章1~5節

「わたしにつながっていなさい。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
   「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」

   聖書のみ言葉から受ける平安、日々を生きる力を若い世代にも受け取ってほしい、教会を自分の居場所としその輪を広げてほしいと願いますが、日本にある教会の多くが若者の減少という事態に直面しています。

   イエスさまがご自分と私たちをたとえられたぶどうの特徴の一つは、強い酸味。聖書の時代、戦地に出ていくローマの兵士はぶどう酒を携行しました。行く先の水が飲めるかどうか怪しい時、酸味の強いぶどう酒を水に混ぜ、しばらく置いて水の中の菌が死滅するのを待って飲んだといいます。ぶどうは生死に関わる水を清める薬でもあったのです。水だけでなく、どんな言葉を心に取り入れるかも人の生死を左右する大きな問題です。

   現在の中学生~30才ぐらいの「Z世代」と呼ばれる若者たちは、「生まれたときから低成長時代・超高齢化社会であり、将来の重荷を悲観的に意識している世代」(野村総合研究所)と言われます。いつの時代にも人を悩ませてきたルッキズム(容姿外見によって評価・判断されること)、成績・能力、親子や友人との関係や進路選択の悩みはもちろん、日本社会の変化への対応と維持に係る「重荷」や準備は前の世代よりも大きくなり、近年大型化している災害、終結の兆しが見えない戦争やカルトへの不安、SNSの誤用による混乱と悲しみが彼らの心にあることを中高での関りの中、見聞きしてきました。 

   人間の価値を尊ばない言葉や事件が相次ぐ社会・時代の中、若者と共に歩むことを願う教会はどう迎え、み言葉を届け、関わるのでしょう?あなたが教会・聖書とつながるきっかけとなったのはだれ、また何でしたか?今を共に生きる若者を思って、何を祈りましょうか?  (西南学院中高宗教部長 坂東資朗)

 
応答讃美歌:新生363番「キリスト 教会の主よ」  


 (2024年9月22日の週報より)   

赦しという奇跡-“いつの日か”を目指す旅路-

創世記45章1~5節

45章はヨセフ物語のクライマックスで、ヨセフと兄たちが再会し、涙ながらに喜ぶ場面(45:15)が描かれます。ここまでの道のりは単純ではありませんでした。もともとヨセフは兄たちから恨まれていて(37:5)、エジプトへ奴隷として売られてしまいます。その後、不思議な導きの中で、ヨセフはエジプトで高い地位を得ることになり、この地域一帯を襲う大飢饉への対応を任されることになります(41:47以下)。飢饉への対応が自らの使命であり、そのために自分がエジプトへ導かれたことをヨセフは知り、責任をもってその働きを担います。それはヨセフにとって名誉なことであり、やりがいもあったでしょう。しかし同時に、ヨセフにとってエジプトは「悩みの地」(41:52)であり、苦労を積み重ねた場所でもありました。その発端となる「身売り」をした兄たちに対して、ヨセフは複雑な思いを抱えていたと思われます。

   当初、ヨセフは兄たちに自分の身を明かさずに権力者として振る舞い、兄たちを困らせる行動をします。試し行動のようなヨセフの言動には、兄たちを赦しきれない思いが見えてきます。しかし、ヨセフを売ったことを悔やむ兄たちの姿を前にして、ヨセフは泣きながら身を明かします(45:1)。

   ヨセフは「今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」(45:5)と「赦し」を口にします。それは、ヨセフが自らの良心を振り絞って出した言葉ではなく、ヨセフの中からあふれるように出てきた言葉でした。「赦し」は過失を犯した兄たちだけでなく、「赦せない」という思いを抱えるヨセフをも解放する奇跡のような出来事として、ここに見えてきます。

   ヨセフは自らに与えられた使命のことだけではなく、家族との和解に辿り着けたことも含めて、「神がこの日まで導いてくださった!」と喜びます。ヨセフ物語は多くの悲劇を通りながらも、「この日に辿り着けた!」と喜べる和解の日へと導かれる神の存在を私たちに伝えるのです。    (牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生464番「主が来られて呼んでおられる」   


 (2024年9月15日の週報より)  
 

イエスにある命のつながり

テサロニケの信徒への手紙一5章10節

死に際して「永眠」という言葉が使われることがあります。「死」を「眠り」と結び合わせることで「安らぎ」や「休息」のイメージが連想されます。そうすることで、死に別れた方々の命が安らぎの中にあると信じることができ、慰めを得ることができます。聖書の中にも、「死」を「眠り」と表現する箇所は多く存在します。テサロニケの信徒への手紙はまさにそうです。しかし、そうでありながら、聖書の持つ「死」の理解は「永遠の眠り」とは異なるものです。

   「永遠の眠り」とは「目覚め」がなくなることであり、そこには「続き」がなく、また「交わり」もありません。死の悲しみは「続き」と「交わり」の喪失にあると思います。親しく声を交わし合い、共に歩んできた日々が「死」を境にして途絶えます。確かにあったはずの「命のつながり」が断たれるような、その痛みが死の悲しみであると思うのです。「永眠」という言葉は、「命のつながりの終わり」を告げます。それはそれで誠実な「死」の捉え方です。しかし聖書の言葉に照らされる時、イエス・キリストに目を向ける時、「永眠」とは違う未来を死の向こう側に見出すのです。

   キリスト教は「召天」という言葉を使います。「天」とは単純に「空」を指すだけではなく、「神の領域」を指します。「召天」という言葉には、〈死に別れた命たちが、どこかへ消えてなくなったのではなく「神のおられる場所」へ行ったのだ〉という信仰が宿っています。そして、〈神は死の向こう側にあってなお共にいてくださる方だ〉という希望がそこにあります。死においても、この神との交わりは絶たれることなく、この神との交わりにおいて「命の続き」が描かれます。この神が、死者たちの傍らにおられ、同時に、私たちの傍らにおられます。この神とのつながりにおいて、死者たちと私たちのつながりもまた生きているのです。

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。(牧師 原田賢)

応答讃美歌:新生554番「イエスに導かれ」   


 (2024年9月8日の週報より)  

神の前で、人間らしく。

創世記39章2~15節

創世記39章は、「ヨセフの誠実さ」が際立つ箇所だと言えます。ポティファルの妻から迫られた時、〈その誘いに乗ることはポティファルの信頼を壊すことであり、神に対する罪だ〉とヨセフは言います(9節)。ヨセフにとって、〈ポティファルとの関係の中でどう行動するか〉という問題と、〈神の前にどう生きるか〉という問題は直結した事柄だったのです。ヨセフは自分の置かれた状況の中で、神の前に生きる者として誠実であろうとします。そのヨセフの生き方が、ポティファルとヨセフの間に信頼関係を生み出していたのです。

   しかし、この信頼関係を壊す「誘惑」が迫ります。ポティファルの妻は、虚偽の告発をしてヨセフを投獄します。ここでのやり取りにヨセフを弁護する言葉はありません。その一方的な投獄を可能とした背景には、「ヘブライ人=よそ者」に対する差別意識が見えてきます。〈よそ者は信頼できないから排除すべきだ〉という彼女の論理は、世界中で使われ、歴史の中で繰り返されてきた暴力を呼び出す論理です。ヨセフとポティファルの信頼関係の破壊へと導くものこそが「誘惑」の本質だったのではないでしょうか。

   投獄された後、「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれた」(21節)と語られます。ここにまた新たな「信頼関係」が生み出されます。ポティファルとヨセフの関係・監守長とヨセフの関係は、民族的に言えば「よそ者同士の関係」です。しかし、彼らは「信頼」で関係を結ぶことができたのです。〈異なる者同士でありながら共に生きることができる〉、ここにこそ聖書が志す「人間らしさ」があると思います。

   そこに「恵みを施した神」がおられたことを聖書は示します。〈恵みを受ける〉とは、ご利益を得ることではなく、本当の意味で人間らしい生き方へと招かれることです。あの「誘惑の論理」に抗って神の前に誠実であろうとする、その生き方へと、「恵みの神」は私たちを招くのです。    (牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生496番「命のもとなる」   


(2024年9月1日の週報より)    
 

“見えざる神”の物語

創世記37章1~11節

創世記37章から、12人兄弟の11番目ヨセフを主役とする物語が始まります。父ヤコブは他のどの息子よりもヨセフを可愛がり、兄たちはそのことによってヨセフを憎むことになります。

   ある時、ヨセフは「夢」を見ます。それは、〈兄たちが自分にひれ伏す〉という夢でした。この夢の内容を聞いた兄たちは怒り、ヨセフに対する憎しみは深くなっていきます。増幅された憎しみが兄たちを駆り立て、ヨセフに襲いかかります。ヨセフは捕えられ、奴隷としてエジプトに売られることになるのです。

   ヨセフは孤独になり、父は慰めを拒むほどに悲しみます。そして兄たちも、〈ここまでする必要はなかった〉と後悔することになります。憎しみに動かされるままに暴力を振るっても、後に残るのは「傷」です。問題そのものは、解決しないのです。そして憎しみは、「ブレーキ」を壊します。憎しみに支配される時、「傷」が生まれると分かっていても、そこに「解決がない」と分かっていても、止まれなくなってしまうのです。ここに憎しみの恐ろしさがあるように思えます。

   ただ傷だけを残して、37章は終わります。しかし、ここがヨセフ物語の始まりです。憎しみの勝利が描かれたように見えるこの場所から、神の物語は紡がれます。「傷」を持つヨセフ・ヤコブ・兄たちの「続き」が、この先に待っています。この場面で神は姿を見せず、何も語りません。しかし、それは「神の不在」を意味しません。ヨセフ物語は、〈その姿が見えず、その言葉が聴こえなくとも、神はおられる〉と、私たちに伝えようとしています。この“見えざる神”が、憎しみに覆われた場所に「続き」を与えます。この“見えざる神”が、傷だらけの世界を未来へと導きます。〈この神があなたと共におられるから、悲しみを抱えながらでも、希望が見えない日でも、どうか生きて欲しい〉と、聖書は私たちに語りかけようとしているのです。   (牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生483番「主と共に歩む」  


(2024年8月25日の週報より)   

原点回帰の場ベテル

創世記35115

20年ぶりに兄エサウと再会したヤコブは、エドムの地セイルへと導こうとするエサウの誘いに応じず、別の地に生活の基盤を据えます。それは、ヤコブの懐疑心ゆえの行動というよりも、「あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい」との神の声に従った選び取りであると考えることができます。

ヤコブは、大きな転機を迎える時に神の介入を受けています。今回も彼の息子たちによる騒動によって窮地に立った時に神の語りかけを受け、ベテルへと向かいます。ベテルこそがかつて神が「この地に連れ帰る」と語られた地です。その際に異教崇拝につながるものをすべて埋めます。それは神への忠誠を・ヤコブの信仰を・神の民としての再出発の意思を表していると言えるでしょう。

この創世記には、ルズという町をベテルに改名したという記事が複数あります(28:19,35:7,15)。三資料説をもとに[それぞれ異なった伝承に基づいて記されたせいである]と説明することもできますが、それ以上に、ヤコブにとってこの「ベテル」が大きな意味を持つものであったことを物語っていると言えるのではないでしょうか。「ベテル」は、ヤコブにとって、信仰の出発点であり、再出発の地、そしてまたいつも戻ってくるべき所、つまり原点回帰の場です。そしてそこに帰ってくることが神の御旨であることを教えられます。原点に返る場、そこから再出発する場、そのような所を持っていることは幸いなことです。

私たちにとっての「ベテル」はどこでしょうか。どこに帰ってくることを、どこに「祭壇」を築くことを神は望んでおられるでしょうか。ヤコブは人生の節目節目で「祭壇」を築き、神を礼拝しています。しかし「ベテル」においては神の方から「祭壇を造る」ように命じておられます。これは、神ご自身が「ベテル」での礼拝にヤコブを(そして私たちを)招いておられることを意味しています。繰り返し繰り返し神の恵み・祝福を心に留め、繰り返し繰り返し神を礼拝する、そのような「ベテル」をしっかりと自分の中に築いてゆきましょう。 (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生623番「時は満ちて」 


(2024年8月18日の週報より)   

エサウとの再会

創世記33章1~20節

20年ぶりに兄弟や親に会うことができるという故郷への帰還は、普通であれば喜びであり、胸はずむ旅ですが、この時のヤコブには喜びではなく、不安と恐れが充満しています。原因は20年前に父や兄を欺いて「長子の権利」を奪ったことにあります。

   先にエサウのもとに遣わした使いの者からエサウが「400人のお供を連れてこちらへおいでになる途中」と聞いたとき、ヤコブは自分への復讐のための手勢だと思い込んでしまいます。人間の心は聞いた人の状態によって受け取り方が全く違ってきます。悪い方に解釈し、決めつけてしまうこともしばしばです。ヤコブの場合は、過去の自分の言動という思いたる節があったため尚更です。自分の犯した罪をヤコブ自身が自覚していたことをうかがわせます。

   私たちはここから、罪に時効はないことを教えられます。殺人罪は今でこそ時効がなくなりましたが、詐欺(7年)や強盗(10年)などは公訴時効があります。その年数が過ぎれば起訴できなくなり、処罰されることもありません。しかし罪意識は心の中からは消えないのです。ラバンのもとで過ごしていた20年間は罪に対する恐れは感じなかったかもしれません。しかし、故郷に帰ろうとした時に不安や恐れに襲われてしまいます。同様に、私たちも罪をそのままにしていれば、父なる神のもとに帰るときに平安はありません。

   ヤコブは、エサウに会わずにヘブロンの父イサクのもとに帰ることができたはずです。しかし、エサウとの再会の道を選びました。会うことに大きな不安を抱えつつもその道を進んだとき、赦し(和解)という思いがけない恵みに与ります。10節の「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」は、一方的な憐れみ(恩寵)を感じ取ったことの表明です。この憐れみを体験することが和解や平和へと通じるのではないでしょうか。  (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生552番「わたしが悩むときも」