(2022年8月14日の週報より)    

Peacemakers

マタイによる福音書 5章9節

77回目の「敗戦記念日」を前にした今日、「平和を実現する人々は、幸いである」との主イエスの説教から恵みに与ります。

   主は私たちが「神を愛し、隣人を愛する者となる」ことを望んでおられますが、それはユダヤ教のテーマでもあったものです。ただ、そこでの「隣人」は、ユダヤ人であることはもちろん、律法をきちんと守っている“正しいユダヤ教徒”という非常に狭い概念(枠)でした。主はその“枠”を取り払い、「隣人」を相対化したうえで「敵を愛せよ」「平和を実現せよ」と言われるのです。

   平和は誰しもが願っていることです。しかし、「願う」ことと「実現する」こととは違います。主の言葉は、平和のないところに平和を作り出していくことを私たちに求めておられるものです。主は、私たちの現実(争いの火種を内に持っている私たち、平和を作り出していく力を持たない私たち)を知っておられるお方です。しかし、それを承知の上で、この言葉に立って生きるようにと、私たちに投げかけられるのです。

   「平和を実現する人々」と訳された語は、ギリシア語では「エイレーノポイオイ」という一つの単語ですが、新約聖書にここだけにしか出てこない言葉です。福音書の著者はきっと特別な思いをもってこの言葉を書いたのでしょう。日本語訳では「平和をつくる者」(新改訳)、「平和をつくり出す人々」(口語訳)ですが、英語では「Blessed are the peacemakers」(NKJ)(RSV)と訳されています。

   peacemakerとは「仲裁人、調停者」という意味です。つまり、間に立って争いを収める働きを担うことを主は求めておられるということです。お互いの間に立つこと、それぞれに寄り添うこと、それは決して楽なことではありません。時間もエネルギーも費やします。しかしそのことによって小さな平和が実現したら、それは大きな働きです。peacemakerであるためには、自分の中に「平和」がある必要があります。まずは私たち自身が、キリストの平和をしっかりといただいていることが大切です。そこから平和づくりを始めましょう。  (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌326番「ガリラヤの風」     


(2022年8月7日の週報より)    

主にあって強められ

エフェソの信徒への手紙6章10~20節

信仰を持つことによって、主から与えられる平安を体験しながら生きることができますが、同時に、信仰を持つことによって体験する[戦い]があることも事実です。パウロはこの手紙を書き終えるにあたって、「主の偉大な力によって強くなりなさい」と勧め、そのために必要なことを11節以降で展開しています。

   信仰者が戦う相手は、人間ではありません。「悪の諸霊」「悪魔の策略」との戦いであり、私たちを神から引き離そうとする力(誘惑)との戦いです。パウロは「立つ」という言葉を繰り返し用いています。倒されることがあるという現実がそこにはあります。倒されることがないよう「しっかりと立つ」ために、「神の武具」を身に着けることの大切さをパウロは私たちに語っているのです。

   「神の武具」は、①「真理の帯」、②「正義の胸当て」、③「平和の福音を告げるための履物」、④「信仰の盾」、⑤「救いの兜」、⑥「霊の剣である神の言葉」です。「救いを兜としてかぶる」は直訳では「救いをもたらす兜を受け入れなさい」です。「剣」は攻撃することができる武具ですが、ここでの「剣」は、いけにえの動物を祭壇にささげる準備に用いられる短い剣(ナイフ)です。その「剣」である「神の言葉を取る」とは、「兜」と同じく「受け入れる」という動詞にかかっています。つまり、剣を手に取って相手と戦うこと以上に、自分自身が剣(神の言葉)を受け入れることであり、それが18節の「祈り」とつながっています。御言葉を受け入れ、御言葉によって祈り続けることなのです。

   10節の「偉大な力によって強くなりなさい」は受動形であり、「強くされなさい」です。そしてそのためには「主に依り頼む」ことが求められます。「主に依り頼む」とは「主にある(主の中にいる)」ことです。私たちが聖書を読み、祈り、礼拝をささげる生活をするのは、主にあって強められるためであり、それこそが「しっかりと立つ」ことにつながるのです。 (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌575番「栄えのみ神よ」    


  (2022年7月31日の週報より)   

悪い時代の中で神をほめ歌う人々

エフェソの信徒への手紙5章15~20節

「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい(5:19)」。この一節は、二つの方向性の事柄を一息に語っています。一つは「主に向かって歌う」という方向性で、もう一つは「語り合う」という方向性です。

   この一節は当時の礼拝の様子を物語るものだと言われています。「主に向かって歌う」ことは、礼拝の欠かすことが出来ない要素です。なぜなら賛美は、人間から主へとベクトルが向けられる事柄だからです。御言葉の語り掛けに応じるように人々が賛美を献げる時、主から人間へのベクトルと、人間から主へのベクトルが交差します。主と人間の間に生まれる相互的なやりとりの中で、私たちは主との命のつながりの中に生きていることを体験していくのです。

   この節の「語り合う」というもう一つの方向性は、共に礼拝を献げるために集められた他者の存在を描き出します。賛美の歌によって語り合うこと、それは、賛美の歌の中に響いている主の御業を共に思い起こし、共にほめ歌うことで互いに励まし合うことを意味しているのではないでしょうか。礼拝は一人で献げるものではありません。主をほめ歌う他者の声を通して、自分が一人ではないこと、主を信じて共に歩んでくれる誰かがいること、命のつながりの中に生きていることを知らされていくのです。

   2022年度の主題として、私たちは「つながり合う」ことを大切にすると表明しています。それは一方通行ではなく、相互的に言葉が交わされる関係性を構築し、その中で生きていくことです。主の語りかけと私たちの賛美の言葉が、そして私とあなたとここにいない誰かの声が行き交い命のつながりを映し出していく、まさにつながり合っていく、そのような風景を造り出す教会でありたいのです。命のつながりの中で生きるようにと生み出された私たちから、本来の人間性を奪い取っていく言葉や出来事が多い「悪い時代」だからこそ、主への賛美の中でつながり合って歩んでいきたいのです。(牧師 原田 賢)

 
 応答賛美:新生讃美歌16番「み栄えあれ 愛の神」   


 (2022年7月24日の週報より)   
 

イエスから見えてくる“真理”

エフェソの信徒への手紙4章17~24節

今日の箇所は、「真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません(24節)」と語り、そして「真理」はイエスの内にあると語ります。〈イエスから見えてくる「真理」に基づいた「清さ」とは何か〉、このことが今日の箇所のテーマだと言えるでしょう。

   イエスの時代、「清い」という言葉は「本来のあるべき姿を保っている状態」を意味していました。そして「本来あるべき姿から逸脱している状態」のことを「汚れ」と呼んだのです。当時の人々は、律法をしっかり守って健康に生きていくことが「人間のあるべき姿=清い状態」だと考え、そこから逸脱した生活をしている人々のことを「汚れた者」と呼び、自分たちから遠ざけていきました。自分が綺麗な生活をするために「汚れた者」とのつながりを断ち切っていくこと、これが人々にとっての「清い生活」だったのです。

   人間が創造された時、神は動物や植物などの命に満ちた風景の中に人間を生み出され、「人が独りでいるのは良くない(創2:18)」といって共に生きる者を与えられました。人間はもともと、命のつながりの中に生きるように創造されたのです。様々な理由から「汚れ」の烙印を押し付け、命のつながりから追い出してしまう行動こそ、その人から本来の「人間らしさ」を奪い取り、「汚れた状態」にしてしまうのではないでしょうか。

   イエスは、遠ざけられていた人たちのもとへ向かい、悩みを聞き、言葉を交わし合い、共に食事をし、「この人たちこそ私の家族・私の友だ」と語ります。イエスは人々を命のつながりの中に連れ戻し、「本来のあるべき人間らしさ」を取り戻していったのでした。イエスの周りには、神から命を頂いた「人間」として生きる人々の姿があります。「あなたは大切な一人の人間だ」と言い交わし合いながら、命のつながりの中にある本来の人間らしさを身にまとって生きること、それがイエスから見えてくる「清い生活」なのではないでしょうか。(牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌205番「まぶねの中に」   


 (2022年7月17日の週報より)  

神の豊かさに目が開かれるように

エフェソの信徒への手紙3章14~21節

今日の箇所はエフェソの教会へと向けられた「祈り」です。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり…」。キリストの愛の途方もない巨大さを表現している文章です。キリストの愛は、私たちを全方位から包み込むようにして存在しているものだと言うことが出来ます。

   聖書の語る「愛(アガペー)」は、「相手を好きになること」とは少し意味合いが異なります。むしろ、そのような感情に左右されない「決断」に近いものです。〈好きではないところが見えてこようとも、私はあなたを大切にする。そうすることに決めた!〉。そのような決断が「愛(アガペー)」には込められています。その神の決断、「何はともあれ、あなたが大事!」と呼び掛ける神の声が、私たちを包み込むようにして存在していること、その神の愛を知ることが出来ますようにとの「祈り」が、今日の箇所には綴られています。

   苦難の多い状況を生きる時、どうしても視野が狭くなりますし、「どうにもならない」と疲れ果ててしまうこともあります。福音書を見ると、イエスさまが「空の鳥を見よ、野の花を見よ」と語ったと記されています。目に映る何気ない風景の中に神の御業、神の助けが顕れることがあると示す言葉です。日常の何気ない言葉の交わし合いや些細な出来事の中に、「あなたが大事!」という神の声が鳴り響いているのです。苦しみを抱える日常があるからこそ、そのただ中に与えられている神の助けに、些細な出来事の中に鳴り響く「あなたが大事!」という神の声に、どうか気付くことが出来ますようにと、聖書は今日も、私たちのためにも祈ってくれるのです。

   「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(3:18、19)」            (牧師 原田賢)

 
応答賛美:新生讃美歌424番「祈りの山路を」  


 (2022年7月10日の週報より) 

“間”に立つキリストに目を注ぐ

エフェソの信徒への手紙2章14~22節

キング牧師は語ります。「暴力を暴力で返すことは、暴力を増殖し、星のない夜の闇をさらに深めてしまう。闇に闇を追い払うことはできない。できるのは光のみ。憎しみに憎しみを消し去ることはできない。できるのは愛のみ」。

   キリストは敵意という隔ての壁を取り壊すというあり方で、平和を実現されます。「敵意」とは「誰かを憎む気持ち」です。聖書は憎しみに憎しみを上塗りする道ではなく、憎しみそのものを捨て去る道を私たちに示すのです。そして今日の箇所は「キリストの平和」に向かって生きる教会に向けられた励ましの手紙です。

   この手紙はエフェソの教会に宛てられた手紙です。ユダヤ教からは異端視され、ローマ帝国からは反乱分子としてみなされていた当時のキリスト教の状況から言って、エフェソの教会も「敵意」に囲まれていたと考えられます。現実問題として、敵意を捨て去ることは簡単ではありません。誰かから向けられる敵意と向き合うことはとても大変なことですし、様々な出来事の中で、自分の中に誰かに対する敵意が芽生えて捨てられなくなる時もあるでしょう。おそらくエフェソの教会も多くの困難の中を歩み、疲れを覚えることもあっただろうと思われます。

   そのような教会に向かって、この手紙は「自分の身にすでに起こった平和の御業に目を向けよ」と語りかけます。これは、〈かつては「異邦人」と「ユダヤ人」として、互いにいがみ合っていた自分たちが、今は一つの「教会」として共に生きている〉という現実に目を向けさせる言葉です。敵意を取り壊すキリストの御業が、今、共に祈り合い、励まし合える人々のつながりの中で確かに実現していること、その御業を行われたキリストが、今もあらゆる人々の“間”に立って平和を実現するために戦っておられることを思い起こさせようとしているのです。〈疲れを覚えた時には、今すでに結び合わされたつながりの中で癒されて、今も戦っておられるイエスさまに勇気と力を頂いて、そこからまたキリストの平和に向かって歩み出せばよい〉という励ましが語られているのです。(牧師 原田 賢)
 

応答賛美:新生讃美歌481番「迷い多きこの世」   


(2022年7月3日の週報より) 

二人の礼拝者

ルカによる福音書13章10~17節

安息日にイエスさまは群衆を教えるために、ある会堂に行かれます。その会堂の隅っこには自分の存在に自信を持てずにいるある女性がいました。その人は18年もの長い間ずっと病の霊に取り憑かれ、苦しんでいた人でした。一度も腰を伸ばしたことがない体は思うように歩くこともできず、大きな動きが少しあるだけで激痛が走る、このような恐ろしい病気を彼女は持っていたということです。このような状況の中にいる女性が果たしてどこかの共同体、今日の本文によると「会堂」にいくことが果たして日常的だったでしょうか。おそらく、他者の一人に会うことも、もっと言えば自分の家族にも会うことすらも難しかったと思われます。そのような彼女が会堂に来たのです。その中で、会堂に向かう彼女の足を止めようとしたあらゆる妨害あっただろうと思われます。しかし、彼女は「来た」のです。この箇所でわかることは、この女性は人に会うために会堂に来たのではなく、「神さま」に会うために会堂に来たということです。ここに彼女の礼拝の姿が見られます。

  反対にもう一人の礼拝者の姿が本文では確認されます。それは「会堂長」です。この人は安息日の真の意味を誤って理解している人でした。自分が持っている固定観念、固定信仰理解のゆえに他者を非難し、差別する姿です。残念ながら今日の教会の中でもこのように神さまが与えてくださった愛の共同体の中で、お互いを非難し、理解しようとしない状況が続いています。そしてそれは信仰の違いによって教会分裂が起こってしまうこともあります。

  このような共同体が神さまの目にはどのように写るでしょうか。自分の中の「律法」が何よりも大切になり、そのことによって神さまが見えなくなってしまうことはとても危険なことです。私たちが何ゆえにこの教会に集まっているのかを改めて共に考える必要があるのではないでしょうか。 (神学生 吉田イエラム)

 
応答賛美:新生讃美歌357番「この日は主が造られた」  


 (2022年6月26日の週報より)

つながり合う信仰共同体

コロサイの信徒への手紙4章2~6節

この箇所にある五つの命令形動詞に着目したいと思います。

   ①「ひたすら祈りなさい」(2節)は、「祈りに専心しなさい」「祈りを用意されているようにしなさい」とも訳されます。これは、心の中にいつも祈りがあるということではないでしょうか。様々なものが心を満たしている中で、それらを排除しようとするのではなく、これらを祈りと直結するとき、心は神に向かいます。

   ②「目を覚ましていなさい」(2節)がその直後に置かれています(ギリシア語聖書では)。毎日、御言葉に接し、祈り、神との生きた交わりをなしていくこと、また、祈りを妨げるような誘惑に打ち勝って祈り続けること、などがその内容と考えることができます。

   ③「時をよく用い」(5節)は「時を買い戻しなさい」、④「賢くふるまいなさい」(5節)は「知恵によって歩きなさい」と訳せます。「時」を神のものとして活用する」「御業のために活かして用いる」ということでしょうか。

   ⑤最後に目を向けたい命令形の動詞は、「わたしたちのためにも祈ってください」(3節)というパウロの言葉です。一見、「お願い」「願望」として受け止めてしまいそうですが、命令形で書かれています。つまり「わたしたちのためにも祈りなさい」とパウロは言っているのです。これは上から目線で命じているのではなく、パウロの切実な思いが込められた表現だと言えるでしょう。祈りの重要性がひしひしと伝わってきます。

   ここには「祈りでつながり合う信仰者(教会)の姿が描かれています。教会は、祈り合う者の群れです。そしてその群れがさらにつながり合うために「日本バプテスト連盟」や「地方連合」を結成して、共に祈りを合わせ、共に力を合わせてて協力伝道を行っているのです。今日の午後に行われる原田賢牧師就任按手式も、喜びを共有し、「つながり合う信仰共同体」であることを再認識し、新たな思いをもって協力伝道にいそしむためです。    (牧師 末松隆夫)

 
応答賛美:新生讃美歌424番「祈りの山路を」