(2025年5月11日の週報より)    

仕上げは肉?

ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~3章6節

先週に引き続き、今日の箇所にもドキッとするような発言があります。そのひとつが「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」(2:15)です。差別的発言です。しかしこれはパウロの思いではなく、律法に生きているユダヤ人の声を取り上げていると言えます。

   その直後に「人は律法を実行することによっては義とされない」と語ります。ここにパウロの思いがあります。律法の行いによって義(神と正しい関係にあること)とされないのは、律法を100%実行することができないからです。人が義とされるのは、律法を行うことによってではなく、イエス(十字架の贖い)を信じる信仰によって可能になるという、いわゆる[信仰義認論]をパウロは熱く語ります。この神からの一方的な恵みが、信仰の土台であり福音の中心だからです。3章でもそのことを展開しますが、そこにもドキッとする言葉が書かれています。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(3:1)という呼びかけです。

   「物分かりの悪い」と訳されたギリシア語の直訳は「愚かな」です。聖書の中で「愚かな者」として取り上げられるのは、①神の存在を否定する者(詩編14:1)、②永遠の視野を持って人生を考えようとしない者(ルカ12:16~)などですが、ガラテヤの人たちはそのいずれでもありません。しかし「愚かな者」と呼ばれます。それは、「”霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようと」(3:3)しているからです。つまり、聖霊の導きによって信仰生活を始めたのに、人間的な力(自分の行い)によって救いを完成させようとしていることを、パウロは「愚かだ」と叱責するのです。

   私たちの心にも同じようなことが起こることがあります。何かをすることによってご褒美を得るという思いから脱却できないからです。そうではなく、神の一方的な恵みを受け入れる(信じる)ことで救われ、行いは〈救われた者としての応答〉であることを忘れないようにしましょう 。   (牧師 末松隆夫)

 
 応答讃美歌:新生519番「信仰こそ旅路を」 


 (2025年5月4日の週報より)     

パウロって恐い人?

ガラテヤの信徒への手紙 1章1~12節

ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立された教会でした。けれどもパウロが離れたあと、パウロの信仰理解とはかけ離れた人たち(論敵)によって教会の人たちはパウロが宣べ伝えた「福音」から離れてしまったようです。そんな人たちに今一度「福音」に立ち返るように送られたのがこの手紙です。

   手紙にはパウロの「使徒」としての働きに触れられている箇所があります。12使徒でなく、イエスと寝食を共にしておらず、かつてキリスト者を迫害していたパウロの〈使徒としての資格〉を論敵は否定していたのでしょう。そこでまず神によって使徒とされたことを明らかにし、ガラテヤの人たちとの信頼関係を再構築するところから始めています。信頼関係のないところでは、どんなことを伝えても相手の心には響かないからです。

   それなのに手紙の本文でいきなり「あきれ果てている]とか「呪われるがよい」とか、このようなことを書いて大丈夫だろうかと心配になるほど過激な言葉を綴っています。はじめて聖書を読む人にとって[パウロって恐い人だ]というイメージを持たれてしまいそうです。[呪われるがよいと訳された言葉は…神の裁きに委ねるという意味]という『聖書教育』誌の説明に少しホッとするものを感じますが、それでも強い言葉には変わりありません。

   それは〈パウロの恐さ〉ではなく、〈パウロの熱さ〉と理解すべきでしょう。また、屈託のないストレートな言葉を書き送ることができるということは、パウロとガラテヤの人たちとの関係は完全に壊れてはいないことを物語っています。

   [キリストの愛に(福音に)立ち返ってもらいたい]というほとばしる思いが、厳しい表現になっていることをかみしめながら、ローマ書とともにマルティン・ルターの宗教改革の土台になったこの手紙を、私たちも自分自身の宗教改革の土台として、この手紙が発する「福音」に与っていきましょう。(牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生455番「われに来よと主はいま」    


 (2025年4月27日の週報より)    

先立ち共におられるイエス

マタイによる福音書28章16~20節

約束どおり、弟子たちは復活されたイエスとガリラヤで会います。その時彼らは「ひれ伏した」とあります。これは「礼拝した」ということです。その弟子たちについて聖書は「疑う者もいた」と書き添えています。これが婦人から復活の話を聞いたときであったのなら疑う者がいても不思議なことではありません。ヨハネでは弟子仲間の証言を信じることができなかったトマスのことが紹介されています。当時、証人としての資格がなかった女性の証言であれば尚更のことです。しかし、彼らは復活されたイエスと対面し、礼拝を献げている状況下で尚信じることができず疑う者がいたというのですから驚きです。

   「疑う者もいた」の直訳は「彼らは疑った」です。もしかしたら、11人の中の誰かというのではなく、ひれ伏して礼拝をしていながら、その全員がいくばくかの疑いを抱いていたと解釈することもできます。信仰と不信仰が混在しているような者たちが礼拝へと招かれているのです。しかしそれが私たちの姿なのかもしれません。

   そのような弟子たちに対して、イエスは使命を託されます。ここに復活のイエスによる新たな派遣をみることができます。その内容は伝道と教育です。これまでの弟子たちは聞く側にいました。それがここで「教える」ために遣わされるのです。信仰と不信仰が入り交じったような者が伝道のために・教育のために用いられるのです。どこかホッとするものを感じます。

   このイエスによる派遣の根底に「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)という宣言(約束)があります。この約束があってこそ弟子たちは出て行くことができます。それは「共に」おられるイエスであるだけでなく、「あなたがたより先に行き」「先で待っておられる」イエスであることも心に留めましょう。共に歩まれるイエスは、私たちが経験したことも歩んだこともない一歩先に行かれ、待っておられるお方でもあるのです。(牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生310番「主イエスよ われと」   


 (2025年4月20日の週報より)     

「大きな喜び~イエスとの関係の回復~」

マタイによる福音書28章1~10節

イースターという日は、イエスが復活された日であり、それはとても大きな喜びの出来事でした。しかし、その前に、大きな悲しみがありました。それはイエスが十字架につけられて殺されてしまったということです。

   日曜日の朝、婦人たちは「墓」に向かいます。「墓」は死者を葬る場所であり、生きている者と死んだ者とを隔てるもの、関わりを遮断するものです。「墓」の入口には「大きな石」が置かれ、「封印」され「番兵」が配置されました。イエスを十字架につけた者たちが手段の限りを尽くしてイエスを「闇」に葬り、これで物語は終わるはずでした。しかし、それで終わらなかったのです。ここに単なる「伝記」と「福音書」の違いがあります。

   「墓」に向かった婦人たちは、イエスに香油を塗ることを願ってはいましたが、現実には不可能な状況だと理解しています。たとえ無駄に終わったとしてもイエスのために何かしたいという熱い思いが婦人たちを突き動かしています。そして自分にできる一歩を踏み出したとき驚くべき光景を目にし、大きな喜びへと導かれます。

   天使の言葉を受けた婦人たちが、恐れや戸惑いを抱きつつも「大いに喜び」走り出したとき、復活のイエスが弟子たちより先に婦人たちにご自身を現わされました。死で終わったはずのイエスとの関係が回復したことを、身をもって感じた瞬間だったことでしょう。

   私たちも、「福音」に触れたとき「恐れながらも大いに喜び」走り出す者でありたいものです。復活のイエスによる関係の回復は、現代の私たちにも通じるものなのですから! (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生407番「主と共に」    


 (2025年4月13日の週報より)    
 

しかし、イエスはそこにいる

マタイによる福音書27章39~43節

マタイ27章は十字架の場面を描きます。十字架に架けられたイエスに、人々からの侮辱の言葉が届きます。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』」(27:39~43)。目の前で血を流し、磔にされている人に対し、なおもこうした侮辱の言葉をぶつけるという、非常に残酷な場面が描かれています。

   かつて十字架は裁判の判決によってなされる「刑罰」でした。ここに、大きな問題を感じます。受刑者は国の兵士たちから鞭で打たれ、棒で殴られ、見世物として十字架に架けられ、侮辱の言葉を浴びせかけられながら、長い時間をかけて死に追いやられます。この残酷な行為が、国によって認められた「正義」とされます。この正義でコーティングされた暴力が、理不尽に人々を傷つけ、その生活を壊していくのです。国家的暴力としての十字架刑を思うとき、それを生み出し、認めてきてしまった人間の愚かさを思わずにはいられません。

   この暴力の現場にイエスがおられたと、聖書は証言します。そしてそのイエスは、そこで自らの流される「血」の中に「赦し」を見出すように、と言葉を残しました(26:28)。その「赦し」は、過ちをなかったことにするものではありません。人間の愚かさを映し出す十字架と、その犠牲となって血を流されたイエスは、〔こんなことをくり返してはいけない〕という訴えと、〔もう一度、生きなおして欲しい〕という期待を私たちに語りかけるのです。(牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生205番「まぶねの中に」   


 (2025年4月6日の週報より)   

祈り‐苦しみの中で希望を見出すために‐

マタイによる福音書26章45~47節

ジョン・キーツというイギリスの詩人の言葉に「ネガティブ・ケイパビリティ」というものがあります。これは、「不確実な状況に耐える力」を意味します。あらゆる技術が発展し、便利になった現代の中で、改めてこの言葉が注目されています。焦って答えを出さずに問いの中に留まり、考え続ける力を持つ重要性が、医療や介護、教育など多くの分野で語られ始めています。

   「不確実な状況」「問いの中」という場に留まることは簡単ではありません。それはいわば「暗闇」の中にいるようなものであり、先行きが見えず、不安に満ちていて、可能な限り早く立ち去りたくなります。しかし聖書は、暗闇とも言える場所に神の現実が現れることを示します。だからこそ、聖書は私たちに「答え」を提供する以上に「問い」を与えます。そして、そこにおられる神のもとへと導こうとするのです。

   十字架の出来事の直前、イエスは弟子たちに「目を覚まして祈っていなさい」(41節)と命じます。ところが弟子たちは眠り続けてしまいます。神学者ユルゲン・モルトマンは「目ざめていることは危険に気付き、祈ることは、神の助けを創る」(『終わりの中に、始まりが』)と語ります。眠る弟子たちは迫り来る危険に気付くことができません。そして、無情にも「裏切る者」(46節)が彼らのもとに来てしまいます。この場面は私たちに問いかけてきます。私たちの人生には、〔眠るわけにはいかない瞬間〕というものがあります。その目覚めなければならない時に、私たちはちゃんと目覚めているでしょうか。

   眠り続ける弟子たちとは対照的に、祈り続けるイエスの姿をマタイは語ります。迫り来る危険を前にして、その苦難の中に実現しようとしている神の御心をイエスは求めて祈ります。そのイエスの姿は、大きな苦難の中で目を覚ましているための信仰を私たちに語ります。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生435番「山辺に向かいてわれ」    


 (2025年3月30日の週報より)   

“終わり”を思い、“今”を生きる

マタイによる福音書25章31~40節

2024年度の最後の礼拝です。この1年間も様々なことがありました。嬉しいことも、反省させられることもありました。しかし、何はともあれ、2024年度は終わります。どのような時も、過ぎ去ってしまうと取り戻すことはできません。そのような “終わり”を思うとき、取り戻すことのできない“今”がどれだけ大切であるかを知らされ、この“今”をどう生きるのかと問われるのです。

   マタイ25章は世界の終わりの場面を描きます。世界中の人々が王(イエス)の前に集められ、審判を受けます。その時、王は、ある人々を祝福してこう言われます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(34~36節)。すると、人々は答えます。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37~38節)。人々は、自らの行いに気付いていません。この後に、王は別のある人々に罰を言い渡しますが、この人々もまた、自らの行いに気付いていません。しかし、その小さな悪や小さな愛を王は見ていたのです。

   この場面が語っている大切な事柄は、〔自分でも気づけないような小さな悪や小さな愛をちゃんと見ておられる方がいる〕、ということではないでしょうか。誰よりもきめ細かく私たちの人生を見つめておられる方の前で人生の総決算をする時、それが “終わり”の時だと聖書は言います。そして、この“終わり”を思いながら、“今”をどう生きるかと聖書は問いかけるのです。 (牧師 原田 賢)

 
  応答讃美歌:新生550番「ひとたびは死にし身も」    


 (2025年3月23日の週報より)   

幸せの在り処

マタイによる福音書23章25~26節

マタイ23章は、イエスが律法学者やファリサイ派の人たちを厳しく批判する箇所です。彼らは宗教的な指導者であり、人々に聖書の言葉を語り聞かせ、人々の人生を正しく導くという大切な役割を負っていました。彼らは“正しい言葉”を人々に語ります。しかし、その彼らの行いは「すべて人に見せるためである」(5節)と、イエスは言います。表面上の“正しさ”ではなく、内面にある動機や思いを問題にしているのです。自らの正しさを誇示し、“自分を高めるため”に振舞おうとする指導者たちの姿を、イエスは批判されたのでした。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ」(25節)。

   このイエスの言葉を、私は“誰かを批判するため”ではなく、“自分の内面を問うため”に受け取りたいと思います。表面上は正しいことや大切な事柄があったとしても、その内面には“自分を高めるため”という「強欲」がある、それは他人事ではありません。そのように生きる人々を、イエスさまは「不幸だ」と言います。その言葉の内側には、“どうか考え直してほしい”という嘆きが籠っているのではないでしょうか。

   自分を高めること、自分を綺麗に見せること、多くの人から褒められること、そういったことに「幸せ」を見ようとし、自分のために外側を綺麗にしようと奔走する人々へ、イエスは“そこに幸せはない”と語ります。そして聖書は、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)と、他者のために生きることを教えます。それは、行動の動機を“自分のため”から“他者のため”に入れ替えるようにとの招きです。そして、そこには確かにあなたがたの幸せがあると、聖書は励ますのです。(牧師 原田 賢)

 
  応答讃美歌:新生392番「めぐみのうつわ」   


 (2025年3月16日の週報より)  

ここはあなたの祈りの家

マタイによる福音書21章12~14節

この箇所は「イエスの宮清め」と呼ばれる箇所で、4つの福音書すべてに記載されている出来事です。神殿の境内には、「両替人」や「鳩を売る者」がいました。当時、一般に流通していたローマ貨幣を神殿への献金に用いることができなかったので、献金のために貨幣を両替する必要がありました。「鳩」も献げ物として必要なものと考えられていました。そのため「両替人」や「鳩を売る者」は、表向きは参拝者のためのサービスであったと見ることもできます。しかしその裏の実態は、宗教指導者たちの私腹を肥やすことに繋がっていました。一部の人を豊かにするために搾取のような行いをしていた神殿を、イエスは嘆きます。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(13節)。

   この場所には、「目の見えない人」や「足の不自由な人」がいたと記されています。この部分は4つの福音書の中でもマタイにしか描かれていません。〔ここは祈りの家であるべきだ〕という主張と共に、身体に痛みを抱えた人たちを癒されるイエスの姿をマタイは描き出します。それは、〔ここはこの人たちのための祈りの家だ〕というメッセージを発するためのものかもしれません。

   身体に抱えたハンディキャップは、生まれつきのものとは限りません。特にイエスの時代の人々は、搾取を受けることや過酷な労働を強いられること、不衛生な環境での生活などを余儀なくされていました。そうした中で病気やケガをし、目や手足が不自由になってしまった人々は少なくなかったであろうと思われます。そのような人生の苦労を抱えて歩んできた一人ひとりのための「祈りの家」を、イエスは取り戻そうとされたのでしょう。生きる希望を取り戻すための場所、〔わたしと共に歩まれる神〕を思い起こすための場所、そのような「祈りの家」を取り戻そうと、イエスは語りかけるのです。 (牧師 原田 賢)

 
 応答讃美歌:新生461番「迷い悩みも」   


(2025年3月9日の週報より)  

能力主義を打ち破る神の愛”

マタイによる福音書20章1~16節

本日の「ぶどう園の労働者のたとえ」は、13章のたとえ同様に「天の国」(神とのつながり)のたとえとして語られており、「主人」は神であり、「労働者」は私たちのことだと受け止めることができます。そして「ぶどうの収穫」は、〈人生〉とも、主人のための働きであることから〈伝道や奉仕をはじめとした教会生活〉とも理解することができるでしょう。

   たとえでは、早朝から仕事に就いた人を筆頭に、9時、12時、15時、そして日没間近の17時に主人から声をかけられた5つのグループが存在します。具体的な賃金の提示は早朝の人だけになされており、1デナリオンという適切な金額です。それ自体は何の問題もありません。ところが、日当の支払いの時に、17時過ぎに仕事に就いた人たちに1デナリオン支払われたことから(そして早朝からの人にも1デナリオンであったことから)不満の声があがります。この世の物差しで測れば当然な反応だと言えるでしょう。

   しかし、視点を変えて、見えない部分に目を向けるとどうでしょうか。早朝から働いた人に比べて1時間程度しか働いていない人の肉体的な疲れは少なかったはずです。けれども、彼は1時間しか働かなかったのではありません。雇われなかったために働けなかったのです。仕事を待ち続けて一日が終わろうとしている人たちの心の疲れは、決して小さなものではなかったはずです。主人はそこに思いを向けて、同じ賃金を払ったのではないでしょうか。

   「ふさわしい(賃金)」の動詞形は「義とされる」(ローマ3:24)です。つまり、〈救い〉であり〈永遠の命〉です。それは、私たちの能力や働き具合によって決まるものではなく、ぶどう園の主人である神の愛によるものです。神の招きに与る時間(タイミング)は人それぞれに違います。けれども、神は「ふさわしい賃金」を一人ひとりのために準備しておられるのです。  (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生431番「いつくしみ深き」