(2024年12月8日の週報より)  
 

ヨセフの決断~インマヌエルの恵みに生きる~

マタイによる福音書1章22~25節

婚約者であるマリアが身ごもっていることを知ったヨセフが離縁することを決心する中、天使が夢に現れ、「恐れずマリアを迎え入れなさい」と語ります。

  心理学者のC・G・ユングは[夢とは無意識の状況が象徴的な表現形式で自発的に自己表現したもの]、つまり、その人の心の奥深くにある意識と繋がっていると述べています。しかし、この「夢」は、私たちが日常的に見る夢と同じものではないように思われます。聖書における「夢」は、神が人に対してご自身を現される場として描かれています。直接ヨセフに語られたとしても「夢」としか説明しようがなかったのではないでしょうか。

  「夢」で語られた内容は、ヨセフの決断とは正反対でした。ヨセフはそれを断ることもできたでしょう。しかし、語られたとおりにすべてを実行しました。「ひそかに縁を切ろう」という初めの決心は人間的な思いからの決心でした。それに対して「マリアを迎え入れる」という決心は信仰による決心です。神の言葉を信じてそれに従う信仰の決断と行動によって、クリスマスは実現します。

  マタイは、このヨセフの決断によって旧約の預言が実現したと記します。ただ、23節とイザヤ書7章14節とでは内容が異なります。イザヤ書では「インマヌエル」と呼ぶ主体が三人称単数・女性形(彼女)であり、マタイでは三人称複数形(彼ら)です。マタイは「その名はインマヌエル」と呼ぶ主体に、ヨセフも加えているのです。そしてさらに「この名は『神我らと共にいます』という意味である」と注釈することを通して、二人に限定されたことではなく、神が「私たち」と共にいてくださる目に見える約束として、このクリスマスの出来事が起こったということを、信仰をもって受け止めたのです。

  旧約から新約まで一貫して「わたしはあなたと共にいる」と神は語りかけます。聖書が示す神はまさに「インマヌエル」なる神なのです。 (牧師 末松隆夫)

応答讃美歌:新生154番「生けるものすべて」    


 (2024年12月1日の週報より)  

ヨセフの決断~クリスマスの危機~

マタイによる福音書1章18~21節

イエス・キリストの誕生というクリスマス物語において、重要な役割を担う人物でありながら、一言も言葉を発しない人がいます。それが今日の中心人物であるヨセフです。クリスマスは神の介入によって起こった出来事ですが、そこに人の決断も大きく関わっています。ヨセフの決断次第で、クリスマスはなかったかもしれないのです。

   マタイは福音書の冒頭でアブラハムからイエスに至る系図を紹介し、18節から「イエス・キリストの誕生の次第」を記しています。一見、18節から全く新しく第二幕が始まるような感じですが、ギリシア語原文には「デ(δε)」という接続詞がついています。「さて」とも「しかし」とも訳される語です。「しかし」と訳すならば、17節まで語られてきたことを受けて、前に述べた事柄と相反する内容がこれから述べられるということになります。17節までの系図はごく自然な誕生であったのに対して、イエス・キリストの誕生はそうではなかったことを「デ」という接続詞は強調し、その内容が18節以降で展開されていると言えるでしょう。そしてそれが婚約者のマリアが「聖霊によってみごもっている」ということだったのです。「婚約中」の妊娠も、「聖霊」による妊娠も、ヨセフにとって受け入れがたいものでした。大いに悩んだことでしょう。

   ヨセフの決断は「ひそかに縁を切る」(離縁する)というものでした。それがたとえマリアのことを思ってのことだとしても、彼の決心はマリアを厳しい世界に放り出すことになります。まさにクリスマスの危機です。

   ヨセフはその決心を即座に実行せず、思い巡らします。その時に、彼は主の声を聞き、新たな決断へと導かれています。私たちも様々な葛藤の中で苦悶する時や、自分なりの決心を実行できずに悶々とする時があります。そういう時にこそ、主の声は私たちの心に語りかけられるのではないでしょうか。そしてその時こそが、神の御旨に生きるチャンスなのです。  (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生153番「エッサイの根より生い出でたる」   


 (2024年11月24日の週報より) 

祝福はここから

ヨハネによる福音書6章1~13節

今日から世界バプテスト祈祷週間が始まります。バプテストの群れが心を合わせて、世界各地で労する主の働き人、苦闘する友を覚えて祈り、真心から捧げるこの季節は、私たちが初心に帰る時でもあります。日常に忙殺され閉じてしまった心の窓を大きく開く時、それが世界バプテスト祈祷週間です。「あなたの隣人は誰か?神の平和を作り出す者は誰か?」、静まって主イエスの問いかけに耳を傾けましょう。

   世界バプテスト祈祷週間はアメリカ南部バプテスト連盟の宣教師ロティ・ムーンの祈りから始まりました。1873年、ロティは33歳で単身中国の伝道に赴き、主に農村で神の愛を伝え、貧しい人々に長年仕えました。大飢饉のただ中で、ロティは極度の栄養失調に倒れ帰国の途につきます。けれども寄港した神戸の船内で、愛する中国の友の名を呼びながら天に召されました。1912年12月24日、ロティ・ムーン72年の生涯でした。

   彼女の墓碑には次の言葉が刻まれています。「死に至るまで忠実なる者」。南部バプテストの女性たちは、このような悲しいことが二度とないようにと、ロティ・ムーン・クリスマス献金の運動を起こしたのです。日本でも1931年からこの働きに連なっています。今年で94年目の世界バプテスト祈祷週間を守ります。

   ヨハネによる福音書6章は、有名な主イエスの奇跡物語です。主イエスを追いかけて来た5000人の男性と、多くの女性や子どもの空腹を満たすだけの食料は、常識的に調達できるわけがありません。ところが、弟子アンデレが一人の少年を主のみ前に連れてきたところから不思議なことが始まるのです。アンデレの小さな行為と、名もない一人の少年が差し出した弁当から、主は驚くべき奇跡を起こされたのです。僅かな捧げものが歴史に残る「奇跡の素材」となったのです。主のみ前にまず真心からの「奇跡の素材」を差し出す、祝福のみ業はここから始まるのです。             (久留米教会 踊 純子)

 
応答讃美歌:新生362番「主のみ名を伝えん ハレルヤ」    


(2024年11月17日の週報より)   
 

希望の対話-福音を語る神と戸惑いを祈る私-

エレミヤ書32章6~9節、24~25節

神はバビロン捕囚直前の状況にあって、「アナトトの畑を買うように」とエレミヤに命じます。「アナトト」はエルサレムの北に位置する場所で、進軍する軍隊の通り道でした。踏みにじられていく土地を購入するようにとの命令は、エレミヤを戸惑わせます。その命令には、捕囚後の未来を約束する福音が宿っています(32:15)。エレミヤもそのことは承知していますし、それを可能にする神の力を信じています(32:17)。それでもなお、エレミヤは戸惑うのです(32:25)。

   32章は福音を語る神と戸惑いを祈るエレミヤの対話を記します。神の言葉を受けとめきれずにいるエレミヤと、そのエレミヤの戸惑いと向き合い、じっくりと時間をかけて対話してくださる神の姿がここにあります。福音を一方的に宣言して終わるのではなく、それを受け取った人自身が「本当にそうだ」と思えるようになるまで、神は付き合ってくださるのです。こうしたやり取りの中でこそ、神の語る福音が「私の希望」になるのだと思います。

   この神との信頼関係の中で戸惑いや悩みを抱えた自分自身を率直に神の前にさし出すことこそが「祈り」であり、その祈りを聞いてくださる神と共に自らの人生を生きることが「信じる」という営みなのです。

   本筋とはずれますが、この箇所は「土地の保証」に関わるため、現代のイスラエルの問題と絡めて理解されることのある個所です。しかし私は、現代のイスラエル建国を「神の約束の成就」と捉える理解には反対します。1915年「フセイン・マクマホン協定」、1916年「サイクス・ピコ協定」、1917年「バルフォア宣言」などの歴史を踏まえる時、ユダヤ・アラブ両民族を含む中東地域の人々が周辺諸国にどれほど振り回されて来たかを思います。それを思えばこそ、そして聖書の神を信じるからこそ、私たちが求めるべきは「両者の停戦と和解」であり、これ以上、あの大地に血を流さないように努めることだと私は思います。人間の正義を越えた神の義がこの地に来ますように。(牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生550番「ひとたびは死にし身も」    


(2024年11月10日の週報より)    

あなたに目を注ぐ神

エレミヤ書31章33~34節

福音書には、イエスさまが「子ども」を祝福されたことが記されています。イエスさまの時代は典型的な男性中心社会であり、女性や子どもは軽視されていました。この当時の子どもは無視されやすく、傷つきやすい存在であり、「小さくされた者」を象徴する存在だったと言えるでしょう。イエスさまの子どもたちへの祝福は、「無視されていい存在などない」という、すべての命へ向けられた神のメッセージを象徴しています。

   現代の日本社会は、「自分の価値」に対する評価が歪になりやすい社会だと言われます。SNSの中では、自分の発言や表現に対する反応が数字で明確に分かります。その数字が「自分の価値」を評価するための基準になってしまうのです。その影響からか、現代人は承認欲求が高く、自己肯定感が低くなりやすい傾向にあると指摘されます。そこには「承認」のハードルの高さが見えてきます。〈認められるためには多くの人の注目を集めなければならない、今よりも優れた何者かにならなければならない〉といったプレッシャーを感じて苦しんでいる人が少なくないのです。

   聖書は神の愛を語ります。神の愛は、〈何かを成し遂げたから素晴らしい〉というのではなく、〈あなたの存在そのものが尊い〉と語ります。そしてそれは「不特定多数の誰か」に向けられたものではなく、「あなた」に向けられたものです。「人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて小さい者も大きい者もわたしを知るからである」(エレミヤ30:34)という神の言葉は、誰かや何かを介してではなく、一人一人に直接目を注ぐ神を描きます。イエスさまが「子ども」を祝福されたように、神は一人一人に〈あなたの存在そのものが尊い〉と語りかけられるのです。その神の言葉は、この現代にこそ必要な言葉なのではないでしょうか。(牧師 原田 賢)

 
 応答讃美歌:新生16番「み栄えあれ 愛の神」   


(2024年11月3日の週報より)    

傷の癒しについて-再構築を望む神-

エレミヤ書30章17節

エレミヤ書の30章から33章までを「慰めの書」と呼びます。厳しい言葉が語られるエレミヤ書の中で、希望や慰めの言葉が語られる箇所だからです。そうであるからこそ、厳しい言葉を読み飛ばしてこの部分だけを読みたくなってしまいますが、そうしてしまうと「慰めの書」の意味自体も失われてしまうでしょう。エレミヤ書の厳しい言葉と慰めの言葉は一体となって神の愛を語ります。

   「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう」(30:17)と神は語ります。その言葉に続いて、廃墟とされた町を再建する様子が描かれます。一見すると、〈壊れた生活が元に戻っていくこと・失われたものが取り戻されること〉を「傷の癒し」と呼んでいるようにも思えます。しかし、ここで言う「癒し」がただ「元に戻すこと」を意味しているとすると、問題が生じます。なぜなら、そもそも人々に傷を与えたのは神からの懲らしめだったからです。

   なぜ神は人々を懲らしめたのでしょう。それは、人の悪・罪が深刻だったからだと語られます(30:15)。懲らしめを与える神の背後には、悪に染まっていく人間を放置できない神の思いが見えてきます。そのことを踏まえると、この箇所で言う「癒し」が、〈傷つく前の状態に戻すこと〉になってはいけないのです。そうなってしまうと、それはただ過去を忘却して傷自体の意味を奪うことになってしまうからです。神が与えようとしている本当の癒しは、傷さえも命のつながりと未来の希望を形づくる大切な一部分として意味づけるものです。

   「こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる」(30:22)。この言葉が神の思いを表します。懲らしめも慰めも、神と人が共に生きる未来を形作ろうとする神の思いから発せられます。その未来を壊そうとする人の悪・罪が何度迫っても、愛の神は諦めないのです。(牧師 原田 賢)

 
 応答讃美歌:新生431番「いつくしみ深き」  


(2024年10月27日の週報より)   

死から命へ

マルコによる福音書5章1~20節

イエスがゲラサ人の地に着かれた時、真っ先に出迎えたのは悪霊に憑りつかれた男であった。この人は墓場に住み、昼も夜も叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。悪霊に支配され凶暴なふるまいを続ける彼に、家族や土地の人は手を焼いていた。彼は孤立し、絶望と死の世界である墓場にしか居場所を見出せなかった。イエスはこの人を憐れみ、まっすぐに向き合われた。「汚れた霊、この人から出ていけ」とイエスが命じられると、悪霊どもは抵抗を示しながらも、イエスが神の子であり、その御力には抗えないことを知っていたので、豚の群れに乗り移ることを願い出、許される。乗り移られた豚は、いっせいに湖になだれ込み溺れ死んだ。

   この出来事を聞いて集まった土地の人々は、あの手に負えなかった男が、正気のさまでイエスの足元におとなしく座っているのを見て驚き、恐怖を感じた。彼らはイエスに、この土地から出て行ってくれと願う。一人の人が救われた喜びよりも、豚という財産が奪われ、自分たちの生活圏を脅かされる不安の方が上回ったのだ。神の恵みと御力を目の当たりにしながら、霊の目が閉ざされ、この世の価値観や自分の慣れ親しんだ日常に固執してしまう。私たち自身の罪の姿がここにある。

   救われた人はイエスに同行したいと願ったが、イエスは「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われる。かつて自分が迷惑をかけ悲しませた家族。そして自分を排除し絶望に追いやってきた社会。そこに帰って、神の憐れみと恵みを身をもって証し、福音を宣べ伝えることに派遣されたのである。

   イエス・キリストとの出会いによって罪の縄目から解放され、死から命へ、絶望から希望へと移されたのは私たちも同じである。主イエスに背中を押され、身近な人や住んでいる町の人々に神の憐れみと恵みを伝える証し人として遣わされていることを喜びたい。 (九バプ神学生 田中敦子)

 
応答讃美歌:新生384番「語り伝えよ 神のみ言葉」  


 (2024年10月20日の週報より)   

その言葉は誰のため?

エレミヤ書10章17~19節、23~24節

エレミヤは預言者でありながら、同時にイスラエルの民の一員でした。つまり、エレミヤは神の言葉の語り手であり、同時に聞き手でもあったのです。神は、エレミヤを通して厳しい懲らしめの言葉をイスラエルの人々に語ります。エレミヤは、その言葉を自分の事柄として引き受けます。だからこそ、エレミヤ自身が「傷を負う」(10:19)のです。

   懲らしめの言葉は、善意によるものであったとしても受け手に傷を与えます。そこには少なからず「自分への否定」を含まれているからです。だからこそ受け入れがたいものでもありますが、間違った考えに凝り固まってしまっている時には「懲らしめ」は大切な事柄です。間違いが正されないままに放置されてしまえば、いずれ悲惨な出来事に繋がってしまいます。そうならないために、時に私たちは「懲らしめ」を必要としているのです。

   エレミヤは神に求めます。「主よ、わたしを懲らしめてください。しかし、正しい裁きによって。怒りによらず、わたしが無に帰することのないように」(10:24)。ここで「正しい裁き」と訳されているヘブライ語は「ミシュパート」という言葉であり、ある旧約学者はこれを「血の通った統治」と訳します。そこには人格的な暖かみが込められています。神の言葉が持つ正しさは、正しくないものを切り捨てていくような冷徹なものではなく、その命の歩み直しを願う暖かみがあるものなのです。神が厳しく懲らしめを語る時、そこにはいつも「ミシュパート」が宿っており、人々の未来を拓こうとされる並々ならない思いがこもっています。

   そうであるからこそ、エレミヤは引き受けることができたのです。自らが「無に帰することがない」と思えるからこそ、その懲らしめの痛みを引き受けることができるのです。厳しく、受け取り難く思えたとしても、神の言葉は、いつも私たちのための言葉だと、エレミヤ書は語りかけて来るのです。(牧師 原田 賢)

 
応答讃美歌:新生536番「燃え立つ言葉も」  


 (2024年10月13日の週報より)  

偽りの平和から真実な平和へ

エレミヤ書6章13~17節

エレミヤが預言者として活動し始めたとき、北イスラエルは既にアッシリア帝国によって滅亡していました。南ユダも厳しい社会情勢の中にありましたが、祭司たちが語る「平和」に人々は安心を抱いていたようです。その背景には、アッシリアが衰退したことや、首都エルサレムには神殿があるから大丈夫という勝手な思い込みがあります。14節の言葉は、神に聞くのではなく民衆を喜ばせることに終始していた祭司たちの宗教的堕落の姿が描かれています。しかし実際には、アッシリアに代わって北(バビロニア)が世界を席巻する時代がすぐそこに迫っていました。

   強い者が世界を支配する、だから軍事力の強大な国になれと聖書は語っているのでしょうか。イスラエルやユダの捕囚は社会情勢の自然な流れだったと言っているのでしょうか。聖書は違った観点でそのことを説明します。罪の問題をそこに見ているのです。エレミヤ書には「背信の女」「淫行」「姦淫」という表現が頻繁に出てきます。これらは偶像崇拝(神以外のものを神とする生き方)を表しています。偽りの神に望みをおくことが、偽りの平和へとつながり、神の裁きへとつながっていることを語っています。自分は今どこに立っているのか、どうあることが、何をすることが今求められているのか、それは現代の私たちが問うべきことでもあります。「さまざまな道に立って、眺めよ」とはまさにそのことです。

   「問いかけよ」と言われている「昔からの道」とは、歴史であり、神の戒めだと言えます。武力によって本当の平和は実現しないことを歴史は証明しています。神に造られた者として神が示してくださっている道を歩むことが「幸いに至る道」であり、「魂に安らぎを得る」道であることを聖書は一貫して語っています。

   「そこをあゆむことをしない」と、反発するのでなく、「その道に歩み、魂に安らぎを得る」一人ひとりでありたいと心から願います。     (牧師 末松隆夫)

 
応答讃美歌:新生330番「み使いの歌はひびけり」    


 (2024年10月6日の週報より)   
 

“狭間”に響く神の言葉

エレミヤ書1章1~10節

エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。人々はエレミヤを拒否し、笑いものにします(20:7)。それは、エレミヤの語る言葉が人々にとって煩わしく、愚かに思えたからでした。しかし、人々が退けたエレミヤの言葉こそ、人々に命を与える神の言葉であったのです。神の言葉は、いつも私たちを肯定して安心させてくれる言葉ではなく、時には厳しく、受け入れがたいものになることがあると聖書は示しています。

   イスラエルはメソポタミア文明とエジプト文明に挟まれた地にいて、いつの時代もその2つの大きな力に悩まされてきました。当初、メソポタミアの主力は「アッシリア」という国でした。しかしカルデア人がアッシリアに反旗を翻して古代の帝国「バビロニア」を復興させたことをきっかけに、アッシリアは滅亡の道を辿ります。エレミヤの時代は、そのバビロニア復興の時代です。そこには、バビロニアの脅威に不安を覚える人々の姿がありました。

    神はエレミヤに言葉を託します。それは「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるため」(1:10)の言葉でした。前半の4つの連なった否定句は「古き世界の決定的な終わり」を、後半の2つの言葉は「徹底的に新しい世界の始まり」を意味します(左近豊『エレミヤ書を読もう』)。古き世界は、〈強さを競い、互いに奪い合い、暴力と憎しみを連鎖させる世界〉です。この世界との訣別のために、〈バビロニアに降伏せよ〉とエレミヤは語ります。それは大きな痛みを伴いますが、しかし未来を拓くための言葉であったのです。「戦いの放棄」を示すエレミヤの言葉は受け入れがたく、人々はエレミヤを退けます。しかし、そこで人々が真に退けたものは「神の言葉」であり、命の道でした。この人々の物語が、私たちに問いを投げかけてきます。(牧師 原田 賢)

応答讃美歌:新生131番「イエスのみことばは」