(2021年12月5日の週報より) 

福音の道しるべを辿りながら

ミカ書4章1~5節

預言者ミカは「バビロンの捕囚」より前の時代、イスラエルがアッシリアという敵国の脅威にさらされ、それに対抗するために軍事力を強化していく時代の人でした。ミカは「モレシェト」という場所の出身です。そこは羊飼いたちや農民たちが暮らしていた場所であり、エジプト等の敵国に非常に近い場所でした。そのため、モレシェトは周辺諸国との関係悪化による影響を受けやすく、実際にアッシリアからの侵略を受けて滅ぼされてしまいます。アッシリアの侵略から生き残った人々はエルサレムへと逃れていきますが、ミカ自身もその生き残りの1人だと言われています。

  そのミカを通して「終わりの日」の預言、「わたしたちは主の道を歩もう」と世界のあらゆる人たちが言う日の預言が語られます。3節、4節では、「世界の国々がもはや戦うことを学ばず、自分の耕した実りに満足することができ、互いに取り合う必要がない」という様子が物語られています。「いつか、互いにいがみ合う日々が『終わる日』が来る」という神の約束は、実際に周辺諸国との緊張を味わい続け、略奪や搾取を経験してきたモレシェトの人々にとって、希望そのものと言える約束でした。

  「終わりの日」はまだ来ません。「今」はまだ、いがみ合うこと、略奪や搾取はなくなっていません。その「今」にあって、「我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む(5節)」と告白が語られます。それは、神が語ってくださった約束を「別の世界の話」にしてしまわないこと、自分たちに与えられた約束を、自分たちの人生の道しるべに据えるということです。「希望の未来が来る」と信じるところから、今の自分の歩みを捉えなおし、方向づけるのです。まだその時は来ていないのに、すでに「剣」を「鋤」に打ち直すことを学び始めること、そのような信仰の歩みへと、ミカは招いているのです。 (牧師 原田 賢)

 
応答賛美:新生讃美歌519番「信仰こそ旅路を」 


 (2021年11月28日の週報より)

エッサイの根はすべての民の旗印

イザヤ書 11110

イザヤ書は、預言書の中で最も重要視されています。それはキリストに関する預言が数多く記されており、また、驚くほど細かいことまでが預言されているからです。

イザヤは紀元前8世紀から7世紀にかけて南王国ユダで活動した預言者です。彼の時代に北王国イスラエルはアッシリアによって滅び(BC722)、ユダも大国の猛威のもと風前の灯火状態で、ユダの人たちを取り巻く環境は危険に満ちた先が見えないものでした。事実、後にバビロニアによって捕囚の民となります(BC587)。そのような痛みを経験するユダの人々に対して、希望の預言を語ります。それが「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでる」という預言です。

「エッサイ」はダビデの父であり、「エッサイの株」「エッサイの根」とはダビデの家系を意味しますが、ガリラヤに栄光をもたらす救い主が「ダビデの根」でなく「エッサイの根」と呼ばれていることは不思議です。これは、ダビデの家系からではあるもダビデ王朝とは違ったものとして救い主が到来することが強調されているものであり、王国と結びついた希望としては語られていないことが重要です。

「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ」と言われています。当時の人たちはこのイザヤの預言が実現した「その日」のことを知りません。しかし私たちは、この預言の一部が実現したことを知っています。それがクリスマスです。クリスマスは「エッサイの株」から「芽が萌えいで」た出来事です。

けれども、6節以降のパラダイス的な平和はまだ実現していません。その意味では、現代の私たちもまた究極的な平和が実現する「その日」(キリストの再臨)を待ち望む者の一人であると言えるでしょう。私たちはクリスマスを体験しつつ、なおアドヴェントの中に置かれているのです。              (牧師 末松隆夫)

応答賛美:新生讃美歌153番「エッサイの根より生い出でたる」


(2021年11月21日の週報より) 

そこかしこに顔を出す神の言葉

詩編147篇1~20節

〈無数に広がる星や天から降る雨、山々に生い茂る青草、食物を求めて鳴く動物たち、冷たい厳しさを物語る雪や霜、命を生きたものにする水〉、それぞれを通して語られる神の言葉に目を向けながら、言葉が紡がれています。この詩はバビロン捕囚の後、イスラエルへと連れ戻された人々によって歌われた詩だと言われています。バビロンへの連行は「神から捨てられた」と感じるほどの出来事でした。そして、そのバビロンから連れ戻されることは「もう一度、神と共に生きることが赦された」という経験そのものだったのです。人々は神の言葉と出会い、自らの思いを砕かれ、裁かれ、戒められ、そこから呼び集められ、癒され、養われ、励まされる体験をしました。その驚きと感動がこの詩を造り出していったのです。

 イスラエルへと連れ戻されたとはいえ、まだイスラエルの地には戦争の爪痕が深く刻まれていましたし、周辺諸国との緊張関係は続いています。決して不安要素がすべてなくなったわけではありません。そうであるにもかかわらず、この詩を書き記した人々は「神からの語り掛けはこの世界に満ちている」と歌います。世界のあちらこちらに顔を出している神の言葉に注目して、「神は私たちと一緒に生きることをまだ止めていない」と、希望を歌い続けるのです。

  「この世界は神からの語り掛けに満ちている」と歌うこの詩は、後の世代のために書き残され、歌い継がれ、世界中の言語に翻訳され、私たちの手元にまで届けられました。かつてイスラエルにみ言葉を語った神は、今や世界のすべての人たちに向かって語り掛け、私たちみんなと今の時を共に生きておられます。神さまからの語り掛けを一緒に聴き取りながら、その言葉を一緒に分かち合いながら歩んでいく「共に生きる群れ」であるようにと、神さまは私たちにもまた語り掛けられるのです。(牧師 原田 賢)
 

 応答賛美:新生讃美歌122番「み神の力をほめたたえよ・B」


 (2021年11月14日の週報より)

母の胸にいる幼子のように

詩編131編1~3節

詩編120編から134編までは「都に上る歌」が集められています。ユダヤ人は年に3回(過越祭、五旬祭、仮庵祭)に都上り(エルサレムの神殿に巡礼)をしていました。その際に歌われた詩であり、祭司が神殿に入る際にも歌われたと言われます。A・ヴァイザーは「敬虔に満ちたすばらしく繊細で親しみ深いこの小さな歌は、詩編の中でも最も美しいものの一つに数えられてよい。謙遜な信頼の優雅な調べは、沈み行く太陽が穏やかに照らす静かな谷の上に流れる平和な夕べの鐘のように響く」と高く評価しています。

  まず詩人は、高慢にならず謙遜であることを告白しています。「大きすぎること」と訳された語は、「神御自身」とも訳されるものです。自らを神と同じ高さに置こうとしたり、神ぬきでも人生やっていけるという思いのことが語られていると言えます。バベルの塔事件やバビロン捕囚はその典型的な例として旧約聖書は私たちに提示しています。そのようなイスラエル民族の過去の出来事だけでなく、詩人自身が個人的に「驕り」や「高ぶり」を経験し、その結果傷つくような体験をしたことがあるのかもしれません。そのような挫折や苦しい体験を通して、自らを小さく神を大きくすることの大切さを学び、新しい世界へと導かれたのでしょう。

  「謙遜」をうたった詩人は、母の胸にいる幼子の姿を通して「信頼」「平安」をうたいます。「幼子」と訳された語は、「乳離れした子」(babyではなくchild)です。[かつては乳飲み子として〈喉〉を満足させる母乳を追い求めていたが、今は、幼子として、母の胸に抱かれているというこの一点だけで、安心・満足・平和を得ることができる、その在り方を大切にします]という告白です。私たちも主なる神の胸の中に抱かれていることをしっかり認識し、そこからくる平和を得て、礼拝に共に与れる喜びを、賛美と祈りという「都上りの歌」にして主との交わりを持ち続けていきましょう。 (牧師 末松隆夫)
 

応答賛美:新生讃美歌431番「いつくしみ深き」 


  (2021年11月7日の週報より)

御言葉が開かれると

詩編119篇129~136節

表題に「アルファベットによる詩」とあるように、8節ずつに区分された出だしの単語に、その区分のアルファベットで始まる単語が使われています。実に技巧的な詩編です。「様々な内容が交じり合っており生活の座を見つけるのが難しい」と厳しい評価をする人もいますが、その一方では「真剣に神を求める求道心と遊び心の感覚が見事に織りなしている詩編」と高く評価している人もいます。こだわりの強さは感じますが、それ以上に、信仰者がどのような道を歩むべきか、神の前に正しく歩むためには何が必要かということが、言葉を変えて繰り返し語られており、私たち信仰者を励ましてくれる詩編です。

  この119編に20回以上繰り返し登場する言葉があります。それは「律法」「定め」「戒め」「命令」「仰せ」「御言葉」です。119編でこれら6つの言葉が登場しない節は数えるくらいしかありません。そして実は、これらの言葉は表現の違いこそあれ、その意味するところは同じです。すべての言葉を「御言葉」に置き換えてもよいでしょう。

  「御言葉」は、私たちの人生に方向付けを与え、また、日々の生活において指針を与えてくれるものです。しかし、文字として読むだけでは変化は起こりません。「御言葉」が「開かれる」必要があります。「開かれる」は「啓示」とも訳される語です。私たちの知恵や力で開くのではなく、神が開いてくださるのです。そのためには、御言葉を渇望する霊的飢え渇きと、自分に対する神の言葉として受け入れる姿勢が求められます。神との交わりの中で、神によって真理が示され、救い・喜び・感謝・平安へと導かれる、それが「光が差し出で」ということの内容だと言えるでしょう。

  旧約時代のトーラー(律法)だけでなく、私たちには主イエスの言葉や御業、使徒たちの手紙や証言という「御言葉」が与えられています。本当に感謝なことです。「聞く耳」をもって「御言葉」を聞いて行きましょう。 (牧師 末松隆夫)
 

 応答賛美:新生讃美歌131番「イエスのみことばは」


 (2021年10月31日の週報より) 

不公平な世界に響く神への賛美

詩編92篇1~16節

詩編92篇は、イスラエルの民衆が日々の礼拝の中で育くみ、生みだされた詩だという説があります。民衆たちは特別な権力や大きな力など持っていません。詩編92篇はそのような民衆たちの思いや経験が込められた詩としても、読むことが出来るのです。

  7節以降には、神に逆らう者たちのことが語られています。「悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても・・・(8節)」。これは単なるたとえではなく、実際にそうした様子を人々は目にしていたと思われます。自分たちに向けられる悪意、それに対抗する「力」を持たない中で、民衆たちは「主なる神」を讃えて歌います。そのこと自体が力を持たない人々にとっては大きな闘いであり、同時に「自分たちは不正に加担しない」という宣言でもありました。

  聖書の語る「主なる神」は、「不正を喜ばない神」です。人を虐げること、命を軽んじることを神は喜びません。誰かを切り捨てることではなく、共に生きる道を選び取ることを喜ぶ神こそが、聖書の語る「主なる神」です。その神を賛美することは、「悪を行う道」への「否」を含むのです。

  神への賛美は不正が横行する世界の中で響きます。それは、世界が生み出す不公平に苦しむ人々に対する希望をも物語っているのです。〈この不公平な世界の中で、私たちには「力」がなくても、それでも主がいて下さる。主は不正を喜ばない。主が不正を終わらせてくださる。だから主を信じて生きよう。絶望しないで生きていこう。この希望をあきらめない〉、そのような「民衆たちの希望の歌」が、詩編92篇から聞こえてくるのです。主なる神への賛美に込められた希望は、不正に苦しむあらゆる人たちとの連帯へと私たちを招きながら、今日も世界に響き続けるのです。 (牧師 原田 賢)
 

 応答賛美:新生讃美歌437番「歌いつつ歩まん」


 (2021年10月24日の週報より) 

“王なき世界”の叫びを前に

詩編72編12~14節

詩編72篇は、王が「果たすべき働き=貧しい人々を救い、虐げる者を砕くこと」を全う出来るようにという祈りです。このことは、人の理想ではなく神の意志として王に託された働きであると考えられていました。ただし、そうした「王の働き」を全うすることが出来た者はほとんどおらず、貧しい人たちへの搾取は止まりませんでした。この祈りの背景には、本当の意味での「王」がいないという痛み、「王なき世界に生きる人々の叫び」があるのです。

この詩は「ソロモンの詩」と題が打たれています。実は、これが「ソロモンが書いた詩=王としての働きを担う自分のための祈り」なのか、はたまた「誰かがソロモンのために書いた詩=王としての働きを担う誰かのための祈り」なのか、はっきりしておりません。この点が、この詩の非常に面白いところです。

聖書は「王としてのイエス」を語ります。叫ぶ者たちのところへ行き、憐れみの思いをもって関わり、その場所で福音を語り、人々を励ましました。「この方が王としての働きを全うしてくださるように」と祈ることは、自分を叫ぶ者の側に置き、一緒になって「助けて!」と求めることになるでしょう。痛みの多い世界の中で、そう祈れることは大きな慰めです。

一方で、主イエスは「私に従っておいで」と招きます。「あなたにも手伝ってほしい」と、主イエスは私たちの力に期待してくださるのです。人間にとって、何一つ任せてもらえないことは耐え難いことです。主イエスは、「あなたの力が必要だ」と招いてくださいます。この招きを受け取る時、「王としての働きを担う私のための祈り」として、この祈りを祈ることが出来るように変えられます。

私たちはこの詩を両方の意味で受け取り、祈ることが出来ます。助けを求める側一辺倒でなく、助ける働きを担う側一辺倒でもない、どちらの祈りも自分の祈りに出来ることは、なんと幸いなことでしょうか。 (牧師 原田 賢)

応答賛美:新生讃美歌481番「迷い多きこの世」 


  (2021年10月17日の週報より)

栄光の王の入城

詩編24編1~10節

詩編24編は、王としての栄光の神が聖所に入られることをうたった詩編であり、神の臨在の象徴である「契約の箱」が聖所に担ぎ入れられた時のことをうたったもの、あるいは凱旋歌とも解釈されています。

まず、聖書が語る神とはどのようなお方であるかがうたわれています。すべての自然界・生き物は「主のもの」すなわち神の所有・支配のもとにあるものだという宣言です。ダビデはここにすべての出発点を置いています。誰が造ったのか、誰のものであるのか、それは決してどうでもいい問題ではありません。「開運、なんでも鑑定団」というテレビ番組が放送されていますが、誰が造ったものであるか、それによって評価は大きく変わってきます。私たちは、天地万物の創造主である主によって造られた「宝」である、それが聖書の語っている私たちへの神の評価です。

しかし、だからといってすべての人が無条件で「聖所」に立てるわけではありません。「それは、潔白な手と清い心をもつ人…」だというのです。行い・心・魂すべての面で清くあることが求められています。そうなると、誰が聖所に立つことができるでしょうか。それにもかかわらず、6節で「それは主を求める人」とあります。聖所に立つ条件にそぐわない者であっても、「主を求める」ことはできます。ここに神の恩寵が示されていると言えるでしょう。

神の前に出る資格のない者をキリストの贖いのゆえに「資格あり」と宣言してくださる神に、新約に生きる私たちは出会うことができるのです。でもそこにも一つだけ条件があります。それは「城門を上げ」て「栄光の王」を迎え入れることです。内側からしか解錠することのできない「城門」、それは私たちの「心」です。固く閉ざしている環貫を抜いて、栄光の王の声に応えて「城門」を上げる私たちであることを主は望んでおられるのです。 (牧師 末松隆夫)  

応答賛美:新生讃美歌87番「たたえまつれ 神のみ名を」