| (2025年11月2日の週報より) |
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イスラエルの罪。対岸の火事? アモス書2章6~16節 アモスは、南王国ユダで牧羊業に携わり果樹園も営んでいた人で、当時としては裕福な生活だったようです。そのアモスが北王国イスラエルに神の言葉(さばき)を伝える預言者となったのは、アモス自身の思いではなく、神の招き・神の迫りに対する応答によるものです。私たちが毎週ささげている礼拝も、神の恵みを受ける時であるとともに、神の招きと迫りを受ける時でもあります。神の迫りを受けて悔い改め、新たな決断をし、新たな一歩を踏み出す、それが礼拝です。 |
| 応答讃美歌:新生478「ともに在せ わが主よ」 |
| (2025年10月26日の週報より) |
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地べたで“ごろん”、明け渡そう ヨハネによる福音書15章5、16~17節 みなさん、はじめまして!巻頭言のスペースをお借りして自己紹介をさせてください。僕とキリスト教会との出会いは幼稚園です。我が家はクリスチャンファミリーではありません。母が家から一番近い幼稚園を探していて、たまたま見つけたのが久留米バプテスト教会の附設幼稚園、“めぐみのその幼稚園”でした。年中/年長のたった二年間でしたけど、楽しかった! |
| 応答讃美歌:新生510「主の言葉の」 |
| (2025年10月19日の週報より) |
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永遠の命とは ヨハネによる福音書3章16~21節 「永遠の命」とは何でしょうか。多くの人は「死んだ後も続く命」と考えるかもしれません。しかし聖書が語る「永遠の命」は、単なる寿命の延長ではなく、神とのつながりの中で生きる命を指しています。 |
| 応答讃美歌:新生437「歌いつつ歩まん」 |
| (2025年10月12日の週報より) |
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神さま、リプライ待ち。 ヨナ書4章1~4節 神は、ヨナをニネベに派遣します。一度は逃げ出したヨナでしたが、今度は逃げませんでした。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(3章4節)というヨナの言葉を聞いて、ニネベの人々は直ちに態度を改めます。その様子を見た神はニネベを滅ぼすのをやめますが、そのことでヨナは怒りを抑えられなくなります。そのヨナに、神は問いかけます。「お前は怒るが、それは正しいことか」(4章4節)と。 |
| 応答讃美歌:新生445「心静め語れ主と」 |
| (2025年10月5日の週報より) |
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神の勝利が命を救う ヨナ書1章1~3節 ヨナ書は、「預言者が神から逃げ出す」という独特な場面を描きます。これは、単なる憶病や怠慢ではなく、ヨナの正義を懸けた神との戦いでした。預言者は、「神の言葉を人々に告げる」という大切な役割を担っていました。ヨナは、紀元前8世紀頃、南北に分かれたイスラエル王国の北側で活動した預言者でした。その頃、アッシリアという国が勢力を伸ばし始めていました。アッシリアは暴力的な征服をすることで有名な国でした。神がヨナを遣わそうとした「ニネベ」は、このアッシリアの首都だったのです。 |
| 応答讃美歌:新生550「ひとたびは死にし身も」 |
| (2025年9月28日の週報より) |
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人生における究極の選択 ヨシュア記24章1~15節 ヨシュア記の23章と24章には、ヨシュアの告別の言葉(遺言)が記されています。ヨシュアは民に最後の言葉を語る際、民の代表を呼び寄せました。これはヨシュアが長老たちと一緒に(共に)神の御前に立ったことを意味しています。私たちは、求道者の救いや教会員の成長を願います。しかしともすると、そこに自分は入っていなく、人々が神の御前に立つことばかりに心が向いてしまうことがあります。そうではなく、すべての人が共に主の御前に進み出ることが信仰共同体としての教会のあるべき姿であることを、今一度心に留めましょう。 ヨシュアは、神の言葉を受け、アブラハムのことから約束の地に至ったことまでを振り返り、それは人間の力によってなしえたものではなく、今あるは神の恵みであることを語ります。繰り返し語られている「わたし」と言われているお方に心を向け、その恵みの中に生かされて「今」があることを心に刻むとき、私たちの生きる方向、選び取る道が見えてきます。 ヨシュアは、先祖から今に至るまで民が遭遇してきた様々な神々を示しながら、「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」と語ります。この「選び」は、その人の人生をかけての大きな選びであり、人生における究極の選択です。その「選び」は、それぞれがなすべきものです。信仰は神の愛に対する「私」の自発的な応答です。まさに、自覚的信仰が求められているのです。 自分に仕えてくれるものを選ぶのは難しいことではありません。しかし、自分が仕えるものを選ぶとなると、そこには大きな決断が必要となります。私たちはだれに仕えようとしているのでしょうか。人間がつくり出した神々でしょうか。人間をつくったお方でしょうか。それとも自分自身でしょうか。 ヨシュアは民に断言します。「わたしとわたしの家は主に仕えます」と。このヨシュアの告白を、私たちも「今日」という毎日の生活で告白していく一人ひとりであり、教会でありたいと節に願います。 (牧師 末松隆夫) |
| 応答讃美歌:新生621「われに従えとイエスは招く) |
| (2025年9月21日の週報より) |
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今を真剣に~神に生かされる者として~ 申命記8章1~10節 日本宗教連盟理事会の席で、「宗教が現代社会に果たす最も大きな役割は何か」との質問に対して、宗教社会学の桜井教授は「死の解決である」と答え、「どんなに医学が進み、科学が進んでも、死の問題は宗教によらなければ解決できない」と語られました。 |
| 応答讃美歌:新生476「ゆるされて」 |
| (2025年9月14日の週報より) |
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信じて一歩を踏み出すときに ヨシュア記3章1~17節 約束の地に向かったイスラエルの民ですが、ヨルダン川を前にして3日間、川の手前に留まっています。そこには、新しい事態に直面した者が抱く不安、目の前の障害に対応できずにいる者が抱く落胆が横たわっています。 そのような状況下でヨシュアは神の言葉を聞き、民に語りました。それは、契約の箱を担いだ祭司を先頭にヨルダン川に足を踏み入れるというものであり、その時に水はせき止められるという神の約束でした。蕩々と流れる川を前に、そんなこと誰が信じることができるでしょうか。しかしヨシュアは信じました。祭司たちも信じました。そして祭司たちの足が水に浸ったとき、神の言葉どおりになり、川床を歩いて渡るという奇跡が起こりました。 出エジプト時にも川床を歩いて渡るという奇跡を経験していますが、その時との違いの一つが、祭司たちの足を実際に水の中に踏み入れたときに水が分かれたということです。そこには神への絶大な信頼と勇気が必要です。まさにそれが信仰であることを教えられます。 私たちは状況の変化を先に求めるところがあります。けれども神はその状況を創られた方であり、その状況を変えることができる方であることを、私たちは心に留めておく必要があります。その神の言葉、神の要求を第一として歩むことの大切さを聖書は一貫して私たちに示しているのです。 4節には「これまで一度も通ったことのない道であるが…」とあります。私たちが歩む人生という道、信仰生活という道、教会形成という道は、常に新しい道です。先が見通せずに不安を覚えるときもあります。しかし、どのような状況下でも、神への信頼を失うことなく、神の言葉に後押しされて、信仰の一歩を踏み出していく、そのような一人ひとりでありたいものです。 (牧師 末松隆夫) |
| 応答讃美歌:新生507「主の手に委ねて」 |
| (2025年9月7日の週報より) |
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モーセと共にいたように ヨシュア記1章1~9節 奴隷として苦役を強いられていたイスラエルの民をエジプトから導き出したモーセの生涯は、波乱に満ちたものでした。けれどもそこに自分の役割を見出しその使命のために生き抜くことができた人生は、生き甲斐のある生涯であり、充実した人生であったと言えるでしょう。残念ながらモーセは、約束の地に足を踏み入れることはできませんでしたが、彼はそのことをしっかりと受け取っています。約束の地までの[水先案内人]としてのモーセの働きによって、ヨシュアたちは約束の地に入ることができたのです。教会も、遠くを見据えての「今」の働きがあってこそ、次の世代の人たちが神の業に与ることができます。一人ひとりがモーセのような役割を担うことも、私たちに求められている神の働きであることを覚えたいものです。 モーセの後継者としてヨシュアが選出されたのは、民の多数決ではなく、神の選びによるものでした。ここに神の民(教会)の特殊性があります。教会の政治は会衆政治であり民主主義です。しかし、それ以上に神の意志が優先されます。だからこそ何事も祈って神の御旨を求めることが必要なのです。 ヨシュアを指導者として立てられた神は、ヨシュアに対して「強く、雄々しくあれ」と励ましの言葉を繰り返し語られました。ヨシュアの心に不安や恐れがあったからでしょう。その神の励ましの土台となっているのが「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」という力強い約束です。 神の働きを担っていくには、勇気を必要とします。私たちが新たな一歩を踏み出そうとするとき、不安や恐れを覚えます。しかし神は「あなたと共にいる」から恐れなくていい、心配しなくていいと言ってくださるのです。その神の御声を心に留め、主にあって勇気をいただきながら、今日という日を過ごして行きましょう。 (牧師 末松隆夫) |
| 応答讃美歌:新生510番「主の言葉の」 |
| (2025年8月31日の週報より) |
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時を献げる - 慌ただしい日々に安息を - ルカによる福音書10章38~42節 礼拝とはどのような「時」でしょうか。それは、〔他の時とは区別された特別な時であり、神と言葉を交わす時〕だと言えるでしょう。それは「普段の生活」を一時中断し、神との交わりのために時を献げることを意味します。その特別な時の中で〔神と共に生きる自分〕を取り戻して、また新しい気持ちで「普段の生活」へと向かっていくのです。 |
| 応答讃美歌:新生140番「空の鳥を見よと」 |