(2024年10月13日の週報より) |
偽りの平和から真実な平和へ エレミヤ書6章13~17節 エレミヤが預言者として活動し始めたとき、北イスラエルは既にアッシリア帝国によって滅亡していました。南ユダも厳しい社会情勢の中にありましたが、祭司たちが語る「平和」に人々は安心を抱いていたようです。その背景には、アッシリアが衰退したことや、首都エルサレムには神殿があるから大丈夫という勝手な思い込みがあります。14節の言葉は、神に聞くのではなく民衆を喜ばせることに終始していた祭司たちの宗教的堕落の姿が描かれています。しかし実際には、アッシリアに代わって北(バビロニア)が世界を席巻する時代がすぐそこに迫っていました。 |
応答讃美歌:新生330番「み使いの歌はひびけり」 |
(2024年10月6日の週報より) |
“狭間”に響く神の言葉 エレミヤ書1章1~10節 エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。人々はエレミヤを拒否し、笑いものにします(20:7)。それは、エレミヤの語る言葉が人々にとって煩わしく、愚かに思えたからでした。しかし、人々が退けたエレミヤの言葉こそ、人々に命を与える神の言葉であったのです。神の言葉は、いつも私たちを肯定して安心させてくれる言葉ではなく、時には厳しく、受け入れがたいものになることがあると聖書は示しています。 |
応答讃美歌:新生131番「イエスのみことばは」 |
(2024年9月29日の週報より) |
若者と共に歩む教会の祈り ヨハネによる福音書15章1~5節 「わたしにつながっていなさい。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」 |
応答讃美歌:新生363番「キリスト 教会の主よ」 |
(2024年9月22日の週報より) |
赦しという奇跡-“いつの日か”を目指す旅路- 創世記45章1~5節 45章はヨセフ物語のクライマックスで、ヨセフと兄たちが再会し、涙ながらに喜ぶ場面(45:15)が描かれます。ここまでの道のりは単純ではありませんでした。もともとヨセフは兄たちから恨まれていて(37:5)、エジプトへ奴隷として売られてしまいます。その後、不思議な導きの中で、ヨセフはエジプトで高い地位を得ることになり、この地域一帯を襲う大飢饉への対応を任されることになります(41:47以下)。飢饉への対応が自らの使命であり、そのために自分がエジプトへ導かれたことをヨセフは知り、責任をもってその働きを担います。それはヨセフにとって名誉なことであり、やりがいもあったでしょう。しかし同時に、ヨセフにとってエジプトは「悩みの地」(41:52)であり、苦労を積み重ねた場所でもありました。その発端となる「身売り」をした兄たちに対して、ヨセフは複雑な思いを抱えていたと思われます。 |
応答讃美歌:新生464番「主が来られて呼んでおられる」 |
(2024年9月15日の週報より) |
イエスにある命のつながり テサロニケの信徒への手紙一5章10節 死に際して「永眠」という言葉が使われることがあります。「死」を「眠り」と結び合わせることで「安らぎ」や「休息」のイメージが連想されます。そうすることで、死に別れた方々の命が安らぎの中にあると信じることができ、慰めを得ることができます。聖書の中にも、「死」を「眠り」と表現する箇所は多く存在します。テサロニケの信徒への手紙はまさにそうです。しかし、そうでありながら、聖書の持つ「死」の理解は「永遠の眠り」とは異なるものです。 |
応答讃美歌:新生554番「イエスに導かれ」 |
(2024年9月8日の週報より) |
神の前で、人間らしく。 創世記39章2~15節 創世記39章は、「ヨセフの誠実さ」が際立つ箇所だと言えます。ポティファルの妻から迫られた時、〈その誘いに乗ることはポティファルの信頼を壊すことであり、神に対する罪だ〉とヨセフは言います(9節)。ヨセフにとって、〈ポティファルとの関係の中でどう行動するか〉という問題と、〈神の前にどう生きるか〉という問題は直結した事柄だったのです。ヨセフは自分の置かれた状況の中で、神の前に生きる者として誠実であろうとします。そのヨセフの生き方が、ポティファルとヨセフの間に信頼関係を生み出していたのです。 |
応答讃美歌:新生496番「命のもとなる」 |
(2024年9月1日の週報より) |
“見えざる神”の物語 創世記37章1~11節 創世記37章から、12人兄弟の11番目ヨセフを主役とする物語が始まります。父ヤコブは他のどの息子よりもヨセフを可愛がり、兄たちはそのことによってヨセフを憎むことになります。 |
応答讃美歌:新生483番「主と共に歩む」 |
(2024年8月25日の週報より) |
原点回帰の場”ベテル” 創世記35章1~15節 20年ぶりに兄エサウと再会したヤコブは、エドムの地セイルへと導こうとするエサウの誘いに応じず、別の地に生活の基盤を据えます。それは、ヤコブの懐疑心ゆえの行動というよりも、「あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい」との神の声に従った選び取りであると考えることができます。 ヤコブは、大きな転機を迎える時に神の介入を受けています。今回も彼の息子たちによる騒動によって窮地に立った時に神の語りかけを受け、ベテルへと向かいます。ベテルこそがかつて神が「この地に連れ帰る」と語られた地です。その際に異教崇拝につながるものをすべて埋めます。それは神への忠誠を・ヤコブの信仰を・神の民としての再出発の意思を表していると言えるでしょう。 この創世記には、ルズという町をベテルに改名したという記事が複数あります(28:19,35:7,15)。三資料説をもとに[それぞれ異なった伝承に基づいて記されたせいである]と説明することもできますが、それ以上に、ヤコブにとってこの「ベテル」が大きな意味を持つものであったことを物語っていると言えるのではないでしょうか。「ベテル」は、ヤコブにとって、信仰の出発点であり、再出発の地、そしてまたいつも戻ってくるべき所、つまり原点回帰の場です。そしてそこに帰ってくることが神の御旨であることを教えられます。原点に返る場、そこから再出発する場、そのような所を持っていることは幸いなことです。 私たちにとっての「ベテル」はどこでしょうか。どこに帰ってくることを、どこに「祭壇」を築くことを神は望んでおられるでしょうか。ヤコブは人生の節目節目で「祭壇」を築き、神を礼拝しています。しかし「ベテル」においては神の方から「祭壇を造る」ように命じておられます。これは、神ご自身が「ベテル」での礼拝にヤコブを(そして私たちを)招いておられることを意味しています。繰り返し繰り返し神の恵み・祝福を心に留め、繰り返し繰り返し神を礼拝する、そのような「ベテル」をしっかりと自分の中に築いてゆきましょう。 (牧師 末松隆夫) |
応答讃美歌:新生623番「時は満ちて」 |
(2024年8月18日の週報より) |
エサウとの再会 創世記33章1~20節 20年ぶりに兄弟や親に会うことができるという故郷への帰還は、普通であれば喜びであり、胸はずむ旅ですが、この時のヤコブには喜びではなく、不安と恐れが充満しています。原因は20年前に父や兄を欺いて「長子の権利」を奪ったことにあります。 |
応答讃美歌:新生552番「わたしが悩むときも」 |